« 2012年12月 | トップページ | 2013年2月 »

2013.01.26

号泣のススメ

去年の12月に、井上荒野さんの『雉猫心中』を読んだので、その流れから、手元にあった井上荒野さんの作品、『ベーコン』か『切羽へ』を読み直してみようと思った。『雉猫心中』に登場するキジ猫は「ヨベル」って名前なので、おんなじ名前の猫が登場する作品が収められてる『ベーコン』を読み直そうかとも思ったんだけど、長編をゆっくり読みたかったのと、『雉猫心中』の主人公の片割れの男性が九州のほうの島の出身だったので、九州の島を舞台にした『切羽へ』のほうを読み直した。

『切羽へ』は直木賞受賞作なので、読んだ人も多いと思うけど、これは、文中に多用されてる方言から、九州は長崎県周辺の島だということが分かる。そして、この島が「かつて炭鉱で栄えた島」だということから、井上荒野さんのお父さんの井上光晴さんが少年時代の何年間かを過ごした島、長崎県の崎戸島をモデルにしてると推測できる。これから読む人もいるかもしれないので、内容については触れないけど、井上荒野さんの作品の中では、ワリとスッキリしてホッとする読後感の作品で、あたしはとっても好きだ。

で、『切羽へ』を読み終わったあたしは、長編小説を2作も続けて読んだので、ちょっと気分を変えるために、次は軽いエッセイを読むことにした。大好きな赤瀬川原平さんの『東京随筆』だ。これも、去年、『雉猫心中』と一緒にBOOK OFFで買って来たんだけど、1編が1ページ程度の短いエッセイ集で、いつでも気軽に読めそうなので、後の楽しみに取っておいた。

この『東京随筆』は、赤瀬川原平さんが「毎日新聞」の夕刊に連載してた「散歩の言い訳」っていうお散歩エッセイをマトメたものた。「毎日新聞」では、毎回、赤瀬川原平さんがその時の気分で東京のどこかをお散歩して、それに同行記者が撮った写真や地図を添えて連載してたんだけど、一冊の本にマトメるにあたって、写真も地図も割愛して文章だけになった。そのため、分かりやすくする意味で、連載の順番は無視して、おんなじエリアなどのカテゴリー別に編集されてて、とっても読みやすい。

赤瀬川原平さんの独特の視点と感性で切り取られた東京のあちこちの景は、あたしも良く知ってる場所なのに「こんな見方もあったのか!」と気づかせてくれる。そして、何よりも感動したのが、赤瀬川原平さんの「老人力」だ。赤瀬川原平さんが『老人力』を書いたのは、今から15年ほど前、まだ還暦を迎えたころだったけど、この『東京随筆』は、それから10年以上も経ってから書かれてるので、赤瀬川原平さんは70歳を超えてることになる。

赤瀬川原平さんは、還暦当初ですら「もの忘れが酷くなった」と言って『老人力』を書いたのだから、この『東京随筆』では、その「老人力」に磨きが掛かり、すでに芸術の域にまで達してる。たとえば、上野動物園の回には、こんな一節がある。


「ぼくはだいぶ歳をとってからだが、動物園で駱駝(らくだ)を見て感動した。ぼさぼさの巨体で、涎(よだれ)を垂らしながら、ふわーっと揺れながら立って生きている。凄い。」


この感覚、この感性は、まさに「老人力」によるものだ。俳句では、美しく咲き誇る花だけでなく、枯れてゆく様子にも「美」を見出すんだけど、この「枯れの美しさ」、「枯れのパワー」こそが、あたしは「老人力」じゃないかと思ってる。この『東京随筆』には、こうした感覚での視点や表現が満載なのだ。そして、赤瀬川原平ワールドをタップリと楽しませていただき、最後に「後書き」を読み終わった時、「2011年2月25日」という日付が目に入った。そうか、赤瀬川原平さんが、この後書きを書いた2週間後に、あの東日本大震災が起こったのか‥‥なんてことを思い、ちょっと複雑な心境になった今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、あたしは、まだアラフォーなので、「老人力」とはホド遠い。記憶力も問題ないし、視力もバッチリだし、何よりもお肌の張りも変化ないし‥‥って言いたいとこなんだけど、実際には、お台所まで行って冷蔵庫のドアを開けた瞬間に何を取りに来たのか忘れちゃったり、PCの画面の文字を大きくしないと読みずらかったり、ファンデのノリがイマイチだったりして来て、ナニゲに不安が脳裏をよぎる。

