心で読むということ
終戦の夜のあけしらむ天の川 蛇笏
これは、敗戦の日の翌朝、つまり、昭和20年8月16日の明け方に、当時、ちょうど還暦だった飯田蛇笏(だこつ)が詠んだ句だ。いつも言ってるように、本来、俳句は、その句が詠まれた背景も、作者のバックボーンも、すべて排除して、17音だけで純粋に鑑賞するものだ。だけど、今回は、この句に秘められた蛇笏の思いを感じてもらうために、少しだけ解説させてもらう。
飯田蛇笏は、明治18年(1885年)に、山梨県の大きな旧家に生まれた俳人で、「雲母」という俳誌を主宰してた。そして、蛇笏は、5人の息子をもうけたんだけど、5人の息子のうち、歯科医の研修生として働いてた次男の数馬が、勤務中に急病で倒れて、そのまま28才の若さで亡くなってしまう。昭和16年、蛇笏が56才の時のことだ。この時、蛇笏が、自分よりも先に逝ってしまった息子に対して詠んだ句は、「白嶽」という句集に収められてる。
そして、それからわずか数年のうちに、蛇笏は、残った4人の息子のうち、長男、三男、五男の3人を戦場へ送り出すことになる。最初に紹介した句は、そんな状況で詠まれたものなのだ。愛する息子を3人も戦場へ送り出していて、その生死も分からぬまま、天皇陛下の玉音放送を聞いた蛇笏。そして、眠れぬままに夜明けが近づいて来て、雄大な甲斐駒ケ岳のシルエットの上に横たわる天の川を見上げた蛇笏。
長く苦しかった戦争がようやく終わったという安堵感と、息子たちの安否を気遣う焦燥感とが、地上のちっぽけな人間同士の争いなどとは無関係に輝き続ける天の川の果てへと、ゆっくり溶け合って行く。いくら言葉をつくしても、決して表現しきれない複雑な思いが、この句の向こう側には存在してる。
‥‥そんなワケで、今日は「いかがお過ごしですか?」はナシにしてくけど、蛇笏がこの句を詠んでから2年後、昭和22年の秋のこと、蛇笏のもとに1通の報が届いた。長男、聰一郎の戦死の報だ。聰一郎は「鵬生」と言う俳号の俳人で、生きていれば、蛇笏のあとを継いで「雲母」を主宰することになってた。だけど、蛇笏のもとに届いた報には、「昭和十九年十二月二十二日壮烈なる死闘に散華した」と記載されてた。蛇笏が天の川を見上げていた時には、すでに亡くなっていたのだ。
戦死報秋の日くれてきたりけり 蛇笏
敗戦から2年も経っていたのだから、ある程度は覚悟してただろうけど、それでも、希望を失わずに待ち続けてた蛇笏にとって、これほどの悲しみがあるだろうか。聰一郎は「泉部隊(独立歩兵第十三聯隊第十一中隊)」に所属してて、激戦地だったフィリピンのレイテ島で戦死したのだ。ちなみに、聰一郎は、次の句を辞世の句として遺してる。
たたかひのこころさだまる高嶺星 鵬生
そして、次に蛇笏のもとに届いたのは、三男の麗三が、「昭和二十一年五月六日」に、シベリアの抑留地、アモグロン収容所で死亡したという報せだった。これは、文献によって「病死」という表記と「労役中の事故死」という表記があるんだけど、どちらにしても、蛇笏が天の川を見上げた時には、まだ生きていたのだ。そして、戦争が終わってからも、ずっと辛い重労働を強いられ続け、二度と故郷の土を踏むことなく、北の果てで殺されたのだ。
結局、蛇笏は、5人の息子のうち、1人を病気で、2人を戦争で失った。そして、五男に関しても、詳しい記録は見たことがないので分からないけど、「戦争には行ったけれど内地だったので戦争では亡くなっていない」ってことと、「5人の息子のうち4人が、父親である蛇笏よりも先に旅立った」という趣旨の記述が残ってるので、五男も先に亡くなってるのだ。子を持つ親として、これほど悲しいことがあるだろうか。
風邪の児の餅のごとくに頬ゆたか 蛇笏
