ライ麦畑でキャッチャーフライ
たいていの人は、中学校の国語の教科書で「走れメロス」を読んだのが、太宰治との最初の出会いだと思う。そして、自分で興味を持ったり、先生から薦められたりして、「人間失格」や「斜陽」を読んだ人も多いと思う。あたしは、まさしくこのパターンで、太宰治の作品は、中学時代にほとんど読んだ。特に「人間失格」は、思春期との相性がいいみたいで、多くの中学生と同様に、あたしも一過性の「太宰病」に感染した。
だけど、他にもいろんな本を読み、いろんな体験をして高校生になると、「太宰なんて‥‥」っていう、ちょっと斜に構えた感じになってくる。あたしは、コレを「斜陽病」って名づけたんだけど、あれほど心酔してたハズなのに、「もう太宰は卒業したから」っていう態度をとるのがカッコイイと思えてきちゃうのだ。ようするに、大人ぶって背伸びをしたい年頃ってワケで、これも一過性の感覚だ。
そして、大人になると、もう、こうしたカッコツケも必要なくなるから、自分の読みたい本を素直に読めるようになる。「人間失格」にしても、ハタチの社会人になってから読み直すと、中学時代に読んだ時とはずいぶん違った感覚になるし、新しい発見もある。そして、30歳を過ぎてから読み直すと、またまた違った発見がある。
これは、「人間失格」だからじゃなくて、「星の王子さま」でも、「不思議の国のアリス」でも、どんな本でもおんなじだ。どんな本でも、子供のころに読んだ本を大人になってから読み直すと、必ずと言っていいほど「新しい発見」がある。だから、あたしは、新しい本を読むことがほとんどだけど、たまに、昔読んだ本を読み返してみることがある今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、あたしは、しばらく前に、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を読み直してみようと思った。この本も、多くの人が中学時代や高校時代に読んだように、あたしも中学生の時に読んだんだけど、それ以来、一度も読み返してなかった。それで、こないだ、お友達にライ麦パンのサンドイッチをご馳走になった時に、ふと、この本のことを思い出したので、そのうち読み直してみようって思ってたのだ。
でも、図書館へ行くと、いつでも読みたい本がマウンテンなので、どうしても「一度読んだ本」は後回しになっちゃう。やっぱり、まだ読んだことのない本を読みたくなっちゃうのが人情ってもんだ。だけど、外国文学のコーナーを見てみたら、昔読んだ野崎孝さんの訳の「ライ麦畑でつかまえて」(白水社)の隣りに、村上春樹さんが訳した「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(白水社)が並んでた。パラパラと見てみたら、ビミョ~なニュアンスが村上春樹風味に仕上がってて、すごく面白そうだった。それで、あたしは、こっちのほうを借りてきて読むことにした。一度読んだ本でも、外国の本の場合は、訳者が変われば「限りなく一度読んだ本に近い初めての本」てことになるからだ。
で、読んでみたんだけど、これがまた、期待以上に面白かった。あくまでも翻訳なんだから、内容はすべておんなじだし、村上春樹さんが勝手に書き足しちゃったり、勝手に表現を変更しちゃったような部分はまったくない。それなのに、いろんな部分が村上春樹風味なので、ものすごく新鮮に感じたし、思わず「らしいなあ」って思ってニヤリとしちゃったクダリもあった。これから読む人もいるだろうから、ネタバレにならないように、当たり障りのない冒頭の一節を引用して比較すると、こんな感じだ。
「ライ麦畑でつかまえて」(野崎孝 訳)
もしも君が、ほんとにこの話を聞きたいんならだな、まず、僕がどこで生まれたかとか、チャチな幼年時代はどんなだったのかとか、僕が生まれる前に両親は何をやってたかとか、そういった≪デーヴィッド・カパーフィールド≫式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ、実をいうと僕は、そんなことはしゃべりたくないんだな。
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(村上春樹 訳)
こうした話を始めるとなると、君はまず最初に、僕がどこで生まれたかとか、どんなみっともない子供時代を送ったかとか、僕が生まれる前に両親が何をしていたかとか、その手のデイヴィッド・カッパーフィールド的なしょうもないあれこれを知りたがるかもしれない。でもはっきり言ってね、その手の話をする気になれないんだよ。
