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2010.10.28

人生の経験値/後編

‥‥ってなワケで、久しぶりに「前編」と「後編」に分けて「長編」を書いてるワケだけど、一般的なブログと比べたら、この「きっこの日記」は通常でも「長編」の部類に入るから、それが2日に渡って続くとなると、「チョー長編」てことになる。ま、この「チョー長編」て言葉が言いたかったためだけの書き出しなんだけど、昨日の「前編」で、あたしは、「15歳までは半人前」「15歳をホントの意味での人生のスタートとして考えてみる」ってことを書いた。そして、15歳を過ぎてからのいろんな経験が、その人の「人生の経験値」として蓄えられてく‥‥ってふうに書いた。

 

だけど、これは、15歳までの経験が無意味だってことじゃなくて、ようするに、比重の問題だ。たとえば、あたしは本を読むことでいろんな「気づき」を授かってきたって書いたけど、15歳を過ぎてから読んだ本だけが自分の糧になってるワケじゃない。小学校の時に読んだたくさんの本、特に「星の王子さま」と「不思議の国のアリス」からは、いろんな「気づき」を授かったし、他にも何らかの「気づき」を授かった本は数え切れないほどある。

 

ただ、これらの本を読んだ小学生の時点では、本から授かった「気づき」を実生活に役立てることは難しいし、そうした機会も少ない。何かの本に「お友達とは仲良くしましょう」「あいさつはきちんとしましょう」「ご飯は残さずに食べましょう」ってことが書いてあれば、小学生でもすぐに実践できるけど、こんなレベルのことは、別に本から学ぶことじゃない。本を読む以前に、親からも幼稚園の先生からも学んでるハズだ。

 

だけど、「星の王子さま」のラストシーンで、キツネとの別れを悲しむ星の王子さまが、「こんなに悲しくなるのなら、仲良くなんかならなければ良かった」って言ったのに対して、キツネは、「黄色く色づく麦畑を見て、王子の美しい金髪を思い出せるのなら、仲良くなったことは決して無駄なことじゃなかったって思うよ」って答える。そして、キツネは、別れ際に「大切なものはね、目には見えないんだよ」って王子さまに教える。あたしが、このシーンから授かった「気づき」を自分のものにできたのは、最初にこの本を読んだ小学校低学年の時から10年近く過ぎて、高校生になってからだった今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?

 

 

‥‥そんなワケで、あたしは、「星の王子さま」も「不思議の国のアリス」も大好きだから、初めて読んだのは小学生の時だったけど、中学生になってからも読み返したし、高校生の時にも読み返したし、大人になってからも何度も読み返してる。そして、読み返すたびに、必ず新しい「気づき」を授かってる。小学生の時には意味も分からなかったことが、中学生になってから読み返した時には「なるほど!そういう意味だったのか!」と理解でき、高校生の時に読み返したら、その描写の裏に隠されてたホントの意味に気づいたりもした。そして、これらの本から学んだことが、実際にあたしの人生で生かされたのは、ずっと大人になってからだった。

 

あたしは、多くの人たちとおんなじように、小学校で、九九を暗記したり、読み書きを覚えたり、自転車に乗れるようになったり、泳げるようになったり、いろんな知識や技術を身につけた。だけど、これらの知識や技術が実際に役に立ったのは、ずっと大きくなってからだった。ハッキリ言って、九九なんか教えなくても、読み書きなんか教えなくても、子供は育つ。言葉なんて、わざわざ学校で教えなくても、親と話しながら自然に覚えてくから、日常生活には困らない。学校なんか行かせずに、1日中ずっと遊ばせといたって、ご飯さえ食べさせとけば、子供は元気に育つ。

 

だけど、そんな子供を「義務」として小学校に通わせて、九九や読み書きを勉強させる。これは、今は必要ないけど、将来、必要になってくるから教えるワケだ。ようするに、将来のために、知識や技術という「人生の経験値」を積ませてるってワケだ。そして、小学校で九九を身につけたからこそ、中学校で習う二次方程式も、高校で習う微分積分も、なんとかギリギリ解くことができる‥‥ってシステムになってる。

 

