隣りは何をする人ぞ
あたしは、中田有紀ちゃんが大好きだから、早朝は日本テレビの「おはよん」を見るけど、そのあとはテレビ朝日に替えて「やじうまワイド」と「スーパーモーニング」を見ることが多い。で、昨日の4日もこの流れで見てたら、「スーパーモーニング」で、鳥越俊太郎さんがトンチンカンなことを言った。あたしは、鳥越さんのことは好きだし、他局の「自民党から内閣機密費をもらってたんじゃないの?」って疑いたくなるような自民党擁護キャスターの面々よりは、遥かに素晴らしい人物だと思ってる。
だから、あたしは、鳥越さんがタマにトンチンカンなことを言っても、愛情を持って「見て見ぬふり」をして来た。だけど、今回は、あたしの愛する俳句に関するトンチンカンな発言だったので、サスガに見過ごすことはできない。それで、ここでツッコミを入れさせてもらうことにしたんだけど、鳥後さんがどんなことを言ったのかっていうと、100歳以上の高齢者の所在が不明になってる問題で、こんなことを言ったのだ。
「昔から『隣りは何をする人ぞ』って言いますしね」
それまでの他の人たちの発言や流れから、これは、「今の人たちは隣り近所にどんな人が住んでいるのかも知らない」「今の人たちは隣り近所のことには無関心だ」ってことを言わんとしての発言だってことは、この場面を見てた人なら誰もが分かっただろう。そして、鳥越さんのこの発言を聞いた周りの人たちも、その意図通りに受け取り、ナニゴトもなかったかのように次へと進んだ。
だけど、俳人であるあたしとしては、松尾芭蕉と正岡子規を勝手に師としてるあたしとしては、これほどトンチンカンな発言は絶対に見過ごすことはできないし、この発言にツッコミを入れなかった周りの人たちの無知さ加減にも腹が立った今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、少しでも俳句をかじったことがある人なら、この「隣りは何をする人ぞ」って言葉が、昔からある格言や諺(ことわざ)の類なんかじゃなくて、松尾芭蕉の代表的な句のひとつであることを知ってるだろう。
秋深き隣は何をする人ぞ 芭蕉
だけど、鳥越さんの「昔から『隣りは何をする人ぞ』って言いますしね」って発言から感じられるのは、鳥越さんがこの言葉を「芭蕉の有名な句」だとは知らずに、昔からある格言や諺の類だと思い込んでるんじゃないのか?‥‥ってことだ。ま、この点に関しては、単なる知識の有無なんだから、鳥越さんが知らなかったのなら仕方ない。いくら天下の芭蕉の代表句のひとつだと言っても、俳句にまったく興味のない人なら、知らない場合もあるだろう。だから、この点に関しては、あたしは何も文句はない。ただ、物知りだと思ってた鳥越さんが、こんな有名な句も知らなかったのか‥‥ってことで、鳥越さんに対するイメージが変化しただけの話だ。
そんなことよりも、あたしがツッコミを入れたいのは、鳥越さんのトンチンカンな解釈だ。マクラにも書いたように、鳥越さんは、この「隣りは何をする人ぞ」ってフレーズを「隣り近所のことには無関心」て意味で引用してるけど、これが大きな間違いなのだ。この句は、晩秋の夜に、隣家の明かりを見て、隣家の人たちの暮らしに思いを馳せる心を詠んでる。「こんな時間になっても明かりがついているということは、隣りの人たちは夕食後の家族団らんを楽しんでいるのかな?」、こんな思いが、旅先で病床に伏せている芭蕉の心に渡来しているのだ。
この句には、さみしい晩秋の夜に、隣家の団らんに思いを馳せる芭蕉の心が詠われてるのであって、間違っても「隣り近所のことには無関心」なんて解釈は成り立たない。芭蕉は、「無関心」どころか、正反対に「興味津々」なのだ‥‥ってワケで、この句の最大のポイントは、上五が「秋深し」っていう終止形じゃなくて、「秋深き」っていう連体形になってる点だ。念のために書いとくと、別の資料には「秋深し」って記されてるものもあるんだけど、それは書いた人が誤記した可能性が高くて、信憑性が乏しい。芭蕉と旅をともにした弟子の各務支考(かがみしこう)がマトメた「笈(おい)日記」に記されてる「秋深き」のほうが正式な句とされてる。
