文化的な文化の日
昨日、11月3日は「文化の日」だったので、あたしは、せっかくだから何か文化的なことをしてみようと思ったんだけど、あらためて考えると、文化的なことってどんなことだろう?‥‥って言うか、それ以前に、「文化」って何だろう?‥‥って思って立ち止まっちゃった。「文化」と似たような言葉で「文明」ってのがあるけど、「文化」と「文明」はどう違うのか?
あたしのオツムじゃ辞書みたいに詳しく正確に説明することはできないけど、いつものようにフランク・ザッパに行くと、「文明」の場合はメソポタミア文明とかだから大規模で、少ない人数じゃできないことだ。ひとつの国とか、その民族全員とか、ものすごくたくさんの人が必要だ。たとえば、あたしの住んでる世田谷区だけで何かしても、とても「世田谷文明」とは呼ばれないだろうし、東京全体で何かしても、それを「東京文明」とは呼べないと思う。だけど、東京の周りの県も巻き込んで、関東一円で何かすれば、人数的なことはともかくとして、面積的な雰囲気として「関東文明」って呼べそうな気がする。つまり、「文明」には、人数だけじゃなくて、ある程度の面積も必要なんだと思う。
一方、「文化」のほうは、面積が狭くてもOKだ。世田谷区だけで行われてることは「世田谷の文化」と呼べるし、下町一帯なら「下町の文化」だし、東京全体で行われてることなら「東京の文化」だし、江戸時代なら「江戸の文化」ってことになる。さらに言えば、今から50年以上も前の昭和30年代は、団地という名の「文化住宅」に住んだり、「文化鍋」でご飯を炊いたり、「文化包丁」で大根を切ったりすれば、それだけで「文化的」だったのだ。
つまり、「文化」ってのは、自分ひとりでもできることなのだ。「文化住宅」や「文化鍋」の例を見れば分かるように、それまでよりも便利な日用品を使えば、それがすでに「文化的」ってワケで、今まで墨を磨って筆で文字を書いてた人は、墨汁を使うだけでも文化的だし、筆ペンを使えばスーパー文化的ってことになる今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、ようやく「文化」の意味が分かったあたしは、「文化の日」の記念すべき最初の文化的な行動として、炊飯ジャーでご飯を炊いた。お鍋でお米を研いで、ガスにかけて、時間を見たり噴き出す湯気を見ながら火加減を調節して、ものすごく苦労してご飯を炊いても、それが昭和30年代なら文化的だったんだから、スイッチひとつで自動的にご飯を炊いてくれる上に、保温までしてくれる現在の炊飯ジャーは、まさしく文化の象徴だ。もちろん、電気炊飯器が登場したのは、あたしが生まれるずっと前だけど、家電は日進月歩だから、あたしの愛用してる8000円の炊飯器にしたって、たぶん、20年前の3万円の炊飯器よりも高性能だったりする。
一例をあげると、あたしの炊飯ジャーは、ご飯が炊ける他に、おかゆも作れるし、おかゆの固さも調節できる。さらには、パンも焼ける。ま、普通の炊飯ジャーでもパンは焼けるけど、あたしのは、ちゃんとパンを焼くモードを備えてるのだ。どういうことかって言うと、パン生地を練って炊飯器に入れて、パン焼きモードのスイッチを入れると、イースト菌が発酵する時間とかもぜんぶ自動でやってくれて、朝起きると丸くて大きなパンが焼きあがってるのだ。普通の炊飯ジャーでパンを焼く時は、生地を発酵させる時には保温モードにしたり、すべての過程を手動でやらなきゃなんないけど、あたしのは、ご飯を炊くのと一緒で、スイッチひとつで出来ちゃうのだ。