ま、社会人になって一般的な職業に就けば、二次方程式も微分積分もまったく必要なかったってことが分かり、中学時代、高校時代に、あれほど苦しめられた数学って何だったのか?‥‥って思うけど、それでも、小学校で習った九九ゆ足し算、引き算、掛け算、割り算などは、社会生活を営んでく上で、大いに役に立つ。これは、形こそ違うけど、あたしが小学生の時に読んだ本から授かった「気づき」が、大人になってから初めて自分の人生に生かされたってこととおんなじだ。

 

だから、あたしは、本から授かる「気づき」に限らず、15歳までのいろんな経験に対して、それが無意味だって言ったんじゃなくて、ホントの意味で理解できたり、実際に自分の人生に生かせるようになるのは、15歳を過ぎたあたりからだ‥‥って思ったのだ。そして、こう考えれば、15歳を過ぎてから読んだ本から授かった「気づき」や、自分が体験したことから授かった「気づき」は、その場でダイレクトに自分の「人生の経験値」として反映されるってことになる。つまり、15歳を過ぎてからは、できるだけたくさんの本を読んだほうが、できるだけいろんな体験をしたほうが、その人の「人生の経験値」が蓄積されてって、いつか何かのチャンスに巡り合った時や、いつか何かの困難に突き当たった時に、他の人よりも有利に対応できるようになるってワケだ。

 

‥‥そんなワケで、ちょっと話の切り口を車線変更するけど、たとえば、「将来の夢は?」って質問に対して、小学校の低学年なら、「お姫様」だの「ウルトラマン」だのって非現実的なことを答える子も多い。これは、まだ、九九だとか読み書きだとかのベーシックな知識を身につけてる段階だ。そして、小学校の3年生くらいになれば、「アイドル歌手」だの「サッカー選手」だのって現実的な職業を口にするようになるけど、それでも、まだ、漠然とした「夢」みたいに感じてるだけだから、本意としては非現実的だ。

 

だけど、中学生になれば、実際に自分の将来の方向性や職業を具体的に考えるようになってくる。小学生の時とおんなじ「アイドル歌手」や「サッカー選手」に憧れてたとしても、小学生の時みたいに何の根拠もない漠然とした「夢」じゃなくて、実際に歌のレッスンに通ったり、サッカー部に入部して練習に励んだりして、「夢」を現実に近づけるための具体的な努力を始めてる。でも、アイドル歌手になりたい女の子が全員、サッカー選手になりたい男の子が全員、その夢を叶えられるワケはない。こうした特殊な夢を叶えられるのは、何千人、何万人に1人なんだから、99%以上の子は、ある程度の段階で、自分には素質のないことに気づき、将来の夢を現実路線へと切り替える。それが、だいたい、中学時代の後半から高校時代の前半くらいだろう。

 

たいていの子は、15歳くらいになれば、世の中のことも少しは分かってくるから、主観だけで生きてきた子供時代とは違って、多少は自分のことを客観的に見られるようになり、モノゴトを理論的に考えられるようになったため、将来の夢がグッと具体的になってくる。そのため、多くの子は、とりあえず勉強をがんばって、大学へ進学する道を選択する。そうすれば、その先の選択肢が広がるって思い込んでるし、親や先生からもそう教えられるからだ。

 

でも、今の中学生や高校生たちに、人生の先輩として助言させてもらうと、必ずしも大学へ進学することが最善とは言えない。もちろん、自分の夢を叶えるために「大卒」っていう肩書きが必要なケースとか、大学で専門の勉強をすることが必須のケースとかは別だけど、学歴に関係ない職業を夢見てるのなら、大学へ進学することはマイナス面も多い。自分の人生の貴重な時間を大学なんかで4年間も無駄にするよりも、1年でも早く現場に飛び込むことや、専門学校に進むことのほうが、自分の夢を叶えるためには遥かに近道だからだ。

 

‥‥そんなワケで、あたしは、義務教育が終わる15歳が、ホントの意味での「人生のスタート」だってことに気づいたから、自分の人生を振り返ってみて、あたしはそんなに遠回りはしてなくて良かったって思った。高校1年の時に、「ヘアメークになりたい」って夢を現実的に考えるようになって、その時点で高校を卒業したらヘアメークの専門学校に行くことを決めて、いろんな専門学校から資料を取り寄せて、どれくらいのお金が掛かるのかを調べた。そして、高校生活も楽しみながら、バンドをやったり俳句の会に出たりと自分の趣味も楽しみながら、バイトをカケモチして、特に夏休みや冬休みはバイトに明け暮れて、それで、高校卒業までに、専門学校に必要なお金を貯めた。

