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2010.07.21

暑さの中の涼しさ

長崎は今日も雨だったのかもしれないけど、東京は今日も暑かった。今日の東京は36.3度だったそうだけど、ナニゲに体温みたいな気温だ。つまり、直射日光の当たらない日陰にいたとしても、空気の温度が36.3度なんだから、言うなれば、全身をくまなく誰かに抱きしめられてるようなもんで、想像しただけでも暑苦しくなって来る。オマケに、あたしは、今も「エアコンを使わない節約生活」を続けてるから、室内の温度は外よりも高い。窓を開けても、お部屋の構造上の問題であんまり風は入って来ないし、扇風機をつけても情熱と熱風とセレナーデが来るだけだ。

最近、テレビのお天気コーナーとかで、「室内にいても熱中症で倒れる場合があるのでご注意ください」なんて言ってるけど、あたしの場合は、「室内にいても熱中症で倒れる」じゃなくて、「室内にいると熱中症で倒れる」って感じだ。ボクの先生は~~フィーバー~~嵐を巻き起こす~~フィーバー~~♪‥‥って感じで、まさに「熱中症時代」とでも言うべき室温だ。だから、室内にいるよりも、外の駐車場のハシッコの日陰にいたほうが、よっぽど涼しいことウケアイだ。

だけど、猫じゃあるまいし、ずっと駐車場にいるワケにも行かない。だから、あたしは、水風呂に入って涼んでるんだけど、十分に体を冷やしてからお部屋に戻って来ても、サウナみたいに蒸し暑いから、30分もしないうちに暑くなって来て、1時間もしないうちに汗が出て来る。その上、いつもなら、水着を着てバカンス気分で過ごしてるとこなんだけど、今は右手の指が動かないから、ビキニのブラの後ろの紐を結ぶことができない。ついでに言わせてもらうと、下着のブラのホックも留められないから、あらかじめホックをしといて、それからブラを着るように装着してる。この方式をやってるとブラが伸びちゃうんだけど、他に方法がないから仕方ない今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、あたしは、自力で水着が着られないから、普通のキャミと短パンで過ごしてるんだけど、少しでも汗をかいた物は、一度脱いだら、絶対に二度と着たくないあたしとしては、ものすごく困ってる。だって、水風呂から出て、体を拭いて、キャミと短パンを着ると、30分もしないうちに暑くなって来て、1時間もしないうちに汗が出て来るからだ。それで、しばらくはそのままガマンしてるんだけど、どんなにガマンしても2時間くらいで暑さの限界を迎えるから、また水風呂に入ることになる。そうすると、それまで着てたキャミと短パンは、部分的に汗がついてるから、もう二度と着たくない。お洗濯してからじゃないと着られない。だから、別のキャミと短パンを出して着るんだけど、こんなことを繰り返してたら、あたしの持ってる5着ほどのキャミなんて半日でなくなっちゃう。

普通に考えたら、あたしの場合、全裸で過ごしてればいいワケで、これぞ1人暮らしの特権てことになる。誰も見てないんだから、水風呂から出たら、そのまま全裸で過ごしてて、暑くなって来たら、そのまま水風呂に入ればいい。そうすれば、ヨケイな洗濯物も増えないし、何よりも、右手が使えないのに着たり脱いだり着たり脱いだりってメンドクサイヤ人にならなくてすむ。だけど、今のあたしは、極めて体調が悪いから、常に「急に倒れて救急車を呼ぶ」って状況を考えながら生活してる。だから、全裸で倒れてるとこに救急隊員が到着するっていうパターンだけは避けたいので、最低限の衣服だけは着用するようにつとめてるってワケだ。

そして、こんなジレンマの中で、あたしが到達した方法は、「汗をかき始める前に水風呂に入る」って作戦だった。水風呂から出て来て、キャミと短パンを着ると、30分もしないうちに暑くなって来るから、この辺から気をつけといて、40分か45分くらいでジンワリと汗が出て来る寸前に、キャミと短パンを脱いで水風呂に入る。こうすれば、キャミと短パンには汗がつかないから、また着ることができる。ただ、この方法にもデメリットがあって、必然的に水風呂に入ってる時間が長くなるから、水風呂に入ってる間に具合が悪くなって救急車を呼ぶことににりそうな予感がするのだ。

でも、お風呂場で倒れてるのなら、全裸でも当たり前だから、客観的に見た状況としては、そんなに恥ずかしくない。だから、「ま、いっか!」ってことにしちゃった。とにかく、何よりの問題は、この尋常じゃない暑さってワケで、この暑さを何とかすることこそが、最優先の課題ってことになる。あたしは、民主党みたいに、「財源がないなら増税すればいい」なんていう他力本願で無責任な方法を選択するほど無能じゃないから、ちゃんと自分の責任において解決策を探すことにした。その結果が、「汗をかき始める前に水風呂に入る」って作戦なのだ。

