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2010.02.03

雪を詠む心

朝、カーテンを開けると、そこは一面の銀世界だった‥‥なんて、タマには純文学チックに書き出したいとこなんだけど、深夜の1時過ぎにゴミを出しに行った時に、すでに積もり始めてる雪を見てたから、朝になってカーテンを開けても、あたしは別に驚かなかった。でも、久しぶりの雪景色は新鮮だったので、あたしは、寒さも忘れて、ベランダのガラス戸を全開にして、深呼吸してみた。そしたら、やっぱり、乳首がキューッと痛くなるほど寒かった(笑)

 

とにかく、東京に、2年ぶりに雪が降った‥‥って言うか、2年ぶりに雪が積もったワケで、この2年、パラパラと雪がちらついたことは何回かあったけど、地面に積もったのは2年ぶりだった。そして、たかが1センチくらいの積雪なのにも関わらず、毎度のことながら、東京は大パニックになった。電車は運転見合わせや遅れが連発しちゃうし、道路はスリップした車が立ち往生してるし、挙句の果てには、会議室でも現場でも事件なんか起こってないのに、レインボーブリッジが封鎖されちゃった。

 

ま、あたしの場合は、ゲームは「ドラクエ」のほうが好きだけど、乗ってる車は「FF」なので、前輪駆動の利点を最大限に生かして、スイスイスイ~ッと植木等のようにお仕事に行ったワケだけど、それでも、お得意の抜け道は雪が積もってて危険だったから、渋滞してる大通りだけを走ってくしかなくて、いつもの2倍近くも時間が掛かっちゃった。でも、あたしは、久しぶりの雪だったから、運転中は、アチコチをキョロキョロしながら、俳句を詠んで楽しんでた。ただ、運転中はメモができないから、いい俳句が浮かんだ時には、ケータイのボイスレコーダー機能を使って、俳句を録音しとく。それで、あとから、それを聞きながら句帳に書き写すんだけど、自分の声を聴くのって、すごく変な気がする今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?

 

 

‥‥そんなワケで、あたしは、ラジオも音楽も流さずに、俳句を詠みながら運転してたワケだけど、1句浮かぶたびにケータイに向かって録音してたら、ボイスレコーダーの2分間のキャパが、アッと言う間にいっぱいになっちゃった。それで、信号待ちの時に、シューマッハでティッシュの箱にボールペンで書き写してたら、思いのほかバタバタしちゃって、こんなことなら、最初からボールペンで書いてればよかったと思った‥‥ってワケで、たくさん詠んだ中から、ちょっとだけご紹介♪

 

 

 一センチほど東京は雪の庭  きっこ

 

 ワイパーのモーター唸る雪景色  〃

 

 東京の雪がどすんとサンルーフ  〃

 

 びちやびちやと雪の駒沢通りかな  〃

 

 なべころ坂の雪けこぼ坂の雪  〃

 

 東京に春呼ぶ雪の積もりけり  〃

 

 

‥‥ってことで、「なべころ坂」と「けこぼ坂」は、目黒区にあるマイナーな坂の名前なので、ジモティーにしか分からないと思うけど、どっちも、足を滑らせて転んじゃいそうな名前の坂だ。で、こうした昔からある坂を通ると、「降る雪や明治は遠くなりにけり/中村草田男」のパロディーで、「降る雪や昭和も遠くなりにけり/きっこ」なんて詠みたくなっちゃうけど、たかが1センチくらいの雪で、こんなに何句も俳句を詠んじゃう自分が恐い。でも、メッタに雪なんか積もらない東京だからこそ、「たかが1センチ、されど1センチ」ってワケで、さらに言えば、「まさか1センチ、しかも1センチ」って感じなんだと思う。で、そんな東京の雪だけど、著名俳人の皆さまはどんなふうに詠んでるのかって言うと、こんな感じだ。

 

 

 東京の拙き雪を見舞はるる  正木ゆう子

 

 東京の雪ををかしく観て篭る  山形龍生

 

