一文無しの旅から一転、ミゴトにサイコロで「6」を出して、5万円以上もの大金を手にした早希ちゃんは、高知市で一番高級な旅館、「城西館」の一泊2万円以上もするお部屋に泊り、前回よりも18秒も長い、1分23秒もの入浴シーンを披露してくれた。全国の早希ちゃんファンの皆さん、惣流アスカラングレーファンの皆さん、ハァハァしましたか?‥‥なんて、ショッパナから問いかけてみつつ、ロケみつつ、「四国一周ブログ旅」の今日のブログを読んでたら、早希ちゃんはレトルトカレーを買って来て食べたことを書いてて、その中に、こんな記述があった。
「私は甘口~中辛くらいがちょうど好きです」
最初は、このままサラッと読み流したんだけど、2~3行ほど先に進んでから、やっぱり気になって、この部分に戻って来ちゃった。だって、「私は甘口~中辛くらいが好きです」なら分かるけど、この「ちょうど」が分からなかったからだ。「甘口~中辛くらい」なんていう広い範囲じゃなくて、たとえば「中辛が好き」っていう狭い範囲の好みだったとしても、「私は中辛がちょうど好きです」って言うのはおかしい。この「ちょうど」を使うんだったら、「2倍」「4倍」「8倍」みたいに辛さのレベルが何段階もあるようなカレー専門店とかで、「私は辛さ2倍がちょうど好きです」って言うのなら、文法的には「?」だけど、何とかギリギリでニュアンスだけは伝わると思う。
つまり、この「ちょうど」って言葉は、「ある程度の範囲」に対してじゃなくて、できるだけピンポイントに対して使わないと、おかしな感じになっちゃうってワケだ。カレーの辛さにしても、食品の規格か何かで厳しく「甘口」「中辛」「辛口」の3段階に分かれてて、すべてのメーカーのカレールーやカレー専門店とかの辛さがみんなおんなじなら、「中辛」はどこで食べてもおんなじ辛さなワケで、「私は中辛がちょうど好きです」って言っても、ピンポイントだからおかしくない。だけど、実際には、「中辛」ほどアバウトなジャンルはないワケで、市販のカレールーの「中辛」だって、商品ごとに辛さが違うと思う今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、この「ちょうど」って言葉は、他にも、「ちょうど1時」とか、「ちょうど10個」とか、いろんな使い方をするけど、今回の早希ちゃんの表現とは別のパターンで、あたしが「?」って感じた例がある。ずいぶん前のことでキョーシュクなんだけど、フジテレビのCS放送の「フジテレビ721」で、「週刊少年カギカッコ」っていう番組があった。毎回、1人のマンガ家をゲストに呼んで、船越英一郎が崖の上‥‥じゃなくて、スタジオで「100の質問」をするって番組だった。で、この番組の2003年4月14日の回で、あたしの大好きな「ジョジョの奇妙な冒険」を描いてる荒木飛呂彦がゲストだった時に、「100の質問」の17問目の質問で、「現在、アシスタントは何人いるんですか?」って質問された荒木飛呂彦は、こう答えたのだ。
「ちょうど6人です」
あたしは、「えっ?」って思って、一瞬、自分の聞き間違いじゃないかと思ったんだけど、Vを巻き戻してみても、荒木飛呂彦は、やっぱり「ちょうど6人」て言ってたのだ。あたしは、どうしても理解できなくて、思わず、涙目のルカから、「いい友情関係ってのには、3つの坂が必要なんだなあ‥‥1つめは上り坂、2つめは下り坂、そして3つめはマサカ‥‥いいだろ?友情の3つの坂だ」なんてふうに説教されちゃったほど脳みそが「?」になった‥‥って、ジョジョ好きにしか分からないギャグも散りばめつつ、ゴゴゴゴゴゴゴ‥‥と先へ進む。