だけど、考えてみれば、冷蔵庫のドアを開けた瞬間に何を取りに来たのか忘れちゃうのは、今に始まったことじゃない。若いころどころか、子どものころにも覚えがある。PCは画面の小さいノートPCに換えたから文字が読みずらいのは当然だし、ファンデのノリがイマイチなのも寝不足の時は当然だ。だから、これらは「老人力」じゃなくて、あたしがもともと持ってた「きっこ力」だ(笑)

でも、こんなあたしにも、1つだけ思い当たるフシがある。それは、アラフォーに突入してから、ヤタラと涙腺がゆるくなって来たように感じるのだ。あたしは、もともと涙もろいとこがあって、小説や映画、漫画やアニメ、ドキュメンタリーなどでポロポロと泣いちゃうことが多かったんだけど、これが、アラフォーに突入してから、さらに輪を掛けて激しくなって来た。よく、「年を取ると涙もろくなる」って言うけど、これはホントっぽい。

あたしは、一昨年の7月末にテレビが地デジになって映らなくなってから、ずっとテレビのない生活をしてるから、今は、観たいテレビ番組は、知り合いに録画してもらったものをPCで観たり、インターネットの無料配信を利用してる。あたしの観たい番組は、「ロケみつ」の他はぜんぶアニメなんだけど、だいたいは週の頭の月曜日か火曜日に、前の週に放送されたぶんを数日遅れで観てる。

で、何週間か前のこと、「ロケみつ」と「宇宙兄弟」と「スマイルプリキュア!」をマトメて観たんだけど、「ロケみつ」の早希ちゃんのブログ旅で早希ちゃんがいじらしくて泣いて、「宇宙兄弟」でムッタの合格が決まって感動して泣いて、「スマイルプリキュア!」でみゆきの優しさに感動して泣いちゃった。こないだから「ちはやふる」の続編の「ちはやふる2」が始まったんだけど、これまた初回から千早のカルタを愛する思いに感動して泣きっぱなし。

もちろん、これらは、観てる人たちが感動するように作られてるんだから、感動しても別に変じゃない。だけど、過去の自分の「感動レベル」と比較してみると、ちょっとウルウルするレベルであって、ティッシュの箱を抱えるほどポロポロと泣くほどのレベルじゃない。それなのに、あたしの涙腺のダムはいともたやすく決壊して、ポロポロと涙が止まらなくなっちゃう。


‥‥そんなワケで、あたしは、ヤタラと涙もろくなった自分に「老い」を感じてるんだけど、赤瀬川原平さんの『老人力』は、「もの忘れ」や「視力の低下」や「体力の低下」などのネガティブな変化をポジティブに受け入れることが命題だ。だから、あたしも、この「ヤタラと涙もろくなった」ってことをポジティブに受け入れて、自分自身のために生かそうと考えた。それが、「ストレスの発散」だ。

あたしは、悲しくて泣くのや悔しくて泣くのは大嫌いだけど、感動して泣くのや切なくて泣くのは大好きだ。だから昔から、月に1回くらい、児島玲子ちゃんのDVDを観たり、劇場版『ちびまる子ちゃん』を観たりして、思いっきり号泣して来た。そうすると、次の日には気分がリフレッシュして、気持ち良く元気にお仕事に行くことができた。

あたしにとって、感動して号泣することは、何よりのストレス発散だ。だから、歳を重ねたことによって、若いころよりも「ヤタラと涙もろくなった」っていう感性の変化を、この「ストレス発散」のために有効利用すれば、それこそ「老人力」になりうるってワケだ。

で、これは「老人力」の実験とは関係なしに、お正月から大好きなアニメ『十二国記』を少しずつ観て来たんだけど、何日か前に、前半の最後の一番感動する39話、陽子が麒麟に転変した景麒に乗って、自国の軍隊を鎮めるシーンで、あたしは、これまでにないほど感動して号泣しちゃった。今までも、このシーンになると号泣してたんだけど、今回はアニメが終わったあとも涙が止まらなくて、ずっと泣き続けてた。そして、次の日の朝、ものすごくスッキリした気分で目が覚めた。


‥‥そんなワケで、今日は本のことを書いてるので、アニメの話は置いといて、あたしの「読むと必ず泣いちゃう小説」をいくつか紹介しようと思う。これは前にも紹介したけど、あたしの琴線に触れまくりなのは、角田光代さんの『対岸の彼女』で、これは「感動の涙」じゃなくて「切なさの涙」が止らなくなる。胸を締め付けられるほどの切なさで、読み終わるまでに何度も何度も号泣しちゃう。

