岬めぐり
9月4日の日記、「歌謡曲の功罪」で、あたしは、「旅の宿」や「襟裳岬」や「氷雨」や「秋桜」の歌詞の季感のズレてる点やツジツマの合わない点を挙げてツッコミを入れさせてもらったんだけど、そしたら、意外にもたくさんのメールをいただいた。特に「襟裳岬」に関してのメールが多くて、それこそ十人十色、この歌に関して、多くの人がいろんな解釈をしてたってことが分かった。とっても興味深いので、今日は皆さんから寄せられたメールを紹介しつつ、もう一度、この「襟裳岬」の歌詞を検証してみたいと思う。
それから、まず大前提として、あたしの「歌謡曲の功罪」ってタイトルを誤解してる人がいたので、念のために説明しとくけど、この「功罪」ってのは、「功績と罪」って意味で、「良い部分と悪い部分」ていう意味だ。歌謡曲は、特に「昭和の歌謡曲」は、娯楽の少なかった時代に、人々に夢と希望を与えた素晴らしい大衆文化であり、戦後のニポンの復興にも寄与した一大ムーブメントだ。だから、あたしは、歌謡曲ってものを十把一絡げにして否定するつもりなんてモートーないし、それどころか、大好きな歌謡曲がいっぱいある。中森明菜ちゃんは、あたしの永遠のヒロインで、今でもカラオケで「スローモーション」や「セカンドラブ」を歌うし、松田聖子ちゃんも大好きだ。
だから、あたしは、ニポンの歌謡曲のことを「J-POPS」なんて呼ぶアホどものことは軽蔑してるけど、歌謡曲そのものはちゃんと評価してる。だけど、その反面、「売れてナンボ」「ヒットしてナンボ」の商業音楽にアリガチな「ヒットメーカーに依頼して量産してもらう」っていう安易なシステムによって、デタラメな歌詞やパクリの楽曲が横行して来た現実もある。歌謡曲の全盛期には、売れっ子の作詞家や作曲家は、わずか30分で1曲を作ったそうだ。そして、その歌を聴いてみると、季感や文法がメチャクチャな歌詞が、どこかで聴いたことのあるメロディーに乗せられてるだけなのに、ミリオンセラーになったり、レコード大賞を獲ったりしてる。こうした部分が、あたしは、「歌謡曲の功罪」の「罪」の部分だと思ってる今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、あっちもこっちも広げちゃうと収拾がつかなくなっちゃうので、今日は「襟裳岬」に限定して検証してくけど、前回の日記であたしがツッコミを入れたのは、「ツジツマが合わない」ってことだった。繰り返しになるけど、「襟裳岬」の歌い出しは、「北の町ではもう~悲しみを暖炉で~燃やし始めてるらしい~♪」ってなってるので、あたしはこの部分を「北海道以外ではまだ暖房をつけるような季節じゃないのに、襟裳岬のほうの町では早々と暖炉を使ってる」ってふうに解釈した。これは、「もう」と「始めてる」による解釈だ。そのため、この歌は、冬に入る前の季節、「秋の景」だって解釈した。そして、それなのに、この「秋の景」から何の時間的進行もないまま、「襟裳の春は~何もない春です~♪」って締めてるから、あたしは「ツジツマが合わない」って書いた。で、ここからは、このあたしの意見に対して寄せられたメールを何通か紹介する。
お名前:zenbo
コメント:いつも楽しく拝見しています。今日の季語の解説は勉強になりました。私自身も氷雨のことを冬の冷たい雨だとばかり思っていました。ところで「襟裳岬」の暖炉の件ですが、私は全く逆に解釈していました。寒くなるから「暖炉を燃やし始める」のではなくて、春が近いので長い冬の間にたまった「悲しみを燃やし始めている」のだと思ったのです。だけど、じっといじけていた冬の悲しみを燃やしたとしても、この襟裳岬の春にはやはり何もないのだよ・・・と言う風に解釈していたのです。間違いでしょうか。またの記事を楽しみにしています。
お名前:やまぞえ
コメント:「こんばんは、森進一です」って名前まで言わないとわからないモノマネって何? きっこさん こんにちは、さっそくですが、「襟裳岬」の歌詞についての私見です。「北の街ではもう悲しみを暖炉でもやしはじめてるらしい」の問題の「もう」は、暖炉を使い始めることではなく、悲しみをもやすことにかかっていると思うのです。北の街では、暖炉そのものは夏の終わり頃から使い始めています(多分)。北海道では長い冬の間にたまってしまった悲しみを春が近づくと暖炉で燃やす風習があります(多分)。「ほら、春が近づいてきたんでないかい」「んだな、もう燃やさねばなんないな」ずっと、春を待ちこがれる歌だと思ってきました。こういう曲解はいかがでしょうか?
お名前:ふくちゃん
コメント:きっこさん、初めまして。いつも日記読んでます。「襟裳岬」の歌詞について、私なりの解釈をさせていただくと、「北の町では、もうすでに暗い冬の季節に起こったいやな事や悲しい出来事を暖炉で燃やし始めている」と読みました。これならあまり不自然さがないのでは?思うのですが いかがでしょうか?
