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2010.09.21

雨に対ひて月を恋ひ

ゆうべ、9時くらいに外に出たら、空は全体的に曇ってたけど、満月のちょっと前の少しだけ欠けたお月様が煌々と輝いてて、お月様の左のほうには木星もキラキラと輝いてて、「秋だな~」って感じがした。こないだも書いたけど、今年は9月22日が「中秋の名月」で、23日の「秋分の日」が「満月」だから、お月様を愛でる精神的なイベントなら22日、完全なる満月を観察する天文学的なイベントなら23日ってことになる。もちろん、あたしは、ほとんど毎晩、空を見上げてるから、22日も23日もお月様を見るつもりだけど、週間天気予報を見たら、残念なことに、この2日間は「晴れのち曇り」と「曇り時々雨」の予報が出てた。

もっと詳しく言うと、22日が「晴れのち曇り」で、23日と24日が「曇り時々雨」で、25日が「曇り」で、26日が「曇り時々晴れ」になってる。つまり、カンジンの2日間を過ぎるとジョジョに奇妙にお天気が良くなってくってワケだ。ま、22日は「晴れのち曇り」だし、23日は降水確率が70%だから、完全にダメなワケじゃなくて、五分五分くらいでお月様が見られる感じだけど、見られたとしても、煌々と輝く満月じゃなくて、雲の間にぼんやりと見られるって感じになるかもしれない。

だけど、あたしにとっては、これはこれで嬉しいことなんだよね。だって、美しい「中秋の名月」なら、今までに何度も見てきたし、これからも何度も見られるだろうけど、年に一度の「中秋の名月」の日に、空が曇ったり雨が降ったりしてお月様が見えなくなることなんて、そんなにヒンパンには起こらないからだ。俳句では、これを「無月(むげつ)」とか「雨月(うげつ)」って呼ぶんだけど、昔の人たちは、雲をぼんやりと明るくする月の光を愛でたり、流れる雲の切れ間から一瞬だけ顔を出すお月様に感動したり、雨の中、ホントならお月様が浮かんでるであろう東の空を眺めて、目には見えないお月様の姿を心の中に思い描いたりしてた今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、あたしは、夜空を眺めるのが大好きだから、美しい満月も大好きだし、満天の星空も大好きだ。だけど、東京じゃ満天の星空なんて見られないし、サイコーにコンディションがいい時でも、オリオン座クラスの明るい星座がハッキリと見える程度なので、東京の夜空は、そんなに長い時間、ずっと眺めてるほどの魅力はない。だけど、そんな東京の夜空でも、飽きずにずっと眺めてられる時がある。それが、雲の流れる夜空だ。空全体を分厚い雲が覆ってるような日は、ただ単に真っ暗なだけだからぜんぜん楽しくないけど、晴れてる空に雲がマダラに流れてるような日は、どんどん変化してく夜空と雲とのコントラストを眺めてるだけでも飽きないし、そこにお月様が加わったりしたら、もう、言葉じゃ説明できないほどの美しさだ。それも、おんなじ光景を二度と見ることができない一期一会の美しさの連続だから、ハッと気がつくと2時間くらい眺めてたりしちゃう。

だから、あたしは、ふだんなら、満月の夜でも、雲ひとつない晴天よりも、雲が流れてるほうが好きってことになる。でも、年に一度の「中秋の名月」くらいは、できれば雲のない夜空で、煌々と輝くお月様を愛でてみたいと思うのも人情ってもんだ。今から1000年以上も前の平安時代に、ニポンで初めて行なわれた「お月見」は、当時の村上天皇が開催した宮中での「観月の歌会」なんだけど、その時に村上天皇は「中秋の名月」を愛でながら、こんな歌を詠んだ。


 月ごとに見る月なれどこの月の今宵の月に似る月ぞなき  村上天皇


「毎月見てる満月だけど、旧暦8月の中秋の夜に見る満月は、他の月の満月とは格が違う」ってワケで、この時から、宮中では「中秋の名月」を特別なものとして愛でるようになった。庶民が「お月見」をするようになったのは、もっとずっとあとのことで、最初は宮中のおしゃれなイベントだったのだ。だから、こんな歌も詠まれてる。