 東京の雪うぐひすを啼かしむる  黒田杏子

 

 東京を濡らしてゐたる牡丹雪  鈴木五鈴

 

 尾が生えるまで東京に春の雪  高野ムツオ

 

 

正木ゆう子さんは、暖かい熊本県の出身だけど、それでも東京の雪のことを「拙き雪」なんて表現してる上に、さすが、能村登四郎さんの指導を受けただけあって、「見舞はるる」なんてキレイにマトメちゃってる。一方、雪深い青森県の山形龍生さんは、こんなちょっとの雪で大騒ぎしてる東京の人たちのことを「をかしく観て」る。そして、東京生まれの黒田杏子(ももこ)さんは、立春が近くなって降った東京の雪が、「ケキョ‥‥ケキョ‥‥」って「笹鳴き」だったウグイスをちゃんと「ホーホケキョ」って鳴かせてくれたって詠んでる。それから、鈴木五鈴さんは、藤田あけ烏さんを師系に持つだけあって、本来は「積もる」はずの「牡丹雪」なのに、車や人の多い東京ならではの景を的確に捉えつつ、エロチックに仕上げてる。

 

だけど、こうした写生句よりも、あたしは、最後に挙げた高野ムツオさんの句が、この中だと一番好きだ。高野ムツオさんは、あたしの大好きな佐藤鬼房さんの直弟子で、鬼房さんが亡くなられたあと、俳句結社「小熊座」の主宰を継いだんだけど、鬼房さんの心をミゴトに受け継いでる素晴らしい俳人だ。ハッキリ言って、あたしのやってる客観写生とは俳句のジャンルが違うんだけど、あたしが最終的に目指してる「写生を超えた写生」のひとつの形を見せてくれてる数少ないケースでもある。

 

 

 やませ来るいたちのやうにしなやかに  佐藤鬼房

 

 

あたしは、この句を読んだ瞬間に、全身がシビレまくって、トロトロになっちゃった。本来、「~のように」とか「~のごとく」とかって見立ての句は大嫌いなんだけど、この句は違った。あまりにもステキで、まさしく「ひと目惚れ」しちゃった。「やませ」は、その年の作物を凶作にする縁起の悪い風なのに、その「やませ」が、なだらかな山々を舐めるようにして迫って来る美しさと淫靡さに、まるで宮崎アニメのような世界観を感じちゃった。そして、こんなにも素晴らしい見立ての句を知っちゃったから、あたしは、今まで以上に、見立ての句は詠めなくなった。これ以上の見立てを思いつかなかったら、詠む意味がないと思ったからだ。

 

 

 吐瀉(としゃ)のたび身内をミカドアゲハ過ぐ  佐藤鬼房

 

 

一方、こっちの句は、あたしが実践してる俳句とは違う。鬼房さんが重い病気で入院してる時に、嘔吐するたびに、自分の体の中をミカドアゲハの群れが通り過ぎてくように感じた‥‥って句意で、あたしの俳句だと、この「ミカドアゲハ」は季語にはならない。でも、「ミカドアゲハ」は、四国や九州から東南アジアにかけて分布してるチョウチョなので、鬼房さんは、苦しんで嘔吐するたびに、戦争で行かされた南方の島の熱帯雨林で見た「ミカドアゲハ」の幻影を自分の体内に感じたんじゃないか?‥‥って解釈すると、何とも言えないリアリティーが迫って来て、この句は、「季語を超えた季語」を用いた「写生を超えた写生」なんじゃないかって思えて来る。

 

そして、そんな鬼房さんの指導を受けた高野ムツオさんも、「哲学的わが週末のあめふらし/高野ムツオ」とか、「沖縄の陽ざしに素手で殴られる/高野ムツオ」とか、俳句と詩の間(はざま)のリトル攝津幸彦寄りって感じの作品を詠む俳人なので、鑑賞は読み手にすべて委ねられる。今回の「春の雪」の句なら、前半の「尾が生えるまで」をどう読むかに掛かってるんだけど、あたしの場合は、「退化」って解釈した。