それから、川上弘美さんの『センセイの鞄』、これは「号泣」はしないけど、切なくて温かくてホロリホロリと涙がこぼれる。だから、ストレス発散には向かないけど、胸にジーンと残る良質の読後感で幸せな気分になれる。

「号泣」と言えば、これらは有名だから読んだことがある人も多いと思うけど、藤沢周平さんの『蝉しぐれ』や、三浦綾子さんの『塩狩峠』は絶対に外せない。どちらも名作中の名作だから、「泣く」「泣かない」に関わらず誰もが感動すると思うし、何よりも作品として素晴らしい。あたしは、まだ「老人力」が身についてない時に読んで号泣したから、今、読み直したら大変なことになりそうだ。


‥‥そんなワケで、号泣することでストレスを発散してるあたしって変な人なのかな?‥‥って思ってたんだけど、インターネットで調べてみたら、『週末号泣のススメ』や『号泣力 心の荷物をすっとおろす』なんて本も見つかったし、「究極のストレス解消法は号泣すること」なんて記事も見つかったし、「号泣セミナー」なんてのも見つかった。だから、あたしの方法は特別なものじゃなくて、実際にあたしとおんなじに号泣することでストレスを発散してる人もたくさんいるみたいだ。だから、まだ試したことがない人は、ぜひ一度、思いっきり号泣してみてほしいと思った今日この頃なのだ♪


  

  


★ 今日も最後まで読んでくれてありがとう!
★ よかったら応援のクリックをポチッとお願いしま~す♪
  ↓



|

2013.01.15

昭和の切なさ、平成の悲しさ

しばらく前に、面白い‥‥っていうか、ちょっと興味を引くツイートを目にした。小学生の息子さんを持つお母さんのツイートなんだけど、息子さんは生まれた時から自宅にパソコンがある環境の今どきの子どもだから、小学生だけど普通にパソコンが使える。で、ある日のこと、その息子さんが、パソコンの画面の「保存」のアイコンを指差して、「このマークって何の絵なの?」ってお母さんに聞いたそうだ。

それで、お母さんが「それはフロッピーディスクの絵に決まってるじゃない」って答えたら、「フロッピーディスクって何?」って聞かれ、ここで初めてお母さんは、「そうか、今の子どもはフロッピーディスクを知らないのか」って気づいた‥‥っていう内容のツイートだった。

この子の場合は、フロッピーディスクってものの存在自体を知らなかったワケだけど、たとえば、「フロッピーディスクって名前は聞いたことがあるけど実物は見たことがない」とか「存在は知ってるけど使ったことはない」っていう人まで入れると、全国のパソコンユーザーのうち、フロッピーディスクに触れたことがない人は、そうとうの割合になると思う。

で、ここで問題なのは、このアイコンの絵の意味だ。フロッピーディスクの時代を過ごしてきたあたしたちの世代なら、この絵を見ただけで「保存」だってことが分かる。だけど、フロッピーディスクを知らない人たち、名前くらいは耳にしたことがあっても実物を見たことのない人たちにとっては、「このマークって何?」ってことになっちゃうワケだ。

まあ、それでもこれが「保存」を意味するアイコンだってことは間接的に理解できるだろうけど、そうなると、アイコンの絵の意味が消滅しちゃう。アイコンの絵ってのは道路標識みたいなもんで、横断歩道を人が渡ってる絵が描いてあれば「この先に横断歩道がある」ってふうに、文字が読めない人にも簡単に伝わらなければ意味がない。日本語が読めない外国人が日本に来ても、日本の道路標識の大半を理解することができるように、こうしたマークには言語を超えた意味がある今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、今は小学生でも普通にケータイを持ってたりパソコンを使ったりしてるけど、あたしの小学生時代には、当然、そんなもんはなかった。つーか、あたしが初めてケータイを持ったのは社会人になってからで、小学生どころか、中学、高校、専門学校と、ケータイなんかなかった。ちょっと進んでる子が、ポケベルを使ってたくらいだ。

で、フロッピーディスクを知らない今どきの小学生は、たぶん、ポケベルも知らないだろう。ポケベルってのは「ポケットベル」の略で、小型の受信機みたいなもの。もともとは外回りをするサラリーマンとかが持ち歩いてて、会社がその人を呼び出す時に使ってたんだけど、安いポケベルが出始めると、一般の人から女子高生までがプライベートで持つようになった。

ちょうど20年前の1993年には、秋元康が『ポケベルが鳴らなくて』っていうトレンディードラマを企画して、ドラマだけじゃなく国武万里が歌った同名の主題歌もヒットした。だけど、今どきの子たちがこの歌を聴けば「ポケベルって何だよ?新種のポケモンかよ?」なんて言いそうだし、このドラマを観たら「何でケータイで連絡しないの?」って思うことウケアイだ。


