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2010.07.04

ありがとう、オグリキャップ

今日、7月3日、オグリキャップが亡くなった。放牧されてた北海道の優駿スタリオンステーションで、脚を骨折したために、安楽死させたそうだ。でも、満25歳、立派な大往生だったと思う。今から3年前の2007年には、メジロライアンのお父さんのアンバーシャダイが、やっぱり放牧中の骨折で安楽死させられたけど、アンバーシャダイは30歳だった。

競走馬の骨折は、主に体重が掛かる前脚に起こることが多い。500kg前後もある体重をあの細い4本の脚で支えてるから、全力疾走してる時には、1本の脚に何トンもの重さが掛かるそうだ。そして、小さなヒビや軽度の剥離骨折など、治療で治るような骨折もあるけど、粉砕骨折や開放骨折などの場合には、ほとんどは手の施しようがなくて、自然死するまで苦しませるよりは安楽死を選ぶことになるそうだ。

人によっては、「人間の都合で競馬なんかさせて、骨折したら安楽死だなんて酷すぎる!」って人もいると思うし、あたしにはあたしの考えがあるんだけど、今日は、オグリキャップが亡くなったことについて書いてくので、そうした動物愛護の観点からのホニャララについては、また別の機会に書きたいと思う。ただ、ひとつだけ言っときたいのは、競走馬の世話をしてる人たちは、みんな何よりも馬を愛してるから、誰も好んで安楽死なんてさせないってことだ。

今の医学じゃ治療できずに、自然死を待つしかないケース、そうした場合だけ、少しでも馬の苦しみを少なくするために、涙を飲んで安楽死させてる。だから、現役の競走馬の場合も、オグリキャップやアンバーシャダイのように引退後の場合も、治療できない骨折によって安楽死を余儀なくされた厩舎の人たちは、みんな、ホントにつらい思いをしてるってことを理解して欲しい。


‥‥そんなワケで、今日は、「いかがお過ごしですか?」はナシにしてくけど、あたしは、ちょうどオグリキャップが活躍してた時代に競馬中継を見てたので、オグリキャップのことはよく覚えてる。何でかって言うと、会えない父さんとの唯一の接点が、競馬だったからだ。あたしは、中学生になる前に、父さんと母さんが離婚して、おばあちゃんが亡くなって、母さんと2人で暮らすことになった。だけど、あまりにも悲しすぎるショックが2つも続いたのに、当時のあたしは、「あたしが母さんを支えなきゃ!」って思ってたから、自分の悲しみは表に出さずに、できる限り元気に振る舞ってた。

父さんと母さんは離婚したけど、毎年夏休みになると、父さんはあたしを海に連れてってくれた。あたしは何だか、母さんに申し訳ないような気持ちがして、母さんの前では嬉しさを顔に出さないようにしてたけど、ホントはとっても嬉しかった。そして、2006年10月3日の日記、「父さんのビール」に書いたけど、中学2年の夏休みを最後に、父さんとは会えなくなった。

でも、会えなくなっただけで、電話で話すことはできた。もちろん、父さんには新しい家庭があったから、あたしのほうから電話をすることはできなくて、月に一度くらい、父さんのほうから電話を掛けて来てくれるのを待ってるだけだった。父さんは、自宅からは電話しずらいみたいで、いつも夜の遅い時間に、公衆電話から掛けて来た。たくさん10円玉を用意して電話してくれるんだけど、途中でピーピー鳴って、慌てて10円玉を入れて、またピーピー鳴って、そんなことを何度か繰り返してるうちに、「ごめん。この10円が最後だ」って言われると、すごく寂しくなった。

あたしが父さんと電話で話してる間、母さんは、ずっとテレビを観ながらシランプリしてくれてたけど、あたしの話し声は完全に聞こえてるから、あたしは母さんに気を使って、あんまりはしゃいだり笑ったりできなかった。だから、別に悪いことをしてるワケじゃなかったのに、自然とヒソヒソと話すようになっちゃって、それがヨケイに父さんとの距離を縮めてたような気になってたのかもしれない。

競馬が好きな父さんは、必ず電話の最後に、「今度の天皇賞は○○が来るな」って感じで予想を言ってたから、あたしは、バイトがなくてテレビが見られる時には、いつも競馬中継を見て、父さんの予想した馬を応援してた。父さんの予想した馬が勝つと、「父さん、喜んでるだろうな」って思って、あたしも嬉しくなった。そして、父さんに会えなくても、おんなじレースを見てるってことで、一緒にいるような気分に浸ってた。

‥‥そんなワケで、中学2年の暮れのこと、その年の「有馬記念」の直前に、父さんから電話が掛かって来た。母さんは仕事から帰って来てなくて、あたしは冬休みでアパートにいたから、気兼ねなく話すことができた。それで、父さんは、電話の最期に、「今年の有馬記念はメリーナイスで決まりだな」って言ったので、事前に出走馬を調べといたあたしは、「あたしはスダホークだと思うよ」って言ったら、父さんは笑ってた。それまでは、父さんの予想した馬を応援するだけだったけど、競馬だけが父さんとあたしをつなげてくれてる糸だったから、少しでも深くつながりたいと思って、あたしなりに考えたことだった。

真っ白なスダホークは、父さんとの思い出のホワイトフォンテンの再来みたいで、あたしがスダホークを応援すれば、きっと父さんが帰って来てくれるって思えたのだ。まるで根拠のないトンチンカンな理由だけど、その時は、ホントにそう思ってた。だけど、テレビで「有馬記念」を見てたら、父さんの予想したメリーナイスは、スタートしてすぐに落馬しちゃったし、1番人気のサクラスターオーもケガしたみたいでおかしくなったし、大混乱のレースになって、人気のなかったメジロデュレンが1着になった。そして、あたしの応援してたスダホークは、ぜんぜんパッとしなかった。結局、父さんもあたしもハズレちゃったワケだけど、あたしは、父さんと一緒に競馬を観てる気分になれて、とっても嬉しかった。

