猫の仇討ち
1週間くらい前の深夜のこと、駐車場から「ウギャギャギャー!」って声とともにドタバタする音が聞こえてきたので、あたしは、猫がケンカをしてるんだと思って、窓から様子を見た。だけど、それっきりシーンと静まり返ったので、そのまま寝た。そして、次の日の朝、猫たちにご飯をあげに行ったら、もんじゃがケガをしてた。耳の前のとこと首から血が出てて、首のほうは毛も少し抜けてた。病院に連れてくほどのケガじゃなかったので、あたしは、ご飯を食べさせてから、傷を消毒して、猫用のピンクの抗生物質を飲ませた。
他の猫にやられた場合、傷が浅くても、猫エイズや猫白血病に感染してる恐れもある。だけど、こればかりは仕方ない。もんじゃにしても、野良猫なんだから、ケガをする以前に、生まれた時から母子感染してる可能性だってある。一説には、ニポンの野良猫の7割が、猫エイズか猫白血病のウイルスを持ってるって言われてるし、ほとんど野放し状態の現状じゃ、感染を食い止めることなんてできない。あたしにできることは、ただ、発病しないように祈り続けることだけだ。
それで、一応、他の猫たちもチェキしたんだけど、誰もケガしてなかったので、やられたのはもんじゃだけだってことが分かった。たぶん、しばらく前から駐車場の周りをウロウロするようになった目つきの悪い大きなブチ猫にやられたんだろう。この、ちょっと前にも、ジジが襲われてるとこをあたしが助けたことがあったからだ。ジジやもんじゃみたいに小柄な猫は、マイケルやペペロンチーノみたいに大きな猫と一緒にいる時は狙われないんだけど、単独でいる時、ヨソモノ猫に襲われちゃうことがある。他の猫たちと仲良くしてくれるなら、あたしはどんな猫でもウェルカムなんだけど、うちの子たちに危害を加えるヨソモノ猫には、厳しく対応してる今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、いくら「厳しく対応してる」って言っても、四六時中ずっと猫たちを監視してるワケにも行かないし、あたしのお部屋は2階だから、駐車場から「ウギャギャギャー!」って声が聞こえてきても、それから慌てて降りてった時には、もういなくなってる。だから、ちょっと前のジジの時みたいに、たまたまあたしが駐車場にいた時に、すぐ近くの植え込みのとことかで、うちの子がヨソモノ猫から攻撃されたりしたら、「コラ~~!!」って叫んで追い払うくらいで、他には何もできない。だから、基本的には、マクラに書いたように、マイケルやペペロンチーノや小林君たち、体の大きな猫が、ハナコやマックス、ジジやもんじゃたち、体が小さかったりケンカが弱かったりする猫を守るってシステムに頼り切ってるのが現状だ。
でも、これにしても、マイケルやペペロンチーノが、ジジやもんじゃを「守ろう」って思ってるワケじゃない。マイケルやペペロンチーノにしてみれば、マンションの駐車場は自分たちの餌場で、テリトリーで、縄張りで、サンクチュアリで、聖域で、あと何だっけ?‥‥ってワケだから、そこへ侵入してくるヨソモノ猫を撃退してるだけで、一緒にいたジジやもんじゃは、結果的に守られてるだけの話だ。だけど、ジジやもんじゃたちもそれを分かってるから、ヨソモノ猫が近づいてきた雰囲気を察知すると、ナニゲにマイケルやペペロンチーノが防波堤になるベストポジションにソッと移動したりする。
ま、それにしても、グループの中に体が大きくてケンカの強い猫がいてくれることは、とっても心強い。猫のケンカは、春の恋のシーズン以外は、そんなに激しくない。賢い猫たちは、人間みたいに無駄なケンカはしないから、たいていは、相手の体の大きさを見て、自分のほうが小さいと思ったら、そこで引き返してく。だから、最初に「フー!!」ってやりながら、背中の毛を逆立てたりシッポを太くしたりして、自分の体を少しでも大きく見せようとするのだ。