‥‥そんなワケで、「歌謡曲」は「流行歌」ともいうけど、これは、その歌自体が「一時的に流行する」って意味だけじゃなくて、「世の中の流行を反映した歌」って意味もあると思う。だから、「歌は世につれ、世は歌につれ」なんて言われてるんだと思うけど、この『ポケベルが鳴らなくて』のように、10年後、20年後には、歌詞に出てくる言葉の意味が理解されなくなっちゃうものも多い。

たとえば、フィンガー5の『恋のダイヤル6700』の「指の震えをおさえつつ、僕はダイヤル回したよ」とか、チェッカーズの『涙のリクエスト』の「ダイヤル回す、あの娘に伝えて、まだ好きだよと」とかの「ダイヤルを回す」ってことが、すでに今の子たちには理解されなくなってきてる。このあたしですら、ダイヤル式の電話機なんてちっちゃいころに使った記憶があるくらいで、人生の大半はプッシュ式の電話機を使ってきたんだから、あたしより10歳くらい下の人たちは、ダイヤル式の電話機なんて見たこともないだろう。

あたしが高校生の時に夢中になってたプリンセス・プリンセスが、16年ぶりに再結成して、去年の暮れの『NHK紅白歌合戦』でヒット曲の『Diamonds』を熱唱したそうだけど、この歌には「ブラウン管じゃわからない景色が見たい」って歌詞が出てくる。今回、初めてこの歌を聴いた小学生や中学生の中には、この「ブラウン管」が何のことなのか分からなかった子もいただろう。

ブルーハーツの『青空』って曲にも「ブラウン管の向こう側」って歌詞が出てくるし、他にも「ブラウン管」て単語を使ってる歌は多い。だけど、ずいぶん前からブラウン管を使ってるテレビやモニターは製造されなくなり、今やリサイクルショップでもブラウン管のテレビは見かけなくなった。だから、これらの歌に出てくる「ブラウン管」が「テレビ」を表わす言い回しだってことが分からない子どもがいるのは当然だし、今の子どもたちが大人になったころには、日本人の大半が理解できなくなってるかもしれない。


‥‥そんなワケで、こうした言葉が歌の歌詞に多用されてるのは、それぞれの作詞者にそれぞれの考えがあってのことだとは思うけど、ザックリと言っちゃえば、オシャレだしカッコイイからだ。「電話を掛ける」と言うよりも「ダイヤルを回す」と言ったほうがオシャレだし、「テレビ」と言うよりも「ブラウン管」て言ったほうがカッコイイからだ。

でも、これは、あくまでも「当時の感覚」であって、今じゃ逆に「ダサい」って感じる人もいるだろう。あたしの場合は、「ダサい」というよりは「昭和の懐かしさ」を感じる。「カルティエ」のことを「カルチェ」、「ロレックス」のことを「ローレックス」って言ってた昭和の懐かしさ、それが「ダイヤル」や「ブラウン管」にはある。そして、これは、あくまでも「当時を知ってる人たちの感覚」であって、当時を知らない今の子たちには、単に「意味の分からない表現」でしかない。つまり、パソコンの「保存」のアイコンにフロッピーディスクの絵が描いてあることとおんなじってワケだ。

チェッカーズの『涙のリクエスト』の「ダイヤル回す、あの娘に伝えて、まだ好きだよと」の前の部分は「最後のコインに祈りを込めてミッドナイトDJ」だけど、ケータイが主流で公衆電話を使う人をメッタに見かけなくなった昨今、もっと時代が進んで公衆電話もカード式のみになれば、この「最後のコインに祈りを込めてミッドナイトDJ」が「公衆電話からラジオに電リクしてる」って意味だと分からない子も出てくるだろう。それ以前に、すでに「電リク」って言葉も死語っぽいけど‥‥。

そして、「ダイヤル回す、あの娘に伝えて、まだ好きだよと」の後の部分は「トランジスタのヴォリーム上げて初めて2人」だけど、これも分からない子がいると思う。RCサクセションの『トランジスタ・ラジオ』みたいに、ちゃんと「ラジオ」まで言ってれば、実物を見たことがなくても「昔のラジオのことなんだろうな」って想像できるだろうけど、これを「トランジスタ」に略しちゃったら、今どきの子には分からなくなる。


