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2010.07.05

続・ありがとう、オグリキャップ

昨日の日記に、亡くなったオグリキャップのことを書いたけど、当時、中学から高校時代に競馬中継を見てたあたしは、馬券を買ってたワケでもなく、競馬新聞を見て本格的に予想してたワケでもなく、ただ、会えない父さんとの共通の話題が欲しくて、大きなレースだけを気にかけて見たり、夜11時過ぎの「競馬ダイジェスト」を見たりしてただけだった。だから、記憶も曖昧だし、実際に競馬に夢中になってた人たちのような鮮烈な思い出はない。それで、ボンヤリした記憶だけで書くワケにはいかないので、一応、当時のレース結果とかを確認しつつ書いたんだけど、たくさんの人からツッコミのメールをいただいたので、そのうちの1通を紹介する。


件名:89年JCの結果の件
お名前:そうのパパ
コメント:本文中で、オグリキャップが89年のJCは1着と書かれていますが、当時の世界レコードを出したものの、ホーリックスに2着に敗れています。ご確認ください。前週のマイルCで、届かないと言われた位置から差して優勝し、連闘でJCに出走しました。このローテーションは物議をかもしました。


そうのパパさんを始め、同様のメールをくださった皆さん、どうもありがとうございました♪‥‥ってことで、実際に89年の「ジャパンカップ」の映像を探して見てみたら、皆さんの言う通り、オグリキャップは2着だった。前の年の「ジャパンカップ」で1着になったアメリカのペイザバトラーにはリベンジを果たしてるけど、1着はニュージーランドのホーリックスで、オグリキャップはグングンと追い上げたけど、クビの差で届かなくて2着になってた。あたしは、オグリキャップが凄い追い上げを見せてくれたことと、ペイザバトラーにリベンジを果たしたことしか覚えてなかったから、1着になったんだと思い込んでた。だから、昨日の日記の該当の部分を「2着」に訂正させていただいた今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、あたしは、ボンヤリとテレビを見てたから着順をカン違いしちゃったのかと思ったんだけど、どうやらそれだけでもないみたいだ。たとえば、去年の「エリザベス女王杯」にしても、あたしはテイエムプリキュアとブエナビスタを応援してたから、1着になったクィーンスプマンテのことよりも、2着になったテイエムプリキュアと3着になったブエナビスタのほうが印象に残ってる。だから、このまま10年とか20年とかが過ぎたら、あたしの記憶の中からクィーンスプマンテの名前は消えちゃって、1着がテイエムプリキュア、2着がブエナビスタってふうに思い込んじゃうかもしれない。

ま、これは、あたしの記憶力の問題ってよりも、お得意の妄想力の問題だと思うけど、人間の記憶には、こうしたことが多い。ようするに、コトガラの重要度よりも、自分にとって印象的な部分だけをクローズアップして記憶してるってパターンだ。たとえば、子供のころの記憶で、どこに遠足に行ったのかは覚えてないのに、「落としたおにぎりを拾おうとして土手から転げ落ちた」とかって、そこでの出来事だけを断片的に覚えてる人も多いと思う。

あたしの場合、幼稚園とか小学校の時に、父さんに連れられて競馬を観に行ったから、最初からレースの名前なんか分からないし、馬の名前すら分からない。ただ単に「白いお馬さんが1等賞になった!」ってことしか覚えてない。だから、幼稚園の時に府中競馬場で観た「AJC杯」でのホワイトフォンテンも、小学校低学年の時に府中競馬場で観た「金杯」でのシービークロスも、ずっと「白いお馬さんが1等賞になった!」ってことしか覚えてなかった。そして、中学生になってから、区立の図書館で「競馬年鑑」みたいな本を調べて、レースの名前や馬の名前を知ったってワケだ。

だから、あたしは、タマモクロスはテレビでしか観たことがなかったけど、シービークロスは実際に一度だけ競馬場で観てるワケで、それも、父さんとの数少ない大切な思い出のひとつだから、そんなこともあって、当時のあたしは、オグリキャップよりもタマモクロスを応援してたんだと思う。だから、オグリキャップやタマモクロスに関する記憶って、あたしなりに、いろんな複雑な思いも含んでる大切な記憶なんだけど、それでも、カンジンの着順をカン違いしてるようじゃ、やっぱり、お話にならない。特に、当時の名勝負の数々を手に汗握りながら観戦してた競馬ファンたちには、あたしのお粗末な思い出話じゃダッフンしちゃうと思う。

そこで、あたしは、全国の競馬ファンの皆さんのために、石川喬司先生にお願いして、オグリキャップに関する思い出をお聞きした。そしたら、石川先生は、ご自身の著作からの引用も含めて、当時の時代背景までもが見えて来る、とっても素晴らしいメールをくださった。


