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2010.01.01

寅さんの啖呵

皆さん、明けましておめでとうございまっくす♪‥‥ってワケで、ゆうべ、1年のシメククリを書こうと思ってたんだけど、久しぶりに大晦日にお仕事をお休みにしたので、夕方から母さんと一緒に過ごしてて、一緒に年越しそばを食べたり、一緒に登別カルルスの年湯に入ったり、お風呂上りに母さんにマッサージしてあげたり、なんやかんやで、TOKYO FMを聴いてるうちに、気がついたら2010年になってた(笑)‥‥ってことで、まずは、今年の「歳旦三つ物」を披露しちゃう。

 

 

 歳旦三つ物

 

 寅さんの啖呵きこゆる恵方かな

 

 競馬とんとん歌留多そこそこ

 

 山さくら風は天へと昇るらむ

 

 きっこ

 

 

毎年のことだけど、大晦日のテレビは、「ドラえもん」くらいしか見たいと思う番組がないのに、その「ドラえもん」も、今の変な声の人に代わってからは、ぜんぜん見なくなった。やっぱり、子供のころからずっと見て来た「ドラえもん」と声が違うから、違和感がありすぎて、どうしてもナジメないからだ。「サザエさん」の場合は、カツオやワカメの声が変わっても、似た声のタイプの人に代わるから、しばらく見てるうちに慣れて来る。だけど、「ドラえもん」の場合は、まったく違う声の人に代わっちゃったから、1年経っても2年経ってもぜんぜん慣れて来ない。それで、ゆうべは、TOKYO FMを聴きながら、母さんと花札で「こいこい」をしたり、「しりとり俳句」をしたり、「歳旦三つ物」を詠んだりして遊んでた今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?

 

 

‥‥そんなワケで、新年の幕開けを彩る「歳旦三つ物(さいたんみつもの)」は、俳句や連句をやってない人にはリトル難しい決まりごとがある。最初の五七五の「発句(ほっく)」は、新年の季語を入れて、「や」「けり」「かな」のどれかの切れ字を使う‥‥とか、2番目の七七の「脇」は、新年の季語を入れて、最後を体言止めにする‥‥とか、最後の五七五の「第三」は、春の季語を入れるか無季にして、最後を「て」「に」「にて」「らむ」「もなし」のどれかで止める‥‥とかだ。詳しいことは、2006年1月2日の日記、「歳旦三つ物」に書いてあるけど、新しい年を迎えるのにピッタリの楽しい遊びだ。

 

で、自分の句の意味を解説するのって、俳句や連句の世界では「もっとも恥ずかしいこと」なんだけど、「センター試験」を目前にして、お正月をお正月気分で過ごしてない受験生のために、今日は、あたしの詠んだ「歳旦三つ物」を解説しちゃう。これを読めば、「古文」の点数がチョコっと上がるかもしれないので、サラッと読み流して欲しい‥‥ってことで、まずは「発句」の「寅さんの啖呵きこゆる恵方かな」についてだ。

 

「寅さん」てのは、もちろん、今年が「寅年」だから登場してもらったワケだけど、「啖呵(たんか)」ってのは、「てやんでえ、べらぼうめ!すっとこどっこい、おとついきやがれってんだ!」って啖呵を切ってるワケじゃない。寅さんの商売である「啖呵売(たんかばい)」の口上(こうじょう)が聞えて来たってワケだ。つまり、例の「けっこう毛だらけ猫灰だらけ、ケツのまわりはクソだらけ」ってヤツだ。ちなみに、「啖呵売」については、2004年11月18日の日記、「七味唐辛子売り」に詳しく書いてるし、あたしの考えた口上も紹介してるので、興味のある人は読んでみてちゃぶだい。

 

これで、「寅さんの啖呵」までは分かったと思うけど、続いての「きこゆる」は、「聞こゆる」ってことで、ここがこの句のポイントになってる。現代語で「聞こえる」にしちゃうと、ただ単に「聞こえる」ってだけで、味もソッケもない上に、死んだ寅さんの声が聞こえて来るワケはないんだから、ウソになっちゃう。その上、「蛇足」にもなっちゃう。俳句は、言わなくても伝わる言葉はすべて削るのが基本だから、俳句を詠んでる時の脳内には、レンホーを始めとした仕分け人たちが勢ぞろいしてて、ムダな言葉を徹底的に削減してる。

 