‥‥そんなワケで、もんじゃがヨソモノ猫に攻撃されてから1週間が過ぎた今日の明け方、またまた駐車場から「ウギャギャギャー!」って声が聞こえてきたんだけど、今度は激しかった。最初の「ウギャギャギャー!」はもんじゃだと思うんだけど、そのあと、別の猫の「ギャウギャウ!!」って声が聞こえてきて、ドタバタ具合も派手だった。だけど、すぐに静かになったから、あたしは駐車場には降りてかなかった。そして、朝の8時くらいになって、ご飯を持って降りてったら、恐い思いをしたからなのか、もんじゃがマックスよりも先にすり寄ってきた。それで、もんじゃを撫でながら点検したんだけど、新しいケガは増えてなかったので、あたしはホッとした。
今朝は、もんじゃ、マックス、ハナコ、ジジ、ペペロンチーノの5匹しか顔を出さなかったので、そのぶんのカリカリとお水を順番に並べて、ふと顔を上げたら、駐車場の隅に積んであるタイヤの上に、マイケルが寝てるのが目に入った。でも、眠ってるんじゃなくて、しきりに手を動かしてる。それで、不思議に思って見に行ってみたら、前足を少しケガしてて、そこをペロペロと舐めてたのだ。
この光景を見た瞬間、あたしは、すべてが分かった。明け方のドタバタは、もんじゃがヨソモノ猫に襲われそうになったのをマイケルが助けたのだ!さらに言えば、マイケルのケガは軽傷だから、相手にはそれなりのダメージを与えたハズだ!つまり、マイケルは、1週間前にもんじゃがやられた仇討ちをしてくれたのだ!すごいぞマイケル!単なるデブ猫じゃなかったんだな!よっ荒木又右衛門!‥‥ってワケで、チョチョンチョンチョンチョ~~~ン!
時は寛永7年(1630年)、岡山藩主の池田忠雄(ただかつ)は、別に男色一直線てワケでもなかったんだけど、美少年には目がなくて、渡辺源太夫っていう17歳の美少年をペットとして囲ってた。これを俗に「寵童(ちょうどう)」って言うんだけど、ようするに、夜のお相手をさせるために囲ってる少年てワケで、戦国時代から江戸時代の中期にかけては普通のことだった。同性愛者や両刀使いに限らず、当時の武将や貴族や僧侶たちは、側室(奥さん)とは別に、夜のお相手をさせるために、お気に入りの美少年を「寵童」として囲ってるのが普通だった。
有名なとこでは、武田信玄の囲ってた高坂弾正や、織田信長の囲ってた森欄丸なんかがメジャーな寵童だ。彼らは、自分の主人である信玄や信長から求められれば、絶対に「NO」と言うことは許されず、お尻をキレイに洗って、夜の激務に備えてたのだ。当時は、避妊具なんてない時代だから、性欲のおもむくままにそこらの女性とセックスしてたら大変なことになっちゃう。特に位の高い武士の場合は、後継ぎの問題とかでモメちゃうので、絶対に子供ができない方法、つまり、同性である男性を性欲処理に使ってた。そして、少しでも女性の肌に近いってことで、少年を使ってたってワケだ。
‥‥そんなワケで、岡山藩主の池田忠雄は、寵童の渡辺源太夫を溺愛してた。それは、女性以上に美しい美少年だったからだ。だけど、源太夫は、あまりにも美しかったために、もともとソッチのケがあった武士からも目をつけられまくってた。その中の1人が、池田忠雄の部下、藩士の河合又五郎だった。又五郎は、まだ19歳だったんだけど、源太夫の美しさにひと目惚れしちゃって、来る日も来る日も源太夫のことを思って悶々としてた。
今で言えば、新入社員が社長の愛人のことを好きになっちゃったみたいな感じで、それも、相手が同性だったんだから、なかなかのハードデイズナイトだろう。だけど、どうしてもガマンできなくなった又五郎は、寛永7年7月11日、自分の立場も身分も考えずに、とうとう源太夫に告白しちゃう。それも、「ボクは君のことを好きになってしまった。もちろん、君が藩主の池田様の大切な寵童だってことは分かってる。でも、どうしても君のことが好きなんだ。どうか一度だけでも、池田様に見つからないようにデートしてくれないか?」的な感じの告白ならオオゴトにならずに済んだかもしれないのに、完全にどうにかなっちゃってた又五郎は、「オレはお前のことが好きだーー!!オレのものになってくれーー!!」って叫んで、その場で押し倒してヤッちゃおうとしたのだ!
