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2009.10.18

女神さまが降臨した日

魚心さん、nakkyさん、あーまんさん、亀太郎さん、ぴろりんさん、龍彦さん、よこしまさん、努さん、SAYさん、たかしさん、緒方さん、わかをさん、ちびぃさん、彰さん、みーこさん、麻美さん、とまとさん、蒼さん、アマサさん、メヌエットさん、たろさん、まるおさん、ぴゅ~ちゃんさん、ネコネコさん、聡さん、zenboさん、YAMAさん、周一さん、友子さん、草さん、みんみさん、てつろうさん、他にもたくさんの皆さん、お見舞いのメールをどうもありがとうございました♪‥‥ってことで、皆さんのオカゲで、あたしの豚インフルエンザもどきは、着実に快方へ向かってる。

現在、17日の夜の状況は、熱が37度5分に下がって、頭痛と体の痛みは半減して、咳が出ると貧血みたいなるのは続いてるけど、全体的にずいぶんラクになった。昨日から動けるようになったので、もう自分でおかゆを作って食べてるし、汗で全滅になったパジャマ3着もお洗濯したし、昨日のうちに土日のお仕事の手配をして、月曜日まではお休みできるようにした。これで、体だけじゃなくて、精神的にもホッとすることができた。

ただ、1つだけつらいのは、目がすごく痛くて、ほとんど開けてられないってことだ。ゆうべ、朝までずっと高熱が続いてて、目玉の底の部分が焼けるように痛くて、「これがホントの目玉焼きだよ」とかって自分にツッコミを入れてたんだけど、朝になって熱が下がってからも、目の痛みが続いてるのだ。ドライアイの酷い状態みたいな感じで、目を開けてると、ずっとヒリヒリしてる。目をつぶってても痛いんだけど、開けてるよりはマシだから、冷やしたタオルやアイスノンをまぶたにあてて、じっとしてる。

ホントは、こんなにゆっくりできる時はメッタにないから、忙しくて読めなかった本も読みたいし、しばらくホッタラカシにしてた「ドラクエ9」もヤリコミたいし、ゆうべの「西日本横断ブログ旅」も観たいんだけど、どれも目が痛くてムリだから、TOKYO FMを聴いたり、久しぶりに「メガマク」のカセットを聴いたりしてた。そう言えば、今週発売の「テレビブロス」って、「SCHOOL OF LOCK!」のやましげ校長とやしろ教頭が表紙を飾ってるんだよね。前々回の表紙が、あたしの大っ嫌いな「こども店長」のクソガキだったからムカついてたんだけど、今回はワンダホーだったと思う今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、あたしは、ずいぶん具合が良くなったとは言え、まだ目が痛くてパソコンの画面を見続けてられないから、5分くらい打ったら5分くらい目を閉じて休む‥‥ってペースでのんびりと書いてる。だから、とりあえず日記は再開したけど、まだリハビリ中って感じで、重たい話題は書くことができない。それで、今日も軽い話題でキョーシュクだけど、昨日と今日、懐かしい「メガマク」のカセットを聴いてたら、いろんなことを思い出しちゃった。ちなみに「メガマク」ってのは、あたしの愛するMAXがやってたラジオ番組、「MEGA MAX」の略だ。そして、「きっこの日記」を最初から読んでる一部のマニアにはオナジミの話だけど、この「メガマク」ってラジオ番組がなければ、「きっこの日記」は生まれてなかったのだ。

文化放送で、月曜日から木曜日までの夜の帯番組、古本新之輔(現・古本新乃輔)の「ちゃぱらすかWOO!」がスタートしたのは、今から12年前の1997年4月7日だった。最初は、夜の10時から12時までの2時間番組で、半年後から、30分長くなって9時半からの放送になった。で、この「ちゃぱらすかWOO!」、通称「ちゃぱら」の中に、10分間の「メガマク」があった。他にも、キンキキッズとかが10分間のミニ番組をやってたんだけど、あたしは、「メガマク」を聴くためだけに、来る日も来る日も録音し続けてた。