‥‥そんなワケで、チェッカーズの『涙のリクエスト』は、ヒットメーカーの売野雅勇さんの作詞だけど、とっても切ない内容だ。他の男を好きになって自分のもとを去ってしまった元カノに対して、「俺は今でも愛してる!」って気持ちを綴ってる。そして、自分の思いを元カノに伝える方法ってのが、仲が良かった時に一緒に聴いてたラジオ番組に、公衆電話から最後の10円玉でリクエストして、2人の思い出の曲を掛けてもらうってワケで、考えただけでも気が遠くなる。

だって、まずはリクエストが採用されなきゃダメなワケで、リクエストが採用されたってカンジンの元カノがその番組を聴いてなきゃダメなワケで、この2つの難関をクリアして、ようやく「伝える」っていう入口に到達できるのだ。その上、この曲を聴いた元カノが「やっぱり前のカレシのほうが良かったな」って思わなきゃダメなんだから、気が遠くなるほどの道のりだし、あまりの成功率の低さに切なくなっちゃう。だけど、この切ない「過程」が最高なのだ。

今なら、ケータイやメールからツイッターやフェイスブックまで、元カノに連絡する方法はいくらでもあるから、もしも、この歌の主人公とおんなじように「元カノに思い出の曲を聴かせてヨリを戻したい」って考えに至ったとしても、メールやSNSで曲を送るってことができる。それに、選択肢がたくさんある今どきの若者なら、こんな遠回りなことなどせず、ソッコーで電話かケータイで「俺とやり直さない?」なんて言いそうだ。

だけど、インターネットどころかケータイもポケベルもなかった当時、相手に自分の気持ちを伝えるための選択肢は、「直接会って話す」と「手紙を書く」と「自宅に電話をする」しかなかった。そして、「自宅に電話する」を選択しても、たいていの場合、電話に出るのは相手の親なワケで、別れた元カノには取り次いでもらえない。そこで、この歌の主人公が考えたのが、いつも2人で聴いてたラジオ番組に、2人の思い出の曲をリクエストするっていう方法だったのだ。

なんて切ないんだろう。なんて純粋なんだろう。深夜だろうと早朝だろうと自分の好きな時に電話でもメールでもできる現代とは違い、インターネットもケータイもなかった時代だからこその、切なさであり純粋さだと思う。そして、この歌の2番では、もしも自分のリクエストした曲をラジオで聴いて、また自分とやり直してもいいって思ったら、お前もおんなじ曲をリクエストしてくれ。そしたら、お前を迎えに行くぜ‥‥って歌ってる。

なんて切ないんだろう。なんて純粋なんだろう。内容はぜんぜん違うけど、『ハイティーン・ブギ』なんかともオーバーラップする時代背景があるから、心の奥から切なさが溢れてくる。あたしは、この焦燥感を伴なった切ない感覚が大好きなんだけど、インターネットやケータイが普及して世の中が便利になったことで、こうした感覚が希薄になってきたように感じてる。


‥‥そんなワケで、インターネットやケータイがなかった時代を知ってるあたしは、今の世の中を「便利になったな」とは思ってるけど、インターネットやケータイがなかった時代に「不便だな」と思って暮らしてたワケじゃない。当時は、それが当たり前だったから、当たり前だと思って暮らしてた。そして、当たり前だと思って暮らしてたから、その中でいろんな工夫をしてた。

たとえば、電話は自宅にしかなかったから、夜の遅い時間に友達と電話でやりとりする時は、最初にベルを2回鳴らして切り、その30秒後に掛ける。そうすると、親が出ずに本人が出る。最初の2回のベルで、あたしからだって分かった友達が、電話を自分の部屋まで引っ張ってくからだ。

ポケベルの時代には、番号の羅列でメッセージを伝える方法も流行したし、ケータイの初期の時代には、メールの文字数でパケ代が跳ね上がったから、暗号めいた略語が流行した。これらの時代を過ごしてきたあたしたちの世代の多くは、それぞれ時代の通信手段を、それぞれの状況に合わせて工夫してきた。だから、一度も「不便だな」なんて感じたことはなかったし、それどころか、こうした「過程」を楽しんでた。

だけど、生まれた時から自宅や学校にパソコンがあり、小学生のうちからケータイや端末を持ち、どこからでも通信できる今どきの子どもたちが、もしも20年前にタイプスリップしたら、絶対に「不便だな」って思うハズだ。これは単に比較の問題だけど、あたしだって、生まれた時から電気も水道があったから、急に江戸時代にタイムスリップして、ローソクを灯りにしたり井戸水を汲みに行く生活になったら「不便だな」って思うだろう。