 

 

 尾が生えるまで東京に春の雪  高野ムツオ

 

 

立春を過ぎて、暦はもう春になっても、まだまだ寒い。だから、まだコタツも出てるワケで、立春を過ぎても出てるコタツのことを俳句では「春炬燵(はるごたつ)」って呼ぶ。で、そんな春炬燵に入ってウトウトしてると、何だか自分が退化してくような気がして来て、そのうち「尾てい骨」から尻尾が生えてきちゃうんじゃんないかって思えて来た。ふと、窓の外を見ると、いつの間にか雪が降り始めてた。どうりで寒かったワケだ‥‥ってふうになる。

‥‥そんなワケで、おんなじ東京に降る雪でも、人それぞれ、いろんな詠み方があるワケだけど、こんな句を詠んでる人もいる。

 

 

 降る雪や厠(かわや)が近くなりにけり  仁平勝

 

 

これは、もちろん、最初に挙げた「降る雪や明治は遠くなりにけり/中村草田男」の本歌どりだけど、この句がどうして東京の句なのかって言うと、「東京物語」っていう句集に収められてるからだ。ま、仁平勝さんの句を引いたのは、さっきの攝津幸彦さんつながりってことだけじゃなくて、この「降る雪」にスポットを当てたいと思ったからだ。

 

俳句では、強調したい言葉や詠嘆を与えたい言葉に「や」っていう「切れ字」を用いるので、似たような表現でも、「降る雪や」と「雪降るや」では大きく違って来る。「降る雪や」のほうは、「雪」っていう名詞に「や」が接続されてるから、「降り続く雪」っていう「モノ」に焦点を当ててる。そして、「雪降るや」のほうは、「降る」っていう動詞に「や」が接続されてるから、「雪が降り続いてる」っていう「状況」に焦点を当ててる。だから、似たように見えても、1句を通したイメージは大きく違って来る。

 

で、「降り続く雪」っていう「モノ」に焦点を当ててる「降る雪や」だけど、最初の「降る雪や明治は遠くなりにけり/中村草田男」について説明すると、「や」と「けり」っていう強い「切れ字」を重複して使ってるっていう俳句のタブーについて説明しなきゃなんないし、そのためには、「係り結び」とか「抱え字」とかの説明もしなきゃなんなくて、それだけで1000文字くらい必要だから、今回はスルーさせてもらうとして、「降る雪」と言えば、こんな句がある。

 

 

 降る雪や玉のごとくにランプ拭く  飯田蛇笏

 

 降る雪やここに酒売る灯をかかげ  鈴木真砂女

 

 降る雪よ今宵ばかりは積れかし  夏目漱石

 

 

飯田蛇笏(だこつ)さんは、あたしの大好きな飯田龍太さんのお父さんで、山々に囲まれた山梨県の俳人だし、時代からしても、ランプは生活必需品だったと思う。だから、雪がシンシンと降り積もる小屋の中で、大切なランプを磨いてたんだろう。とっても生活に密着した句だ。ちなみに、蛇笏さんは、5人の息子さんに恵まれたのに、そのうちの1人を病気で亡くし、2人を戦争で亡くした。そして、残った2人のうちの1人、龍太さんが俳句結社を継いだんだけど、その龍太さんも、3年前の2007年2月25日に、86才で亡くなられた。

 

あたしは、今から十数年前に、龍太さんに会いに山梨のご実家まで行ったことがあるんだけど、龍太さんはセブンスターを吸ってて、「あたしもセブンスターなんです!」って言ったら、「あんたも吸いなさい」って言われて、1本いただいたことがある。飯田龍太さんからセブンスターをもらって吸ったなんて、ちょっとした自慢だ‥‥って、これはダッフンしちゃったけど、とにかく、あたしは、飯田蛇笏さんが住んでた飯田龍太さんのお家に行ったことがあるって話だ。

 