だから、あたしの8000円の炊飯ジャーは、まさしく戦後文化の象徴ってワケで、これでご飯を炊くことは、「文化の日」にふさわしい文化的なイベントってワケだ。そして、文化的にご飯を炊いたあたしは、小ぶりのおにぎりをいくつも作って、文化的なタッパーに入れた。文化的にヤカンでお湯を沸かして、文化的な魔法瓶にお茶を入れた。そして、文化的な電話機で母さんに電話して、文化的な「文化の日」を過ごすために、母さんと馬事公苑に行くことにした。
お昼ちょっと前に、おにぎりとお茶を持って、母さんのとこまで文化的な自転車を漕いでくと、母さんは文化的に充電してたバッテリーを持って出てきて、あたしの自転車よりも遥かに文化的な電動アシスト付き自転車にセットした。ハッキリ言って、さっきの炊飯ジャーのクダリは、ずいぶん無理して文化的ってことにしたワケだけど、この電動アシスト付き自転車は、胸を張って文化的だと言える。ニコタマから環八方面への長くて急な坂を上れば、いかに文化的なのかがよく分かる。何しろ、普通のママチャリのあたしが、お尻を浮かせて必死に漕いでも途中で挫折しちゃうのに、母さんはサドルに腰掛けたまま、平坦な道を走ってるのとおんなじにスイスイと上ってっちゃうからだ。
‥‥そんなワケで、空は素晴らしい快晴だし、お日様がポカポカのワリには気温はそんなに高くなくて、自転車を漕いでも暑くならないっていう最高のサイクリング日和だったから、馬事公苑までの道のりは、文化的な電動アシスト付き自転車の母さんはもちろんのこと、ちょっとだけ文化の遅れてるママチャリのあたしもラクチンだった。馬事公苑は、あたしの住んでるニコタマから、ひとつ渋谷寄りの用賀って駅に行き、そこからバスで行く感じの場所なので、直線距離にすると3kmくらいなんだけど、まっすぐに行く道がなくて、L字型っぽく行くしかない。だから、「長い上り坂」+「ちょっと遠回り」ってワケで、近いワリには行くのが大変な場所なのだ。
で、正式名称は「日本中央競馬会 馬事公苑」に到着した母さんとあたしは、中に入る前に、正門の右手のディープインパクトのパネルが飾ってある掲示板を見て、イベントをチェキした。現在は、入場料200円で「世界の馬のコイン展」をやってるみたいで、あとはしばらく先だけど仮面ライダーのショーをやるみたいだった。そして、正門を入り、すぐ左手の自転車置き場に自転車を停めようとしたら、サスガに祭日だけのことはあって、停める場所がないほどたくさんの自転車が並んでた。
馬事公苑は、日本中央競馬会が馬事の普及のために運営してる場所だから、東京ドーム4個ぶん以上の広大な園内には、馬術競技用のアリーナがいくつも作られてる。競馬で言うところのダートコースに該当するメインアリーナ、芝コースに該当するグラスアリーナ、雨の日でも馬術競技ができるインドアアリーナの他に、グルッと一周してるダートのトラックもあるし、広い放牧場もある。100頭以上の馬がいる大きな厩舎もあるし、ゲストの馬のための厩舎もある。
そして、一般の人たちも楽しめるように、ひょうたん型の池がある美しい「日本庭園」もあるし、四季折々のお花が楽しめる「お花畑」もあるし、運が良ければ野鳥も観られる「武蔵野自然林」もあるし、いろんな遊具が設置されてる「遊園広場」もある。もちろん、すべて無料だから、お休みの日だけじゃなくて、平日でもお散歩に来たりお弁当を食べに来たりする人がたくさんいる。そして、土曜日や日曜日には、ポニーの乗馬や馬車の運行なんかも催してる。他にも、毎年5月のゴールデンウィークに開催される「ホースショー」や、毎年9月23日に開催される「愛馬の日」のイベントを始め、いろんなイベントがメジロマックイーンだ。