そして、「メガマク」が終了する2001年9月27日までの4年半、第1回目から最終回まで、すべてを録音したカセットテープは、ぜんぶで200本を超えた。もっと正確に言うと、「メガマク」がスタートする前の1年間、MAXは「HAYPER DANCE CHART」っていう番組をやってたから、そのぶんも含めて、5年半にもおよぶ録音と編集の結晶、それが200本以上のカセットテープで、これは、あたしの大切な宝物だだ。だいたいの放送時間は決まってたけど、野球のナイターが延長したりすると、「メガマク」の放送時間は容赦なく移動したり休止になったりした。だから、常に2時間ぜんぶを留守録して、その中から「メガマク」の10分間だけを別のカセットにダビングして、それを5年半、ずっと溜め続けたのだ。この労力は、とてもじゃないけどお金には換算できない。

だけど、事務所から独立したばかりの一番つらかった時期から、何とかフリーとしてやって行けるようになれた時期まで、あたしをずっと支えてくれたのが、この「メガマク」だった。どんなにつらいことがあっても、玲奈ちゃん、りっちゃん、ナナさん、ミナコ、4人のキャピキャピした声を聴くと、あたしは元気になれた。だから、当時のあたしは、眠い目をこすりながら留守録したカセットを編集することが、ぜんぜん苦じゃなかった。それどころか、当時のあたしにとって、とっても楽しい時間だった。

‥‥そんなワケで、「メガマク」の前の「HAYPER DANCE CHART」が始まる少し前、今から13年くらい前のことだけど、当時のあたしは、所属してた事務所で、アシスタントから正規のヘアメークに昇格して、1年くらい経ったころだった。あたしは、テレビ局の下請けをやってたチームに振り分けられて、その中の「CX班」だった。そう、フジテレビの担当だ。当時のフジテレビは、今のお台場じゃなくて、新宿の曙橋にあった。東京のど真ん中なのに、ナニゲに下町風情のある不思議な町で、他とは時間の流れがゆるやかな町だった。

もちろん、1日のほとんどを局内で過ごしてて、週に3日は「泊まり」だったあたしは、町の風情を楽しんでる余裕なんてなかった。今でこそ、どこのテレビ局も、予算を節約するために徹夜での撮影はほとんどなくなったけど、当時のテレビ局はバブルの絶頂だった。タクシーチケットなんて湯水のごとく切ってくれるから、まるで国交省のお役人気分だった。たとえば、夜の10時に仕事が終わって、そのまま帰れば電車があるのに、わざわざシャワーを浴びて時間を潰して、タクシーチケットを切ってもらって帰ってく。そりゃあ、電車をいくつも乗り継いで帰るよりも、自宅までタクシーで送ってもらったほうがラクなのは当たり前だけど、埼玉県だの神奈川県だのの自宅まで、軽く1万円を超えちゃうルートの人たちが、毎晩のように何十人もいた。

あたしの場合は、局の人間じゃないから、タクシーは相乗りになる。その日の最後のお仕事が終わったと時点で、もう終電に間に合わない時間になってたら、あたしとおんなじにヨソから派遣されて来てるヘアメークやスタイリストたちで、「世田谷方面の人は?」って募って、下北沢まで帰る人や三軒茶屋まで帰る人と一緒に1台のタクシーに乗って、順番に降ろして行き、最後のあたしがニコタマで降りる時にタクシーチケットにサインをする。だから、ヘタに早く終わって、電車を乗り継いで帰るよりも、遅くなってタクシーで帰れたほうが、遥かにラクチンだった。

だけど、それも、深夜のテッペン(0時)や1時ころに終わった場合の話で、終わりが2時や3時になると、泊まったほうがラクになる。深夜の3時に終わり、何人かの人たちとタクシーに相乗りして帰ると、自宅に着くのは4時を回ってて、それからシャワーを浴びると、寝るのは5時になる。その日の「入り」が午後とかならいいけど、午前10時とかだと、あたしは1時間前には入らないとダメだから、7時には起きて8時前にはお家を出なきゃなんない。これじゃあ、ほとんど寝る時間がない。