たとえば、「ちょうど4人いるから麻雀でもしない?」ってのは分かる。麻雀は4人でやるものだからだ。「ちょうど9人いるから草野球チームを作ろうぜ」ってのも分かる。野球は1チーム9人だからだ。でも、こうした「人数制限」がない場合には、人数に対して「ちょうど」を使うのなら、やっぱり「ちょうど10人」とか「ちょうど100人」とかが一般的で、これに準じるのが「ちょうど20人」とか「ちょうど50人」とかで、さらに準じるのが「ちょうど5人」とか「ちょうど15人」とかだと思う。だって、あたしたちが使ってるのは「十進法」だからだ。
「あずさ2号」にしたって、8時00分に発車するからこそ、「8時ちょうど」のあずさ2号で、私は私はあなたから旅立てるワケで、これが8時15分とかだったら「8時ちょうど」にはならないし、私は私はあなたから旅立ちそこなっちゃう。だけど、時間の場合でも、麻雀や野球の人数のように、最初から端数まで決まってれば、この「ちょうど」を使うことができる。たとえば、夜の8時15分から始まるテレビ番組を観たくて、急いで帰って来た人が、「よかった!8時15分ちょうどに帰ってこられた!」って言えば、これは成り立つ。他にも、「2時50分ちょうどに江頭2:50が登場した」って言うのもアリだ。だけど、こうした時間の設定がない限り、一般的に「ちょうど」を使う場合には、やっぱり「1時ちょうど」とか「2時ちょうど」とかが普通で、これに準じるのが「1時半ちょうど」とかだろう。決して、「1時15分ちょうど」とは言わないと思う。
‥‥そんなワケで、あたしたちが、ふだん、あんまり深く考えずに使ってる、この「ちょうど」って言葉は、カレーの辛さから人数から時間から、はたまた湯加減が「ちょうどいい」なんてのまで、いろんなものに使える意外と便利な言葉ってワケだ。そこで、遅まきながら辞書を見てみたら、4つの意味が書いてあった。
【丁度】(ちょうど)副詞
1.余分や不足なくぴったりと一致しているさま。ぴったり。きっちり。
「~体に合う」「定員~だ」「八時~に終了」
2.ある期待・予想にぴったりとあうさま。
「~よいところへ来てくれた」「~居合わせた」「~るすだった」「~旅行中だった」
3.まさに。たった今。
「兄は~出かけたところです」「~行こうとしたところだ」
4.まるで。あたかも。さながら。
「月は~鏡のように見えた」
これを見ると、1から3までは、ある意味、1つのジャンルと考えることもできる。だけど、4だけが、ちょっとニュアンスが違う。4番は、何かを何かに見立てるっていう「比喩」を強調するために使うパターンだ。この辞書の例文なら、「ちょうど」を使わないで「月は鏡のように見えた」って言っても意味は通じる。でも、例文のように「月はちょうど鏡のように見えた」って言うと、さらに「比喩」が強調されるってワケだ。実際の例をあげると、堀辰雄の短編、「雪の上の足跡」の中には、学生が「女の墓に夜ごとに訪れてくる老狐の話」をするシーンに、こんな一文が出て来る。
「なんでもその墓にひとりでに罅(ひび)が入って、ちょうど刀傷のように痛いたしく見えた、その傷のあたりをその狐が舐めてやっていたとかいう話でしたね。」
この「ちょうど」は、まさに4番の「ちょうど」だろう。他にも、おんなじ使い方をしてる例だと、黒島傳治(でんじ)の「入営前後」っていう、自身が昭和初期に徴兵を受けて軍隊に入れさせられた時のことを回想してる短編の中にも、こんな描写が出て来る。
「丁度、雪が積もっているように白い白鷺城を見上げながら、連隊の前の道を歩いた。」
また、「軍隊特有な新しい言葉」の説明の中で、「からさせ」が「云わなくても分っているというような意」、「まんさす」が「二年兵」、「つる」が「いじめること」などと並んで、当時の残酷な訓練の1つ、「太鼓演習」の説明として、こんな描写もある。
「兵卒を二人向いあって立たせ、お互いに両手で相手の頬を、丁度太鼓を叩くように殴り合いをさせること。」
