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2011.04.03

きっこの疎開生活

おとといの日記にもチョコっと書いたし、ツイッターでは何度もつぶやいてるけど、あたしは、今、母さんと2人で、西の果てのほうに疎開してる。最初は、稲垣早希ちゃんの「西日本横断ブログ旅」になぞらえて、稲垣さきっこの「西日本横断ソカイ旅」とかってタイトルにして、旅ブログでも書くつもりでいた。そのつもりで、京都、奈良、神戸、三ノ宮、姫路、岡山、広島って、いろいろと写メも撮ってきた。だけど、しばらく旅をしてるうちに収束するかと思ってた原発事故は、収束するどころかお手上げ状態になり、東京の水道水からも基準値を上まわる放射性物質が検出され、とうとう恐れてたプルトニウムまでが漏洩して、海外メディアの多くは「メルトダウンも時間の問題だ」って報じ始め、マジで沖縄まで逃げないとシャレにならない雰囲気になってきた。

被災地には、不安と悲しみの中でギリギリの生活をしてる人たちがたくさんいるし、関東エリアの被災しなかった人たちの中にも、今すぐに遠くへ逃げたいのに、それぞれの事情によって逃げることのできない人たちがたくさんいる。そんな時に、能天気に旅ブログなんか書いてたら、それこそ不謹慎だ。だから、あたしは、最低限の近況とかはツイッターでつぶやいたりしてたけど、それ以上のことは封印してきた。でも、すごく多くの人たちから、あたしが疎開したことに関する質問を始めとしたメールが届き続けてるし、心配してくださってる人も多い。だから、今日は、書ける範囲で、あたしが東京を脱出したイキサツから現在の状況に至るまで、使い慣れないヨソのパソコンで書いてみようと思う。

で、最初にお断りしとくけど、あたしは、別に不安を煽る気もなければ、楽観視してるワケでもない。あたしがツイッターで今回の原発事故についての情報を流すと、すぐに「不安を煽るな!」って文句を言ってくる一部の人がいて、挙句の果てには、あたしが「西のほうへ疎開した」ってことをつぶやいただけでも「不安を煽るな!」ってイチャモンをつけられた。ようするに、それなりに名前の知れてる人が東京を脱出したってことは、もう東京が危ないってことで、それを公言することが東京に残ってる人たちの不安を煽ることになるっていう屁理屈だ。だけど、それなら、ネットなんかやらずにテレビだけ見て、枝野ちゃんや東電や保安院が繰り返してる「ただちには健康に影響のないレベルです」ってセリフだけを鵜呑みにしてればいいと思う今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、あたしが東京を離れた一番の理由は、母さんのことがあったからだ。母さんは、連日の震災と原発事故の報道を観て、あまりの恐怖と不安で何も食べられなくなってしまい、夜も眠れなくなってしまい、ノイローゼのような状態になってた。「スピッツ」のボーカルの草野マサムネさんも、連日の報道による恐怖と不安で倒れてしまい、「急性ストレス障害」と診断されて、4月からのツアーが中止になったけど、母さんもおんなじような状態だった。そして、あたしも、母さんほど酷くはなかったけど、連日の原発事故の報道による恐怖と不安で、精神的にまいってた。

それは、沖縄の普天間基地が「世界でもっとも危険な米軍基地」なら、福島原発は「世界でもっとも危険な原発」だからだ。あたしは、これまでに、福島原発の危険性と「ずさんな管理体制」について、何度も書いてきたし、マスコミがほとんど取り上げなかった福島原発の事故に関しても「世田谷通信」で報じてきた。たとえば、2008年6月14日の「福島第二原発で放射能を含む水が飛散」や、2010年8月25日の「福島第1原発で作業員が被ばく」などだ。

それもこれも、ずっと強引に進められてきた恐怖のプルサーマル計画を阻止したかったからで、こんなに老朽化した欠陥だらけの原子炉でプルサーマルなんかやられたら、それこそチェルノブイリ以上の大災害が起こると思ってたからだ。9年前の2002年に「週刊朝日」に掲載されたこちらの記事、「福島原発は欠陥工事だらけ」を読めば分かるように、実際に福島原発の建設を担当した当時の技術者が「格納容器内のほとんどの配管が欠陥なのです」って断言してるのだ。こんな「今すぐに停止すべき原発」で、こともあろうにプルサーマルだなんて、ハッキリ言ってキチガイ沙汰だ。