そして、年が明けてからは、父さんから電話がなくても、大きなレースだけは、見られる時は見たし、見られなくても夜遅くに放送してた「競馬ダイジェスト」を見て、結果だけは把握するようになった。そうしておけば、次に父さんから電話があった時に、話題にできるからだ。それで、あたしは、西の「金杯」で1着になったタマモクロスを知った。最初は、あたしの好きな芦毛なのに、スダホークみたいに真っ白じゃなくて、全体的に灰色のマダラで、あんまり好きじゃなかった。だから、この年の春の「天皇賞」でも、あたしは、真っ白なスダホークのほうを応援してたんだけど、スダホークがパッとしなかったのに対して、タマモクロスは次元の違う走りで1着になった。

当時のあたしも、一応、芦毛の馬は年齢とともに白くなってくってことくらいは知ってたんだけど、やっぱり、真っ白で美しかったスダホークと比べると、灰色のマダラで汚らしい感じだったタマモクロスは、何だか「醜いアヒルの子」みたいに見えた。だから、逆に、見た目は汚らしい馬が、がんばって1着になったのがステキに見えて、ダンゼン好きになっちゃった。そして、この時から、あたしは、タマモクロスを応援するようになった。

‥‥そんなワケで、昔から「きっこの日記」を読んでる人なら知ってると思うけど、あたしは、小学校に上がる前に半年くらい入退院を繰り返してて、みんなよりも1年遅れて小学校に上がった。だから、それ以来、ずっと1年ズレてるワケで、この時、あたしは中学3年だったけど、実際は高校1年の年だった。で、タマモクロスが大好きになったあたしは、新聞配達で稼いだ大切なお金を2000円も使って、UFOキャッチャーでタマモクロスのぬいぐるみを取ったりもした。ちなみに、「みどりのマキバオー」って、このタマモクロスがモデルなんだよね。

で、あたしがタマモクロスを好きになり、父さんとの電話でもタマモクロスの話題を夢中になって話すようになったころ、そんなタマモクロスの前に現われたのが、そう、オグリキャップだった。おんなじ芦毛だってことと、地方競馬から中央へ上がって来た実力馬だってことで、この2頭が出走するレースは、「芦毛対決」とかって言われてた。そして、あたしがタマモクロスを応援してたのに対して、父さんはオグリキャップを応援してたから、タマモクロスとオグリキャップの「芦毛対決」は、あたしと父さんの対決でもあった。

灰色のマダラだったタマモクロスだけど、さらに灰色のマダラだったオグリキャップと一緒に走ると、若干、白っぽく見えるのが、あたしは嬉しかった。そして、「宝塚記念」でも勝ち、「芦毛対決」になった秋の「天皇賞」では、タマモクロスとオグリキャップがワンツーを決めた。あたしの応援してた馬と父さんの応援してた馬のワンツーは、ホントに嬉しかった。だけど、続いての「ジャパンカップ」では、外国馬のペイザバトラーが1着になり、タマモクロスは2着、オグリキャップは3着だった。そして、タマモクロスが引退レースに選んだ年末の「有馬記念」では、とうとうオグリキャップが1着になり、タマモクロスは2着に甘んじて引退したってワケだ。

あたしの大好きだったタマモクロスは、最初から1988年の「有馬記念」を引退レースに選んでたけど、形としては、ライバルのオグリキャップに引導を渡されて引退したみたいな感じになった。そして、引退後は、北海道の牧場で種牡馬として過ごしてたんだけど、今から7年前の2003年に、19歳の若さで、病気で亡くなった。一方、「有馬記念」でタマモクロスを破ったオグリキャップのほうは、翌89年の「ジャパンカップ」で、88年に1着になった外国馬のペイザバトラーを破り、ミゴトにリベンジを果たしたのだ。優勝こそニュージーランドのホーリックスに譲ったけど、最後にグングン追い上げてクビの差まで迫った2着で、自分のリベンジだけじゃなくて、タマモクロスのリベンジも果たしてくれたから、あたしは嬉しかった。そして、引退レースとなった翌90年の「有馬記念」でも、ミゴトに1着になって、有終の美を飾ったってワケだ。

‥‥そんなワケで、当時は、おんなじ芦毛だってことで、常にライバル視されてたタマモクロスとオグリキャップだったけど、88年の秋の「天皇賞」で、2番手から一気にトップに躍り出たタマモクロスと、中段からグイグイと追い込んで来たオグリキャップが、2頭で前後してゴールを走り抜けたシーンとか、その年の「有馬記念」で、中段から一気にトップに躍り出たオグリキャップと、最後方からアッと言う間に2着に上がって来たタマモクロスが、2頭で前後してゴールを走り抜けたシーンとかは、ライバルってよりも、とっても仲が良くて、とっても楽しそうに走ってるように見えた。これは、きっと、オグリキャップを父さんに、タマモクロスをあたしに、それぞれ投影させて見てたからだと思う。この2頭が走るレースを見て、あたしは、どんなに会いたくても会うことができなかった父さんと、心の中で一緒に思いっきり遊んでたんだと思う。だから、オグリキャップは、これからは天国でタマモクロスと一緒に、うんと楽しく走りまわって欲しいと思う。ありがとう、オグリキャップ。そして、ありがとう、タマモクロス。


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