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2009.12.27

おばあちゃんが教えてくれたこと

今日、いつもより早めに自宅を出て、駅までの道を歩いてたら、まるで「サザエさん」に登場しそうなシーンに出くわした。あたしの2~30mくらい前方に、毛皮のコートを着たセレブな感じのオバサンが、これまたセレブな感じの洋服を着せたトイプードルのお散歩をしてたんだけど、あるお家の門の前のとこで、そのオバサンがしゃがんだのだ。その犬がウンコをしたみたいで、そのオバサンは、割り箸でウンコを拾ってビニール袋に入れて、それをオシャレなブランド物のバッグに入れて、先へと歩き出した。そしたら、そのお家のオジサンが、真っ赤な顔をして門から飛び出して来て、オバサンのことを怒鳴りつけたのだ。


オジサン 「おいこら! ちょっと待て!」

オバサン 「はい?」

オジサン 「あんただな、毎朝毎朝、うちの前に犬のフンを置いてくのは!」

オバサン 「あら、ワタクシはちゃんと拾ってますけど‥‥」

オジサン 「じゃあ、これは何だ!これは!」

オバサン 「それは、ヨソのワンちゃんのウンチですわ」

オジサン 「ウソをつけ! ワシはちゃんと見てたんだぞ! あんたの犬がここでフンをしてるとこを!」

オバサン 「冗談じゃありません!それは最初からあったんです!」

オジサン 「ふざけるな!あんたの犬はこの場所でフンをしてたじゃないか!」

オバサン 「うちのポポちゃんは、そんな大きなウンチはしません!」

オジサン 「証拠はあるか?証拠は?」

オバサン 「これがポポちゃんのウンチです!よく見てください!太さがぜんぜん違うでしょ!」

オジサン 「うう‥‥とにかく、あんたたちがこの道を散歩コースにしてるから、うちは迷惑してるんだ!もうこの道で散歩しないでくれ!」

オバサン 「言いがかりはやめてください!ワタクシはちゃんとフンを拾ってるんですから、どの道を散歩しようとワタクシの自由ですわ!」

オジサン 「うるせえ!だいたいからして、犬に服なんか着せやがって、あんたみたいな人に飼われたら、犬もいい迷惑なんだよ!」

オバサン 「ま~~~何て失礼な人でしょう!あなたには関係ないでしょ!うちのポポちゃんは寒がりなんです!」


‥‥って感じで、どんどんヒートアップしてくから、あたしは、ずっと見物してたかったんだけど、他に誰もいなかったから、立ち止まって見てるのも変なので、そのまま通リ過ぎた今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、あたしは、立ち止まらずに、ゆっくりめに歩いて、耳だけで観察してたんだけど、ちょうどあたしが2人の横を通過する時に、オバサンの「うちのポポちゃんは、そんな大きなウンチはしません!」ていう名ゼリフが飛び出したもんだから、思わず噴き出しちゃった。「ポポちゃん」て名前も爆笑だったけど、何よりもあたしのツボだったのは、ガラの悪いオジサンのほうが「犬のフン」て言ってるのに、高級そうな毛皮のコートを着たオバサンのほうが「ウンチ」って言ってたとこだ。あたしは、このセリフを聞いて、このオバサンたら、普段から「ポポちゃ~ん、今日はたくさんウンチをちまちたね~♪」とかって言ってんじゃなかろうか?‥‥って思って、笑いが止まらなくなりそうだった。

ま、自分のお金でやってることなんだろうから、たくさんの動物を殺して作った毛皮のコートを買って着るのも自由だし、犬に洋服を着せてお散歩するのも自由だし、そこに自己矛盾を感じないのも自由だし、アカの他人のあたしがトヤカク言うことじゃない。だけど、あたしが、1つだけ羨ましかったのは、そのオバサンがポポちゃんのウンチを入れるのに使ってたのが、ルイヴィトンの今年の秋冬モデルの小型のバッグだったってことだ。