この句は、5人の息子のうち、どの子を詠んだものかは分からないけど、まだ小さかったころの息子が、風邪で寝ている姿を詠んだ句だ。ここには、それこそ「目の中に入れても痛くない」というほどの愛情があふれてる。それなのに、5人の息子のうち4人が、自分よりも先に亡くなってしまうなんて。それも、そのうちの2人は、戦争などという、この世でもっとも残酷なものに巻き込まれて殺されたのだ。親として、病気でも事故でもなく、戦争で子供を失うなんて、これほど辛いことは他にないだろう。
そして、ただ1人残った四男の龍太が、蛇笏の「雲母」を継ぐことになった。そう、これが、あたしの大好きな俳人、あたしが尊敬してやまない俳人、飯田龍太だ。今日は全員を「敬称略」で書いてるので、飯田龍太も呼び捨てだけど、実際にお会いしたことがある上に、セブンスターまでもらって吸っちゃったあたしとしては、とても普段は呼び捨てになんかできない。そして、そんな飯田龍太も、3年前の2月に、86才で亡くなった。その時のことは、2007年3月2日の日記、「二月の川」に書いてるので、興味のある人は読んでみてほしい。そして、ここまでの情報を得た上で、もう一度、この句をゆっくりと、今度は声に出して読んでみてほしい。
終戦の夜のあけしらむ天の川 蛇笏
俳句は「歌」であり「挨拶」だから、正式には、文字を黙って読むものじゃなくて、声に出して読み上げるものだ。だから、ホントの俳句の魅力ってものは、声に出して読み上げてみて、初めて感じられることが多い。この句の場合なら、文字を黙って読んだだけだと、一句の中で「終戦」て言葉に一番の重さを感じたと思う。これは、言葉の持つ重みだけじゃなくて、「終戦」という漢字の画数の多さも関係してる。「明け白む」を「あけしらむ」って平仮名で表記してるから、よけいに「終戦」て漢字の重みが際立って感じられるのだ。
だけど、声に出して読み上げてみると、まったく逆のことに気づく。「しゅうせんの よのあけしらむ あまのがわ」、頭からずっと澄んだ音だけが続いて来たのに、最後の部分に「が」という濁音が1音だけ置かれてるのだ。だから、文字を見ずに、目をつぶって、ゆっくり声に出して言ってみると、最後の部分でグッと重くなってるように感じるだろう。つまり、蛇笏は、視覚的には「終戦」に重きを置きつつも、聴覚的には「天の川」に重きを置き、海の向こうの戦地で、きっと生きていて、おんなじ天の川を見ているであろう息子たちに思いを馳せていた‥‥ってことなのだ。
ずっと前にも書いたけど、31音もある短歌は、ほとんどのことをすべて言い切れるから、とっても悲しくなる。そして、17音しかない俳句は、ほとんどのことを断片的にしか言えないから、とっても切なくなる。だから、あたしは、「悲しさ」を伝えたいのなら短歌、「切なさ」を伝えたいのなら俳句が適してると思ってる。蛇笏の「敗戦」の句を読んで、「悲しさ」よりも「切なさ」を感じられたのなら、その人は、文字と文字、言葉と言葉の間から垣間見える「17音の向こう側の世界」を感じ取れるようになったってことで、俳句の読み方を身につけたってことになる。
‥‥そんなワケで、正しい俳句の読み方が身についたとこで、今日は最後に、蛇笏の句をもう一句紹介するので、ゆっくり声に出して読んでみてほしい。これは、長男の聰一郎の戦死の報が届いたあとに詠まれた句の中の一句だ。分からない人はいないと思うけど、念のために説明しとくと、「たま」っていうのは「たましい」のことだ。この句をゆっくり読み上げて、愛する息子を戦争で殺された父親の思いを感じてほしい。そして、人間が生み出した戦争という悲劇について、頭じゃなくて、心で感じてみてほしいと思う今日この頃なのだ。
子のたまをむかへて山河秋の風 蛇笏
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