‥‥そんなワケで、あたしが馬事公苑に行くと、たていては何人かの人が馬術の練習をしてたり、普通に馬が歩いてたりするんだけど、昨日は珍しく、どこにも馬がいなかった。いろいろと楽しめる場所があるとは言え、馬事公苑に来たんだから、まずは馬を探しちゃうワケだけど、みんな厩舎でお休みしてたみたいで、母さんと一緒に、メインアリーナを見て、ダートのトラックを見て、グラスアリーナも見たんだけど、どこにも馬はいなかった。
その代わり、お天気が良かったので、ちっちゃな子供を連れた若いママたちが何人も来てて、思い思いの場所でお弁当を食べたり、おしゃべりをしたり、本を読んだり、ケータイのゲームをやったりしてた。せっかくこんなにお天気がいいのに、こんなとこまで来てケータイでゲームかよ?‥‥って思ったんだけど、きっと子供のころには、家族で旅行に行ってもずっとゲームボーイをやってた世代なんだろうと思って、今はそんなもんかと納得した。
それで、母さんとあたしは、お花を見ようとグラスアリーナの先にある「お花畑」に行ったんだけど、ナナナナナント! 「お花畑」もお休みで扉が閉められてたのだ! ここには、たくさんのお花の他に、馬の形のオブジェとか馬が乗ってるシーソーとかがあるのに、柵の外から眺めることしかできなかった。仕方ないので、木漏れ日の中、馬車道を歩き、馬車の駅の先にある「武蔵野自然林」へ行った。ここは、いつでも誰でも自由に入れるから、あたしは、馬事公苑に来ると必ずお散歩することにしてる。母さんは、あちこちに立ってる「カラスにエサなどを与えないでください」って注意看板を見て、「そんなにたくさんカラスがいるの?」って言いながら、ヤタラと頭上を気にしてた。でも、どこにもカラスはいなかった。
そんなこんなで、少しお散歩した母さんとあたしは、ちょうどお腹も減ってきたので、グラスアリーナに戻り、屋根のある観客席に座って、おにぎりを食べることにした。普通のおにぎりを2個ずつだと、ちょっと味気ないと思ったので、今回は、ひとくちサイズのミニおにぎりをいくつも作り、大きなタッパーにきれいに並べてみた。海苔を巻いたおにぎりだけじゃなくて、ゴマ塩をまぶしたもの、ゆかりを混ぜたもの、のりたまをまぶしたものなど、ピンポン玉よりちょっと大きいミニおにぎりを12個、見た目にも楽しく並べてみた。
母さんは、「遠足みたいだね♪」って言って喜んでくれた。おにぎりだけのお弁当でも、こうしてちょっと工夫すれば、母さんとの大切な時間を華やかにしてくれる。魔法瓶に入れてきた玄米茶も美味しくて、母さんとあたしは、馬が1頭もいないグラスアリーナを眺めながら、しばらくボケーッとして贅沢な時間を過ごした。そして、とりとめもないことを話しながら、ゆっくりと日本庭園までお散歩して、また腰掛けてお茶を飲んだ。
映画館へ行くのは映画を観るためで、美術館へ行くのは絵画や彫刻を観るためで、動物園へ行くのは動物を観るためで、水族館へ行くのはお魚を観るためだ。これらのように、最初から目的が決まってて、その目的のためにどこかへ出かけるのは楽しい。温泉へ行くのは温泉に入るためで、温泉まで行ったのに温泉に入らずに帰ってきたら、ぜんぜん楽しくないし意味がない。だけど、たまには、何の目的も持たずにどこかへ行き、何もしないで過ごすってのも、逆に楽しかったりする。目的を持って行動してると、その目的を遂行することばかりに気持ちが急(せ)かされちゃって、目的の先にある本質がおろそかになったりすることもあるからだ。
今回は、場所が馬事公苑だったから、一応は「馬が観たい」って気持ちもあったけど、別に馬を観ることが目的じゃなかったから、観られなくてもそれほど残念じゃなかった。「お花畑」を観ることも目的じゃなかったから、閉まっててもそんなに残念じゃなかった。もちろん、観られないよりは観られたほうが良かったけど、全体を10とすると「馬が観られる観られない」なんてのは1くらいのことだ。あたしの目的は「母さんとのんびり過ごす」ってことだったし、そのための口実が「文化の日に何か文化的なことをしてみる」ってことだったから、文化的な自転車を漕いで馬事公苑まで行き、母さんとお散歩したりおにぎりを食べたりできれば、もう十分に目的は達せられてるのだ。