ルイヴィトンは、犬の首輪も、犬のリードも、犬を入れて運ぶための専用のバッグも販売してるから、そうした「犬用」のものを犬に使ってるぶんには、何も問題はない。そして、人間用のバッグにしても、そこに何を入れようが、使ってる人の自由なんだから、何も問題はない。だけど、犬のフンを入れるために、30万円くらいする今年の秋冬モデルのバッグを使ってるってことは、たぶん、毎シーズン、新作が出るたびに、ポポちゃんのために買い替えてる可能性が高い。それなら、ポポちゃんのウンチの匂いがついててもいいから、使わなくなった前のモデルをあたしにくれないかな?‥‥って思った(笑)

総理大臣のハトポッポと、自民党のハトポッポ弟と、政治家じゃない一般人のハトポッポ姉の3人が、毎月1500万円ずつ、お母さんから「こども手当て」をもらってたって話を聞いて、全国のほとんどの人たちは、「そんなにお金が有り余ってんなら、1500万円とは言わないけど、オレにも15万円くらいくれ!」って思っただろう。ハトポッポ一族に限らず、アベシンゾーにしても、小渕優子にしても、莫大な資産を持つ親が、その資産を「政治献金」て形に偽装して、アベシンゾーや小渕優子に与え続けて来たんだから、こうした「事実上の脱税行為」は、政治の世界じゃ当たり前なんだろう。

‥‥そんなワケで、話をクルリンパと戻すけど、このオバサンが、毛皮のコートを着てたこととか、犬に洋服を着せてたこととか、犬のフンをブランド物のバッグに入れてたこととか、こうした枝葉の部分は棚の上に置いといて、今回の状況だけを純粋に見てみると、このオバサンは、何ひとつ悪いことはしてない。自分の犬のフンをキチンと拾ってお散歩してたんだから、犬をお散歩させる人間としてのマナーは守ってたワケで、オジサンのほうがカン違いしたワケだ。だから、状況だけを見れば、オジサンのほうが間違ってたことになる。

だけど、あたしは、あえて言わせてもらうけど、このオバサンのとった行動こそが、今の世の中を象徴してるって感じたのだ。だって、このオバサンは、自分の犬がフンをしたすぐ近くに、別の犬のフンがあったことを認識してたのにも関わらず、自分の犬のフンだけを拾ったのだ。たとえば、自分の犬が普通に歩いてる道に、どこかの犬のフンが落ちてたとしたら、わざわざしゃがんで拾う人なんてメッタにいないだろう。だけど、自分の犬がフンをして、それを拾うためにしゃがんだら、そこに別の犬のフンもあった‥‥って状況なら、それもついでに拾うのが、あたしは普通の感覚だと思う。

あたしは、小学1年生から6年生まで、ダックスフンドを飼ってた。茶色いから「チャロ」って名前をつけたんだけど、ひとりっ子のあたしが寂しくないように、父さんが買って来てくれた犬だった。低学年のころは、1人でお散歩に行くのは危ないからって、いつも、おばあちゃんが一緒だった。おばあちゃんは、チャロのウンチを入れるビニール袋と割り箸を小さな手作りのキンチャク袋に入れて、いつもあたしの手を引いてくれた。あたしは、片方の手にチャロのリードを持って、もう片方の手はおばあちゃんとつないでたから、とっても幸せだった。

チャロは、いつもおんなじ場所でオシッコをして、おんなじ場所でウンチをした。タマに、いつもウンチをする場所に来ても、なかなかウンチが出なくて、何度も踏ん張るんだけど、それでも出ないことがあった。そんな時、諦めて先へ進もうとすると、チャロは、どうしてもその場所でウンチをしないと気が済まないみたいで、何度も振り返り、後ろ髪を引かれるような、寂しそうな目をしてた‥‥って、こんな思い出話も散りばめつつ、チャロがウンチをすると、おばあちゃんはビニール袋と割り箸を出して、いつもちゃんと拾ってた。そして、その近くに他の犬のウンチがあったり、タバコの吸殻が落ちてたりすると、それも一緒に拾ってた。だから、あたしは、3年生になって、1人でチャロのお散歩に行くようになってからは、おばあちゃんとおんなじように、近くにある他の犬のウンチや、ゴミなんかも拾うようになった。