これらの「ちょうど」や「丁度」は、どれも辞書の4番の使い方だ。「ちょうど」がなくても意味は通じるけど、ここに「ちょうど」を置いたことによって、山椒をふりかけた鰻重のように、その「比喩」がピリリと引き締まってる。特に、2回も「比喩」を強調させるための「丁度」を使ってる黒島傳治の「入営前後」は、この「ちょうど」って言葉を説明するには、ちょうどいい(笑)‥‥なんてことも言ってみつつも、実は、この「入営前後」は、次のヒトコトから始まってるのだ。
「丁度九年になる。」
おいおいおいおいおーーーーい! 「丁度十年」なら分かるけど、何なんだ? この「丁度九年」てのは? これじゃあ荒木飛呂彦の「ちょうど6人です」と一緒じゃん!‥‥ってことで、あたしは、またまた登場した涙目のルカから、「いい友情関係ってのには、3つの袋が必要なんだなあ‥‥1つめは給料袋、2つめは堪忍袋、そして3つめはオフクロ‥‥いいだろ?友情の3つの袋だ」なんてふうに説教されちゃったけど、今度は脳みそは「?」にならなかった。ナゼなら、そのあとを読んで納得できたからだ。
「丁度九年になる。九年前の今晩のことだ。その時から、私はいくらか近眼だった。徴兵検査を受ける際、私は眼鏡をかけて行った。それが却って悪かった。私は、徴兵医官に睨まれてしまった。」
そう、この「丁度」は、「九年」じゃなくて、「九年前の今晩」に掛かってたのだ。これなら、365日のうちの1日っていう激しくピンポイントな「ちょうど」なんだから、9年前だろうと14年前だろうと37年前だろうと、ちゃんと成り立つ。つまり、この「入営前後」って短編は、辞書の1番の「ちょうど」と4番の「ちょうど」を両方とも使ってるってワケで、おんなじ人が書いた1つの回想録の中に両方の「ちょうど」が使われてるってことは、同時代に両方の意味で使われてたってことになる。
‥‥そんなワケで、何でもルーツにあたらないと気が済まないあたしとしては、愛用の旺文社の「古語辞典」で「ちょうど」を引いてみた。そしたら、こんなふうに書いてあった。
【丁度】(ちやうど)副詞
1.たっぷり
2.ほどよく
3.まさしく、あたかも、さながら
これを見ると、2番の「ほどよく」が、現代の辞書の1番に近い感じだし、3番の「まさしく、あたかも、さながら」が現代の辞書の4番とほぼ一緒だけど、1番の「たっぷり」ってのは、今の使い方にはないパターンだと思った。現代の辞書の1番には「余分や不足なくぴったりと一致しているさま」って書いてあるけど、こっちの1番の「たっぷり」は、「必要な量よりも多く」ってイメージだから、完全に「余分がある」ってことになるからだ。でも、これを「コップにお水を注いでるとこ」だと仮定すれば、普通にお水を飲む場合なら「7分目」くらいしか注がないと思うけど、「たっぷり」って言われると、お水があふれるギリギリまで注ぐイメージになるから、そう考えれば、コップの容量に対しては「ちょうど」ってことになる。
それで、実際に、これらの「たっぷり」や「ほどよく」などの意味で「ちょうど」が使われてる例を紹介したいんだけど、相手は古語だから、古語を使ってる媒体ってことで、「狂言」のセリフから紹介しようと思う。まずは、1番の「たっぷり」って意味で使われてる例だけど、これは「悪太郎」に出て来る。もちろん、「悪太郎」って言っても、遥か昔のジャイアンツのピッチャーのことじゃなくて、狂言の演目だ。中川昭一並みに大酒飲みで酒癖の悪い悪太郎って男が、泥酔して道端で寝てるうちに、悪太郎のことを改心させようと思った伯父さんに髪を剃られてお坊さんにさせられちゃうってストーリーだ。それで、この「悪太郎」の冒頭の部分に、こんなセリフがある。
「とても飲むなら丁度飲みやがれ」
