黒岩重吾の見た昭和
今からちょうど30年前の昭和56年(1981年)の夏、山口組三代目組長の田岡一雄が、急性心不全のため68歳で亡くなった。そして、四代目の最有力候補は、山口組の若頭で山健組の組長だった「イケイケの山健」こと山本健一だったんだけど、山本健一は、田岡組長が亡くなった翌年の春に、服役中の大阪刑務所で、肝臓病を悪化させて亡くなってしまった。ちなみに、映画「仁義なき戦い」で梅宮辰夫が演じてる岩井信一は、この山本健一がモデルになってる。
で、わずか半年ほどの間に、トップとナンバー2を失った山口組は、とりあえず、若頭補佐で山広組組長だった山本広を「組長代行」に、若頭補佐で竹中組組長だった竹中正久を「若頭」に昇格させた。だけど、普通なら、このまま山本広が四代目になるハズなのに、昭和59年、田岡組長の妻の田岡文子が、竹中正久のほうを四代目にしちゃった。山本広は、これまで何度も出世を拒まれてきた経緯から、とうとう堪忍袋の緒が切れて、山口組を割って一和会を結成する。山口組の組員や構成員は、山口組に残る者と一和会に参加する者とで二分され、ここから、皆さんオナジミの、山口組と一和会との「山一抗争」が勃発した。
「山一抗争」は、文字通り「タマの取り合い」で、昭和59年から平成元年までの5年間に、たくさんの襲撃や暗殺が行なわれた。一方が一方を襲撃し、その報復、報復の報復、報復の報復の報復‥‥ってふうに、「タマの取り合い」は連鎖してった。そして、その中のひとつに、昭和62年2月の事件がある。サイパン島のバンザイ岬で、一和会の常任顧問で白神組の組長、白神英雄の射殺死体が発見されたのだ。白神英雄は、30代の頭には、すでに大阪のミナミを縄張りにしてた南道会の大幹部で、ミナミ一帯を仕切ってた今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、「きっこの日記」らしくないマクラからスタートしちゃったけど、世の中にはホントに不思議なことがあるもんで、それを説明するためには、どうしても山口組と一和会との「山一抗争」に触れとかなきゃならなかった。それで、簡単に流れを書いてみたワケだけど、あたしは、最近、黒岩重吾の「川面の顔」っていう短編を読んだ。これは、「オール読物」の昭和62年5月号に掲載された作品で、小説じゃなくて回想録だ。黒岩重吾と言えば、若いころに株で一文無しになり、大阪の「あいりん地区」でその日暮らしをして、その後、キャバレーの宣伝部員をつとめながら小説家を目指し、37歳の時に「背徳のメス」で直木賞を受賞した作家だ。だから、黒岩重吾の作品には、昭和30年代の大阪の夜の世界を描いたものも多いし、その匂いを感じさせるものも多い。で、話はクルリンパと戻るけど、あたしが読んだ「川面の顔」は、こんな書き出しで始まってる。
「先日サイパン島で山口組と抗争している一和会のS組長のS氏が殺害された。享年六十三歳だった。私より一歳上である。各新聞はかなり大きく報じ顔写真を載せていた。太い眉と苦虫を噛み潰したようなS氏独特の顔は、私が知っている三十年前のS氏と余り変わっていなかった。」
そう、この「S氏」というのは、白神組の組長、白神英雄のことなのだ。白神英雄がサイパン島で山口組のヒットマンに殺されて、死体が発見されたのが昭和62年2月2日なんだけど、黒岩重吾の「川面の顔」は、「オール読物」の昭和62年5月号に掲載されてる。月刊誌の場合、5月号は4月に発売されるから、掲載作品の締め切りは3月になる。つまり、この時の黒岩重吾は、新聞に掲載された白神英雄の訃報と顔写真を見た瞬間に、何年も心の奥の小箱の中に仕舞ってた30年も前の記憶が走馬灯のように脳内を駆け巡り、すぐに書斎に篭って、「川面の顔」を一気に書き上げたのだ‥‥と思う。