たとえば、「犬がわんわんと吠えた」って文章があれば、イの一番に「吠えた」を削る。動詞は「状況を説明するためのもの」で、俳句は「説明を嫌う」から、まずは「動詞を削る」ってことが基本になる。「犬がわんわん」だけでも、吠えてることは十分に伝わるだろう。つまり、「寅さんの啖呵」だけで、「聞こえる」は言わなくてもいい言葉ってことになる。だから、現代語で「寅さんの啖呵きこえる恵方かな」って詠んだとしたら、とても皆さんに披露できるようなレベルの句じゃなくなっちゃう。

 

じゃあ、何で「きこゆる」ならOKなのかっていうと、この表現なら、「詠嘆」が加味されるからだ。現代の「聞こえる」は、「聞こえ/聞こえ/聞こえる/聞こえる/聞こえれば/聞こえろ」って、ぜんぶ「え」になってる一段活用で、ただ単に状況を説明するだけの動詞でしかない。でも、昔の「聞こゆる」は、「聞こえ/聞こえ/聞こゆ/聞こゆる/聞こゆれ/聞こえよ」って、「え」と「ゆ」の二段活用になってる。ヤ行の下二段活用だ。そして、ただ単に「耳に音が聞こえた」っていう意味だけじゃなくて、「ああ、聞こえてきたなあ‥‥」っていう「詠嘆」の意味も含まれてる。だから、実際には聞こえなくても、「心に聞こえた」って感じの表現にも使われる。

 

あたしが「きこゆる」ってひらがなにしたのは、漢字で書くよりも「ほのか」にしたかったからだ。俳句では、おんなじ言葉でも、漢字で書くと強調されて、ひらがなで書くと弱くなる。つまり、ひらがなで書くことによって、実際に聞こえたんじゃなくて、「心に聞こえた」とか「聞こえたような気がした」とかってイメージにしたかったワケだ。それから、正式に縦書きにした時の視覚的なバランスも考えてる。「啖呵聞こゆる」って書いちゃうと、漢字が連続することによって、「啖呵」って単語が引き立たなくなっちゃうのだ。

 

そして、最後の「恵方(えほう)」が、新年の季語だ。セブンイレブンでも「恵方巻き」を売るようになったから、この言葉もメジャーになって来たみたいだけど、その年の神様がやって来る方角のことだ。今年は「寅年」だけど、これは、干支(えと)を構成してる「十二支(じゅうにし)」のほうが「寅」だってことで、「十干(じっかん)」のほうは「庚(かのえ)」になる。だから、今年の干支は「庚寅(かのえとら)」ってワケで、恵方は「西南西」になる‥‥ってことで、発句の「寅さんの啖呵きこゆる恵方かな」は、「どこか遠くで寅さんの口上が聞こえるような気がして、ふと、その方向を見たら、今年の恵方だった」って意味になる。

 

‥‥そんなワケで、「脇」の「競馬とんとん歌留多そこそこ」は、ホントは、「花札とんとん歌留多そこそこ」にしたかった。実際に、母さんと花札で「こいこい」をして遊んだからだ。だけど、そうすると「字余り」になっちゃうので、去年は競馬を覚えて楽しんだことから、ここは「競馬」にした。ただ、これでも、発句に「トラ」が登場して、脇に「ウマ」が登場して、動物が重複しちゃうっていう傷になる。だけど、発句の「寅さん」は、動物のトラじゃないので、連句的にはギリギリセーフだし、「歳旦三つ物」の場合には、発句と脇とをベッタリ寄り添わせるっていう決まりがあるので、多少は許される。

 

それに、「字余り」じゃなかったとしても、脇に「花札」を登場させちゃうと、第三の「さくら」と重複しちゃうから、これは大問題だ。脇と第三とは大きく離さないとNGなので、もしも脇に「花札」を登場させるのなら、第三はぜんぜん違う句を詠まなきゃならなくなる。そうなると、「寅さん」と「さくら」でマトメたかったあたしのモクロミがオジャンになっちゃうから、ここは多少の傷を負っても「競馬」にしてみたってワケだ。

 

で、新年の季語は「歌留多(かるた)」なんだけど、「歌留多そこそこ」ってのは、歌留多の勝負の結果がそこそこだったって意味だけじゃない。「歌留多」といえば、「恋歌留多」なんてのもあるように、「恋」って本意を内蔵してるから、「恋愛もそこそこ」って意味になる。歌留多の札に隠して、寅さんの思いを底流させてみたワケだ。そして、前半の「競馬とんとん」で、「負け続けるギャンブルみたいな寅さんの恋愛だけど、最後にはリリーと結ばれてトントンになった」っていう流れを含ませてみた。