お名前:けろっぴ
コメント:きっこさんはじめまして。いつも楽しく読ませていただいております。さて、「襟裳岬」の歌詞について、気になってしまいましてメールさせていただきました。『北の街ではもう悲しみを暖炉でもやしはじめてるらしい』というのは暖炉をもやしはじめているのではなく、冬の終わりに、春に向かって、『悲しみを暖炉でもやしてしまう』ということではないでしょうか? だから襟裳岬には豪華な観光施設もないけれど、悲しみも悩みもわずらわしさもいじけることも『なにもない』、『えんりょはいらないからあたたまっていきな』というあたたかさだけがある、ということなんだと思います。今後も更新を楽しみにしています。
‥‥そんなワケで、zenboさん、やまぞえさん、ふくちゃんさん、けろっぴさん、他にも同様のご意見のメールをくださった皆さん、どうもありがとうございました♪‥‥ってことで、若干の違いはあっても、これらの解釈は、ほぼおんなじだ。ようするに、あたしの「秋の景」って解釈とは違って、これらは「冬の終わりの景」もしくは「春の初めの景」ってことで、「襟裳の春は~何もない春です~♪」ってほうを「現在の季節」として捉えた解釈だ。
でも、これはこれで成り立つけど、あたし的には、ちょっとムリがあると思う。「悲しみを暖炉で燃やす」っていう心象的な表現は歌謡曲ならではの世界だから許容できるけど、それを「現実に北海道の人たちが実践してる風習」とする見方には、やっぱりムリがあると思う。最初から最後まで架空の恋愛か何かを歌ってる今どきの歌なら、イチからジューまで「虚(きょ)の世界」で構わないけど、こうした「ご当地ソング」的な固有名詞をテーマにした歌の場合は、絶対に「実(じつ)の世界」が土台にないと成り立たないからだ。で、このあたしの「ムリ」だと感じる部分を払拭してくれたのが、次のHMさんの解釈だ。
お名前:HM
コメント:こんばんは。いつも楽しみに拝見させていただいております。今回はじめてメールさせていただきます。先日のブログ「歌謡曲の功罪」の中の「襟裳岬」に関してのご意見ですが、少し誤解があるのではないかと思い失礼ながら少し私見を述べさせてください。この曲の季節背景は確かに「冬」と「春」二つが連想されます。しかしこの二つの季節は同じ時間軸で連続して存在する季節ではありません。このシナリオの背景はまぎれもなく「冬」であり、そこで人々の「苦悩」や「疲労」や「悲しみ」を表現しています。そんな人々の心にあって欲しいと願う心象風景が「えりもの春」です。つまり「春」という客観的な季節はこの物語の中には現実的にはないのです。「厳しい寒さが続いている」=「いろいろな苦悩が人々の心にある」「えりもの春はもうすぐ訪れる」=「きれいすっきり洗い流してくれる時が訪れる」ということを表現しているのではないのでしょうか?おそらく岡本おさみさんはえりも岬に「春」訪れたのでしょう。そしてその自然が与えてくれた「無」の時間と空間に感動し、自分の持つ苦悩など全て吹っきれてしまったのでしょう。つまり「えりもの春」のすばらしさを伝えたいがゆえの「冬」の出来事の描写があるのです。もちろん伝わる伝わらないは個々人によって様々でしょうが・・・。この歌の最後に「寒い友達が訪ねてきたよ。遠慮はいらないから暖まっていきなよ」という一節があります。ここに「冬」から「えりもの春」への入口があるのだと自分は考えてました。岡本さんの詩は他の作品も含めて一見叙景詩なのですが、実はこてこての人間くさい叙情詩が多く、だからこそあまりヒット曲に恵まれていない作詞家だと思ってます。以上長文しかもまとまりのない文章まことに恐縮いたします。それではこれからも興味深いブログを楽しみにいたしております。季節の変わり目ですが体調を崩さぬようご自愛ください。
HMさん、どうもありがとうございました♪‥‥ってワケで、HMさんは、「悲しみを暖炉で燃やしてる景」と「何もない春の景」との時間軸をズラして、別々に切り離して解釈してる。この見方は目からウロコだし、極めて合理的だ。これならツジツマも合うし、あたしが「おかしい」と思ってた点は、一瞬で氷解する。だけど、あたしは、実際に「襟裳岬」の歌詞を読んで、読んだ瞬間に「おかしい」って感じたことは事実だし、別にアラ探しをしながら読んだワケじゃない。何の先入観もないフラットな状態で普通に読んでみて、「おかしい」って感じたのだ。