 

ヘアメークの専門学校は、基本コースからプロ養成コースへ進み、その中で、美容師の免許を取得した。この時点では、あたしの「ヘアメークになりたい」って思いは、あくまでも「夢」の段階だったから、その「夢」が叶わなかった時のことも考えてのことだ。ヘアメークってのは、何の免許も資格も必要ない職業だから、お化粧の得意な子が、今日からヘアメークを肩書きにして商売を始めることもできる。もちろん、そんなもんが通用するような甘い業界じゃないけど、資格が必要ないんだから、誰でも肩書きとして名乗ることはできる。つまり、潰しが効かない職業ってワケだ。

 

だけど、美容師免許を持ってれば、青山や原宿の有名な美容室に雇ってもらうことは無理でも、そこらの普通の美容室なら、何とか雇ってもらえるとこもある。あたしは、1日も早く一人前の社会人になって、1日も早く母さんをラクにしてあげたかったから、いくらヘアメークになることが自分の「夢」でも、その「夢」だけを追いかけてればいいとは思ってなかった。自分の「夢」を実現させるために最大限の努力をしつつも、もしもダメだった時のことも考えて、潰しの効く国家資格を取得したってワケだ。

 

‥‥そんなワケで、高校時代の同級生の多くが大学生をやってる時に、あたしはすでに現場でアシスタントとして働いてたし、同級生たちが大学を卒業して社会人1年生になった時には、あたしはすで何本かのお仕事も担当させていただいてた。フジテレビが、今のお台場じゃなくて、まだ曙橋(新宿の河田町)にあった時代で、フジテレビのことを「CX」って呼ぶのがカッコイイと思われてた時代だ。あたしは所属事務所で「CX班」に振り分けられてたから、10本のうち8本がフジテレビのお仕事で、1日に2本撮りの番組がダブルなんて日もあったし、当時は連日深夜まで撮影してたから、朝から晩までフジテレビの中で過ごしてて、局に泊まることも多かった。

 

次の日が遅ければタクシーチケットをもらって帰ったんだけど、次の日が午前中スタートの時なんかは、タクシーに乗ってる時間と翌日の電車に乗ってる時間がもったいない。そのぶん眠りたいから、局のシャワーを借りて、仮眠室で寝た。そのため、いつも着替えを持ち歩いてた。特に「かくし芸」の撮りが始まるこれからの時期は、何日も自宅に帰れない日もあった‥‥って、話がダッフンしちゃったけど、ようするに、高校の同級生たちが、ようやく社会人としての一歩を踏み出したころに、大学へ行かなかったあたしは、すでに一人前の社会人としてバリバリに働いてたってワケだ。人生がマラソンだとしたら、同級生たちがスタートした時に、あたしはすでに10キロ地点とかを走ってたってワケだ。

 

もちろん、それぞれの職種が違うんだから、同級生と比較したって意味はない。ただ、あたしがが言いたいのは、「もしもあたしが大学へ進学してたらどうなってたのか」ってことだ。もしも大学へ進学してたら、大学を卒業してからヘアメークの専門学校へ入学するんだから、フジテレビでバリバリと働いてるハズの時期に、ようやくヘアメークの基礎を勉強し始めることになる。大学へ行ってた4年間のぶんだけ、スタートが遅れたあたしは、これから起こるすべてのことに対して、4年遅れで進んでかなきゃならない。それどころか、あたしはちょうど人手が足りない時期に就職したことで、通常よりも早く担当を持たせていただけたけど、4年遅れで就職してたら、人手が足りてて、1年か2年は長くアシスタントをやらされてたと思う。そう考えると、あたしの選択は、考えられる中で最善だったってことになる。

 