こんなことされたら、美少年に限らず、男でも女でも猫でも犬でも、誰だって拒絶しちゃうよね。当然、源太夫も、襲い掛かってきた又五郎のことを拒絶した。そしたら、頭に血が上ってた又五郎は、自分の強引なアプローチに問題があったってことが理解できずに、自分の美しき純愛を拒絶されたって思い込んじゃって、ナナナナナント! その場で刀を抜いて、源太夫のことを斬り殺しちゃったのだ! テレビに出てるアイドルとか女子アナとかに一方的に恋をして、あまりにも好きになりすぎて、相手が自分の存在すら知らないってことが分からずに、まるで知り合いみたいな口調のメールや手紙を送り続けた挙句に、どこかで待ち伏せして強硬手段に出ちゃう異常者、これとおんなじだ。
‥‥そんなワケで、自分の会社の社長の愛人に横恋慕した挙句、自分の激しい愛を拒絶されて叩き斬っちゃった又五郎は、そのまま会社にいられるワケがない。百歩ゆずっても切腹、普通なら拷問の果ての死刑に決まってる。だから、当然のこととして、岡山藩を脱藩してバックレた。又五郎が逃げた先は、江戸の旗本の安藤次右衛門のとこだった。
で、ユーザーから事故報告が相次いでるコンタクトレンズの「ワンデーアキュビュー」と違って、目の中に入れても痛くないほど源太夫のことを溺愛してた岡山藩主の池田忠雄は、愛する源太夫を殺して逃げた又五郎の身柄を渡すようにと、すぐに江戸の安藤次右衛門に要求した。でも、安藤次右衛門は、その要求を突っぱねた。そして、これが、大名(池田忠雄)と旗本(安藤次右衛門)とのメンツを懸けた争いに発展しちゃう。幕府が間に入って収めようとしたけど、両者の意地の張り合いは加熱するばかり‥‥と思ったのもトコノマ、この争いの渦中で、誰よりも一番カッカと頭に血が上ってた池田忠雄が、31歳の若さで、天然痘で亡くなっちゃう。源太夫が殺されてから2年後、寛永9年(1632年)4月3日のことだった。
普通に考えたら、一番怒ってた池田忠雄が亡くなっちゃったんだから、この話は自然にフェードアウトしそうなもんなんだけど、ところがドッコイ、そうも行かなかった。何でかって言うと、あまりにも源太夫のことを溺愛してた池田忠雄は、死の間際に、こんな言葉を遺したからだ。
「どんな手段を使っても、あの憎き又五郎の首を我が墓前に捧げよ!」
こんな遺言を遺されちゃった日にゃあ、周りの者はスルーできないだろう。それで、殺された源太夫の兄、渡辺数馬が、仇討ちをすることになる。普通、仇討ちってのは、藩主を殺された藩士だったり、親を殺された子供だったり、兄を殺された弟だったりってふうに、目上の者を殺された場合に行なうものだ。何でかって言うと、この仇討ちってシステムは、目上の者をリスペクトすることが基本の中国の「儒教」からの流れだからだ。中国の「周礼」や「礼記」などの古典には、「仇討ちこそが一族、家臣の義務である」って書かれてる。つまり、自分の親や主人を殺された者は、その相手を殺すことが義務だって記してるのだ。
当時のニポンは、中国の「儒教」の教えを社会道徳の根幹にしてた。それで、戦国の世が終わり、ずいぶん平和になった江戸時代だったからこそ、幕府は、自分の親や主人のために命を懸けて仕返しをするっていう「仇討ち」を美徳として推奨したのだ。そして、国が殺人を認める「仇討ち免許状」を発布するようになった。よく時代劇に出てくるアレだ。