実は、あたしは、あんまりチャロの話は書きたくない。それは、6年生の時に、チャロがフィラリアって病気で死んじゃって、その半年後に、大好きだったおばあちゃんも亡くなっちゃったからだ。その上、母さんが父さんと正式に離婚した時期も重なってる。この1年で、あたしは、大好きだった家族が次々といなくなり、ずっと住んでたお家も出てくことになった。だから、チャロのことを書くと、どうしても、思い出したくないことばかり書くハメになっちゃいそうで、あんまり書きたくない。

‥‥そんなワケで、チャロに関してはサラッと行くけど、あたしは、自分の体験として、自分の犬がウンチをしたら、それを拾うのは当たり前だし、その近くに他の犬のウンチやゴミが落ちてれば、それもついでに拾うのが常識だと思って育って来た。だから、犬のウンチに限らず、他のケースでも、おんなじようにしてる。たとえば、どこかの待合室で、紙コップのコーヒーを飲んでて、飲み終わってから紙コップをゴミ箱に捨てに行こうとした時に、自分のテーブルに誰かの使い終わった紙コップが置かれたままになってたとする。そしたら、それもついでに捨てに行く。公園で缶コーヒーを飲んでて、飲み終わってから空缶専用のゴミ箱に捨てに行ったら、足元に空缶が落ちてたとする。そしたら、ついでに拾ってゴミ箱に捨てる。

あたしは、決してボランティア活動をしてるワケじゃないから、ヨソのテーブルに置いたままになってる紙コップまで、わざわざ取りに行ったりはしない。5メートルも10メートルも離れた場所に投げ捨てられてる空缶まで、わざわざ拾いに行ったりはしない。そんなことしてたら、キリがなくなっちゃうからだ。日常生活においては、あくまでも、自分が何かする「ついで」に、手の届く範囲のことをしてるだけだ。あたしの犬がウンチをしてないのに、わざわざしゃがんで他人の犬のウンチを拾ったりはしない。あたしの犬がウンチをしたからこそ、あたしが自分の使った紙コップを捨てに行くっていう状況になったからこそ、その「ついで」に、目の前にあるゴミも一緒に片づけてるだけだ。

ボランティアって言えば、あたしも、多摩川の河原のゴミ拾いに参加することが多いけど、ボランティアと日常のこととはぜんぜん違う。ボランティアで多摩川のゴミ拾いをしてる時は、自分の愛する多摩川をキレイにしたいっていう使命感みたいなものもあるし、みんなで力を合わせて、一時的にでも河原がキレイになると、ホントに清々しい気分になるし、何よりも達成感や満足感が得られる。つまりは、自分のためにやってるって部分も多いってワケだ。

だって、どんなにがんばってゴミ拾いをしたって、1週間もすれば、また心ない人たちのセイでゴミだらけになっちゃうんだから、自分に対して何らかのメリットがなかったら、こんなバカバカしいことは続けられない。そして、そのメリットってのは、清々しい気分になれたり、達成感や満足感が得られるってことなのだ。そして、その反面、ゴミを拾っても拾っても、またしばらくするとゴミだらけになっちゃう河原を見て、とっても悲しい気分になるし、平気でゴミを捨ててく人たちに対して、ムカつく、ムカつく時、ムカつけば、ムカつけ、ムカついた‥‥って、五段活用でムカついちゃうことウケアイだ。

でも、日常生活の上で、目の前にある他人のゴミを「ついで」に捨てるのは、何のメリットもない。こんなことしたって、別に清々しくもないし、達成感や満足感なんて得られるワケがない。その反面、自分の犬のウンチを片づけなかった飼い主に対しても、自分の使った紙コップを捨てなかった人に対しても、あたしは、別にムカつかない。ようするに、プラスもマイナスもないってワケだ。ここが、ボランティアのゴミ拾いとは大きく違う部分で、何でなのかって考えてみたら、あたしは、「罪を憎んで人を憎まず」の精神なんだってことに気づいた。