それで、今度は、このHMさんの解釈を念頭に置いた上で、もう一度、「襟裳岬」の歌詞を読んでみた。だけど、やっぱり、最初に読んだ時とおんなじで、あたしは「おかしい」って感じた。だって、冒頭の「北の町ではもう~♪」の次には、「訳の分からないことで~悩んでいるうち~老いぼれてしまうから~♪」と続いて、「黙り通した年月を~拾い集めて暖め合おう~♪」と来て、この直後に「襟裳の春は~何もない春です~♪」って締めてる。つまり、冒頭の「北の町ではもう~♪」から、最後の「襟裳の春は~何もない春です~♪」ってフレーズまでの間は、すべて、「これまでの悩みや不満を暖炉で燃やす」って描写だけが羅列してあるだけで、まるでここまでの結論として導かれたごとく、忽然と「襟裳の春は~何もない春です~♪」ってフレーズが置かれてるのだ。
たとえば、「あと少しの辛抱だけど、襟裳の春は~何もない春です~♪」ってふうに、時間軸の変更を示唆する何らかのワンクッションがあれば別だけど、この唐突な書き方だと、やっぱり2つの時間軸の景を並列に描いてるとは理解しにくい‥‥つーか、ほぼムリだと思う。だからこそ、あたしは「おかしい」と思ったワケだし、他の多くの人たちも、それぞれ違った解釈をしてるんだと思う。ようするに、書き方が正確じゃないために、正しく意味が伝わってないってワケだ。そして、賢明なる「きっこの日記」の読者諸兄なら、すでにウスウスと気づいてたと思うけど、あたしがここまで引っぱって来たのは、正解を教えてくださった人がいたからだ。
お名前:旅好きオジさん
コメント:きっこ様、いつも楽しく拝読しております。いつもきっこさんのブログを読んで、自公、ネトウヨ嫌いの私は溜飲を下げさせて頂いておりますが、今回の「歌謡曲の功罪」については「?」と思う点がありましたのでメールさせて頂きます。「襟裳岬」の歌詞の「襟裳の春は何もない春です」ではツジツマが合わないとのことですが、この歌詞は、岡本おさみさんが初秋、襟裳岬にある老夫婦2人だけで営む民宿に泊った時の出来事が元になってます。片腕の無い民宿のご主人との会話の中で、「おじさん、襟裳って春は何があるの?」「う~ん…春は何も無いね~…」というやりとりから、「襟裳の春は何もない春です」というフレーズが生まれたとのこと。また、2番の歌詞にある「珈琲」の件も、この時の出来事が元になっているそうです。そして、片腕が無いというハンデ故に苦労されたであろうご主人と、そのご主人を支え続けてきた奥さんの人生を想った時に、「日々の暮らしはイヤでもやってくるけど…」という3番の歌詞のフレーズが生まれた…とのお話。これらの話は、この曲がヒットした当時の新聞に掲載された岡本おさみさんのインタビュー記事に書かれておりましたので、ウィキペディアなどのいい加減なネット情報よりは確かかと思います。上記のようなこの歌詞の生まれた経緯を知って頂けば、一応ツジツマも合うかと思います。(後略)
旅好きオジさん、どうもありがとうございました♪‥‥ってことで、これは作詞をした岡本おさみ本人の解説なんだから、何よりの正解だと思う。このメールによれば、岡本おさみが襟裳岬を訪ねたのは「初秋」ってワケで、つまり、冒頭の「北の町ではもう~♪」の部分に関する解釈は、「北海道以外ではまだ暖房をつけるような季節じゃないのに、襟裳岬のほうの町では早々と暖炉を使ってる」っていうあたしの「秋の景」の解釈で正解だったワケだ。そして、それまでの流れを無視して、突如として飛び出す「襟裳の春は~♪」っていうフレーズに関しては、民宿のおじさんの言葉だったってワケだ。だから、それまでの描写とこの部分の描写とは時間軸が違う‥‥っていう、HMさんの解釈がピンポンだったことになる。
ただ、HMさんの場合は、この「何もない春」を美化しすぎてて、民宿のおじさんの「う~ん…春は何も無いね~…」って言葉の現実的なニュアンスとは大きく違う。だから、逆に言えば、「何もない春」を飛躍的に美化して解釈できるほどの想像力がないと、この歌詞を二元的に捉えることは難しいってことになるのかもしれない。あたしの場合は、「省略の文芸」とも呼ばれてる俳句を20年以上もやってるから、そこに書かれてないことを読み取る力、行間を読む力は、俳句をやってない人よりはあると思ってる。でも、この「襟裳岬」の歌詞は、申し訳ないけど、行間を読ませるだけの適切な省略がなされてるとは言い難い。だから、歌詞を書いた本人の解説を知ったあとでも、やっぱり、解説通りに解釈するのは厳しい状況だ。
‥‥そんなワケで、あたしとしては、正解が分かったスッキリ感と、正解が分かったのに納得できないっていう残尿感が入り混じったミョ~な結果になっちゃったけど、この問題はここまでってことで、そろそろ森進一の「襟裳岬」をあとにすることにした。そして、次は、松山千春の「宗谷岬」とか、鳥羽一郎の「足摺岬」とか、水森かおりの「竜飛岬」とかを検証してみたいと思う。だけど、こんなことばかりしてたら、山本コータローとウイークエンドの「岬めぐり」になっちゃうから、ホドホドとしとこうと思う今日この頃なのだ(笑)
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