おせっかいな人々
今からずっと前のこと、アメリカのとある田舎町に、1人のアラフォーの女性が住んでいた。その女性は、小さなパン屋さんを営んでいた。決して醜かったワケでもなく、人並みの器量だったのに、何故だか男性と知り合う縁に恵まれず、この年まで独身でいた。とても慈悲深く、真面目な性格で、仕事一筋にコツコツと働いて来たので、それなりの貯蓄も持っていた。外見も人並みで、性格も良くて、お金も持っているのに、男性との縁だけがなかったのだ。
そんな彼女だったけど、最近、気になっている1人の男性客がいた。彼女と同じくらいの年齢のその男性客は、質素な背広を着ていて、髭もキチンと刈り込んでいたが、毎日おんなじ服装で、おんなじ時間にやって来て、2個で5セントの古いパンを買って行く。このお店では、焼き立てのパンは1個5セントで、硬くなった前日のパンは2個で5セントだった。
ある日、彼女は、この男性客がお金を払う時に、指に絵の具がついていることに気づいた。それで、彼女は、この男性客のことを「古いパンを買うほど貧乏なのに一生懸命に絵を描き続けている真面目な芸術家の卵」だと思い込み、一方的に好意を持ってしまう。この男性客が来る時間が近づくと、ソワソワするようになって来た。そして、それまでは茶色の地味なブラウスを着ていたのに、ブルーの水玉模様のオシャレなブラウスを着るようになった。
そして、ある日のこと、彼女は、とうとう大胆な行動に出た。男性客が買った2個の古いパンに、男性客の目を盗んでナイフで切れ目を入れ、そこにタップリとバターを塗り、何事もなかったかのように包んで渡したのだ。これは、彼女の好意の表われというよりも、慈悲深い心がしたことだった。でも、彼女も女性なので、自宅に帰ってパンをかじり、バターに気づいた男性客の喜ぶの顔を想像すると、胸が高鳴って来た。
でも、そんな彼女の思いとは裏腹に、1時間後、その男性客が怒鳴り込んで来たのだ。その男性客は、画家ではなく、建築家の卵だった。そして、毎日買いに来ていた古いパンは、仕上げのペン入れをした製図の下書きを消すための消しゴムとして使っていたというのだ。男性客が言うには、1ヶ月も掛けてようやく完成したコンテストに応募するための大作の製図が、最後の最後のところで、バターのシミですべて台無しになっちゃった今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、これは、短編小説の名作を数多く残したオー・ヘンリーの「善女のパン」ていうお話のアラスジだ。原題は「Witches' Loaves」なので、そのまま「魔女のパン」とか「善い魔女のパン」とか訳されてるものもあるし、訳によっては、建築家の卵が「青年」になってるものもある。ま、100年以上も前の小説なので、いろんな邦題や訳があるワケだけど、あたしは、真面目な女性が、淡々とした日々を過ごしながらも、40才になってもホノカに男性への恋心が芽生える描写とか、慈悲深さがアダとなった残酷なエンディングとかに、何とも言えない感慨を覚える。
オー・ヘンリーと言えば、教科書にも載ってる「最後の一葉」が有名だけど、あたし的には、この「善女のパン」のほうが遥かに好きだ。それは、「最後の一葉」と同様の単純明快なストーリーの中に、「最後の一葉」の何倍もの人生の機微が散りばめられてるからだ。この「善女のパン」の最大の見どころは、何と言っても、「古いパンにバターをはさむ」という彼女の行動の動機だ。建築家の卵が「青年」のパターンだと、アラフォー女性の動機は「慈悲」が100パーってことになっちゃうけど、あたしの好きな「同世代の男性」のパターンだと、そこに「好意」が見え隠れして来る。
実際、彼女は、地味なブラウスをオシャレなブラウスに変えたりしてるし、それどころか、自分の貯蓄で彼の生活の面倒を見てあげるっていう妄想まで抱いちゃうのだ。だけど、彼女も大人だから、もしもそんなことを自分のほうから言い出したら、相手のプライドを傷つけちゃうことをちゃんと分かってる。だから、焼き立てのパンをサービスしてあげることもしなかったし、自分がいつも食べてるハムや野菜などをパンにはさんであげることもしなかった。だけど、2週間経っても3週間経っても、ずっと2個で5セントの硬くなった古いパンしか買わないもんだから、とうとう「バターをはさむ」って行動に出ちゃったのだ。
いくら古いパンしか買わないお客でも、彼女が「好意」を持ってない相手には、こんなことはしない女性だってことは、それまでの描写からよく分かる。だから、彼女のこの行動が、「好意」から発生したってことは明白だ。だけど、「好意」が100パーだったとしたら、もっと早い段階で、ハムや野菜などのもっといいものをはさんでたであろうってことも、それまでの描写からよく分かる。