で、この「秋深き」は連体形なんだから、続く言葉を修飾してるワケだけど、俳句は通常の文章と違って「省略」が多いから、この場合、何を修飾してるのかがハッキリしない。「隣」に掛かってるようにも読めるし、「人」に掛かってるようにも読める。ようするに、表現が曖昧で、どこに掛かってるのかが分からないのだ。でも、この謎は、最後まで読めば氷解する。この句は、句末の「ぞ」で、詠嘆を残しつつフェードアウト的に切れてるからだ。つまり、上五の「秋深き」は、連体形だけど、通常の文章のようにどれかひとつの単語を修飾してるんじゃなくて、全体の背景としてイメージを定着させてるってワケだ。
ものすごく分かりやすく言えば、画用紙の真ん中に、一軒の家の絵を描いたとする。この絵だけを見ても、季節は分からないよね。でも、その家の周りに、枯れて行く木々やくすんだ色の山などの背景を描けば、「秋の景」だってことが分かるよね。この「背景」にあたるのが、「秋深き」っていう上五の表現てワケだ。連体形にしてあるのは、その「背景」が包んでる「家」も、その家の中で暮らしてるであろう「家族」も、すべてが「深い秋の中に存在してる」ってことで、これこそが、芭蕉が「秋深し」と終止形で切らなかった理由なのだ。
‥‥そんなワケで、もうちょっと、この句の背景を語らせてもらうと、この句は、芭蕉がこの世に残した「最後から2番目の句」なのだ。元禄7年(1694年)の9月28日、51歳だった芭蕉は、大阪の長谷川畦止(けいし)の家でひらかれた句会に招かれて、翌29日は、根来芝柏(ねごろしはく)の家での句会に招かれてた。江戸から大先生である芭蕉が来てるんだから、芭蕉は引っ張りダコだったってワケだ。
だけど、体調がすぐれなかった芭蕉は、芝柏の家での句会に出ることを断念して、その代わりに、弟子に「秋深き隣は何をする人ぞ」という句を遣わせた。つまり、今で言うとこの「欠席投句」ってワケで、本人は何かの都合で出席できないけど、句だけは提出しますよ‥‥ってことだ。そして、この日から、芭蕉の容態はどんどん悪くなり、起き上がることもできなくなった。10日後の10月8日の夜には、看病していた門人の呑舟に墨をすらせて、「病中吟」として一句書かせた。
旅に病(やん)で夢は枯野をかけめぐる 芭蕉
そして、この4日後に、芭蕉の長い旅は終わった。だから、一般的に言うと、この句が「辞世の句」ってワケで、さっきの「秋深き」の句は、芭蕉がこの世に残した「最後から2番目の句」ってことになる。でも、これまた細かいことを言うと、「旅に病で」の句は「病中吟」として書かせたもので、旅の途中で詠んだものだから、俗に言う「辞世の句」にはあたらないのだ。で、芭蕉は「旅に病で」の句を詠んでから、支考を枕元に呼んで、「なをかけめぐる夢心」ってのも詠んだんだけど、どっちがいいかな?‥‥って意見を聞いてる。この辺のやりとりも、支考がマトメた「笈日記」に記されてるんだけど、とっても興味深い内容だ。
「はた生死の転換を前にをきながら、ほつ句すべきわざにもあらねど、よのつね此道を心に籠て、年もやや半百に過たれば、いねては朝雲暮烟の闇をかけり、さめては山水野鳥の声におどろく。是を仏の妄執といましめ給へる、ただちに今の身の上におぼえ侍る也。此後はただ生前の俳諧をわすれむとのみおもふはと、かへすがへすくやみ申されし也。さばかりの叟の辞世は、などなかりけると思ふ人も世にはあるべし。」
ようするに、生きるか死ぬかの状況に置かれながらも、未だに「俳諧」という底なし沼にドップリと浸かってて、「俳諧」のことばかり考えてる自分を「仏の妄執」だって指摘して反省してるのだ。これは、完全に「迷い」であって、芭蕉も人の子だってことだ。後世の人たちは、芭蕉を「俳聖」だ何だってタテマツッちゃったけど、あたしは、こうした人間くさくて、へタレな芭蕉おじさんだから大好きなのだ。