‥‥そんなワケで、昨日の「前編」では、自分が20歳の時に見る40歳ってのは、単純に「2倍の年齢」ってことじゃなくて、今の自分の5倍もの経験値を蓄えてる状態だってことを書いた。だから、15歳までのベーシックな勉強や経験ももちろん大切だけど、15歳を過ぎてからはもっと大切になる。15歳を過ぎてから蓄える「人生の経験値」は比重が大きいから、良い本をたくさん読み、いろんな体験をして、ひとつでも多く「気づき」を得て、昨日より今日、今日より明日と、自分をステップアップさせていくことが未来につながる‥‥って感じのことを書いた。

 

だけど、いつも言ってるように、人はそれぞれの感性と考え方で、それぞれの人生を歩いてるんだから、あたしの言ってることがすべてじゃない。100人の人がいれば、そこには100通りの人生があるワケで、2人としておんなじ人生を歩いてる人なんていない。あたしの言ってることは、数え切れないほどある中のひとつの例に過ぎない。たとえば、駅のホームや電車の中で、通勤中のサラリーマンが、少年ジャンプを読んだりケータイのゲームに夢中になってるのを見ると、あたしは「バッカじゃないの?」って思う。いい年こいた大人が、少年マンガを読んだりケームに夢中になることは何とも思わないけど、それを公衆の面前でやられると、見てるほうが恥ずかしくなる。これは、男性側から見て、電車の中でお化粧してる女性に呆れる感覚とおんなじだ。

 

でも、これは、あたしが知らなかっただけで、もしかしたら、通勤中に少年ジャンプを読んでるサラリーマンは、マンガ雑誌の編集者なのかもしれない。ケータイのゲームに夢中になってるサラリーマンは、ケータイのゲームの配信会社に勤めてる人なのかもしれない。こんなふうに仮定すると、あたしが恥ずかしいと感じた行為は、それぞれのお仕事の延長線上にあるもので、見方を変えれば、「通勤の時間も惜しんで少年ジャンプを読み、面白いマンガ雑誌を作るために努力してる人」ってことになる。ケータイのゲームもしかりだ。ようするに、この人たちにとっては、通勤中に少年ジャンプを読むことやケータイのゲームに夢中になることが、「人生の経験値」を積んでることになるワケだ。

 

だから、あたしは「本を読んだほうがいい」ってことを書いてきたけど、これは「あたしの場合」の一例であって、人によっては、本よりもマンガを読んだほうが「人生の経験値」が貯まる人もいれば、ゲームをしたほうが「人生の経験値」が貯まる人もいるってことだ。もっと分かりやすい例をあげれば、プロのスポーツ選手の場合なんかは、毎日、地道にロードワークを続けることが、何よりも大切だったりする。もちろん、プロのスポーツ選手が、何かの本を読んだことがキッカケになって、それで開眼して大活躍するようになった‥‥ってことだってアリエールだから、どんな職業の人でも、どんな考え方の人でも、本は読まないよりも読んだほうがいいと思う。ただ、さっきの例みたいに、マンガを読んでるのはダメだとか、ゲームをやってるのはダメだとか、こうした自分の物差しによる決めつけはやめたほうがいいってことだ。

 

こないだ紹介した大島真寿美さんの小説「ほどける とける」には、主人公の美和ちゃんの弟で智也っていう中学生が出てくる。すごく生意気で、学校もサボッてゲームばかりやってるんだけど、成績だけはいい。それで、高校を中退しておじいちゃんの銭湯でバイトしてる美和ちゃん向かって、ことあるごとに「ゲームをやれ」ってアドバイスする。「俺は人生で大切なことはすべてゲームから学んだ」ってのが口癖で、智也いわく、「学校なんか行くよりもRPGをやり込んだほうが人生にとって大切なものが分かる」ってワケだ。

 

これは小説だから、現実の話じゃないけど、それでも、智也の理屈はよく分かる。智也は、現実の世界もRPGの世界と一緒で、自分が今いるステージをクリアしなかったら次のステージには進めないって言う。いつまでもおんなじステージで足踏みしてたいなら別だけど、少しでも上を目指そうっていう向上心があるのなら、今いるステージを最短でクリアする方法を考えて、最低限の努力で次のステージに進めるようにすべきだって言う。そして、智也自身は、ふだんは学校をサボッてゲームばかりしてても、休んだらまずい授業だけはちゃんと出て、試験でいい点数をとって、ちゃんと希望する高校へ進んじゃう。まさに有言実行だ。

 