この「とても」は、今の「とても」と違って、「どうせ」って意味だ。つまり、「どうら飲むならたっぷりと飲みやがれ」って意味になる。この「ちょうど」の使い方は、現代のどの使い方とも違って、まさしく古語辞典の1番の使い方だ。そして、2番の「ほどよく」って意味で使われてる例だと、「猿座頭(さるざとう)」がある。勝新太郎でオナジミの「座頭市」で分かるように、「座頭」ってのは盲目のことで、これは猿と座頭が登場する名作だ。スーパーハショッて説明すると、盲目のダンナと奥さんが、京都は東山にお花見に行く。盲目なのにお花見に行くってとこが、ニポンならでは風情で、あたしは大好きだ。以前、盲目のおじいちゃんの手を引いて、梅を見に来てたおばあちゃんと出会った話を書いたことがあるけど、とってもステキなことだと思う。
で、ここから先が吉本新喜劇みたくなっちゃうんだけど、この奥さんはなかなかの美人で、2人で仲良くお花見をしながらお酒を飲んでると、そこへやって来た猿回しの色男が、その奥さんに目をつけて、誘惑を始めちゃう。ダンナが盲目だからって、猿回しの色男はやりたい放題だ。奥さんもその気になっちゃって、チョコチョコとダンナのとこを離れて、その色男のとこへ行っちゃう。それで、あまりにも何度も奥さんが席を立つもんだから、心配になったダンナは、長い腰ヒモの片方を自分に結び、もう片方を奥さんに結んだのだ。そして、そんなこととは知らずに、また奥さんがコッソリと色男のとこへ行くと、自分に腰ヒモが結ばれてることに気づく。それで、色男は、奥さんに結ばれてた腰ヒモを解いて、代わりに自分の連れてた猿を結んじゃう。そして、なかなか奥さんが戻って来なくて、心配したダンナが腰ヒモをたぐり寄せると、戻って来たのは奥さんじゃなくて猿だった! ウッキッキー!‥‥ってストーリーだ。
あたしのフランク・ザッパなアラスジじゃ伝わらないと思うけど、この「猿座頭」は素晴らしい名作なのに、主人公が盲目って理由で、今の悪しき風潮の被害に遭って、メッタに上演されない演目なのだ。2007年2月9日の日記、「差別用語もTPO」と、2月10日の日記、「続・差別用語もTPO」で、あたしは、歌舞伎や浄瑠璃の演目として有名な「箱根霊験躄仇討(はこねれいげんいざりのあだうち)」について書いた。こんなに素晴らしい仇討の名作が、主人公が「いざり」だって理由だけで、メッタに上演されないし、上演されるとしても「いざり」って言葉を使わないように、タイトルもセリフも変えられちゃってる。あたしからすると、表面上の言葉だけにピリピリと神経質になり、こうした素晴らしいニポンの文化が次々と消えてくことのほうが、遥かに「差別」だと思うんだけど、それについては「差別用語もTPO」と「続・差別用語もTPO」でちょうど書いてるから、ここでは繰り返さない。ちなみに、この「ちょうど」は、「たっぷり」って意味だ(笑)‥‥ってことで、話をクルリンパと戻して、この「猿座頭」に出て来るセリフだけど、最初にお花見をしながらお酒を飲んでるシーンに、こんなやりとりがある。
「さらば飲まう。注っがしませ。これこれ一つありさうな。」
「丁度ござる」
この「さらば」は「しからば」、「それなら」って意味で‥‥って、1つ1つ説明する必要はないか。ま、中学の時にちゃんと古文の授業を聞いてなくても、ナニゲに雰囲気は伝わると思うけど、「それなら飲みましょう。まずはお注ぎしますので、ささ、おひとつどうぞ」って感じだ。そして、注がれてるほうが答えてる「丁度ござる」は、「おっとっとっと」とはリトル違うけど、「ほどよい量になりました」って意味で、古語辞典の2番の意味の「ちょうど」なのだ。つまり、おんなじお酒でも、「泥酔するまで飲め!」って場合の「ちょうど」は1番の「たっぷり」って意味で、サカズキに注いでる時の「ほどほどに」的な場合の「ちょうど」は2番の「ほどよく」って意味になるってワケだ。