だけど、この作戦は作戦として、いくら「暑い!」「暑い!」って言ってても、別に涼しくなるワケでもないし、逆に、ヨケイに暑くなっちゃう。だから、四季折々の自然をそのまま受け入れるべき俳人としては、この暑さを楽しむ方向へシフトするように考えることも大切だと思った。前に、「梅雨の雨を楽しむ」ってことを書いたけど、それとおんなじで、暑さであろうと寒さであろうと、嫌なものを嫌がらないで「楽しもう」って姿勢で臨めば、それなりに苦痛が軽減されるっていうポジティブな発想だ。

‥‥そんなワケで、戦国時代の僧侶、快川紹喜(かいせん じょうき)は、織田信長の敵だった六角義弼(ろっかく よしすけ)をお寺にかくまったことから、信長の嫡男(ちゃくなん)、信忠の軍に焼き討ちにあった。そして、紹喜は、燃えるお寺の中で、「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火もまた涼し」って言い残して焼け死んだ。この「心頭滅却すれば火もまた涼し」って言葉は、お坊さんが言ったこともあって、ついつい「無我の境地になれば火の熱さも感じない」ってふうに解釈されてるけど、あたしは、これは違うと思ってる。だって、何をどうしたって、火は熱いに決まってるからだ。

どんなに厳しい修行を積んだって、空を飛べるようになるワケがないのとおんなじで、火を熱く感じないようになるワケがない。たとえ、インドの山奥で、ダイバダッタの魂を宿して修行したって、レインボーマンには変身できるようになったとしても、火を熱く感じないようになるワケがない。だから、この「心頭滅却すれば火もまた涼し」ってのは、言うなれば、「究極の痩せ我慢」てことなのだ。ホントは熱くて熱くて死にそうなのに、無理して熱くないフリをしてるだけなのだ。「無我の境地になれば火の熱さも感じない」なんてのは、所詮は表向きのタテマエであって、いくら心頭を滅却したって火が涼しくならないってことは、誰よりもお坊さんたち自身が分かってるハズだ。

自然界の異端者である人間の修行だの精神論だのってのは、あまりにも人間丸出しの世界観で、人間以外のすべての生き物には何の意味もない。たとえば、神様や宗教にしても、人間が人間のために作り出したものだから、人間以外のすべての生き物には何の意味もない。神様や宗教なんかに頼らないと生きてけないのは、地球上に数え切れないほどの種がある生き物の中で、人間だけなのだ。だから、この「心頭滅却すれば火もまた涼し」っていう非科学的な精神論も、人間以外の生き物にはまったく通用しない。どんな動物だって、火は熱いに決まってるからだ。

で、自然界の異端者である人間が、その人間性を丸出しにしたのが、この「心頭滅却すれば火もまた涼し」みたいな宗教的な考え方だとしたら、その正反対、つまり、人間以外の生き物の側に立ってるのが、あたしの実践してる俳句ってワケだ。俳句の世界では、基本中の基本が「来るものを拒まず、去るものを追わず」の姿勢だから、すべてをありのままに受け止めた上で、できる限り主観を排除して表現する。たとえば、今日みたいに暑い日なら、「暑い」っていう事実はありのままに受け止めるけど、その暑さが「たまらない」とか「耐えられない」とかっていう自分の主観は排除して俳句を詠む。だから、痩せ我慢して「火」を「涼しい」なんて言ってる人間丸出しの人たちとは正反対で、火は熱いし氷は冷たいっていう極めて当たり前の世界になる。

‥‥そんなワケで、ただ「暑い」って言うだけで、その暑さに対する自分の感想である主観を述べちゃいけないのなら、俳句って何も表現できないじゃん!‥‥って思うかもしれないけど、そんなこたーない。俳句には、「季語」っていう無敵の武器があるからだ。「雨」ひとつにしても、「時雨(しぐれ)」や「五月雨(さみだれ)」を始めとして、ものすごくたくさんの呼び名があって、それらが季語になってるから、自分の主観を述べなくても、季語が作者の思いを代弁してくれる。

たとえば、俳句を知らない人でも聞いたことのある有名な句で、「五月雨をあつめて早し最上川」っていう松尾芭蕉の句がある。これは、雨によって水かさが増した最上川の轟々と流れる雄大さ、自然の大きさを詠ってるワケで、だからこそ、その様子を見てる芭蕉の小ささ、大自然の前では無力になってしまう人間のちっぽけさまでもが見えて来るワケだ。もともとは、「五月雨をあつめてすずし最上川」っていう句だったけど、芭蕉は「すずし」っていう自分の主観を排除して、「早し」に変更した。だからこそ、最上川の雄大さが伝わって来るようになったんだけど、この句の何よりの手柄は、「五月雨」っていう季語の力だ。これが「春雨」や「時雨」だったら、迫力ゼロの陳腐な句になってるとこだ。