だから、あたしは、建屋の外壁が吹き飛び、白煙や黒煙を上げ続ける原発の映像を見るたびに、恐怖と不安で居ても立ってもいられない状態になってた。福島第一原発から、あたしの住む東京の世田谷区までは、直線距離で約250キロ。最悪のケースでメルトダウンが起これば、風向きにもよるけど、最低でも半径700キロの範囲には人体に影響のあるレベルの放射性物質が拡散するから、東京なんか人間の住める状態じゃなくなる。700キロと言えば、西なら鳥取県や岡山県だから、最低でも島根県や広島県よりも西へ逃げなきゃ助からない。

ちなみに、この日記を書いてる4月3日の時点では、京都大学の原子炉実験所の小出裕章教授が、現状を「本来の日本の法律に従うのであれば、原発から700キロまでを放射線管理区域としなければならない状態になっている」ってコメントしてる。だけど、政府は、今回の事故が起こってから、大気中の放射性物質にしても、水道水や食品の放射性物質にしても、カタッパシから制限レベルを大幅に引き上げたから、小出教授の言うところの「本来の日本の法律」は適用されてない。

‥‥そんなワケで、あたしは、次々と飛び込んでくる原発の事故の報道が恐くて恐くてたまらなかったけど、3月16日までは、東京から脱出することなんか考えてなかった。だから、スーパーを何軒もまわって、マルタイの棒ラーメンを買ったりしてた。だけど、この日の夜、母さんの様子を見に行ったら、母さんは頭からお布団をかぶってガタガタと震えてて、もう、マトモじゃない状態になってた。どうしたのか聞くと、母さんは「とうとう世田谷区まで放射能が飛んできた」って言って青白い顔を上げた。この日、世田谷区や新宿区でも放射性ヨウ素と放射性セシウムが計測されたっていうニュースが流れたのだ。そして、あたしは、この瞬間、母さんを連れて東京を離れる決心をした。だって、このまま東京にいたら、母さんがどうにかなっちゃうと思ったからだ。

だけど、あたしにはお金もないし、すぐに東京を離れられない事情もあった。だから、できるだけ早く東京を離れるために、すぐに自分のマンションに戻って、徹夜で準備をした。まず、焦る気持ちを落ち着かせるために、やるべきことを紙に書き出してから、連絡すべき人たちに連絡して、関西や中国地方、九州や沖縄のお友達にメールを送った。母さんとあたしを泊めてくれるかどうかの打診のメールだ。そして、夜明けとともに、ずっと飼ってきたお魚たちを生まれ故郷の多摩川へ逃がしに行き、朝になってから、一緒に猫たちの世話をしてるマンションの人たちのとこへ行き、あたしの事情を伝えた。そしたら、まだ自分たちは東京から動く予定はない、猫たちのことは自分たちに任せて、今は何よりもお母さんのことを考えてあげてと言ってくれたので、あたしは涙が出た。あたしは、お部屋にあったすべてのキャットフードを渡して、猫たちのことを頼んだ。

それから、マンションの管理人さんのとこにも事情を話しに行ってから、お部屋に戻り、必要最低限の荷物をマトメて、冷蔵庫の整理をして、電気のブレーカーを切って、母さんに「準備OK」の電話をした。一睡もしないで必死に動いたけど、母さんと駅で待ち合わせできたのは、17日のお昼を回ったころだった。しかも、母さんは2万円くらいお金を持ってたけど、あたしの全財産は8000円だ。正確に言うと、「即 PAT」の競馬専用口座に2000円残ってたから、合計で1万円だったけど、病気でずっとお仕事ができない状態が続いてたから、コツコツと貯めてた貯金も使い果たしたとこで、東京にいても「明日からどうしようか?」って感じの状態だった。