‥‥そんなワケで、いくら自分の目の前にあるゴミだとは言え、いくら自分がゴミを捨てる「ついで」だとは言え、来る日も来る日も「どこの誰かも分からない他人のゴミ」を捨ててたら、そのうちに、そうしたゴミを置きっぱなしにしてる不特定多数の相手に対して、その非常識さに、だんだんムカついて来るハズだ。今朝のオバサンが、ポポちゃんのウンチしか拾わずに、目の前にあったヨソの犬のウンチをそのままにしてたのも、「何でワタクシがヨソの非常識な人のぶんまで片づけなきゃなりませんの?」って気持ちがあったからだと思う。自分が空缶を公園のゴミ箱に捨てる時に、足元に落ちてる空缶に気づいていながら、あえて拾わない人たちってのも、この「何で自分が」って気持ちを持ってる人たちなんだと思う。

つまり、そこに落ちてる犬のウンチや空缶の向こう側に、そうした非常識なことをした人間の姿を感じてて、ゴミが落ちてるっていう「罪」よりも、そのゴミを落とした「人」を憎んでるのだ。「何で自分が、そんなヤツのために」って気持ちがあるからこそ、自分のゴミはちゃんと片づけるっていう常識は持ち合わせてるのにも関わらず、目の前のゴミを「ついで」に片づけるっていう簡単な行為に及ぶことができないのだ。そして、こうした人たちの中には、「社会的マナーが欠如してる人たちに気づかせるために、あえて他人のゴミは片づけないようにしてる」だなんて、それらしい理屈を言う人もいる。

だけど、公共の場に平気でゴミを捨てるような鈍感に人たちに、こんな方法が通用しないのは、言ってる本人が一番分かってることだろう。こうした理屈を言う人たちってのは、ようするに、「自分はキチンとマナーを守ってるんだから、マナーを守らないヤツラのゴミまで捨てるのなんてバカバカしい」って思ってるワケで、「人のゴミを捨てると自分が損をする」って感覚の人たちなのだ。だから、「社会的マナーが欠如してる人たちに気づかせるため」なんて言ってるのは、当然、自分を正当化するための詭弁でしかないワケだし、自分の狭い心を見透かされないためのアピールも兼ねてるワケだ。

あたしは、自分の犬のウンチをキチンと片づけてる人たちや、自分のゴミをキチンとゴミ箱に捨ててる人たちに対して、別に、文句を言ってるワケじゃない。そこらに平気でゴミをポイ捨てするような人たちと比べたら、遥かに立派な人たちだと思ってる。だけど、ここがポイントなのだ。人殺しと比べたら、人を殺さない人は立派な人だけど、そうした特殊な犯罪者と比べなければ、人を殺さない人は普通の人でしかない。自分の犬のウンチも片づけない人や、そこらにゴミをポイ捨てする人たち、つまり、人として最低限の常識も持ち合わせていないような人たちと比較して、当たり前のことをしてるだけの自分のことを「立派な人」だと思い込んでることこそが、大きなカン違いなのだ。

そして、「自分の犬のウンチを拾う」っていう当たり前のことができるこ当たり前の人たちが、自分の目の前にある他人の犬のウンチに対しては、見て見ぬふりをしてそのまま立ち去ってく。こうした人たちが増えて来たのは、コイズミと竹中平蔵が推進した「市場原理主義」によって、「自分さえ良ければ他人なんてどうでもいい」っていう風潮が広まったことと、口をひらけば「説明責任」だの「責任の所在」だのって連呼するアメリカ型の考え方が蔓延したことが原因だと思う。

‥‥そんなワケで、あたしは、アメリカ型の合理的な考え方も理解できるし、自分のゴミしか片づけない人たちの理屈も理解できるんだけど、やっぱり、あたしの場合は、自分がゴミを捨てる時に、手の届く範囲に誰かのゴミがあれば、何も考えずに一緒に片づける。そのゴミを捨てた人のマナーや人格に文句を言うヒマがあるのなら、その前に拾ってゴミ箱に捨てる。そのほうが、グダグダと理屈をこねてるよりもメンドクサクないからだ。だって、誰がどんな理由で捨てたとしても、そのゴミはゴミであって、それ以上でも以下でもないからだ。自分がゴミを捨てる時に、目の前に他のゴミがあれば、極めて自然な行動として、ついでに拾って、ついでにゴミ箱に捨てる。こんな当たり前のことをするのに、理由なんていらないと思ってるし、こんな当たり前のことすらできない大人が増殖した来たことは、ホントに悲しいことだと思う今日この頃なのだ。


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