 月月に月見る月は多けれど月見る月はこの月の月  大内の女房


この歌も村上天皇の歌と意味は一緒で、「month」の意味の月と「moon」の意味の月とを言葉遊びにしてる歌だ。「month、monthにmoon見るmonthは多けれどmoon見るmonthはこのmonthのmoon」ってワケだ。そして、この歌には「月」って言葉が8回出てくるので、これが「旧暦8月」を表わしてるってワケだ。ま、これは、「瓜売りが瓜売りに来て売り残り売り売り帰る瓜売りの声」とおんなじで、風情を味わう和歌と言うよりは、面白さを追求した狂歌の部類に近い歌だ。

‥‥そんなワケで、万葉の時代から、特別な満月とされてた「中秋の名月」だから、できればダイレクトに美しいお月様を鑑賞したいワケだけど、残念ながら、今年はお天気が期待できない。だけど、村上天皇の時代から400年余りが過ぎ、鎌倉時代も終わりに差し掛かると、吉田兼好がドドンと「徒然草」をリリースしちゃう。そう、ニポンが世界に誇る天下無敵のスーパー随筆集だ。今から700年も前に、これほどディープな随筆集をリリースされちゃうと、あとの人間は書くことがなくなっちゃうほどだけど、吉田兼好は、この「徒然草」の第百三十七段で、春の「桜」と秋の「月」に対して、こんなことを書いてる。


「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。雨に対(むか)ひて月を恋ひ、たれこめて春のゆくへ知らぬも、なほあはれに情深し。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころ多けれ。歌の詞書にも、「花見にまかれりけるに早く散り過ぎにければ」とも、「障ることありて罷(まか)らで」なども書けるは、「花を見て」と言へるに劣れることかは。花の散り月の傾(かたぶ)くを慕ふ習ひはさることなれど、殊に頑(かたくな)なる人ぞ、「この枝かの枝散りにけり。今は見どころなし」などは言ふめる。」


フランク・ザッパに現代風味にすると、桜は満開の時だけ、月は雲ひとつない満月だけを愛でるものだろうか?雨が降って月が見えなくても、雨雲の向こうの月を恋しく思ったり、簾(すだれ)をおろしたままで家にヒキコモリしてるうちに春の行方が分からなくなっても、それはそれで心に感じるものがあるはずだ。桜は満開の時だけじゃなくて、開花する前の蕾(つぼみ)にも、花びらが散って萎(しお)れた庭にも、それぞれの見どころがある。和歌の詞書(歌の前に書く簡単な説明書き)に「花見に行ったらもう散っていた」とか「用事があって花見には行けなかった」とか書いてある歌は、「満開の桜を見て」という歌に劣るのだろうか?桜が散り、月が欠けて行くのを見て、切ない気持ちになるのは普通のことなのに、こうした気持ちが分からない人は「この枝もあの枝も桜が散ってしまったので、もう見どころはない」なんて言う‥‥って感じだ。

ちなみに、最初の「雨に対ひて月を恋ひ、たれこめて春のゆくへ知らぬも、なほあはれに情深し。」の「雨に対ひて月を恋ひ」ってのは、「類聚句題抄(るいじゅうくだいしょう)」や藤原公任撰の歌集「和漢朗詠集」に収められてる源順(みなもとのしたごう)の漢詩「対雨恋月」に倣ったもので、「たれこめて春のゆくへ知らぬも」ってのは、「古今集」に収められてる藤原因香(ふじわらのよるか)の歌「たれこめて春のゆくへも知らぬ間に待ちし桜もうつろひにけり」に倣ったものだ。

吉田兼好が「徒然草」に引用してる「たれこめて春のゆくへ知らぬも」の部分は、あたしが訳したように「簾をおろしたままで家にヒキコモリしてるうちに春の行方が分からなくなっても」って感じだけど、この歌の後半には「待ちし桜もうつろひにけり」ってのがくっついてる。だから、「徒然草」には歌の後半は書かれてなくても、この部分までを踏まえて解釈するのが古文マニアってことになる。つまり、「簾をおろして家にヒキコモリ、春の移り変わりも分からないうちに、あれほど心待ちにしてた桜も見ごろを過ぎてしまった」ってふうに解釈する。そして、その上で、吉田兼好による「なほあはれに情深し」、ようするに、「それはそれで心に感じるものがあるはずだ」へと結ばれるってワケだ。