だけど、あたしは、「クレジットカードで新幹線のキップが買える」っていう情報を得てたから、とにかく新幹線に乗って東京から西へ向かうつもりだった。新幹線に乗れるかどうか不安だったから、朝から何度も電話予約の窓口に電話してたんだけど、ずっとお話中で通じなかったので、直接、駅に行くことになった。それで、母さんとあたしは、まずは大井町線で大井町まで行って、そこから、ひと駅隣りの品川に行った。品川駅で新幹線の窓口を聞いて、広い通路を突き当りまで歩いて、大きな文字で「新幹線」て書いてあるカウンターに着いた。カウンターのお姉さんに、恐る恐る「あの~クレジットカードでもキップは買えますか?」って聞いたら、笑顔で「はい、大丈夫ですよ」って言ってくれたので、あたしはホッとして、とにかく、京都まで行く一番早い新幹線を聞いたら、15分後に来るのがあるって言うので、言われるままにそのキップを2枚買った。

新幹線のキップは、乗車券と指定席の2枚で、2人ぶんで2万8000円くらいもしたけど、引き落としになるのは来月だから、それまでに何とかすればいいと思った。何よりも、この時は、1分1秒でも早く、母さんを東京から離れた場所へ連れて行き、重くのしかかってる恐怖と不安から開放してあげることしか考えてなかった。渡されたキップでホームの番号を確認して、自分の車両の番号のとこまで歩いてったら、もう、新幹線の来る5分前になってた。母さんをベンチに座らせてから、頭上の案内板を見ると、あたしたちの乗る新幹線の名前が光ってて、ちょっとウキウキした。だって、生まれて始めて新幹線に乗るからだ。

ホームに滑り込んで来た新幹線は、あたしが想像してたヤツじゃなくて、前がグイーンって長くなった今どきの新幹線だった。ドキドキしながら乗り込むと、座席は左右が3席と2席の非対称になってて、母さんとあたしは2席のほうだった。あたしは、2人ぶんの荷物を頭上の棚に乗せてから、母さんのコートと自分のブルゾンも荷物の横に乗せた。母さんを窓側に座らせると、新幹線はすぐに動き出した。あたしは、思ってたよりも狭いシートに座り、後ろに人がいないのを確かめてから、1段階だけリクライニングを倒して、フ~ッと息を吐いた。母さんは、前の座席の背もたれのとこについてる食事をするテーブルみたいなのが珍しいみたいで、パタパタといじってた。

‥‥そんなワケで、母さんとあたしの旅は始まったワケだけど、品川を出発してしばらくすると、すごく見覚えのある景色が見えてきた。多摩川だ。いつもは河川敷から新幹線が通過するのを見上げてるのに、今日は反対だ。いつもの丸子橋のとこの河川敷では、親子連れが普通に遊んでて、焦って東京から脱出した自分との温度差を感じた。だけど、横浜を過ぎてしばらくすると、あたしは、全身の力がスッと抜けて、何とも言えない安堵感に包まれた。あたし自身も、ものすごい恐怖と不安にさいなまれてたから、「新幹線に乗って東京からどんどん離れてる」っていう現実によって、5日間も苦しみ続けてきた状況から抜け出ることができたのだ。

母さんは何もしゃべらないから、寝てるのかと思って隣りを見ると、ポロポロと涙を流してた。流れる涙を拭こうともせずに、窓の外の景色を見るでもなく、宙の一点を見つめたまま、ずっと涙を流してた。あたしは、バッグからティッシュを出して、母さんに渡した。母さんは、ようやく涙を拭いてから、「ホッとしたら涙が出ちゃったよ」って言って、照れくさそうに笑った。母さんがやっと笑ってくれた嬉しさと、自分もホッとできた安堵感とで、今度はあたしの目から涙があふれた。母さんとあたしは、長いこと何も話さずに、新幹線のシートに身を沈めてた。