‥‥そんなワケで、「儒教」の教えで言うと、弟の仇討ちを兄がするってのはリトルおかしかったんだけど、この場合は、一番怒ってた池田忠雄が病気で亡くなっちゃったことと、その池田忠雄が死の間際に又五郎への仇討ちを言い遺したってことで、又五郎は、殺された源太夫の仇じゃなくて、池田忠雄の仇って形になっちゃったのだ。そして、源太夫の兄の渡辺数馬も池田忠雄の部下だったから、渡辺数馬的には「自分の主人の仇討ち」ってことになったのだ。
だから、渡辺数馬には、ちゃんと幕府から「仇討ち免許状」が交付された。だけど、残念ながら、数馬は、剣の腕前はカラッキシだった。それで、いろいろと考えた数馬は、自分の姉のダンナで、郡山藩の剣術指南役だった荒木又右衛門に助太刀を依頼したのだ。そして、数馬は、又右衛門と一緒に、又五郎の行方を必死に捜し回り、池田忠雄が亡くなってから2年半後の寛永11年(1634年)11月、とうとう又五郎が奈良の旧郡山藩士の屋敷にかくまわれてるって情報を得る。だけど、又五郎のほうにも、自分の居場所が数馬たちの耳に入ったって情報が届いたため、又五郎はまた江戸へ逃げようとした。そこで、数馬たちは、又五郎が江戸へ向かうルートを調べて、途中の伊賀の国は上野の「鍵屋の辻」で待ち伏せする作戦に出た。
数馬チームは、剣豪の荒木又右衛門の他に、門弟の岩本孫右衛門、河合武右衛門の4人だったのに対して、命を狙われてることが分かってた又五郎のほうは、又五郎の叔父で郡山藩の元剣術指南役の河合甚左衛門、妹のダンナで槍の名人の桜井半兵衛を始め、総勢11人の鉄壁チームを組んでたのだ。バレーボールだったら、数馬チームに勝ち目はないだろうけど、これは仇討ち、それも、隠れての待ち伏せなんだから、たった4人の数馬チームにも勝機がある‥‥ってワケで、弟の源太夫が又五郎に殺されたのは、寛永7年7月11日だったけど、兄の数馬が又五郎に仇討ちを仕掛けたのは、奇しくも日付けの「7」と「11」を逆にした寛永11年11月7日の早朝だった。
何も知らずに「鍵屋の辻」を通過しようとした又五郎の一行の前に、数馬が飛び出し、仇討ちであることを告げ、又右衛門とともに斬り掛かった。数馬チームの門弟の2人、孫右衛門と武右衛門は、馬に乗ってた槍の名人の桜井半兵衛と部下の槍持ちに斬り掛かり、一番ヤッカイな槍を封じた。剣豪の又右衛門は、馬に乗ってた河合甚左衛門の足を斬りつけ、馬から落ちたとこでトドメを刺した。そして、桜井半兵衛と戦ってた門弟2人のフォローに入るも、門弟の1人、武右衛門は斬られてしまう。すかさず又右衛門が半兵衛を斬ると、又五郎チームのメンバーたちは、頼みの綱だった剣豪の甚左衛門と槍の名人の半兵衛がやられちゃったもんだから、「ダメだこりゃ!」ってことで、又五郎を置いてスタコラサッサと逃げちゃった。
結局、残ったのは、数馬チームの3人と、仇の又五郎だけになった。こうなれば、もう仇討ちは達せられたようなもんなんだけど、実際には、ここからが大変だった。仇討ちってのは、本人が斬らなきゃ意味がないから、剣豪の又右衛門なら一太刀で片づけちゃうとこなのに、剣の腕前がカラッキシの数馬は、なかなか又五郎を倒すことができない。一応、数馬のほうが斬られないように、又右衛門と門弟の孫右衛門が周りでフォローしつつも、1対1の勝負だから、そうそう横から手助けするワケにも行かない。そのため、決定打の出ないダラダラした勝負が延々と続いてって、開始から5時間も経過したとこで、ようやく数馬の太刀が又五郎に浅い傷を負わせた。そして、それを見た又右衛門がすかさずトドメを刺し、とうとう念願の仇討ちを成し遂げたってワケだ。
