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2013.03.20

迷探偵キッコナンの憂鬱

あたしは、好きな本は何度も読み返すタイプなんだけど、さすがに読み終えたトタンに読み返すことはない。たとえば、Aという作家の本を読み終えたら、次は別のBという作家の本を読み、次はまた別のCという作家の本を読み‥‥ってふうに数ヶ月が過ぎて、たまたま最初のAという作家の別の作品を読んだ時なんかに、その内容から触発されて、おんなじ作家の数ヶ月前に読んだ作品を読み返してみたくなる。で、読み返す。そうすると、数ヶ月前に読んだ時には気づかなかったことに気づいたり、数ヶ月前に読んだ時とは違った感触を得ることができたりする。

あたしの大好きな作家の1人である加納朋子さんの作品の中では、あたしは『ささらさや』と『てるてるあした』が特に大好きなんだけど、『ささらさや』は2001年、『てるてるあした』は2005年の作品だから、普通はこの順番で読むし、あたしも最初はこの順番で読んだ。だけど、二度目か三度目に『てるてるあした』を読み返した時、どうしても『ささらさや』も読みたくなったので、続けて読んだ。そしたら、すごく自然な流れが感じられて、発刊順に読むよりも感動することができた。だから、それからは、必ずこの順番で読むことにしてる。

まあ、この2作はおんなじ作家の作品だし、おんなじ町を舞台にした姉妹作品だから、発刊順でも逆でも、続けて読めば2倍楽しめるのは当然だ。だけど、あたしの「読み返し方式」の読書から生まれたのは、この「逆読み」だけじゃない。ある作家のある作品を読み終えた時、数ヶ月前に読んだおんなじ作家の作品を読み返したくなるんじゃなくて、たまに別の作家の作品を読み返したくなることがある。そうして生まれたのが「コラボ読書」という楽しみ方だ。違う作家の作品でも、おんなじテーマのものや似たようなシチュエーションのもの、ストーリーに関連性が感じられるものや主人公のイメージが重なるようなもの、こうした2冊を続けて読む「コラボ読書」によって、A+B=Cの世界が生まれることもある今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、あたしの楽しんでる「コラボ読書」を具体的に説明すると、たとえば、小松左京さんの『日本沈没』と筒井康隆さんの『日本以外全部沈没』、この2冊を続けて読めば『世界中沈没』になっちゃって面白いんだけど、これは「コラボ読書」とは呼べない。筒井康隆さんの『日本以外全部沈没』は、小松左京さんの『日本沈没』が大ヒットしたという前提で書かれたパロディーなんだから、最初から『日本沈没』を読んだ人が対象になってる。つまり、2冊を続けて読めば2倍楽しめるけど、それは筒井康隆さんの想定した範囲内の楽しさであり、読者は筒井康隆さんの手のひらの上で遊ばされてるってだけのことなのだ。

A+B=Cの世界が生まれる「コラボ読書」ってのは、筒井康隆さんの作品なら『虚人たち』を、夢野久作さんの『ドグラ・マグラ』と合わせて読む。順序としては、まず『ドグラ・マグラ』を読んで自分の周りの世界を狂人の解放治療の場に変えておき、そこに『虚人たち』の句点だけで読点のない不思議な時間感覚を連結させる。こうして読むと、『ドグラ・マグラ』を読んでも理解できなかったことや、『虚人たち』を読んでも把握できなかったことが、相乗効果によって氷解され、AでもBでもないCの世界が見えてくる。

あたしは、こんなふうに読書を楽しんでるんだけど、最近発見した「コラボ読書」のヒットは、角田光代さんの『トリップ』と朱川湊人さんの『かたみ歌』だ。この2冊に共通してるのは、どちらも「とある商店街」を舞台にしてるってことと、主人公が次々と入れ替わる短編の連続で構成されてるってこと。角田光代さんの『トリップ』は、時代は現代、場所は東京のベッドタウンにあるパッとしない商店街、朱川湊人さんの『かたみ歌』は、時代は昭和40年代の半ば、場所は東京の下町にあるアーケード商店街、だから、時系列で考えれば『かたみ歌』のほうから読むべきなんだけど、この2作のコラボを楽しむためには、順序は逆のほうがいい。

何でかって言うと、角田光代さんの『トリップ』が現実に十分起こりうるストーリーの連続であるのに対して、『かたみ歌』は朱川湊人さんならではの郷愁をまとった不思議な出来事の連続だからだ。先に『トリップ』を読んで、自分も「とある商店街」を利用している1人になっておき、それから『かたみ歌』を読んで数十年前を回想する‥‥って流れのほうが、双方の作品の味わいが何倍にもなり、A+B=Cどころか、DにもEにも発展していく。