だから、あたしに限らず、他の人たちも、局に泊まる人が多かった。テレビ局には、カプセルホテルみたいな仮眠室があるし、当時のフジテレビには、シャワー室だけじゃなくて、銭湯みたいな「大浴場」まで完備されてたのだ。だから、終わりが深夜の2時や3時になって、次の日の「入り」が早かった場合には、タクシーチケットを切ってもらって自宅に帰るよりも、局に泊まっちゃうほうが、タップリ寝られたのだ。それで、あたしは、週に3日はフジテレビに泊まってた。

‥‥そんなワケで、当時のフジテレビのスタジオは、真ん中に「Gスタジオ(グランドスタジオ)」っていう一番大きなスタジオがあって、そこを中心に小さなスタジオが並んでて、その周りや間に大道具の倉庫があって、2階が衣装部と美術部だった。で、あたしの場合は、メーク室とスタジオを行ったり来たりの毎日だったんだけど、担当したタレントさんが2本撮りだったりすると、半日近く身柄を拘束されてた。当時は、今みたく節約モードじゃなかったから、「ドライ」→「カメリハ」→「ランスルー」→「本番」ていう作り方をしてたから、これが2本撮りだと、30分番組でも半日は掛かっちゃってたのだ。

そんなこんなで、あまりにも忙しかった上に、薄給でコキ使われてて、毎日へトヘトになってたあたしだったけど、ある日のこと、1人の女神と出会っちゃったのだ。その日の1本目の収録が珍しく時間通リに終わり、2本目のお仕事まで2時間近くも空き時間ができたから、少し仮眠でもしようとエレベーターホールに向かって通路を歩いてたら、その通路に若い男の子や女の子たちの列ができてた。それで、列の整理をしてたADさんに何の観覧なのか聞いたら、MAXのミニライブの収録だって言う。当時、「TORA TORA TORA」の大ヒットと、チマタでのユーロビートの流行とで、飛ぶ鳥を落とすイキオイのMAXだったし、あたしは奈美恵のバックのスーパーモンキーズの時から4人のファンだったから、コッソリと観せてもらうことにした。

このミニライブは、当時の音楽番組の中で流す別撮りぶんで、お客さんはテレビに映っちゃダメな収録だったのに、フジテレビのハカライなのか、MAXサイドのハカライなのか、特別に50人だけファンを観覧させてたのだ。だから、イスもなくて、全員が立ち見だった上に、ワリとステージのそばまで近づいても、画面に見切れなければいいっていうアバウトなものだった。もちろん、「ここから前に出ちゃダメですよ」っていうテープは張ってあったけど、みんな、そのテープをビヨ~ンって伸ばして前に出てたのに、ノープロブレムだった。

で、あたしは、右のワキのほうで観てたんだけど、MAXの4人が登場したトタンに、あまりの美しさと神々しさとものすごいオーラとで、全身に鳥肌が立って、気が遠くなりそうになった。毎日、飽きるほど芸能人を見てるし、実際に芸能人のヘアメークを担当してるのに、こんな気持ちになったのは初めてだった。あたしにとって芸能人なんて、単なる「職業の1つ」であって、ぜんぜん特別視なんてしてなかったのに、生まれて初めて、約5メートルの近距離でMAXの4人を見た瞬間に、あたしは、ホントの意味での芸能人を初めて目撃したような気分になったのだ。