 

そして、「第三」の「山さくら風は天へと昇るらむ」で、発句と脇の「人事」の世界から、「自然」の景へと大きく飛躍させた。「山さくら」は、ホントは「山桜」って書くべきだし、ひらがなで書くなら「ざくら」って濁音にならなきゃいけないんだけど、どうしても妹の「さくら」を詠み込みたかったので、ちょっとインチキをした。「釣りバカ日誌」のハマちゃんが、「ハマザキ君」って呼ばれるたびに、「私はハマザキじゃなくてハマサキです!濁らないんです!」って言ってるから、その方式を使わせてもらって、「ヤマサクラ」にさせてもらった。

 

あたしは、何よりも「梅」が大好きなので、一気に咲いて一気に散る「桜」は嫌いだ。だけど、それは、「染井吉野」を始めとした観賞用の品種が嫌いなだけで、長く愛でることができる「山桜」は好きだ。もともとは、「花」と言えば「梅」のことで、それが、平安時代に「山桜」のことになり、ずっとして「観賞用の桜」のことになったんだけど、あたしは、「花」と言えば「山桜」のことを指してた時代の歌が一番好きだ。

 

そんなこんなで、その「山桜」を背景にして「風は天へと昇るらむ」ってワケだけど、これは、渥美清さんが俳句を詠む時の俳号だった「風天(ふうてん)」を詠み込んだ。つまり、表面上の意味は、発句と脇の流れから大きく飛躍した第三だけど、「さくら」や「風天」でシッカリと繋がってるってワケだ。そして、この句のポイントは、最後の「昇るらむ」にある。

 

「らむ」ってのは、志葉玲さんの奥さんの増山麗奈さんがデモ行進をする時のコスプレのことじゃなくて、推量の助動詞だ。「見ゆらむ」なら「見えるだろう」、「昇るらむ」なら「昇るだろう」って意味で、自分が実際に見たワケじゃなくて、人から聞いたり想像したりして「推量」してることになる。さらに言えば、この「らむ」は「現在推量」なので、「今」のことになる。つまり、作者であるあたしは、山桜の咲いてる場所にいるワケじゃなくて、自分のお家とかにいて、その場所のことを思い浮かべてるってことなのだ。

 

あたしは、東京にいて、街の桜並木とかを見ながら、山桜のことを思い浮かべてる。谷から山肌に沿って風が空へと吹き上げて、その中にわずかな山桜の花びらも舞い上がってくって景を思い浮かべながら、かつて、和歌に詠まれた山桜の世界を楽しんでる。これが、表面上の意味で、そこに、天国へ行った寅さんのもとに、いつか妹のさくらも昇ってって、雲の上で再会するんだろうな‥‥って意味を含ませてる。

 

 

 ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ  紀友則

 

 

「百人一首」でオナジミの歌だけど、この「散るらむ」の「らむ」もおんなじだ。友則自身は、山桜を見てるワケじゃなくて、自分のお家かどこかにいて、久しぶりに穏やかになった暖かい春の日差しを感じてる。そして、「今ごろ、山の桜も散ってるだろうな」って想像してるワケだ。そして、それは、しばらく前に誰かから「吉野の山の桜が咲いてますよ」って話を聞いたか、2~3日前に誰かから「吉野の山の桜が散り始めましたよ」って話を聞いたからだ。どうして、そんなことが分かるのかっていうと、この「らむ」は、「らむ」っていう連体形で用いた場合には、「伝聞による現在推量」になるからだ。つまり、単なる空想じゃなくて、誰かから聞いた話を元にして、現在の状況を想像してるってことになる。

 

‥‥そんなワケで、こうした想像上のこと言う場合には、現代語よりも古語のほうが遥かに優秀だ。推量の助動詞1つを見ても、ここからジョジョに奇妙にお勉強モードになってくけど、この「らむ」の他に、「む」「けむ」「らし」「めり」「なり」「まし」「べし」「べらなり」って、たくさんの推量の助動詞があって、どれもビミョ~にニュアンスが違ってる。「けむ」は毛虫の「ケムンパス」、「べし」はカエルの「べし」、「べらなり」はクマの「ベラマッチャ」‥‥じゃなくて、みんなちゃんとしたニポン語だ。

 