そして、銀座の路地裏で飲み屋さんをやってた鈴木真砂女さんも、自分の生活に密着した句を詠んでるけど、この句は、「東京の雪」ってよりも、「銀座の雪」って捉えたほうがシックリ来ると思う。で、またまた自慢話になっちゃうけど、あたしは、真砂女さんにもお会いしたことがある‥‥って言うか、これまた自分から会いに行ったんだけど、銀座の並木通りのプランタンの先に、「幸(さいわい)稲荷」っていうちっちゃなお稲荷さんがあって、前足の間に子狐をはさんでる可愛いお狐さまがいる。そして、そこの細い路地を入ったとこに、真砂女さんのお店、「卯波」があった。あたしは、握手してもらって、一緒に写真も撮らせていただいた。だけど、そんな真砂女さんも、7年前の2003年3月14日に、96才で亡くなられた。

 

そして、お次は、サスガのあたしも会ったことがない夏目漱石の句だけど、会ったことがないからってだけじゃなくて、やっぱり「夏目漱石さん」て書くのは変だから、夏目漱石だけは呼び捨てで行く。夏目漱石の句は、蛇笏さんや真砂女さんの句と違って、「降る雪よ」になってるけど、これは、「や」よりも深い詠嘆を表わしてる。何でかって言うと、そのあとに続く「今宵ばかりは積れかし」に理由がある。「積れかし」の「かし」は、強意の終助詞で、「そうあって欲しい」って意味なので、これは、「今夜だけは積もって欲しい」って意味なんだけど、この句は、戦国時代の尼子家の剣豪、山中鹿之助(山中幸盛)の次の歌を下敷きにしてる。

 

 

 憂き事のなほこの上に積れかし限りある身の力ためさん  山中鹿之助

 

 

「私にはつらいことが山積みだけど、もっと多くの困難を積み重ねて欲しい。自分の力を試すために」って感じの意味で、「武士道」の心得にもなってる名言だ。そして、漱石は、この歌を下敷きにして、ホントなら、あんまり積もると困る雪なのに、あえて「降る雪よ」って詠嘆を込めて呼び、「もっと積もって欲しい」って言ってるのだ。あたしは、この句を詠んだ時の漱石の背景を知らないから、鬼房さんみたいに実際に病気か何かでつらい思いをしてたのか、それとも、想像だけで詠んだのかは分からないけど、本歌どりの本意をそれなりに実践してて、俳句を教えてもらってた正岡子規の客観写生とは一線を画した「遊び心」のある句だと思った。

 

だけど、正岡子規にしたって、今でこそ「客観写生の元祖」的な位置づけで見られてるけど、「いくたびも雪の深さをたづねけり/正岡子規」なんていう正統派の名句だけじゃなくて、こんな「遊び心」も持ってたのだ。

 

 

 御降りの雪にならぬも面白き  正岡子規

 

 

「御降り(おさがり)」ってのは、お元日から三が日の間に降る雪や雨のことだけど、雨よりも雪のほうがおめでたい。それが、雪になるほど寒かったのに、残念ながら、雪にはならなかった。それなのに、それを「面白き」って捉えてるのだ。だけど、この句は、それだけじゃない。松尾芭蕉の次の句を下敷きにしてるのだ。

 

 

 面白し雪にやならん冬の雨  松尾芭蕉

 

 

子規は、この句を下敷きにして、「芭蕉は単なる冬の雨を面白がったが、私は正月の御降りを面白がってやろう」っていうイタズラっ子みたいな発想をしてるのだ。なんてステキな感性なんだろう。そして、そんな子規から俳句を教わってた漱石はと言えば、こんな句を詠んでる。

 

 

 面白し雪の中より出る蘇鉄  夏目漱石

 

 

雪の中からツンツンと出てる蘇鉄(そてつ)は、そりゃあ面白いとは思うけど、この景は写生なんだから、「面白し」なんて主観を言ったらNGだ。こういう駄句を見ると、やっぱり漱石は、俳句よりも小説を目指して正解だったと思う(笑)‥‥ってワケで、漱石に負けず劣らず、子規だって駄句を連発してる。