Date: Sun, 4 Jul 2010 11:08:33
From: "石川喬司"
Subject: オグリキャップのこと

先日、半村良の未刊行長編『僕らの青春』(河出書房新社)が送られてきて、「謹呈・著者」という栞が挟まれていました。思わず異世界へ誘い込まれたような気分になりました。これは高校野球を題材にした楽しい小説で、父親の急死で大学進学を断念せざるをえなかった彼の思いも隠し味になっています。「東京中日スポーツ」連載で、その連想から、オグリキャップの出走した有馬記念の観戦記を同紙に書いたことを思い出しました。調べてみると、『石川喬司競馬全集・第三巻』所収のエッセイ「HANAKOへの伝言」に採録されていましたので、その一部を引用してみます。

 「本場場入場の頃から雨脚が激しくなった。スタンド前に傘の波がひろがる。一昔前なら黒一色になるところだが、今は赤、緑、紫、黄など鮮やかな女柄が目立つ。これも時代の流れだろう。雨に煙る向こう正面の発走地点の背景には高層マンション群が並び、かつて「トラ、トラ、トラ」の暗号を発した名物の無線鉄塔は跡形もない。
 ふと頭に昭和四十八年の有馬記念が蘇った。このときも雨で、向こう正面は夕暮れのようにモヤで霞んでいた。そしてお互いに牽制しあうハイセイコーとタニノチカラを尻目に無印のストロングエイトが逃げ切り、万馬券になった。

(中略)

 レースが始まると、スタンド前の傘の波は色とりどりのレジャー着の波に一変した。後ろの人が見やすいように自発的に次々に傘が畳まれていたらしい。これまでの競馬場では考えられなかった光景である。熱狂した若者たちは、大粒の雨も忘れて、自分たちの選んだベストテン馬の疾走に魅入られている。ゴール前、坂下で力尽きたオグリを交わして、武スーパーが躍り出た。とそこへ満を持した柴田のイナリワンが襲いかかった。

(中略) 

 それにしても可哀想なのは、JC(ジャパンカップ)激走の疲れがついに出てしまったオグリキャップである。怪物と呼ばれた彼も、やはりデリケートな生理を持つ生物だったのだ。
 80年代、ぼくらはミスターシービー、シンボリルドルフという二頭の三冠馬に出会うことができた。オグリキャップもまたこれらの名馬に劣らぬ不世出の優駿であることは間違いない。超模範生ルドルフが豊かな安定成長時代のシンボルだったとすれば、疾風王シービーは追いつけ追い越せのモーレツ時代の残光だった。オグリキャップは、より以上に戦後日本の急成長を支えた働き蜂オジサンのひたむきさの典型だったといえるだろう。

 直線入り口で行き場を失いゴール前猛然と追い込んできた天皇賞、両親から受け継いだ血統から来る距離の壁を克服して根性だけで頭を上げながらも驚異的なタイムでホーリックスを追い詰めたJC、ともに二着ながらも勝者よりも鮮烈にファンの心にその残像を刻みつけたこの馬に、どうもご苦労様でした、と言ってやりたい。ビューティフル時代の花形・武豊騎手のスーパークリークとともに。

 面白うてやがて悲しきグランプリ

 十六頭の馬が走り去ったあと、ぼくはもう一頭、大きな幻の馬が目の前を過ぎていくのを見た。それは1980年代という名前の馬だった。」

 <モーレツ派>の後輩オグリキャップは、獲物は必ず追い詰める、目標は必ず達成する、という確実さを持っており、それは経済大国日本を支える働き蜂ビジネスマンに通じるところもあって、「倒れて後やまず」のひたむきさにはやはり痺れざるをえない。
現に、オグリは翌年の有馬記念で<抜け殻>の評価を覆して、勝利を捥ぎ取った。二流の父親、田舎育ち、見栄えのしない容姿、すっきりしない馬主問題、およそナウさからは縁遠いこの馬の人形が、なぜ若い女性にもてはやされるのか?
 頼れる経済力をもっているオジサンカワイイなのか?

 『HANAKOへの伝言』では、あの世から呼び寄せた寺山修司とそんな議論もやっています。


‥‥そんなワケで、石川先生がオグリキャップのひたむきさにシビレたように、あたしは石川先生の表現力の素晴らしさにシビレちゃった。特に、「十六頭の馬が走り去ったあと、ぼくはもう一頭、大きな幻の馬が目の前を過ぎていくのを見た。それは1980年代という名前の馬だった。」のクダリは、松尾芭蕉の「奥のほそ道」の冒頭の「月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして行きかふ年もまた旅人なり」や、高浜虚子の「去年今年(こぞことし)貫く棒の如きもの」をホーフツとさせるほどのハードボイルドさだ。石川先生、ありがとうございました♪‥‥ってことで、ここで1通、読者からのメールも紹介する。