‥‥そんなワケで、「川面の顔」は、新聞で白神英雄の訃報を知った黒岩重吾が、それをキッカケとして30年前の自身を回想する自叙伝なので、書かれてる内容はすべて事実に基づいてる。当時、大阪はミナミの「ナイトクラブ ミナミ」で働いてた黒岩重吾は、この店の新聞広告やチラシ、地下鉄の駅に出す看板の宣伝コピーなんかを考える宣伝部員だった。だから、他の男性従業員、マネージャーやボーイたちとはまったく違う勤務形態で、1日のほとんどをオーナーのいる事務所の上の部屋で過ごしてた。その部屋で、オーナーから指示された宣伝コピーを考えたり、空いた時間に小説を書いたりしてお給料をもらってたのだ。
で、そのオーナーのいる事務所に何度かやってきたのが、ミナミ一帯を縄張りにしてた南道会の大幹部、若かりしころの白神英雄だったってワケだ。黒岩重吾は、身長160センチ、体重50キロだったんだけど、「白神英雄も自分と同じくらいの身長だった」って書いてるから、小柄な男だったんだろう。だけど、まだ30代になったばかりの白神英雄は、身長こそ160センチ少々だったけど、肩幅が広くて、坊主頭で、目つきが鋭かったそうだ。一方、オーナーのほうは、身長180センチ、体重80キロの大柄で、この2人が、事務所のテーブルをはさんで睨み合ってたと言う。ようするに、ホステスがどうしたとか、ミカジメ料がどうしたとかっていうことなんだろうけど、偶然その場に居合わせた黒岩重吾も、このやり取りに巻き込まれるような形になる。
ま、その辺のことは置いといて、とにかく、小説家の黒岩重吾は、30代の頭に、この「ナイトクラブ ミナミ」で3年間だけ働き、その間、何度か白神英雄と顔を合わせたりもしつつ、この店を辞めて本格的に小説家を目指し、あいりん地区の病院を舞台にした「背徳のメス」で、昭和35年(1960年)の下半期、第44回の直木賞を受賞したってワケだ。そして、それからは、精力的に次々と作品を書き続け、1980年には古代史小説「天の川の太陽」で第14回吉川英治文学賞を受賞、1991年には紫綬褒章、翌年には「弓削道鏡」を初めとする一連の古代史ロマンで第40回菊池寛賞を受賞した。そして、2003年3月7日、79歳で生涯を閉じた。
ちなみに、あたしが初めて黒岩重吾の小説を読んだのは、社会人になってからだった。自分でもよく記憶してるな~って思うんだけど、今から15年くらい前に、当時所属してた俳句結社の句会が高円寺であって、あたしは何とか時間を作って駆けつけた。だけど、あまりにも慌ててたもんだから、あたしは、愛用の古語辞典を忘れちゃったのだ。古語辞典を忘れたことに気づいたのは、高円寺の駅を降りる直前だったから、「必要な時は誰かに借りればいいか」って思って、そのまま句会の会場へと向かった。だけど、駅のガードの先から路地へ入り、有名な沖縄料理屋の「抱瓶(だちびん)」の前を通っていく会場までの間に、3~4軒の古本屋さんがあったので、あたしは、ちょっと覗いてみた。
そしたら、小型で持ち歩くのに良さそうな古語辞典が200円だった。あたしの愛用の古語辞典は、すごく大きくて重かったから、持ち歩くのが大変だった。それで、あたしは、これも何かの縁だと思って、その古語辞典を買うことにしたんだけど、その時、文庫本の100円コーナーで見つけたのが、黒岩重吾の「深海パーティ」っていう小説だった。恥ずかしながら、あたしは、この時まで、黒岩重吾っていう作家を知らなかったんだけど、ノスタルジーを感じさせるような表紙の深海魚の絵と、冒頭の淡々とした書き出しに興味がわいたので、古語辞典と一緒に買ってみた。