 

 

 雪の跡さては酒屋か豆腐屋か  正岡子規

 

 雪ふりや源左衞門は大もうけ  〃

 

 白猫の行方わからず雪の朝  〃

 

 雪ふりや棟の白猫声ばかり  〃

 

 傾城曰く帰らしやんすかこの雪に  〃

 

 

どの句もギャグそのもので、とても「いくたびも雪の深さをたづねけり」とおんなじ作者とは思えないけど、そんな子規は、「元禄四俳女」の1人に、「雪の朝二の字二の字の下駄のあと」って句をわずか6才の時によんだ田捨女(でん すてじょ)の名前を挙げてる。つまり、この1句目のヘンテコな句は、そんな捨女の代表句を下敷きにして、「雪の上の二の字二の字の下駄のあとは、酒屋なのか、はたまた豆腐屋なのか」って詠んでるワケだ。そして、2句目は、この「源左衞門」がどんな商売わしてるのか分からないけど、雪が降ると儲かる商売なんだから、防寒関係とか、長靴関係とか、暖房関係とか、そんなとこなんだろう。

 

ま、この辺まではシャレで済むけど、次の2句は最悪だ。雪が降って一面の銀世界になったから、白猫はどこにいるのか分からなくなった。「声はすれども姿は見えず」って、おいおいおいおいおーーーーい! いくら「雪」のお題で即吟大会をやった時の「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」的な句だとは言え、天下の正岡子規が、こんな「おーいお茶」のペットボトルに書いてあるような句なんか詠むなよな!

 

そして、子規は、最後の句で、とうとう脳みそがスキャナーズしちゃったみたいだ。「傾城(けいせい)」ってのは、「傾城傾国(けいせいけいこく)」の略で、ようするに、お城が傾いたり国が傾いたりするって意味で、それが転じて、その国の君主が、マツリゴトをホッタラカシにして夢中になるほどの絶世の美女のことを指す言葉だ。つまり、この句は、絶世の美女のとこに遊びに行って、さんざん楽しんだから帰ろうとしたら、「帰りやんすか?こんなに雪が降っているのに」って引止められちゃったって言ってるワケだ。天下の正岡子規が、俳句の海の親の正岡子規が、客観写生を提唱した正岡子規が、あたしのリスペクトしてる正岡子規が、オーマイガーッ!!(笑)

 

‥‥そんなワケで、久しぶりに俳句のことを書いてたら、次から次に書きたいことが出てきちゃって、完全に着地点が分かんなくなっちゃったから、最後に、あたしの好きな「雪」の句を何句がご紹介して、終わりにしようと思う今日この頃なのだ。

 

 

 雪明り一切経を蔵したる  高野素十

 

 遺されて母が雪踏む雪あかり  飯田龍太

 

 馬もまた歯より衰ふ雪へ雪  宇佐美魚目

 

 ごみごみと降る雪ぞらの暖かさ  宮沢賢治

 

 猫歩む月光の雪かげの雪  橋本多佳子

 

 いつしかにヘッドライトの春の雪  波多野爽波

 

 ゆきふるといひしばかりの人しづか  室生犀星

 

 雪山に雪の降り居る夕(ゆうべ)かな  前田普羅

 

 さめざめと雪の峠になりゆくよ  野澤節子

 

 雪たのしわれにたてがみあればなほ  桂信子

 

 雪掻きし道を辿れば鯉生簀(こいいけす)  茨木和生

 

 松の雪落ちたる雪のくぼみけり  阪本謙二

 

 ぼたん雪目に入りて海近づきぬ  浦川聡子

 

 ほういほい鬼の子来るか雪来るか  奥坂まや

 

 遥かなる星を隔てて雪はげし  石田郷子

 

 昨日見た処(ところ)にはなし雪だるま  正岡子規

 

 

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