‥‥そんなワケで、母さんとあたしは、ずいぶんとのんびりできたので、そろそろ帰ろうと思って、正門のほうへ戻ってきた。そしたら、母さんが、「あっ」って小さな声を出して、ホースギャラリーの建物の前で立ち止まり、建物のほうへと近づいてった。母さんが見つけたのは、ホースギャラリーの建物の前にある馬の親子のブロンズ像だった。入ってきた時は、おしゃべりしながら逆のほうを見てたので、母さんはブロンズ像に気づかなかったみたいだ。
どんな動物でも、親子の姿は微笑ましいもんだけど、この像はホントによく出来てて、馬のお母さんが子供をいとおしむ姿が見事に表現されてる。あたしはこの像が大好きで、馬事公苑にくるたびに眺めてたんだけど、母さんは十数年ぶりにきたので、前に見てたとしても、初めて見るような感じだったみたいだ。
馬事公苑は、正門の扉の上にも馬の頭の像、水飲み場も馬の形、案内看板の上にも馬のオブジェ、可愛い馬車型の花壇にも馬のマークと、園内のあちこちに馬がいるから、東京ディズニーランドで「隠れミッキー」を探すように、馬の形をしたものを探して歩いても楽しい‥‥ってワケで、しばらく2人で馬の親子の像を眺めてたら、母さんがポツリと、「きみこが小さかったころを思い出したよ」って言って、クスッと笑った。
あたしは、今月でもう38歳になるってのに、母さんから見れば永遠に子供なワケで、母さんの記憶の中には、あたしがぜんぜん覚えてない赤ちゃんだった時のことも、ちっちゃかった時のことも、きっとたくさん詰まってるのだ。今のあたしより10歳以上も若かった母さんが、あたしを生んでくれて、一生懸命に育ててくれたことを思うと、何とも言えない複雑な気持ちになる。それは、この年になっても、結婚もせずに、子供も生んでない自分に対する劣等感て言うか、女性として未完成であることの引け目みたいな感覚と、だからこその母さんに対する尊敬の気持ちだ。
あたしは、ひとりでいることを「寂しい」なんて思ったことは一度もない。若かったころには、そう思った瞬間もあったかもしれないけど、少なくとも、ここ十数年は、誰もいない部屋にひとりで目覚め、生きてくために必死で働き、また誰もいない部屋に帰ってきてひとりで眠ることに、何の寂しさも感じてない。それどころか、ひとりだからリラックスできるし、ひとりだから自由でいられると思ってる。1日のほとんどをたくさんの人たちの中で働いてて、複数のお仕事を掛け持ちしてる日には、それこそ100人近い人たちと顔を合わせることになるから、自宅に帰ってきたらひとりになりたい。誰にも気を使わずに、誰の目も気にせずに、好きな時間に好きなことをして好きな時に眠りにつきたい。自宅でひとりでリラックスできるからこそ、次の日も気持ちを切り替えてがんばれる。
こんな生活を十数年も続けてきたから、今のあたしは、結婚だけじゃなくて、同棲だろうが女友達との同居だろうが、誰かと一緒に暮らすなんてことは考えられない。人生のパートナーであろうが、恋人であろうが、親友であろうが、おんなじ屋根の下に誰かがいたら、心が落ち着かなくなる。夏のお風呂上りに、全裸のまま冷蔵庫の前でキンキンに冷やしておいた「のどごし生」をキューッと飲み干すことができなくなる。下着のまま姿見の前で自己流のベリーダンスを踊ることもできなくなる。酔ったイキオイで深夜にエレキギターを弾けなくなる。何をするにしても、常に誰かのことを気にしなきゃならないなんて、ものすごいストレスだ。