あたしは、母さんの横顔越しに流れる窓の外の景色をぼんやりと眺めながら、頭の中で、いろんなことを考えた。あたしが東京にいた16日の時点では、ガソリンスタンドは半分以上が閉店してて、ようやく開いてたスタンドを見つけても、1時間くらい並ばないとガソリンを入れられない状態だった。スーパーはどこも品切れで、いつもは安売りしてるカップ麺ひとつも買えない。通院してる病院も計画停電の影響で診察時間が半分になり、高島屋も臨時休業した。駅は入場制限でパニックになってるし、パチンコ屋さんまでもが短縮営業になった。こんな状態で、何度も余震が続いてる上に、とうとう世田谷区まで放射性物質が飛んできたんだから、とてもじゃないけど生活なんかできない。

だから、あたしは、母さんを連れて東京を離れたんだけど、あたしとおんなじに恐怖と不安にさいなまれてる人たちの中には、どうしても東京を離れることができなくて、その代償行為として、ミネラルウォーターだのカップ麺だのを買い占めてる人たちもいるんだろうなって思った。東京から離れられなくても、何週間ぶんかの水や食料を備蓄することによって、最悪の場合は自宅に篭ることができる。そして、こうした選択肢があれば、今すぐに東京から逃げられない不安を多少は解消することができる。テレビとかでは、しきりに「買い占めはやめましょう」って連呼してるけど、これほど恐ろしい状況になってるんだから、誰だって「安心感」が欲しい。それも、こんな状態が何ヶ月も何年も先まで続くんだから、何らかの形で「安心感」を得なかったら、普通の神経の人は、みんな「スピッツ」のボーカルの草野マサムネさんみたいに、「急性ストレス障害」で倒れちゃうだろう。

‥‥そんなワケで、母さんとあたしは、三島を過ぎるあたりまでは、何も話さずに、お互いが自分の安堵感の中に心を浮遊させてた。そして、浜松に差し掛かったころ、やっと気持ちにも余裕が出てきて、2人で海みたいな浜名湖を眺めて、「ウナギが食べたいね」「母さん、ずっと何も食べられなかったから、お腹が空いちゃったよ」なんて、ポツポツと話せるようになった。でも、名古屋を過ぎるまではポカポカの春の陽気みたいな景色だったのに、長いトンネルを抜けると、そこは雪国だった。手前の田畑から遠くの山々まで、視界はすべて真っ白で、まさに川端康成の世界だった。母さんとあたしが、一瞬、駒子と葉子になったような気がした。

一面の銀世界の中をしばらく走り続け、京都の手前の米原駅に着くと、目の前のホームにも大粒の雪が真横に走ってて、吹雪って言ってもいいくらいだった。あたしは、事前に連絡してた京都のお友達から、「こっちは寒いから暖かい服装で来てね」って言われたことを思い出した。米原から京都に近づくにつれて、雪はだんだん少なくなってきて、景色にも白以外の色が見えるようになってきたけど、それでも京都も寒かった。東京にいる時は、あたしは漠然と「西へ行けば東京よりも暖かくなる」って思い込んでたけど、そんなことはなかった。

新幹線に乗った時点で、京都のお友達には到着時間をメールしてたんだけど、いろんな人に聞きながら、メールの返信に書かれてた待ち合わせの場所にたどり着いた時には、もう、お友達は車で迎えにきてくれてた。お友達は、あたしの高校時代の同級生で、結婚してダンナさんの実家がある京都で暮らしてるんだけど、広いマンションを買ったばかりで、母さんとあたしの2人なら何日でも泊めてくれるってことだった。京都に到着したのは午後4時過ぎだったけど、10年ぶりに会ったお友達は、母さんとあたしのために観光案内を兼ねてアチコチ寄り道してくれたので、まっすぐ行けば40分くらいでマンションに着くそうなのに、着いた時には辺りは薄暗くなり始めてた。

で、あんまり細かく書いてると先へ進まないから、ここからは駆け足で行くけど、母さんとあたしは、この日、京都のお友達のとこに泊めてもらい、美味しい晩ご飯やお風呂をご馳走になった。母さんは、ちゃんとご飯を食べられたし、夜はグッスリと眠れたし、たった1日で元気になった。そして、次の日は、生まれて始めての近鉄電車に乗って、奈良のお友達のとこへ行った。それから、いったん京都に戻り、神戸から三ノ宮のお友達のとこへ行き、姫路を経由して岡山のお友達、そして、広島のお友達のとこへと移動した。姫路駅は、構内を工事してて、姫路城のほうへ出る通路が、ずっとパネルで覆われてた。岡山駅では、稲垣早希ちゃんも立った桃太郎の像の前で写メを撮った。