‥‥こうして比較してみると、原典に忠実に翻訳されたおんなじ一人称の文章でも、訳者の個性やセンスによって、ずいぶん雰囲気が変わるってことが分かる。あたしは、読みやすい野崎孝さんの訳が大好きで、複数の訳者の本がある場合は、いつも野崎孝さんの訳の本を選んで読んできた。ヘミングウェイの「老人と海」も、スタインベックの「怒りの葡萄」も、あと何だっけ? パッと思いつかないけど、ずいぶん読んだと思う。だから、野崎孝さんの訳で読んだことのある本を別の人の訳で読み直すことは新鮮だし、それが村上春樹さんの訳だからナオサラだった。
村上春樹さんて、ものすごく好き嫌いがハッキリと分かれる作家で、好きな人は洗脳された信者みたいになっちゃう人も多いし、嫌いな人は徹底的に嫌ってる人も多い。あたしの場合は、そのどちらでもなくて、たくさんの作家の中の1人として、普通に読んでるだけだけど、村上春樹さんの作品を読むたびに感じるのは、「嫌いな人って、こういう言い回しがダメなんだろうな」ってことだ。村上春樹さんの文章って、ようするに、ブルーチーズやパクチーや沖縄の豆腐ようみたいな「クセの強い食べ物」って感じだから、この、まわりくどい独特の言い回しが、好きな人には魅力でも、苦手な人にはガマンできないんだと思う。
誤解を恐れずに言えば、村上春樹さんの作品が好きな人には、モノゴトを理屈っぽく考えるのが好きな人が多いんだと思う。これまたネタバレにならないように、「ライ麦畑でつかまえて」と「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の19章の冒頭の一節を比較してみるけど、この表現の違いを見れば、それがよく分かると思う。
「ライ麦畑でつかまえて」(野崎孝 訳)
ニューヨークに住んでないとわかんないかもしれないけど、≪ウィカー・バー≫っていうのは、セトン・ホテルっていう、しゃれたホテルの中にあるんだ。
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(村上春樹 訳)
君がニューヨークに住んでいないものとしていちおう説明しておくと、ウィッカー・バーは、シートン・ホテルっていう気取ったホテルの中にあるんだ。
‥‥意味はまったくおんなじだけど、野崎孝さんの「ニューヨークに住んでないとわかんないかもしれないけど」っていう「くだけた言い回し」と比べると、村上春樹さんの「君がニューヨークに住んでいないものとしていちおう説明しておくと」っていう「ソツのない言い回し」は、まるで生命保険の説明を受けてるみたいに感じる。その上、野崎孝さんがサラッと「しゃれたホテル」とした部分も、村上春樹さんは「気取ったホテル」として、いちいち自分のスタンスを主張しようとしてる。ま、このウサン臭さこそが村上春樹さんていうブルーチーズのフレーバーであって、好き嫌いが分かれるとこなんだけどね。
だから、最初から最後まで、まったくおんなじストーリーなのに、読み終わったあと‥‥って言うか、読んでる最中に、主人公のホールデン君のイメージが大きく変わってくる。この小説は、常に「僕は~」っていう一人称で書かれてるから、ビミョ~な表現や言い回しの違いが、すべて、主人公のホールデン君のイメージに直結してる。さっきの19章の冒頭にしても、第三者の視点で書かれた小説なら、「しゃれたホテル」とか「気取ったホテル」とかって表現は「作者の感覚」であって、主人公とは関係ない。だけど、この小説は一人称で書かれてるから、「しゃれたホテル」って表現したホールデン君は「素直な少年」てふうに感じるし、「気取ったホテル」って表現したホールデン君は「斜に構えた少年」てふうに感じちゃう。
そして、こうした小さな表現や言い回しの違いが、最初から最後まで少しずつ積み重なってくから、読み終わったあとに、あたしの頭の中に完成されてる「ホールデン君」のイメージは、ぜんぜん違うものになっちゃった。野崎孝さんの訳の「ライ麦畑でつかまえて」では、バカで落ちこぼれで歪んだ性格でも、少年の純粋さも持ち合わせてたホールデン君だったのに、村上春樹さんの訳の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」では、バカのくせに理屈っぽい、ひねくれ者でネガティブなオッサンみたいなホールデン君になっちゃった。
分かりやすく言えば、2人のホールデン君の知能指数が違うのだ。知能指数が違うって言っても、勉強ができなくて高校を退学させられたんだからタカが知れてるけど、あくまでも読後のイメージとして、「ライ麦畑でつかまえて」のホールデン君の知能指数を80だとすると、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」のホールデン君の知能指数は95くらいの感じなのだ。まったくおんなじストーリーなのに、訳者による表現や言い回しの違いだけで、ここまで主人公のイメージが変わっちゃうのだ。
