昭和39年という時代
この「きっこの日記」は、日記って言いながらも日記じゃない。その日の出来事を書いてる時もあるけど、たいていは無関係なことを好き勝手に書いてる。だけど、世の中で有名な日記は、どれもちゃんと、その日の出来事を書いてる‥‥って言うか、そうした体裁を取ってる。たとえば、正岡子規の「病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)」や「仰臥漫録(ぎょうがまんろく)」は、その日に食べたものまでキチンと書かれてるし、来客の顔ぶれや病気の具合も克明に記されてる。アンネ・フランクの「アンネの日記」にしても、「キティーに宛てた手紙」って形を取りつつも、その日その日の作者自身の思いを綴ってる。
一方、紀貫之の「土佐日記」や、ヘレン・フィールディングの「ブリジット・ジョーンズの日記」みたいに、ホントの日記じゃなくて、日記形式の創作もある。これらは、最初から読者を意識した作品として書かれてるんだから、もちろん読めば面白いし、ある意味、サービス精神にあふれてる。創作だと知った上で読んでるのに、一人称の定点観測スタイルだから感情移入しやすくて、通常の小説とは違った面白さがある。だけど、ホントに作者自身の日常を綴った日記には、こうした日記形式の創作にありがちな「大事件」が起こらない反面、不動のリアリティーがあるから、何とも言えないジンワリした面白さがある。種田山頭火の「行乞記(ぎょうこつき)」なんて、あまりにも面白くて、何度読み返したか分からないほどだ。
そして、種田山頭火の「行乞記」とおんなじくらい、あたしが何度も読み返してるのが、武田百合子の「富士日記」だ。これも有名だから細かい説明は不要だろうけど、武田泰淳の奥さんの武田百合子が、昭和39年(1964年)の7月から、昭和51年9月までの13年間、富士山の高原での生活を綴ったもので、とにかくヤタラと面白い。読んだことのない人は、タイトルから牧歌的なイメージを持ったかもしれないけど、それは、いい意味で裏切られることウケアイな今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、今から46年も前って聞くと、今よりも自然が美しいって想像しがちだけど、当時は高度成長期の真っ只中だから、今は美しい富士五湖の周りも、当時は観光客の車が渋滞して排気ガスだらけだし、観光客の捨てたゴミがマウンテンだ。そんな背景の中で、武田百合子は、原稿を書く以外は何ひとつ家のことをやらないダンナに代わって、何から何までぜんぶ1人で片づけちゃう。車の運転をしたり、子供の面倒をみたり、日々の食材を買って来て食事を作ったり、ダンナの原稿を東京まで届けたり、真冬に凍った水道にお湯をかけて溶かしたり、チンピラとケンカしたりと、孤軍奮闘の毎日だ。
女性だけあって、家計簿も兼ねて日記を書いてるような部分もあるので、当時のモノの値段が分かるのも楽しい。たとえば、日記がスタートしてから数日後の昭和39年7月20日には、「富士ラマパーク」に遊びに行った時のことが記されてるんだけど、こんなことが書かれてる。
「明治スカットが1本七十円もする。」
「帰り、石がはねて車の後尾灯がわれたのを直す。四百円。ガソリン満タン、千三百円。」
調べてみたら、「富士急ハイランド」の中に「富士ラマパーク」が完成したのは昭和39年7月8日だったから、武田一家は、オープンしてすぐに遊びに行ったみたいだ。で、あたしは、車のテールレンズの400円や、ガソリン満タンの1300円はともかくとして、明治スカットの70円を「もする」って表現してることが気になったので、これまた調べてみた。ちなみに、明治スカットってのは、瓶入りの炭酸飲料で、コーラ、オレンジ、グレープ‥‥っていう定番の味が何種類かあったそうで、炭酸の入ってないコーヒー牛乳みたいなのもあったそうだ。
で、調べてみたら、明治スカットは、当時、普通のお店とかで買うと、1本30円だったそうだ。だから、「富士ラマパーク」で買うと2倍以上もしたワケで、今の感覚で言うと、120円の缶ジュースが300円で売られてるような感じなんだと思う。ちなみに、昭和39年の物価を調べてみたら、お店で食べるかけそばが50円、お店で飲むビールが115円だった。だから、この辺の感覚から言うと、ジュースが1本70円てのは、現在の500円くらいの感じだったのかもしれない。