あたしは、主に本や俳句から「気づき」を授かってきたけど、この智也みたいに、ゲームから「気づき」を授かったことのある人も実際にいるだろうし、映画や音楽、絵画や詩から、それこそ、マンガやアニメやゲームに至るまで、人それぞれ「気づき」を授かる対象はいろいろだと思う。だから、あたしは、どんなジャンルのものでも否定はしないけど、ひとつの方法として、いつもマンガばかり読んでる人は、たまには活字だけの本も読んでみるとか、いつもゲームばかりしてる人は、たまには美術館に展覧会を観に行ってみるとかすると、マンガやゲームからは得られないタイプの「気づき」を授かるかもしれない‥‥ってことだ。

 

煎じ詰めちゃえば、ようするに、対象は何でも構わないけど、たまにはふだん手を出してないジャンルのものも覗いてみたほうがいいってことと、一番重要なポイントが、どんな対象であれ、自分の力で「気づき」を見つけるってことだ。たとえば、本の場合なら、行間まで深く読んで、自分の力で大切な「気づき」を見つけることが重要なのであって、間違っても「影響」を受けちゃいけない。「気づき」の対極にあるのが「影響」だけど、「気づき」が自分の力で見つけ出すものなのに対して、「影響」は本のほうから流れ込んでくる一方通行の洗脳だ。ヤクザ映画を観た人や、ブルース・リーの映画を観た人が、映画館を出てきてから肩で風を切って歩いたり、自分が強くなったように錯覚しちゃうのが、この「影響」だ。

 

「ほどける とける」の智也は、毎日ゲームに夢中になってるけど、そのRPGの世界観に「影響」を受けて現実逃避してるワケじゃなくて、そのRPGをプレイしたことで学んだ「最短距離で次のステージへ進む方法」を現実の世界で実践してる。ゲームに「影響」を受けた子なら、まずは成績が下がり、人との付き合いが億劫になり、学校へ行かなくなり、ゲームの世界に現実逃避するようになる。だけど、智也のようにゲームから「気づき」を授かった子の場合は、あくまでもゲームは現実の世界を上手に生きてくための教科書にすぎないってことを理解してる。だから、どんなに夢中になっても「影響」は受けないのだ。

 

本の場合なら、俗に「成功本」て呼ばれてるジャンルのもので、株で儲ける系から自己啓発系まで、こうすればお金持ちになれるだの、こうすれば商売で成功するだの、こうすれば素晴らしい人生を送れるだのっていうパターンのものがある。こうした本の「影響」を受けると、ロクなことがないのは周知の事実だけど、トドのつまりが「パチンコ必勝法」や「競馬必勝法」とおんなじだと思えば騙される人も少しは減るだろう。だけど、こうした詐欺まがいの本でも、「影響」を受けるんじゃなくて「気づき」を授かるのなら、多少は自分の利益になる。「こんな本に騙される人たちは他の詐欺にも引っかかりやすいタイプの人たちなんだろうな」「なるほど、こういう書き方をすればバカが飛びついて買うのか」って、こうした「気づき」を得ることができれば「人生の経験値」を積むことになる。

 

‥‥そんなワケで、本だけでなく、どんなジャンルの対象でも、主観的に対峙してれば「影響」を受けやすくなり、客観的に対峙してれば「気づき」を授かりやすくなる。大好きなアイドル歌手の映像を観てる時には、何から何まですべてがステキに見えちゃうけど、それほど興味のないアイドル歌手の映像を観てると、良い部分だけじゃなくていろんな欠点も目についたりする。これは、前者が主観的な見方をしてるのに対して、後者は一歩離れた客観的な見方をしてるからだ‥‥ってことで、せっかく「人生の経験値」を上げるために本を読んでるのに、その本に洗脳されちゃったらモトもコもない。ようするに、本を読んだ末に人生で転倒しちゃうってワケで、これを「本末転倒」と呼ぶ‥‥てのは今思いついたギャグだけど、とにかく、「影響」は他人に流されることで、「気づき」は自分の足で歩くことだから、受動的な「影響」をできる限りブロックしつつ、能動的な「気づき」を目を皿のようにして探し続けてれば、必ずのその人の「人生の経験値」は上昇してくと思う今日この頃なのだ。

 

 

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