つまり、この「バターをはさむ」って行動は、「好意」が出発点であっても、それを全面に出すことのできないアラフォー女性の物悲しさもありつつ、だけど放っとけない彼女の慈悲深さもありつつ、そのハザマで揺れ動く葛藤もありつつ、その果てに辿り着いた「彼女にとって最小で最大の究極の行動」だったってワケだ。それなのに、その行動が、「好意」としても「慈悲」としても正反対の結果を招いちゃう。そして、建築家の卵は、二度と彼女のパン屋さんには来なくなり、彼女は、また元の地味なブラウスを着るようになる。双方にとって、これほどまでに悲しいエンディングがあるだろうか。
‥‥そんなワケで、あたしが、この「善女のパン」に惹かれるのは、彼女の行動が「おせっかい」じゃないからだ。もちろん、1ヶ月も費やした大切な製図を台無しにさせられちゃった男性側から見れば、これほどの「おせっかい」はないだろう。だけど、「おせっかい」ってものは、「人に何かしてあげることが好きで好きでしょうがない人が、相手の迷惑も考えずに自己満足のために押しつけること」であって、この「パンにバターをはさむ」のケースは、結果こそ「おせっかい」とおんなじように相手に大迷惑をかけちゃったけど、彼女の行動原理がまったく違うのだ。
さらには、「おせっかい」の場合だと、被害をこうむるのは相手だけで、「おせっかい」を焼いた側は、相手の気持ちなど関係なしに「いいことをした」っていう自己満足に浸れることになる。でも、「善女のパン」ケースでは、相手だけじゃなくて、彼女のほうもバッドエンディングを迎えてる。ここが、物理的にも「おせっかい」とは大きく違う点なのだ。
ちなみに、「おせっかい」ってのは、「お節介」って書くワケで、これは、「節介」に「お」がついた言葉だけど、この「お」は、別に「節介」を丁寧に言ってるワケじゃない。「大辞林」によると、「節介」ってのは「節操を固く守って世俗に流れないこと」って意味で、「お節介」とはぜんぜん意味が違う。そして、「お節介」を引くと、「かえって迷惑になるような余計な世話をやくこと」って書いてある。つまり、この「お」は、「部屋」に「お」をつけて「お部屋」って言うようなものとはまったく違って、本来の言葉の意味を変えちゃう「お」だったってワケだ。
そこで思い当たるのが、「お節介」の意味にも書いてある「余計な世話をやくこと」の「世話」だ。「おせっかい」も「世話」も、両方とも「焼く」ものだ。その上、「世話」の場合も、普通に「猫の世話をする」なんてふうに使う場合には、いい意味として使われてるけど、「いらぬお世話じゃ!」とか「余計なお世話だよ!」とかってふうに、「お」がつくと悪い意味になる。「お年寄りのお世話をする」ってふうに、普通の丁寧語として「お」をつけるパターンもあるけど、悪い意味として使う場合には、ほとんど「お」をつけて使う。
つまり、「お節介」の「お」にしても、「余計なお世話」の「お」にしても、その言葉をあえて丁寧に言うことによって、そこに皮肉や風刺のエッセンスを醸し出してるんじゃないかってことだ。たとえば、天皇陛下の前でも漢字を読み間違えるフロッピー麻生に対して、「あのバカは昆虫並みの学習能力もないんだな」って言っても、これは誰もが思う当たり前の感想にしか過ぎないし、言ったほうもフロッピー麻生のレベルまで自分を下げることになっちゃう。だけど、「さすがに学習院大学をご卒業なさったお坊ちゃまは常に国民の期待に応えて笑いを振りまいてくださいますね」って言えば、自分のレベルを下げずに、皮肉のテイストもプラスできるってワケだ。
‥‥そんなワケで、「おせっかい」って言えば、「おばちゃん」てのが王道で、それも「大阪のおばちゃん」になれば、「おせっかい」が不動の代名詞になる。でも、これは、世の中の一般的な認識であって、大阪の人たちはそうは思ってないかもしれないし、それぞれの土地柄によるところが大きい。一のことを質問しただけで、聞いてもいない十のことまで答えてくれる大阪のおばちゃんの「おせっかい」にしても、そうした人たちに囲まれて育った大阪の人たちなら、これは「普通のこと」であって、「おせっかい」とは感じない。逆に、一のことを聞いても一のことしか答えない東京人に対して、「不親切で冷たい人」って思うだろう。
もちろん、こうした土地柄だけじゃなくて、おんなじ地域で生まれ育っても、1人1人の感覚は違う。だから、おんなじ地元の同級生同士でも、こっちが「親切」のつもりでしたことが、相手によっては「余計なお世話」って思われちゃったり、こっちが「痒いとこに手が届く」ってつもりでしたことが、相手によっては「おせっかい」って思われちゃうことも多々あるのだ。「親切」のつもりでしたことで相手を不快にさせちゃったら、「善女のパン」の女性みたいに本末転倒になっちゃうから、東京では、よほど分かり合ってる相手じゃない限り、自分の感覚だけで相手のテリトリーにズカズカと踏み込むようなマネはしないってのが基本のマナーになってる。これが、十人十色の人たちとの人間関係をスムースに運ぶための「東京ルール」ってワケだ。