これが、あたしの、黒岩重吾作品との出会いなので、黒岩重吾が直木賞作家だってことを知ったのも、その直木賞受賞作の「背徳のメス」を読んだのも、すべて、あとからのことだ‥‥ってワケで、あたしは初めて読んだ「深海パーティ」も、昭和30年代の大阪ミナミのキャバレーを舞台にした作品だった。作者の体験に基づいて書かれてる小説だから、その時代には生まれてなかったあたしにも、不思議と懐かしさみたいな感覚が伝わってきて、何とも言えない世界観に魅了された。そして、あたしは、チョコチョコと黒岩重吾作品を読むようになった。ちなみに、この「深海パーティ」については、2008年10月3日の日記、「双方の言いぶん」の中で取り上げてて、本文もワリと長めに引用してるから、どんな雰囲気の文章なのか知りたい人は、過去ログを読んでみてほしい。
‥‥そんなワケで、「ナイトクラブ ミナミ」に勤めてる間にも、新聞や雑誌の賞をいくつか受賞してた黒岩重吾だけど、やっぱり、生活が劇的に変わったのは、昭和35年(1960年)に直木賞を受賞してからだろう。直木賞の受賞とともに、黒岩重吾のとこには松竹から映画化のオファーがあり、監督は野村芳太郎、主人公の産婦人科医、植(うえ)秀人の役には田村高廣を抜擢して、すぐに映画が作られ、翌年の1961年に公開された。今よりも遥かに娯楽が少なかった時代なんだから、原作の小説も売れただろうけど、映画もたくさんの人が観に行ったと思う。
「背徳のメス」の内容に関しては、有名だから解説はしないけど、この映画で、主人公の植秀人の愛人の1人、薬剤師の加納伊津子役を演じたのが、元タカラジェンヌで女優の高千穂ひづる、婦長の役が久我美子だった。そして、この年には、松本清張の「ゼロの焦点」も映画化されたんだけど、こちらも監督は野村芳太郎で、失踪したダンナを探す主役の鵜原禎子の役が久我美子、失踪したダンナの得意先の社長婦人、室田佐知子の役を高千穂ひづるが演じてる。
つまり、1961年には、「背徳のメス」と「ゼロの焦点」が、おんなじ監督によって映画化されて公開されたんだけど、高千穂ひづるは、「背徳のメス」では主役の産婦人科医と関係を持つ愛人を演じ、「ゼロの焦点」では主役の女性と深く関わる大きな会社の社長夫人を演じてるのだ。そして、高千穂ひづるは、この両方の映画で、ブルーリボン賞の「助演女優賞」を受賞してる‥‥ってワケで、高千穂ひづると言えば、2008年12月に、宝塚時代から昭和の映画黄金期までの思い出を綴った回想録「胡蝶奮戦 スターたちと過ごした日々」を出版した。
これは、ご本人が原稿を書いたんじゃなくて、口述で聞いたものを編集人の藤井秀男が談話形式でマトメたんだと思う。だから、すごく読みやすい上に、当時の写真などもたくさん散りばめてあって、この時代を知ってる人には、たまらない魅力の一冊だと思う。あたしは時代が違うけど、ちょうど母さんの時代なので、あたしは母さんへのプレゼントとして、この本を買った。2008年の12月、発売日の前に紀伊国屋書店に予約しといたら、22日に「入荷しました」って電話があったので、すぐに買いに行った。そして、カードを添えて、母さんへのクリスマスプレゼントにしたってワケだ。
だから、あたしがこの本を読んだのは、次の年になってからだった。母さんが読み終わってから、借りて読んだんだけど、ギャンブル好きなあたしが「おっ!」と思ったエピソードは、高千穂ひづるが宝塚の先輩の南風洋子から麻雀を教わってたって話だった‥‥ってワケで、ここから、不思議な「偶然の連鎖」がスタートする。高千穂ひづるに麻雀を教えた南風洋子は、この本が発売される1年前、2007年に他界してる。そして、南風洋子のダンナさんで劇団民藝の監督、若杉光夫は、まるで奥さんのあとを追うように、翌年の12月18日に亡くなった。享年86歳だから大往生だけど、12月18日に亡くなり、21日にお通夜、22日に告別式が行なわれた。そう、あたしが、高千穂ひづるの「胡蝶奮戦 スターたちと過ごした日々」を買った日‥‥って言うか、この本が発売された日は、若杉光夫監督の告別式、つまり、お別れの日だったのだ。