たとえば、「む」は、推量に「自分の意思」や「希望」がブラスされるから、「そうなったらいいな」って感じのニュアンスになる。だから、「明日は風邪をひきそうだ」とか「試験に落ちそうだ」とかっていう悪い出来事には使わない。さっき、「らむ」は「伝聞による現在推量」って書いたけど、この「らむ」の過去形が「けむ」で、「伝聞による過去推量」ってことになる。分かりやすく例をあげると、「散るらむ」は「散っているだろう」で、「散りけむ」は「散っていただろう」ってことだ。

 

一方、「らし」の場合は、目の前で起こってることを見て、その結果を推量する場合に使う。たとえば、目の前に山桜が咲いてて、花の時期も終わりに近づいてて、今にも散りそうだって思った時に、「散るらし」って使う。そして、この「らし」とおんなじように自分が見てることでも、もっと傍観的に使うのが「めり」だ。桜が散ることに対して、それほど思い入れもなく、フクダちゃんのように「他人ゴト」みたいな感じで、「もうじき散るだろうな」ってのが「散るめり」だ。

 

つまり、「む」は自分の「希望」による推量で、「らむ」と「けむ」は「伝聞」による推量で、「らし」と「めり」は「視覚情報」による推量ってワケだけど、続いての「なり」は、「聴覚情報」による推量になる。たとえば、自分はお部屋の中にいて、強い風の音を聞いた時に、「こんなに強い風が吹いたから、きっと山の桜は散っただろうな」って思ったら、「散るなり」ってことになる‥‥ってワケで、ここからは、もっと複雑になってくんだけど、最初の「む」が自分の「希望」だったのに対して、「まし」の場合は、「もしも○○だったら××になるだろう」ってふうに、もっと具体的になる。これは、「~ば、~まし」っていうセットで使うんだけど、例をあげると、「古今集」にこんな歌がある。

 

 

 命だに心にかなふものならば何か別れの悲しからまし  白女(しろめ)

 

 

「もしも私の命が私の思い通りになるのなら、(いつかまた会えるのだから)、あなたとの別れも悲しくないわ」って意味のとっても切ない歌だ。「もしも自分の命をコントロールできて、何があっても死なずに済むことができたのならば」っていう「ムリな仮定」を前提として、「恋人との別れも悲しくないだろう」ってことを推量してるんだから、ホントはものすごく悲しいのだ。もちろん、「ムリな仮定」じゃなくて、現実的に可能な仮定でも使われる文法なので、最後が「まし」で終わってる和歌が出題されたら、まずは前半の「ば」で終わってる部分を探して、その「ば」までが「仮定」、そのあとの「まし」までが「推量」ってふうに読めばいい。そして、もしも「ば」がなかったら、「は」の場合もあるので、「ば」か「は」を探せばいい。

 

そして、続いての「べし」は、今でも、オードリーの春日が「行くべし!」とかって使ってるから、面白がって使ってる子供もいそうだけど、春日の根拠のない自信を見ても分かるように、推量は推量でも「そうなるのが当然だ」っていう強い意思が働いてる。そして、この「べし」の「べ」に接尾語の「ら」と助動詞の「なり」を合体ロボさせたのが「べらなり」で、これは、誰かが「そうなるのが当然だ」と思って推量してる様子を第三者的に見てる自分が「~するそうだ」って感じで使う。

 

‥‥そんなワケで、昔は、こんなにたくさんあった推量の助動詞だけど、この中で、現代語でも使われてるのって、「らし」が変化した「らしい」だけだ。そして、その意味も、昔は「自分が実際に見たことの先を推量する」っていうピンポイントな使い方だったのに対して、現代では、人から聞いたことでも、自分が想像したことでも、ナンでもカンでも「~らしい」だけで済ませちゃってる。時代の流れや人口の増加に合わせて、言語を単純化してく必要性も理解できるけど、あたしは、あまりにもフランク・ザッパだと思う。そして、こうしたニポン語特有のビミョ~なニュアンスを表現する言葉が消えてくのと一緒に、ニポン人特有のビミョ~な感性も消えてくように感じてる。だから、あたしは、「古文」だけじゃなくて、「俳句」や「和歌」も義務教育でキチンと教えるようにして、すべてのニポン人が、ちゃんとした古語を使った俳句や和歌を日常的に詠むようになればいいのにな‥‥って、現代語にはない「希望を含んだ推量」で願ってる今日この頃なのだ(笑)

 

 

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