だから、あたしは、インターネットやケータイがなかった時代を知らない今どきの子どもたちを批判するつもりはない。でも、世の中が便利になったことで、『涙のリクエスト』の世界観を理解できない子どもが増えたりするのは寂しいことだし、何よりも、「過程」を省略して「結果」を早く手に入れたいと思う子どもが増えてしまうことを危惧してる。

欲しいものがすぐに手に入らないとキレる。したいことがすぐにできないとキレる。ネット上には、こんな子どもや若者が増えてきた。ネット上で見つけた「誰かが描いた絵」を自分のアイコンなどに使用したいのなら、まずは作者に使用許可をいただくのが最低限のマナーなのに、この手間を嫌って無断使用する。そして、作者にバレで警告されると逆ギレする。たかがアプリのゲームにムキになって、親のカードで何万円も課金する。そして、親にバレると逆ギレする。一概には言えないけど、こんな子どもや若者が増えてきたのは、自分の好きな時に電話やメールができるのが当たり前という便利な時代に生まれたことが一因のような気がしてる。


‥‥そんなワケで、ケータイの自動変換が発達、普及したことで、漢字が書けない人が増加したみたいに、世の中が便利になったことによる弊害ってのはいろいろあるけど、その中であたしがもっとも心配してるのが、「結果」ばかりを重視して「過程」を疎かにする人が増え、「過程」を楽しんだり味わったりする人が減ってしまうことだ。自分の好きな音楽を聴くために、まずは美味しいコーヒーを淹れて、ステレオの電源を入れて、ターンテーブルにレコードをセットして、スイッチを入れてからソファーに腰掛ける。これが、自販機で缶コーヒーを買ってiPodをオンにするだけになっちゃうと、聴こえてくる曲はおんなじでも、味わいはまったく違ってくる。そして、こうした「過程」が世の中から不要なものと見なされるようになってしまった時、日本古来の「切なさ」という美しい感覚が、単なる「悲しさ」の1つになってしまうと感じた今日この頃なのだ。


★ 今日も最後まで読んでくれてありがとう!
★ よかったら応援のクリックをポチッとお願いしま~す♪
  ↓



|

2013.01.09

子猫のハッピーエンド

去年の夏のこと、家の裏の草むらからニャーニャーと鳴き声が聞こえてきたので、捜索してみたら、手のひらに乗るほどの、まだ生まれて間もないキジトラの赤ちゃん猫がいた。目ヤニで目がふさがってて、黄色い鼻水が固まってて鼻の穴もふさがってて、小刻みに震えながら苦しそうに鳴いてた。きっと、お母さんの留守中に、お母さんを探しに住みかから出てきちゃったんだろう。

あたしは急いで台所に行って、ぬるま湯とティッシュを取ってきて、目と鼻を拭いてあげた。赤ちゃん猫は、目が見えるようになって鼻で息ができるようになったら少し落ち着いて、あたしの指先のお水を舐め始めた。あんまり人間の匂いが付いちゃうと、お母さんが警戒するかもしれないので、あたしは、とりあえず元の草むらに赤ちゃん猫をそっと戻した。

あたしが離れると、赤ちゃん猫は、またニャーニャーと鳴き始めた。もちろん、そのまま放置するワケにはいかないので、あたしは、裏の窓を開けて鳴き声を聞きながら様子を見てた。お母さんが探しにきてくれれば何よりだし、夕方まで待ってもお母さんが来なければ、一時的に保護するつもりでいた。でも、30分もしないうちに、赤ちゃん猫とおんなじキジトラの成猫がやって来て、赤ちゃん猫の首をくわえて帰っていった今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、今のあたしの家には、ニャンコ先生って呼んでる茶トラの大きな猫が遊びに来るので、いつもカリカリを用意してる。家の周りでは他にも何匹かの猫を見かけるし、家の塀の上を歩いてる猫もいるんだけど、最初のころは、玄関先や庭にまで入って来て、我が物顔でカリカリを食べてくのはニャンコ先生だけだった。

だけど、キジトラの赤ちゃん事件があってからしばらくして、キジトラの成猫が庭に入ってきた。あの赤ちゃんのお母さんなのか、似たような大きさの猫なのかは分からなかったし、それ以前に、メスなのかオスなのかも分からなかったけど、ニャンコ先生のあとにくっついて庭に入って来た。そして、あたしがニャンコ先生にカリカリを出してやると、カリカリを食べるニャンコ先生の様子を離れた場所からじっと見てた。