だから、あたしは、今の自分の生活に何も不満はないし、それどころか、極めて満足してる。だけど、ひとりの生活に満足してる自分とは別に、恋愛、結婚、出産、育児っていう女性としての幸せって言うか、特権って言うか、義務って言うか、普通の女性が普通にしてることをスルーして生きてる自分に対して、「ホントにこれでいいの?」って問いかけてる、もうひとりの自分がいることも確かだ。
‥‥そんなワケで、あたしの母さんは、今のあたしよりも10歳以上も若い時に、父さんと結婚して、あたしを生んでくれた。そして、今のあたしとおんなじ年の時には、すでに父さんと離婚してて、中学生になったあたしを育てるために、必死に働いてた。あたしも、新聞配達をしたりして少しは母さんを助けてたけど、もしも、今のあたしに中学生の子供がいたら?‥‥って想像すると、とても母さんみたいにはがんばれなかったと思う。だから、あたしは、母さんを立派だと思う気持ち、尊敬する気持ち、感謝する気持ちを両手に抱えきれないほど持ってる反面、結婚もせず、子供も生んでない自分に対して、何とも言えない劣等感みたいな気持ちを引きずってきた‥‥って、何でこんなことを書いたのかって言うと、馬の親子の像を眺めながら、母さんが、こんなことをつぶやいたからだ。
「きみこ、きみこはホントにひとりでいいの?」
「えっ?なんで?」
「だって、あたしが死んだら、きみこはホントにひとりぼっちになっちゃうんだよ‥‥」
母さんの目には、仲良く戯れてる馬の親子の像が、自分とあたしに見えたのだ。そして、いつか自分が先にいなくなった時のことを思って、ひとりぼっちになった子馬の姿を想像したんだと思う。
あたしも、30代の半ばくらいまでは、母さんを安心させるために、結婚して子供を作ろうとか、結婚はしなくても子供だけは生んでひとりで育てようとか、いろいろと考えてた時期もあった。だけど、あたしには、そんなことよりも、とにかく母さんの手術代を作って、1日も早く元気になってもらうっていう最優先事項があったから、自分のことは二の次でがんばってきた。そして、母さんもそれを知ってるから、あたしに対して「結婚しないの?」とか「孫の顔が見たい」とかって言葉は、心で思ってても口には出さないようにしてきたんだと思う。
母さんとあたしは、20年以上も2人きりで生きてきたから、何も言わなくても、お互いの思ってることがほとんど分かる。だから、お互いに隠し事ができない。いくら相手に心配をかけないように笑顔で「大丈夫♪」って言っても、大丈夫じゃないことは丸見えになっちゃう。だから、最後にはちょっとシンミリした話もしちゃったけど、お互いに言わなくても分かってたことだし、久しぶりに母さんとのんびりした時間を過ごすことができて、あたしは、馬の親子の像みたいに、子供のころに戻って、母さんに甘えることができた気がした。
‥‥そんなワケで、入り口の自転車置き場に到着したら、母さんが「タイヤの空気が減ってるみたいなの」って言ったから、すぐ脇にある空気入れを借りることにした。馬事公苑の自転車置き場には、親切なことに、誰でも無料で使える空気入れが完備されてるのだ。コンプレッサー付きだから、横のボタンを押すだけで、自動的に空気が入る。まさに「文化の日」にふさわしい文化的な空気入れだ。あたしは、母さんの自転車の前後のタイヤに空気を入れて、ついでに、自分の自転車にも空気を入れた。そして、母さんと一緒に、馬事公苑の前の木漏れ日の道をゆっくりと走り出した。あたしは、ずっと心に引っかかってたことを母さんと話せたからか、それとも、タイヤに空気を入れたからか、来た時よりもペダルが軽く感じた今日この頃なのだ。
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