こんなふうに、雨の名前によって、その句のイメージや表現力は大きく変わるワケで、これは、「暑さ」に対してもおんなじことが言える。初夏の気持ちいい「薄暑(はくしょ)」もあれば、真夏の地獄のような「極暑(ごくしょ)」もあれば、立秋を過ぎても残ってる「残暑(ざんしょ)」もあるワケで、それぞれに暑さのタイプが大きく違う。だから、俳句の季語として使った場合には、その句のイメージも大きく変わる。たとえば、「黒猫の背なか波打つ」っていう描写と組み合わせてみると、こんなふうになる。


 黒猫の背なか波打つ薄暑かな

 黒猫の背なか波打つ極暑かな

 黒猫の背なか波打つ残暑かな


描写は「黒猫の背中が波打ってる」っていう客観的な事実しか詠ってないのに、「薄暑」の場合は、何となく黒猫が気持ち良さそうな感じに見えると思うし、「極暑」の場合は、「薄暑」とは反対で、暑くて暑くてしんどい思いをしてるように見えると思う。そして、「残暑」になると、「極暑」とおんなじに、しんどい様子が見えて来るけど、「極暑」よりも湿度の高いベトベトしたイメージがプラスされるだろう。これが、季語の持つ力ってワケだ。

もちろん、他にも、たくさんの「暑さ」がある。あたしがよく使うのは、「溽暑(じょくしょ)」って季語だ。これは、中国の「二十四節気」をさらに3つに分けた「七十二候」のひとつ、「土潤溽暑(つちうるおうてむしあつし)」から派生した季語で、強い日差しが土中の水分を蒸発させて蒸し暑くなることだ。ま、難しく考えずに、真夏の蒸し暑さを表現する時に使えばいい。

そして、この「二十四節気」で言えば、他にも「小暑(しょうしょ)」と「大暑(たいしょ)」がある。これらは、「暑さ」そのものじゃなくて、時候の季語になる。つまり、「春分の日」みたいなもんで、夏至の15日後、だいたい7月7日あたりが「小暑」で、この日から「暑中」に入る。そして、「小暑」の15日後が「大暑」になる。だけど、こうした時候の季語でも、「黒猫の背なか波打つ小暑かな」とか、「黒猫の背なか波打つ大暑かな」とかって詠めば、単に時期を表現してるだけじゃなくて、それぞれの「暑さ」が伝わって来るだろう。

他にも、「極暑」よりも暑い、まるで炎で焼かれるような暑さを表わす「炎暑(えんしょ)」もあるし、その「炎暑」がもっとも厳しくなる正午から午後2時までをピンポイントで指す「炎昼(えんちゅう)」なんて季語もある。焼けるような大気も含めて表現するなら「炎天(えんてん)」、体に感じる熱気そのものを表現するなら「炎(も)ゆる」とか「灼(や)くる」とかって動詞の季語もある。また、暑さを間接的に表現する場合には、炎天下での無風状態を表わす「風死す」とか、熱気でムンムンする草の匂いを表わす「草いきれ」なんて季語もある。

「日盛(ひざかり)」「旱(ひでり)」「油照(あぶらでり)」なんてのも、文字を見ただけで暑くなって来る季語だし、わずかな日蔭を表わす「片蔭(かたかげ)」や、待ちに待った雨を表わす「喜雨(きう)」なんてのも、「暑さ」あっての季語ってことになる。だから、「片蔭」や「喜雨」自体は「涼しさ」を表現してるけど、これらの季語の向こう側には「暑さ」が鎮座してるってワケだ。さらに言えば、「蝉(せみ)の声」にしても、「向日葵(ひまわり)」にしても、「かき氷」にしても、「海水浴」にしても、「生ビール」にしても、「サングラス」にしても、多くの夏の季語が「暑さ」に直結してる。

‥‥そんなワケで、今日の東京の暑さは、まさしく「極暑」であり、「炎暑」であり、「溽暑」だったワケだけど、この暑さをストレートに「暑い!」「暑い!」って騒ぐんじゃなくて、逆に楽しんじゃおうって姿勢こそが「涼しさ」につながるってワケだ。あたしは俳人だから、俳句を詠むくらいしか楽しみはないけど、それでも、朝イチで川崎の溝口(みぞのくち)のパチンコ屋さんへ病院代と家賃を稼ぎに行って来たから、ちゃんと「ドル箱を積んで溽暑の溝口」っていう句を詠んだ。「溽暑」っていう耐えられないほどの蒸し暑さでも、パチンコ屋さんていう「涼しい場所」で、「ドル箱を積み上げる」っていう喜ばしい描写と組み合わせれば、「暑さ」の中にも「涼しさ」が感じられると思う。だから、皆さんも、「心頭滅却すれば火もまた涼し」みたいにバカなことを言ってないで、「暑さ」は「暑さ」として素直に受け止めた上で、その「暑さ」を少しでも楽しむような方向へシフトして、「暑さ」の中の「涼しさ」を見つけて欲しいと思う今日この頃なのだ。


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