あたしは、別のお皿にカリカリを出して、ニャンコ先生から1メートルくらい離れた場所に置いてあげた。キジトラはワリと人になついてるようで、すぐにお皿のとこに来て、カリカリを食べ始めた。このキジトラが、あの赤ちゃんのお母さんだったってことが判明したのは12月に入ってからのこと、夏に見た赤ちゃん猫よりも二回りくらい大きいキジトラの子を2匹連れて、庭にカリカリをもらいに来たので、あたしは、この子猫のどっちかが、あの時の赤ちゃん猫なんだと直感した。


‥‥そんなワケで、キジトラの赤ちゃん事件があった去年の夏ころ、あたしは、『コイノカオリ』っていう本を読んでた。角田光代さん、島本理生さん、栗田有起さん、生田紗代さん、宮下奈都さん、井上荒野さんという豪華な6人による「香り」や「匂い」をテーマにした恋愛小説のアンソロジーだ。あたしは、大好きな角田光代さんの書き下ろしが読みたかったからBOOK OFFで買って来たんだけど、読み始めてみると、どの作品も素晴らしかった。

で、どの作品も甲乙つけがたいほど良かったんだけど、中でも大トリをつとめてた井上荒野さんの『犬と椎茸』の胸の奥がザワつくみたいな感じの読後感にシビレた。井上荒野さんの作品は、直木賞受賞作の『切羽へ』と、今月、映画が公開される『つやのよる』くらいしか読んだことがなかったので、他の作品も読んでみたいなって思った。

それで、ビンボーなあたしはいつも図書館かBOOK OFFばかりで作家の皆さんにはホントに申し訳ない気持ちでいっぱいなんだけど、去年の秋にBOOK OFFに行った時に、本棚の井上荒野さんのとこもチェキしてみた。そしたら、何冊かの中に『雉猫心中』っていう作品があって、あたしは、2~3年前にこの本が出版された時に、タイトルだけで「読んでみたいな」って思ったことを思い出した。その上、キジトラの赤ちゃんのことも頭に浮かんだので、あたしは、本の中も見ずに買うことに決めた。

あたしは、この時、BOOK OFFで読みたかった本を5冊くらい買って来たんだけど、前に買ってまだ読んでなかった本もあったし、あたしは1冊の本を大事に大事にちょっとずつ読むタイプなので、一番最後に井上荒野さんの『雉猫心中』を読み始めた時には、12月くらいになってた。

これから読む人もいるかもしれないので、ネタバレにならない程度に書くけど、この作品は、結婚してる男と結婚してる女のダブル不倫の物語だ。同じ町内に住む男と女が、1匹のキジトラの猫を媒体にして出会い、ドロドロした肉体関係へと突入してく‥‥って流れなんだけど、このキジトラの猫が庭にくるようになったことで、女はスーパーでカリカリを買い、自分のダンナにバレないように庭でコッソリとカリカリをあげるようになる。あたしは、この作品を読み始めて、女が庭でキジトラの猫にカリカリをあげるシーンで、赤ちゃん猫のお母さんのことがオーバーラップした。

この作品は、プロローグ、第一部「おわりのはじまり」、第二部「はじまりのおわり」、エピローグっていう構成で、前半の「おわりのはじまり」は女の視点からのストーリー、後半の「はじまりのおわり」は男の視点からのストーリー、おんなじ時間軸のダブル不倫を男女それぞれ視点で綴ってる面白い構成だ。


‥‥そんなワケで、いつものように大事に大事にちょっとずつ読んでたあたしは、12月の終わりころに『雉猫心中』を読み終えた。そして、年が明けて、1月5日の「金杯」は東西ともに完敗しちゃったけど、翌日6日の「シンザン記念」は2点予想で3連単が的中して100円が3万円近くになった!


Kb0106k11


そして、新年早々の万馬券に気分上々でお酒を飲みながら、この日の「スマイルプリキュア!」を観始めたあたしは、タイトルを見てぶっ飛んだ!


第45話「終わりの始まり!プリキュア対三幹部!! 」


「終わりの始まり」って、1週間ほど前に読み終えた『雉猫心中』の第一部とおんなじタイトルだ!いくら何でも、こんな偶然ってある?‥‥ってなワケで、これは、第二次世界大戦の時に、ウィンストン・チャーチルが言った言葉が元になってる。1942年11月、エジプトのエル・アラメインの戦いでイギリス軍がドイツ軍に勝利した時に、イギリスの当時の首相だったチャーチルは国民に向けての演説でこう言った。


"Now this is not the end. It is not even the beginning of the end. But it is, perhaps, the end of the beginning."