昭和39年は、国家公務員の初任給が1万9100円、大卒の初任給の平均が2万1500円だったから、収入の面で言えば、現在の10分の1くらいだった。だから、現在、おそば屋さんで食べると500円くらいのかけそばが50円だったのはピッタリだけど、ジュースの30円は、ちょっと高かったと思う。1本12円で、今とおんなじ感覚だと思うから、1本30円てのは、もともと、ちょっと高い感じで、今の250円から300円くらいの感覚だったと思う。だから、それが2倍以上の70円で売られてれば、とんでもなく高く感じたんだろう。武田百合子が、わざわざ日記に「明治スカットが1本七十円もする。」って書きたくなったのもうなづける。
‥‥そんなワケで、武田百合子が「富士ラマパーク」で売られてた明治スカットの値段に驚いた昭和39年がどんな年だったのかって言うと、東京オリンピックが開催された年で、東海道新幹線が開通した年だ。だから、戦後、加速して来た高度成長が、ひとつのクライマックスを迎えた年でもある。さっき、昭和39年の国家公務員の初任給が1万9100円だって書いたけど、前年の38年は1万7100円、翌年の40年は2万1600円なんだから、この時代は、毎年1割以上もお給料が上がり続けてたのだ。今じゃ絶対に考えられないことだろう。
この年に発売されたお菓子は、カルビーのかっぱえびせんが50円、ロッテのガーナチョコレートが30円だった。ワンカップ大関が発売されたのもこの年で、サスガにお酒だから、当時でも85円もした。ちなみに、発売当初はそんなに売れなかったんだけど、このあとに到来するレジャーブームによって、生産も追いつかないほどの大ヒット商品になったそうだ。
雑誌では、「週刊平凡パンチ」が創刊されて、マニアに人気の月刊マンガ雑誌の「ガロ」も創刊された。「ガロ」には、白土三平の「カムイ伝」が連載されて人気を博した。「週刊少年マガジン」では森田拳次の「丸出だめ夫」が、「週刊少年サンデー」では藤子不二雄の「オバケのQ太郎」が、「週刊少年キング」では石ノ森章太郎の「サイボーグ009」が、「少年」では藤子不二雄の「忍者ハットリくん」が、それぞれ連載をスタートした。
テレビでは、NHKで「ひょっこりひょうたん島」が始まり、フジテレビではお正月に「新春スターかくし芸大会」の前身の「新春ポピュラー歌手かくし芸大会」が始まった。フジテレビでは、「拳銃は最後の武器だ」でオナジミの「忍者部隊月光」も始まり、読売テレビでは「そっくりショー」が始まった。ただ単に芸能人に似てる一般人を集めただけの番組なのに、大人気になって、13年間、つまり、武田百合子が「富士日記」を書いてる間、ずっと続いてたのだ。
でも、この年にスタートした長寿番組と言えば、なんと言っても、現在まで続いてる「題名のない音楽会」だろう。「題名のない音楽会」は、当初、この年の4月に開局した「日本科学技術振興財団テレビ局」っていう長い名前のテレビ局、現在の「テレビ東京」で、この年の8月から始まった番組で、その後、テレビ朝日へと移動した。
この年、TBSでは海外ドラマの「逃亡者」がスタートした。数年後、寺山修司さんが、ホワイトフォンテンに「白い逃亡者」ってニックネームをつけることになった元ネタのドラマだ。TBSでは他にも「日曜劇場」で橋田寿賀子作品の「愛と死をみつめて」が大ヒットして、映画にもなった。ドラマと映画の大ヒットで、青山和子が歌った「マコ、甘えてばかりでごめんね~ミコはとっても幸せなの~♪」っていう「愛と死をみつめて」がこの年のレコード大賞に輝いた。
この年の他のヒット曲は、坂本九の「明日があるさ」と「幸せなら手をたたこう」、井沢八郎の「ああ上野駅」、都はるみの「アンコ椿は恋の花」、ベギー葉山の「学生時代」、美空ひばりの「柔」、西郷輝彦の「君だけを」、越路吹雪の「サン・トワ・マミー」、ザ・ピーナッツの「ウナ・セラ・ディ東京」、村田英雄の「皆の衆」、梓みちよの「忘れな草をあなたに」、水前寺清子の「涙を抱いた渡り鳥」などなど、この年に生まれてないあたしでも知ってる曲がメジロライアンだ。
そして、この年に封切られた洋画は、オードリー・ヘップバーンの「マイ・フェア・レディー」、ジュリー・アンドリュースの「メリー・ポピンズ」、カトリーヌ・ドヌーブの「シェルブールの雨傘」、ビートルズの「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」、チャールトン・ヘストンの「エル・シド」、ピーター・セラーズの「博士の異常な愛情」、ショーン・コネリーの「007 ゴールドフィンガー」、クリント・イーストウッドの「荒野の用心棒」などなど、これまた誰でも知ってる名作がメジロマックイーンだ。ちなみに、これは、それぞれの国での封切りが昭和39年てことなので、たとえば「007 ゴールドフィンガー」なら、ニポンでは翌年の昭和40年に公開されてる。