この日のミニライブは、「TORA TORA TORA」と「Seventies」と「GET MY LOVE!」の3曲で、最初のリハから観せてくれたから、観覧に当選したファンたちは、リハと本番とで、3曲×2回も観ることができた‥‥と思ったのもトコノマ、本番で音声に問題が起こって、最後の「GET MY LOVE!」を撮り直しすることになり、結局、7曲も観ることができたのだ。でも、そんなことよりも、あたしがビビッたのは、玲奈ちゃんが女神さまだったってことをこの日、自分の目で目撃したことだった。最初のリハが終わり、メーク直しのために10分ほど休憩になったのに、玲奈ちゃんは5分ほどでステージに戻って来て、「レイナ~!」「レイレイ~!」っていうファンの声援に応えて、100万ドルの笑顔で手を振ってくれた。

その瞬間、玲奈ちゃん自身がキラキラと輝き出して、背中から放射線状に後光が差して、大当たりラウンド前に確変が確定した時のエヴァンゲリオン初号機みたいになっちゃったのだ。これは、芸能人のオーラなんていう低次元のモノじゃなくて、その神々しさから、あたしは、完全に女神さまのオーラだと確信した。あたしは、あまりの感動でヒザがガクガクと震えちゃって、オシッコが漏れそうなほどコーフンしちゃった。そして、それからのあたしは、もう、玲奈ちゃんこそ神! 玲奈ちゃんヒトスジ! 玲奈ちゃん一直線! 猫まっしぐら!‥‥って感じで、寝ても覚めても玲奈ちゃんのことを思い続けるようになった。

そして、あたしは、文化放送の「HAYPER DANCE CHART」を録音するようになり、それに続く「メガマク」も録音するようになったんだけど、そんな流れの中で、「メガマク」を放送してた「ちゃぱらすかWOO!」が、当時、人気のあった「ROOMS」っていうSNSの走りみたいなサイトとコラボして、このサイトの中に、「ちゃぱら」のコーナーを次々と作ってった。当然、「メガマク」の窓口も作られたから、番組にハガキを送らなくても、このサイトの各コーナーに書き込めば、それが番組で読まれたり、プレゼントに応募できたりってことになったのだ。

それで、あたしは、さっそく、ケータイで「ROOMS」に登録して、MAXを応援するサイト、「れいなの楽屋」を作り、その中で、「きっこの日記」の前身にあたる「れいなの日記」を書き始めたってワケだ。当時は、まだ「パケット通信」の時代だったから、「ROOMS」にアクセスして自分の日記を書くだけでも、すぐに100円とか200円とか掛かっちゃって、毎月のパケ代で死にそうになった。だけど、パソコンなんて、世の中にまだ普及してなかったし、一番安いモデルでも35万円くらいした上に、ダイヤル回線で通信料も掛かったから、とてもじゃないけど維持できない。だから、当時は、高いパケ代に苦しみながらも、ケータイでアクセスするしかなかったのだ。

‥‥そんなワケで、あたしは、高いパケ代に苦しみつつも、MAXとつながってたかったから、玲奈ちゃんとつながってたかったから、「ROOMS」の「れいなの楽屋」で「れいなの日記」を書き続けて来た。2001年9月27日に「メガマク」が最終回を迎え、2002年3月末に「ちゃぱらすかWOO!」が終了し、翌年の2003年に「ROOMS」自体がサービスを終了して閉鎖されるまで、ずっと書き続けて来た。そして、「ROOMS」の閉鎖にともなって、ポンコツのパソコンを手に入れて、この「さるさる日記」をレンタルして、それまでケータイで書き続けて来た「れいなの日記」の過去ログをすべてこっちに移植した。気が遠くなるほどの作業だったけど、あたしにとって、かけがえのない大切な思い出だったから、どうしても残しておきたかったのだ。そして、この「きっこの日記」はスタートしたワケだけど、毎日コツコツと書き続けてたら、いつの間にか、MAXの「HAYPER DANCE CHART」と「メガマク」の5年半を超えて、今月で9年目を迎えちゃった。来年の10月には、記念すべき10周年を迎えるし、ちょうどそのころには1億アクセスも達成してそうだから、何かジミなイベントでもやろうかと考え中なんだけど、とりあえず、現時点での緊急の目標は、1日も早く豚インフルエンザもどきを完治することだと思ってる今日このころなのだ。


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