で、ここが面白いとこなんだけど、この「おせっかい」ってのは、「おせっかい」を焼くほうと、「おせっかい」を焼かれるほうの利害関係‥‥って言うか、感覚が一致すれば、その時点で、その行為は「おせっかい」じゃなくなるのだ。そして、感覚が一致しなければ、こっちが「親切」だと思ってしたことでも、「おせっかい」になっちゃうワケだ。つまり、ある人が他人に対してまったくおんなじ行動をとった場合に、Aさんからは「親切」だと感謝されることもあれば、Bさんからは「おせっかい」だと顔をしかめられることもあるってワケだ。
‥‥そんなワケで、岡本かの子の短編で、その名も「おせっかい夫人」ていう小噺みたいな作品がある。花子さんていう奥さんが、ダンナさんを会社へ送り出したあとに1人で留守番をしてると、隣りの家の玄関先をウロウロしてる40才くらいの男を見つけた。それで、普段から「おせっかい」な花子さんは、わざわざ何をしてるのか聞きに行った。その男が言うには、「自分はこの家の親戚の者で、この家に自分の荷物を預けてある。でも、取りに来てみたら、家人が留守で困っている。これから荷物を持ってすぐに出掛けなければいけない急用があるのに、どうしたものかと困り果ててる」とのこと。
こんな話を聞いて、「おせっかい」な花子さんが黙ってられるワケがない。花子さんは、この家の人たちがシッカリと戸締りをして朝早く出掛けたことを知ってたけど、どこか1ヶ所くらいカギを掛け忘れた場所があるんじゃないかと、その男を引き連れて、隣家の窓や庭の戸を1つずつ見て回った。そして、どこも開いてないってことが分かると、今度は、近くの家からハシゴを借りて来て、お風呂場の屋根に上り、高いとこの窓をムリヤリにコジ開けた。そして、驚いて見上げてた男に、そこから入るように言ったのだ。
男は、ハシゴを上り、花子さんがコジ開けてくれた窓から、家の中へと入って行った。花子さんは、それを見るなり、安心して自分の家へと帰って行った。花子さんは、「今日もいいことをした!」と思って、大満足だっただろう。でも、この時の花子さんは、何も知らなかったのだ。隣りの家の金目の物をカタッパシに風呂敷に包んだ男が、コッソリと逃げて行ったことを‥‥。
‥‥って感じのお話なんだけど、ここまで来ると、完全に「おせっかい」を通り越しちゃってるよね。空巣に入られたお隣りさんにしても、せっかくキチンと家中の戸締りをして、隣りの花子さんに声まで掛けて家族で出掛けてったのに、その花子さんが、わざわざハシゴまで借りて来て空巣を中に入れちゃったんだから、もう、完全にシャレじゃ済まないレベルだ。オッチョコチョイが売り物の「サザエさん」でも、サスガにここまではやらないだろう。
それに、このお話は、一応、東京の山の手が舞台になってる。つまり、東京の中でも、特にお金持ちが住んでる地域なんだから、ヘタしたら、何百万円、何千万円ていう被害が出てるハズで、こんな大被害に遭ったお隣りさんからすれば、花子さんも空巣の一味みたいなもんだってことになる。つまり、お隣りさんにとっては、隣りに花子さんみたいな「おせっかい」が住んでるってことは、隣りにアブドーラ・ザ・ブッチャーが住んでて、一家団らんの夕食中に、突然、窓を割って乱入して来るみたいな恐怖なのだ。それも、テーマ曲の「吹けよ風、呼べよ嵐」の鳴り響く中、ヘッドパットで窓ガラスを割るワケだから、もちろん、オデコのスジからは流血してるのだ。そして、隠し持ってたフォークで、テーブルに並んでる夕食を食べ始めちゃう。これほどの恐怖があるだろうか?
‥‥そんなワケで、アブドーラ・ザ・ブッチャーのテーマ曲の「吹けよ風、呼べよ嵐」と言えば、ピンクフロイドの名をプログレファンからプロレスファンへと拡大した名曲だけど、この曲が収められてるアルバムのタイトルが、その名も「おせっかい」ってワケだ。それも、ニポン人がテキトーにつけた邦題ってワケじゃなくて、原題が「Meddle」なんだから、ちゃんとした直訳だ。でも、「吹けよ風、呼べよ嵐」のほうは、「One of These Days (近いうちに)」って原題だからぜんぜん違うんだけど、この原題は、曲の中で流れる「近いうちに、てめえを細かく切り刻んでやるぜ」ってセリフから来てるから、ブッチャーのイメージにはピッタリだ‥‥って、現役半世紀を迎える偉大なるプロレスラー、アブドーラ・ザ・ブッチャーと、同じく半世紀近い活動をしてる偉大なるプログレバンド、ピンクフロイドについて、あたしなんかがウンチクを傾けることこそが、双方の昔からのファンにとっては、激しく「おせっかい」だろうと思う今日の頃なのだ。
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