‥‥そんなワケで、マンガやテレビ番組から、流行歌や映画に至るまで、あまりにも素晴らしいクオリティーの作品が満載な昭和39年だけど、他にも、プロ野球なら巨人、お相撲なら大鵬っていう「巨人、大鵬、玉子焼き」の時代だから、テレビではプロ野球の中継もお相撲の中継も、ものすごい視聴率だったと思う。それに、この年に東京オリンピックが開催されるのに合わせて、各メーカーでは前年からテレビの宣伝に力を入れたので、それまでは50%くらいだったテレビの普及率が、この年を境にして急激に伸び出した。だから、数字の上での視聴率だけじゃなくて、実際にテレビを観てる人の人数も一気に増え始めたんだと思う。
今みたいに娯楽の選択肢が多くなかった時代、自宅でテレビを観ること自体が贅沢な娯楽のひとつだった時代だから、お茶の間に家族が集まり、お父さんはビール、子供たちは明治スカットを飲みながら「ひょっこりひょうたん島」や「逃亡者」を観たりすることが、現代の何倍も楽しかったんだと思う。あたしが生まれた昭和47年には、ほとんどの家にテレビがあったし、テレビと言えばカラーテレビのことだったけど、昭和39年には、テレビがない家も多かったし、白黒テレビの家も多かっただろう。昭和30年代の終わりごろは、テレビが1台10万円くらいだったそうだけど、大卒の初任給の5倍だって考えれば、現在の100万円くらいの感じになる。これは大金だ。
現在の貨幣感覚で100万円もするテレビを買い、現在の貨幣感覚で300円もする明治スカットを子供たちに飲ませれば、お父さんとしての威厳は凄まじかったと思う。これで自家用車でも持ってれば、お父さんは子供たちのヒーローだったハズだ。昭和30年代は、10年間で物価が1.5倍になったけど、お父さんたちのお給料は2.5倍になった。だから、今考えると「えっ?」って思うような値段のテレビでも、当時のお父さんたちは、ちょっとがんばれば買えたんだろう。それに、毎年お給料が1割ずつアップしてくんだから、月賦で高いものを買うのも気楽にできたと思う。
だから、昭和30年代には、たくさんのお父さんたちが働くことに希望を持ってただろうし、子供たちからリスペクトされてたと思う。だけど、次々とモノを生産し続けた高度成長期には、その反動として、かけがえのない自然が破壊され続けた。光化学スモッグが発生して、小学校の子供たちが倒れたりしたのもこの時期だし、水俣病やイタイイタイ病が発生したのもこの時期だ。ようするに、企業の姿勢が、今の中国やインドみたいなノリだったワケだ。
大都市を流れる河川も、この時期に汚染が進んだ。あたしの愛する多摩川も、昭和30年代には「死の川」って呼ばれるようになり、あたしが生まれた昭和47年ころには、ほとんどのお魚が棲めなくなった。だけど、多摩川の汚染は、他の川の汚染とは違って、工場の排水によるものじゃなかった。東京都と神奈川県の境を流れる多摩川の周りには、高度成長期に団地が林立して、その生活廃水がぜんぶ多摩川へ垂れ流されたため、一気に汚染されちゃったのだ。あたしは、4才か5才のころに初めて多摩川へ連れてってもらったけど、川面には得体の知れない泡がブクブクと発生してて、臭くて近づけないほどだった。
‥‥そんなワケで、戦後のニポン人は、勤勉に働き続けて来た結果、便利で豊かな生活を手に入れたけど、その一方で、かけがえのない自然を破壊して来た。だけど、すでに「大量生産、大量消費、大量廃棄」の高度成長期は終わったんだから、これからの人や企業が向かうべき方向は、自分たちが破壊して来た自然や環境を回復させてく道だと思う。高度成長期が終わったのにも関わらず、それまでとおんなじノリで「開発」と言う名の「破壊」を続けて来たからニポンは借金大国になっちゃったワケで、これからの人や企業が向かうべきなのは、美しい海を埋め立てて原発を造ることでもなく、貴重な干潟を埋め立ててホテルを建てることでもなく、自分たちが破壊して来た自然を少しでも回復させることなのだ。多摩川だって、30年もかけて浄化して、やっとアユの帰って来る川に戻ったんだから、せめて「富士日記」の時代よりは、山や川や海をキレイにして、次世代の子供たちへ手渡すべきだと思う。あたしは、これこそが、ホントの意味での「子ども手当」だと思う今日この頃なのだ。
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