この過程で、ずいぶんお金が減った。短距離でも新幹線はクレジットカードを使ったけど、たとえば、京都から奈良への移動では、普通の電車なのに片道500円以上もして、2人ぶんの往復で2000円以上もかかったし、お昼に母さんと駅そばを食べたりもしたから、あたしのお金は半分の4000円くらいになってた。だけど、母さんが2万円くらい持ってるし、どうしても困ったらクレジットカードでキャッシングって手もあったから、あたしはそんなには心配してなかった。もちろん、こんなにカードを使いまくったら、翌月の支払日に大変なことになっちゃうのは分かってたけど、今はそんなことよりも、少しでも早く、福島原発から700キロ以上離れた場所へ行きたかった。

‥‥そんなワケで、今いる場所についてはハッキリと書けないけど、母さんとあたしは、福島原発から西へ1000キロくらい離れた場所の山奥にいる。もともとは都会で生活をしてたお友達なんだけど、自然の中での暮らしに憧れて、奥さんと2人で山奥の古い農家へ移住して、農業をしながら自分の仕事もやって、のんびりと暮らしてる。広い民家で2人暮らしだから、使ってないお部屋もいくつかあって、母さんとあたしの他にも、関東から疎開してきた2組の家族を受け入れてる。

この村には、疎開してきた人たちを受け入れてくれるお宅がたくさんあって、山間部にポツポツとある民家だけじゃなくて、山のふもとの集落も入れると、ぜんぶで30組以上の家族が疎開してるそうだ。あたしが驚いたのは、東京を始めとした関東エリアだけじゃなくて、大阪などの関西エリアから疎開してきてる家族が何組かいたことだ。その中の1人と農作業のお手伝いの時に話したんだけど、関西エリアでも、今回の原発事故の「最悪のケース」を想定してる人たちは、少しずつ西へと移動してるって言ってた。

で、あたしがお世話になってるお宅は、山の中腹にポツンとある古い民家で、車が1台しか通れない山道を車で30分くらい上ってったとこにある。山道はクネクネしてて、片側が断崖で片側が絶壁、ガードレールなんてないから、落ちたらたぶん死ぬと思う。その上、メッタに来ない対向車と鉢合わせした時には、ところどころにあるリトル広いスペースのとこまで、どっちかの車がバックしてって、そこですれ違うことになってるから、なかなかスリリングだ。あたしは、今、使ってない古い軽トラを足代わりに貸してもらってるんだけど、今ほど軽トラで良かったと思ったことはない。だって、軽トラなら、道幅に余裕があるからだ。

‥‥そんなワケで、あたしは、東京からうんと離れた西の果ての山奥のお宅と、山のふもとのインターネットがあるお宅とを行き来しながら、今、母さんと疎開生活をしてる。昼間は、農作業のお手伝いをしたり、山を越えたとこにある染物の作業場のお手伝いに行ったり、被災地へ送る物資の仕分け作業をしたり、子供たちと三角ベースをしたり、川で魚釣りをしたり、夜は、どっちかのお宅でお酒をご馳走になったり、プラネタリウムよりもすごい満天の星空を眺めたり、まるで林間学校みたいな生活をしてる。母さんは元気で笑顔でのんびりしてるし、何よりも助かるのは、村での共同作業のお手伝いに行くと、1人2000円とかの手間賃までいただけることだ。ちなみに、手間賃をいただいた時は、半分をお世話になってるお宅へ入れることにしてる。こんな感じで、母さんとあたしは、もうしばらくココで暮らす予定だ。だけど、状況によっては、もっと西へ移動するつもりなので、海外メディアの報道を中心に、福島原発の状態を注視してる今日この頃なのだ。


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