‥‥そんなワケで、話をクルリンパと戻して、カンジンの「秋深き」の句についてだけど、芥川龍之介は、この句について、「芭蕉雑記」の中でこう書いてる。
「秋ふかき隣は何をする人ぞ/かう云ふ荘重の「調べ」を捉へ得たものは茫茫たる三百年間にたつた芭蕉一人である。芭蕉は師弟を訓(をし)へるのに「俳諧は万葉集の心なり」と云つた。この言葉は少しも大風呂敷ではない。芭蕉の俳諧を愛する人の耳の穴をあけねばならぬ所以である。」
この句に対して、あまりにも過大な評価みたいに感じるかもしれないけど、まだ「隣は何をする人ぞ」っていうフレーズが人口に膾炙してなかった時代だから、鳥越さんに「格言や諺の類」だと勘違いさせちゃったような先入観もなかったんだろう。何の先入観もないマッサラな状態で、純粋にこの句を鑑賞すれば、何とも言えない「市井の暮らし」の温かさが伝わって来るはずだ。そして、そこには、自分が旅先で病床に伏せながらも、その自分自身をも客観的に突き放して見ている「もう1人の芭蕉」、つまり、この句を読む「あたしたち」の姿が見えて来る。
これは、読み手に対する「時空を超えた挨拶」であり、芥川龍之介が引いた「俳諧は万葉集の心なり」って言葉の本質なのだ。だから、この「最後の旅」で、芭蕉は、大阪に来るまでに、こんな句も詠んでる。
行く秋や手を広げたる栗の毬 芭蕉
これは、大阪に入る前の「伊賀」で詠まれたもので、「栗の毬(いが)」は「伊賀」に対する挨拶だ。さらに言えば、「手を広げたる栗の毬」という描写は、伊賀でお世話になった人たちへの感謝と別れを表現してる。自分の「思い」を歌に乗せて送り合った万葉の人たちの精神が、俳諧という省略形に姿を変え、作者の主観を表に出さない方向へと変化しても、底流してる「挨拶の心」は普遍だったってワケだ。そして、この流れで、「秋深き隣は何をする人ぞ」とか「旅に病で夢は枯野をかけめぐる」とかの句が詠まれてるんだから、これらの句を「病床での句」だの「辞世の句」だのっていう先入観を排除して純粋に鑑賞すれば、そこに見えて来るのは、やっぱり「挨拶の心」ってワケだ。
「秋深き隣は何をする人ぞ」は、晩秋の隣家の団らんに思いを馳せてるという体裁を取りながらも、「私は残念ながら今夜の句会には出席できませんが、あなたたちが楽しく過ごしていることを想像して、私も楽しい気持ちを共有していますよ」っていう、大阪の人たちに対する「挨拶の心」が底流してる。「旅に病で夢は枯野をかけめぐる」は、自分の俳諧に対する思いを詠んでるという体裁を取りながらも、「私は旅の途中の大阪で病に倒れてしまいましたが、私の精神は私の体を離れて、今でも自由に大自然の中を駆けめぐっていますよ」っていう、大阪の先の土地で芭蕉の到着を心待ちにしてる門人たちへの「挨拶の心」が底流してる。
‥‥そんなワケで、元禄7年の5月に江戸を旅立った芭蕉の最終目的地は、現在の福岡県の太宰府市を中心とした地域、「筑紫」だった。全国の門人たちのところに立ち寄りながら、最後には「筑紫」へ行き、九州の門人たちと句会を楽しむ予定だった。九州の門人たちも、江戸から遥々と大先生が訪ねて来てくれるんだから、これほどの喜びはない。数年に一度の大イベントだ。だから、旅の途中での芭蕉の訃報を聞かされた九州の門人たちが、どれほどの失意を感じたのかは、想像に難くない‥‥って、こんなに真面目なことを書きつつも、「筑紫」って地名から、どうしても鳥越俊太郎さんに似てた筑紫哲也さんのことを連想しちゃうあたしは、まだまだ芭蕉の足元にも及ばないことウケアイな今日この頃なのだ(笑)
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