そして、3番の「まさしく、あたかも、さながら」って意味で「ちょうど」を使ってるのは、「布施無経」っていう狂言だ。これは、演じる流派によっては「無布施経」とも書くんだけど、読みはどっちも「ふせないきょう」で、これも「猿座頭」みたいな楽しいお話だ。お坊さんが檀家へお経をあげに行ったんだけど、お布施をもらわずに帰って来ちゃった。それで、途中で気づいたお坊さんは、お布施をもらいに戻りたいんだけど、自分のほうから「お布施をもらい忘れてました」なんて言うのはバツが悪い。それで、どうしたものかと考えた末に、檀家のとこに袈裟(けさ)を忘れて来たことにしちゃおうって思いついたのだ。「すみません。袈裟を忘れてしまって‥‥」なんて言いながら戻れば、バツも悪くないし、檀家さんもお布施のことを思い出すだろう‥‥って作戦だ。
それで、お坊さんは、自分の掛けてた袈裟を外して、フトコロに仕舞ってから、檀家さんのとこへ戻った。そして、「袈裟を忘れてしまいまして‥‥」なんて言ったら、檀家さんのほうも「すみません!先ほどはウッカリとお布施をお渡しするのを忘れてました!」なんて言い出すもんだから、お坊さんはホッとした。それなのに、檀家さんが用意してたお布施をお坊さんのフトコロへ入れたら、その拍子に、仕舞ってた袈裟がパラリと床に落ちちゃって、お坊さんは、まあバツの悪いこと悪いこと‥‥ってストーリーだ。こうしてアラスジとオチを聞くと、狂言て落語みたいなもんでしょ? だから、狂言にしても歌舞伎にしても浄瑠璃にしても、こうした面白い演目もあれば、人情話もあれば、幽霊モノもあれば‥‥って感じで、ほとんど落語の世界と一緒なんだよね。で、またまた話をクルリンパと戻して、カンジンの「ちょうど」に関してだけど、この「布施無経」の中には、こんなセリフが出て来るのだ。
「丁度貧僧のかさね斎(どき)」
「貧僧のかさね斎」ってのは、貧乏なお坊さんが、おんなじ日に2ヶ所から法事で呼ばれたために、結局、片方にしか行けずに、片方の食事しかゴチソウになれなかったって意味のコトワザだ。どっちかが1日でもズレてたら、もう一食、食べることができたのに‥‥ってワケで、「ラッキーな中にもアンラッキーがある」ってニュアンスだ。つまり、このセリフは、「無事にお布施はもらえたけど、袈裟を忘れたって理由がウソだとバレて恥をかいてしまった」って状況に対して、「まるで、貧僧のかさね斎のようだ」って言ってるワケだ。だから、この場合の「ちょうど」は、古語辞典の3番の「まさしく、あたかも、さながら」って意味になる。
‥‥そんなワケで、現代でもいろんなふうに使われてる「ちょうど」って言葉だけど、江戸時代ころまでは、こんなふうに、さらに別の意味でも使われてたワケで、改めてニポン語の奥深さにビックル一気飲みだ。だけど、現代でも、辞書にも載ってない新しい意味でも使われ始めてるみたいで、こないだ、深夜のテレビの通販番組をナニゲに観てたら、ある商品の値段を言う時に、「19800円ジャストです!」って叫んでた。この「ジャスト」は、どう考えても「ちょうど」って意味で使ってると思うんだけど、それなら、「19800円」のいったいどこが「ちょうど」なんだよ? 「1万円ジャスト」とか「10万円ジャスト」なら分かるけど、インターネットの通販を見ても、「19800円ジャスト!」とか「ジャストプライス9800円!」とかって言葉が並んでるけど、ぜんぜん「ジャスト」でも「ちょうど」でもないじゃん。でも、こうしたトンチンカンが増殖してくと、「氷雨」が「冷たい雨」のことになっちゃうみたいに、また1つ、伝統あるニポン語がおかしなことになってくような気がしちゃう。ま、ちょうど6匹いる猫たちにご飯をあげる時間だから、今回はこの辺にしとこうと思う今日この頃なのだ(笑)
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