「今はまだ終わりではない。これは終わりの始まりでさえもない。しかし、あるいは、始まりの終わりかもしれない」


実際、この言葉の通り、まだまだ戦争は続いてくワケだけど、このチャーチルの言葉から、「the beginning of the end (終わりの始まり)」と「the end of the beginning (始まりの終わり)」ってフレーズがいろんなところで使われるようになった。


‥‥そんなワケで、『雉猫心中』のラストシーンはネタバレになっちゃうから書けないけど、男女の恋愛を描いた作品には、悲劇もあればハッピーエンドもあって、どっちもそれぞれに楽しめる。だけど、自分が主人公になるんだったら、誰だってハッピーエンドを望むだろう。どんなに過程が幸福でも、最後に悲惨なエンディングを迎えるストーリーよりも、過程は山あり谷ありの苦労の連続でも、最後に幸せが訪れるハッピーエンドを望むだろう。

つまり、1月5日の「金杯」が完敗でも、6日の「シンザン記念」で万馬券が的中して「結果オーライ」になったように、「終わりよければ全てよし」ってワケだ。ちなみに、日本でも昔からあるコトワザみたいに使われてるこの言葉、「終わりよければ全てよし」ってのは、シェイクスピアの戯曲のタイトルだ。原題は『All's Well That Ends Well』、日本では『終わりよければ全てよし』って直訳されてるんだけど、この戯曲、チャーチル風味に言わせてもらえば、「この物語はハッピーエンドである。しかし、あるいは、バッドエンドかもしれない」ってことになる。

ザックリと説明すると、両親を失ってロシリオン伯爵夫人に面倒を見てもらってる孤児のヘレナが、この家の息子バートラムのことを好きになるんだけど、バートラムはヘレナのことを好きじゃない。でも、どうしてもバートラムと結婚したいヘレナは、執拗に彼のことを追いかける。完全にストーカー状態だ。ヘレナとなんか結婚したくないバートラムは、「俺の子を妊娠したらお前と結婚してやる」なんて無理なことを言う。

で、ナンダカンダあった末に、ヘレナは必殺技を炸裂させちゃう。バートラムが恋焦がれてたダイアナっていう女性に成りすまして、ダイアナのベッドで寝たふりをしちゃうのだ。ダイアナのことが好きで好きで仕方ないバートラムは、闇夜に紛れてダイアナの部屋へと夜這いに行く。そして、そこに寝てるのが、まさか自分が毛嫌いしてるヘレナとは知らずに、セッセとセックスに励んじゃう。そして、ヘレナは計画通りにバートラムの子を身ごもっちゃうのだ。

しばらくして、大きなお腹で現われたヘレナに、お腹の子が自分の子だと知らされたバートラムは、しぶしぶ結婚を承諾する‥‥ってワケで、「めでたし、めでたし」なのはヘレナだけで、バートラムにしてみれば、芸能人のブログに騙されてペニーオークションで何万円も巻き上げられたような話、詐欺に遭ったような話だ。だけど、この戯曲のラストシーンでは、バートラムがヘレナに対して「そんなにまで俺のことを思っていてくれたのか!」って感激して、2人で「めでたし、めでたし」になり、観客も拍手喝采‥‥っていう茶番劇に仕上がってる。ようするに、無理やりに「終わりよければ全てよし」にしちゃってるワケで、ホントの意味でのハッピーエンドとは言い難い。


‥‥そんなワケで、話はクルリンパと戻って今回の「スマイルプリキュア!」だけど、最後に登場したのが「ダーク・プリキュア」ならぬ「バッドエンド・プリキュア」の5人だった。つまり、プリキュアたちは、あと3回の放送で、この5人を倒さなきゃハッピーエンドは訪れないワケで、世界は文字通りバッドエンドになっちゃうってワケだ。だけど、そんな心配は1ピコグラムも必要なくて、プリキュアたちは台本通りにバッドエンド王国を消し去って世界をハッピーエンドに導いてくれる。そして、みゆきが「ウルトラハッピー!」って言えば2月3日から次の「ドキドキ!プリキュア」が始まるワケだから、去年の夏にキジトラの赤ちゃんを発見した時から続いて来たあたしの「偶然の連鎖」も、ここでめでたくハッピーエンドを迎える予定の今日この頃なのだ♪


★ 今日も最後まで読んでくれてありがとう!
★ よかったら応援のクリックをポチッとお願いしま~す♪
  ↓



  

|

2013.01.01

歳旦三つ物

明けましておめでとうございます♪


  歳旦三つ物

 母さんの髪結ふ仕事始かな

 屠蘇は辛口汲むはぐい呑み

 蛇出づる恋の予感に誘はれて

 きっこ

|

« 2012年12月 | トップページ | 2013年2月 »