ま、この小説の驚愕のオチを知ってれば、村上春樹風味のホールデン君こそがピッタリなのかもしれないけど、あたしは、改めて、言葉による表現てすごいなあって思った。そして、医学書や論文と違って、文学の場合は、翻訳も創作なのかもしれないって思った。だって、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」って、完全に村上春樹さんの作品になっちゃってるんだもん。
‥‥そんなワケで、おんなじテキストを翻訳しても、訳者によってこんなにもイメージが変わっちゃうんだから、元のテキストが違ってたら、もっと大きく変わってただろう‥‥ってワケで、実は、この「The Catcher in the Rye」って小説には、2つのテキストがある。あたしたちが知ってる「ライ麦畑でつかまえて」は、アメリカ版の原作を訳したものだから、訳者によるニュアンスの違いはあっても、ストーリー自体は原作に忠実だ。だけど、イギリスで発行されてるイギリス版の「The Catcher in the Rye」は、どんな事情か分からないけど、内容が大きく違ってるそうだ。このことは、「ライ麦畑でつかまえて」の巻末で、訳者の野崎孝さんが次のように解説してる。
「テキストにはこの作品を初めて出版したアメリカのLittle, Brown and Companyの本を使用した。わざわざこれをことわるわけは、この小説には他にイギリスの版があって、それとこの初版本との間には、かなりの相違があるからである。この相違の生まれたゆえんに疑問を持った僕は、直接作者に問い合わせたのだが、エージェントからの返事によると、イギリス版の改変は先方が勝手にやったことで作者の関知しないところだから、翻訳はアメリカ版によるべきであるということであった。相違の実体を考えると、「先方が勝手にやった」だけでは腑に落ちないふしもあるのだけれど、それを解明する手だてを持たない僕としては、エージェントから上のように言われた以上、全面的にアメリカ版に従うより他に途はなかったわけである。」
「かなりの相違」って言ってんだから、ちょっとした表現の違いとかのレベルじゃなくて、ストーリー自体が部分的に変更されてるレベルなのかもしれない。ちなみに、現在は、原著者との契約で解説は掲載できなくなっちゃったから、今の本には解説がついてない。だけど、痒いとこに猫の手が届く「白水社」ってワケで、野崎孝さんの解説を読みたい人は、こちらの「白水社のホームページ」で全文を読むことができる。出版社がこうしたサービスをしてくれると、読書好きなあたしは嬉しくなっちゃう‥‥ってワケで、さらに嬉しいのは、村上春樹さんと柴田元幸さんの「対談」もあるし、何よりも嬉しいのは、あたしの大好きな角田光代さんの「ホールデンと私」っていう寄稿も読めることだ。
角田光代さんは、どの作品も大好きだけど、特に「空中庭園」と「対岸の彼女」は、たまんないほど大好きな作品で、両方とも3回ずつ読んだほどだ。だから、こんなに面白い小説、こんなに考えさせられる小説を読まずに生きてる人がいっぱいいるんだって想像すると、あたしは、ホントに本が好きで得をしてるって思う。あたしは、「対岸の彼女」の魚子(ななこ)ちゃんのことが好きになりすぎて、頭の中に勝手にイメージして作った魚子ちゃんがいるんだけど、あたしはいつも元気を分けてもらってる。魚子ちゃんは、志村貴子さんの漫画でアニメにもなった「青い花」のあーちゃんとイメージが重なってて‥‥って、ちょっとダッフンしちゃったけど、考えてみると、村上春樹さんの対極にあるのが、角田光代さんの世界なのかもしれないと思った。
‥‥そんなワケで、あたしは、本を読むのが大好きで、読みたい本がいっぱいあるのに、あたしは1人しかいないし、一度に一冊の本しか読むことができないから、なかなか読みたい本が減ってかない。それどころか、毎週のように読みたい本が刊行されるから、「読みたいのにまだ読んでない本」は増え続けてく。それなのに、そんな状況にも関わらず、新しい本を読まずに、昔読んだ本を読み直したりもしてるんだから、あたしって、ホントに本が好きなんだな~って思う‥‥ってワケで、最近は電子書籍なんていう味もソッケもないものも出てきたけど、あたしみたいなタイプの読書好きは、本の内容だけじゃなくて、本の重さや手触り、装丁や紙の質感も含めて本が好きなワケだから、電子書籍にはまったく食指が動かない今日この頃なのだ。
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