‥‥そんなワケで、若杉光夫と言えば、吉永小百合と浜田光夫の初主演作、「ガラスの中の少女」の監督としてもオナジミだけど、この「ガラスの中の少女」が公開されたのが、昭和35年(1960年)、つまり、黒岩重吾が「背徳のメス」で直木賞を受賞した年なのだ。ちなみに、浜田光夫は、子役のころは本名の「浜田光曠」で出演してた。だけど、玉川学園の高等部に在学中に、目をかけてた若杉光夫から「ガラスの中の少女」の吉永小百合の相手役のオーディションを薦められ、これをキッカケに、監督の名前の「光夫」を芸名としていただいた。そして、ここからは、「キューポラのある街」「泥だらけの純情」「愛と死をみつめて」などで吉永小百合と競演して、青春スターの地位を不動のものにした。
だけど、1966年のこと、名古屋のサパークラブで食事中に、インネンをつけてきた暴漢に電気スタンドを投げつけられ、割れた電球の破片が右目に刺さる大ケガをする。そして、手術の結果、何とか失明だけは避けることができたんだけど、このケガが原因で、それまでのような二枚目の役ができなくなっちゃう。そのため、必然的に、バイプレイヤー的な方向へと車線変更することになる‥‥ってワケで、ここからは現在の話だけど、浜田光夫の奥さんは元宝塚の青園宴で、2人の娘がいる。そして、その1人が、「ひばりプロダクション」の社長、加藤和也と結婚した。ちなみに、浜田光夫の娘と加藤和也は、玉川学園の同窓生だ。
で、ここまで書けば、賢明にして正大なること太平洋の如き「きっこの日記」の読者諸兄にはピンと来たかと思うけど‥‥って、ナニゲに坂口安吾風味の言い回しも織り込みつつ、加藤和也は美空ひばりの息子だけど、ホントは美空ひばりの弟、かとう哲也の息子で、ひばりの養子だ。そして、42歳の若さで亡くなったかとう哲也と言えば、表の顔は俳優だったけど、裏の顔は三代目山口組系益田組の舎弟頭だった。このことがオオヤケになり、当時の「美空ひばりショー」が中止に追い込まれる事態にもなった。
だけど、美空ひばりと山口組の関係は古くからのことで、田岡一雄が組長だった三代目山口組は、メインのシノギが、神戸港の港湾荷役と芸能プロモーションだった。山口組の芸能班だった「神戸芸能社」は、前身の「山口組興行部」を株式会社にしたもので、組長の田岡一雄が社長をつとめる、いわゆる「暴力団のフロント企業」だった。そして、ここに所属してたのが、美空ひばりだった。「神戸芸能社」は、美空ひばりの興行を独占的に手掛けた他にも、田端義夫、高田浩吉、山城新伍、橋幸夫、三波春夫、里見浩太朗などの興行権を持ち、これらのスターたちの興行を手掛けてた。ようするに、美空ひばりに限らず、今の黄門様の里見浩太朗にしたって、かつては山口組の収入源として働いてたってことなのだ。
‥‥そんなワケで、もともと演芸や歌謡ショーなんかの興行は、昔のヤクザが一手に取り仕切ってたワケだけど、映画「男はつらいよ」の寅さんにしたって、浅丘ルリ子が演じてるあたしの大好きなリリーにしたって、それぞれの地元のホニャララ組に話を通さなかったら商売ができなかったんだから、美空ひばりをはじめとした大スターの興行ならナオサラだったろう。だけど、そうした中で、ニポンの昭和の芸能が発展してきた背景だってあるんだと思う。だから、あたしは、もちろん暴力団を肯定する気なんてないけど、それでも、何から何まで頭ごなしに否定するんじゃなくて、時代と照らし合わせて、芸能や文学が暴力団とどんな関わりがあったのかを考察してみることも必要だと思った。黒岩重吾にしたって、ニポンの昭和に暴力団と密着した夜の世界があったからこそ、生まれ出た作家なのかもしれないと思った今日この頃なのだ。
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