‥‥そんなワケで、これがホントの「鍵屋の辻の決闘」とか「鍵屋の辻の仇討ち」とか「伊賀越えの仇討ち」とか言われてるもので、剣豪の荒木又右衛門が「三十六人斬り」をしたってのは、あとから大きく膨らませた創作だ。仮に、又右衛門が1人で相手全員を斬ってたとしても「十一人斬り」なワケだし、実際には2人しか斬ってない。だけど、この仇討ちは、柳生十兵衛と同門で柳生新陰流の免許皆伝だった荒木又右衛門の活躍こそが「ストーリーの山場」になっちゃうから、あとからお芝居や映画になるたびに、どんどん脚色されてって、又右衛門が1人で36人も斬り殺したことになっちゃったのだ。
さらには、近代の映画やテレビドラマになると、仇討ちのもともとのキッカケまで勝手に書き換えちゃったものまで作られるようになった。実際には「美少年の源太夫を好きになっちゃった又五郎がフラれて逆ギレして斬っちゃった」ってのがコトの発端なのに、こうした「男色の横恋慕」ってのが教育上よろしくないと考えられるようになったからなのか、「源太夫が又五郎を侮辱したために斬られた」っていう波風の立たない内容に変えられてる作品も多い。
とにかく、当時は、幕府が仇討ちを美徳として世間に推奨してた時代だから、こうした実際の仇討ちが、美しい物語としてお芝居の演目になり、庶民の娯楽になってた。この「鍵屋の辻の仇討ち」は、70年後の元禄15年(1703年)に「赤穂浪士の討ち入り」が行なわれるまでは、ニポンイチ有名な仇討ちとして、数え切れないほど上演され続けた。何でかって言うと、この「鍵屋の辻の仇討ち」が行なわれるまでは、ニポンイチ有名な仇討ちは、建久4年(1193年)の「曾我兄弟の仇討ち」だったからだ。いくら有名とは言え、500年も前に行なわれた仇討ちのお芝居なんて、当時の人たちにしても「時代劇」みたいもんで、現実味が薄かったハズだ。そんなとこに登場した「鍵屋の辻の仇討ち」は、思いっきりリアルタイムな臨場感にあふれてたんだと思う。
で、この3つ、「曾我兄弟の仇討ち」と「鍵屋の辻の仇討ち」と「赤穂浪士の討ち入り」が、ニポンの「三大仇討ち」って呼ばれてるんだけど、ここでちょっと面白いコジツケがある。昔から「一富士、二鷹、三茄子」って言葉があるけど、これが、この「三大仇討ち」から生まれた言葉だっていうのだ。曾我兄弟が仇討ちを果たしたのが「富士」の裾野だったことと、大石内蔵助の家紋が「鷹」だったことと、鍵屋の辻がある伊賀の国の上野は「茄子」が名産だったこと‥‥って、あたしの「エヴァンゲリオン予想」とおんなじくらい怪しすぎるコジツケだ(笑)
‥‥そんなワケで、「赤穂浪士の討ち入り」に熱狂した庶民たちは、ますます仇討ちを美徳って考えるようになって、それまでは武士だけの話だったのに、とうとう庶民までもが仇討ちをするようになっちゃった。そして、庶民が仇討ちをすると、瓦版の号外が出て、その人は一躍ヒーローになっちゃう‥‥なんてことが続くようになり、中には、ホントに怨みを果たすために仇討ちをするんじゃなくて、ヒーローになりたくて仇討ちをするような人まで現われるようになった。そして、収拾がつかなくなったころに文明開化の音がして、明治6年(1873年)、明治政府によって「敵打ち禁止令」が発布されて、長かった仇討ちの歴史は幕を閉じたのだ。だから、それから140年近くも経った現在では、もしも仇討ちなんかしちゃったら、ヒーローどころか犯罪者にされちゃうワケで、仇討ちが許されてるのは、猫の世界だけなのかもしれない‥‥なんて感じの今日この頃なのだ。
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