で、この「徒然草」の第百三十七段は、まだまだ続くんだけど、原文と訳文とを書いてくとすごく長くなっちゃうので、大幅にハショッて、ザックリと要点だけを書いてくことにする。そうしないと、古文マニアのあたしとしては、ついついヨケイなウンチクを傾けたくなっちゃって、ぜんぜん先へ進まなくなっちゃうからだ。で、こんなふうに続いてる。


「どんなことでも始めと終わりが大切だ。男と女の恋愛も、夢中で愛し合ってる時だけがすべてじゃない。会えない切なさに苦しむことも、相手が心変わりしてしまって辛い夜をひとりで過ごすことも、愛する人のいる遠方に思いを馳せることも、そして、別れてしまった相手との楽しかったころを思い出すのも、すべてが恋愛の一環なのだ。月や桜もおんなじで、その盛りだけを見て愛でるものじゃない。春の桜の時期に家から一歩も出なくても、秋の月の時期に家に篭りきりでも、心の中で桜や月に思いを寄せてれば、その思いは自然と強くなっていくものだ。だけど、無粋な人は、花見をすれば桜の木の真下に陣取り、至近距離でずっと桜を凝視してたかと思えば、すぐに飽きて酒盛りを始め、大声で歌を歌い出す。そして、酔った挙句に桜の枝を折って大暴れ。こういう人は、澄んだ泉を見つければ手足を突っ込んで掻き回してドロドロにしたがるし、雪が積もっていれば走り回って足跡をつけたがる。ありのままの自然を客観的に眺めるという心が欠落してるのだ。」


この先もまだまだ続くんだけど、桜と月に関する記述はこの辺までだ。あとは、お祭りを見物する時に、無粋な人は、そのお祭りのメインの出し物が始まるまで、酒盛りをしたりギャンブルをしたり、お祭りそっちのけで騒いでて、メインの出し物だけ見たらサッサと帰っちゃう。だけど、ホントの見物ってのは、出し物が始まる前から客席で雰囲気を楽しみ、出し物が終わって会場が片づけられてく流れ、そして、人がいなくなって寂しくなるところまでをすべて見て、それで初めてお祭りを味わったことになる‥‥ってことが書かれてる。

これは、俳句の心にも通じる考え方で、お祭りが最高に盛り上がってる佳境を俳句に詠むよりも、お祭りが終わったあとの寂しい景を詠んだほうが、よりいっそう、お祭りの賑やかさを伝えられるのだ。花火大会なら、大きな花火が次々と打ち上げられてる佳境を詠むよりも、これから花火大会へ向かう浴衣の子供たちのワクワクした様子を詠んだほうが、よりいっそう、花火大会の楽しさが伝えられるのだ。だから、春の桜も、美しい満開の姿を詠むのもいいんだけど、それよりも、花が咲く前の蕾の状態を詠んだり、花が散ったあとの景を詠んだほうが、桜の美しさだけじゃなく、プラスアルファとして、生命感やはかなさまで伝えることができるのだ。

‥‥そんなワケで、明日の晩は「中秋の名月」なので、どんなお天気でも、午後6時ころから東の空を見てほしい。7時から8時の間が一番キレイに見えるハズだけど、やっぱりお天気によりけりだ。だけど、もしも曇ってキレイなお月様が見られなかったとしても、それはそれで俳句的にはラッキーってワケで、あたしは、雲に見え隠れするお月様に五七五で挨拶しようと思ってる。そして、もしも明日の夜が晴れて、美しい「中秋の名月」が見られたとしたら、それはそれで嬉しいから素直に喜ぶけど、俳句的には「満開の桜」とおんなじで、題材としてはイマイチになっちゃう。でも、そんな時のために、今夜がある。十五夜の前日の十四夜のことを「待宵(まつよい)」って言って、翌日の名月を待ちわびる思いを表現してる。つまり、桜で言えば「満開の一歩手前」ってワケで、今夜、お月様を見ながら「待宵」の句を詠んでおけば、明日がどんなお天気になっても、あたしとしてはノープラモデルな今日このころなのだ。


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