件名:オグリのこと
お名前:キンドリー
コメント:きっこさん、こんばんわ。神戸在住のキンドリーです。オグリキャップが逝きました。享年25歳ですから人間なら70代半ばでしょうか。芦毛の馬体はすっかり白くなって、彼がターフを爆走していた頃の鉛色の重戦車のような姿を思い出すにつけ、年月の長さと彼の長い沈黙の深さを想わずにはいられません。名も無い小さな牧場に生まれ、決して羨ましがられる血統でもなく、美しい容姿を持っているわけでもない一頭の馬が、ほんの3年間という短い期間に競馬界を席巻し、ファンの心を鷲掴みにし、空前の競馬ブームの立役者になったのですから。オグリという馬の走りっぷりは確かに観ている者たちの心を震わせました。今度ばかりは無理だろう、と誰もが思ったその瞬間からドラマを演出してみせる、そんな馬でした。競馬という大河ドラマに不可欠な、血統や、関係する多くの人間たちの思惑など知ったことではないとばかり、ただただ自分のパフォーマンスのみで全てを表現したのがオグリキャップという馬だったように思えてなりません。優秀なサラブレッドにとって、現役の競走期間はほんの数年です。選ばれたひと握りの馬たちにとっては、そこから後の種牡馬生活のほうがずっと長いのです。種馬としてどれだけ優秀な産駒を輩出できるかでサラブレッドとしての真価が問われるという事は否定できません。その意味においてオグリキャップは決して優秀なサラブレッドはでなかったのかも知れません。今となって言えることは、オグリキャップという馬が、立派なサラブレッドなんかでなく、ただの一頭の馬として、多くの人々から愛されたんだって事です。ほんの僅かな歳月に見せつけた阿修羅のような圧倒的なパフォーマンスを終え、彼は深い沈黙とともに余生を過ごしたのだろうなと思うのです。追伸、タマモクロス、私も大好きでした。オグリと同世代の美しき天才少年、サッカーボーイとともに生涯忘れることの出来ない馬であります。


キンドリーさん、ありがとうございました♪ 当時のオグリキャップの活躍をリアルタイムで体験してたキンドリーさんの文章にも、とっても熱いものを感じました。

石川先生やキンドリーさんが書かれてるように、オグリキャップは、素晴らしい血統でもなく、有名な牧場で生まれたのでもない。それどころか、生まれた時から前足が外側へ大きく曲がってるっていうハンデを背負ってた。だから、生まれた時には、自力で立ち上がることもできなかったそうだ。だけど、牧場主が一生懸命に世話をして、曲がってる脚のヒヅメをナナメに削って、脚が真っ直ぐになるように根気よく矯正してったそうだ。そして、オグリキャップは、地方競馬で好成績を収めて、中央競馬へと上って来たんだけど、生まれた時から脚が曲がってたのに上まで上って来た馬と言えば、最近だと、こないだの「宝塚記念」にも出走したロジユニヴァースがいる。

他には、有名なとこだと、ベガとアドマイヤベガの親子だろう。左の前脚が内側に曲がってたのに、「桜花賞」と「オークス」を制して二冠を達成した名牝馬のベガと、そのベガから生まれて、おんなじように左の前脚が内側に曲がってたのに、これまた「ダービー」を制しちゃったアドマイヤベガ。だけど、お母さんのベガは16歳で亡くなり、息子のアドマイヤベガは、わずか8歳の若さで亡くなった。ベガは放牧中の転倒が原因のクモ膜下出血、アドマイヤベガは偶発性胃破裂が原因だそうで、どちらも気の毒だけど、不可抗力だったんだと思う。

‥‥そんなワケで、石川先生が「傘の色」や「馬の人形」で表現してたけど、競馬のファン層を大きく広げたのがハイセイコーなら、女性ファンを一気に増やしたのがオグリキャップだったって言われてる。だけど、それが、石川先生が書かれてるように、「頼れる経済力をもっているオジサンカワイイ」の視点からのものだったのか、ハタマタ、親から「地盤」「看板」「カバン」の3点セットを受け継いだ苦労知らずの世襲議員のような名血統の競走馬に対するアンチテーゼとしての憧憬だったのか、それは、中学、高校時代のあたしには、まだ分からないことだった。ただ、当時のあたしの目には、会いたくても会うことができなかった父さんが、オグリキャップの姿を借りて、「父さんもがんばってるから、お前もがんばれよ」っていうメッセージを伝えてくれてるように映ってた。だから、そんなオグリキャップが亡くなったことは悲しいけど、あたしが自分を投影させてたタマモクロスと天国で再会して、ずっと仲良く暮らして欲しいと願ってやまない今日この頃なのだ。


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