ちなみに、これは偶然なんだけど、2004年下半期の第132回直木賞は角田光代さんが『対岸の彼女』で受賞してて、その次の2005年上半期の第133回直木賞は朱川湊人さんが『花まんま』で受賞してる。両方とも何度も何度も読んでる大好きな作品だけど、残念なことに、この2冊での「コラボ読書」は成立しない。


‥‥そんなワケで、これから読む人もいるかもしれないので、なるべくネタバレにならないように書いてくけど、朱川湊人さんの『かたみ歌』は、推理小説じゃなくてホラー小説だから、何らかの事件や不思議な出来事が起こっても、推理小説のように最後にキレイサッパリと解明されるワケじゃない。どこかに消えてしまった少年は消えたまま、謎の光る玉の正体も分からぬまま、「もしかしたらこうなんじゃないか?」っていう確証のない推測の中、物語はエンディングを迎える。

ただ、不思議な出来事の発生に至るツジツマは合うように書かれてるから、読後に残尿感はない。逆に、昭和30~40年代を飾った数々の流行歌の他に、「エイトマン」や「忍者部隊月光」、「ザ・タイガース」や「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」、「手塚治虫」や「石森章太郎(石ノ森章太郎)」、「岡林信康」や「吉田拓郎」などの固有名詞によって、この時代を知る人たちには、何とも言えない郷愁や憧憬の余韻を残してくれる。

あたしは、ちょうどこの小説の舞台になってる時代に生まれたから、リアルタイムでの流行歌やアニメの記憶はほとんどないけど、大人になってから「自分の生まれた時代の大衆文化」に興味を持っていろいろと調べたりしたから、ここに登場する固有名詞はすべて分かった。だから、あたしよりひと回り上の人、50代の人だったら、リアルタイムで体験してる世界で、あたしの何倍もジンワリと楽しめると思う。


‥‥そんなワケで、いよいよ本題に入るけど、朱川湊人さんの『かたみ歌』を読んで、あたしにはどうしても解けない謎が1つだけ残った。それは、短編全話に登場する「影の主人公」である古本屋のご主人の吸うタバコについての謎だ。古本屋の名前やご主人の名前も、ある意味、ネタバレ要素があるので、ここでは伏せるけど、このご主人は高齢の気難しそうな外見の男性で、芥川龍之介に似てる。でも、話すと気さくな人物で、やたらとタバコを吸うヘビースモーカーだ。で、1話目の「紫陽花のころ」の主人公、この町に引っ越してきたばかりの小説家志望の男が、この古本屋に何度か通って顔なじみになると、こんな一節が登場する。


「そう言いながら店主はセブンスターを一本くわえ、私にも一本勧めてくれた。」


4話目の「おんなごころ」には、こんな描写が登場する。


「古本屋の主人はベンチに腰を降ろしたまま、セブンスターに火をつけた。」


そして、極めつけは5話目の「ひかる猫」での、次の一節だ。


「すべての家財道具を始末し、マンガを描く道具だけが入ったカバンの中から、私はセブンスターを三つ取り出して、ご主人に手渡しました。」


これは、この町の安アパートに住んでマンガ家を目指していた青年が、故郷の両親との「三年がんばっても芽が出なければ田舎に帰って就職する」という約束を守って、田舎に帰るシーンだ。お世話になった古本屋のご主人に、お礼としてセブンスターを3個、渡している。そして、最終話の「枯葉の天使」では、ずっと伏せられてきたご主人の名前が明らかになり、次のように書かれている。


「●●はいつもの場所に座って、灰皿を引き寄せた。セブンスターを一本つけて深々と吸い込み、数秒溜めて勢いよく吐き出す。」


名前を書くとネタバレ風味になっちゃうので、ここでは伏せたけど、ここまで繰り返し書いてあれば、このご主人は「セブンスターを好む愛煙家」ってことになるだろう。他の話では、タバコの銘柄までは書かれてないけど、2話目の「夏の落とし文」では「主人がくわえ煙草で店の奥から出てきた。」、6話目の「朱鷺色の兆」では「いつも煙草ばかり吸っていて、とっつきにくそうなタイプに見えるけど、話してみれば、なかなか気のいい人だったよ。」など、ヘビースモーカーであることが描かれてる。

ただ単に「ヘビースモーカーだ」ってことを印象づけるだけじゃなく、わざわざ「セブンスター」という銘柄を何度も登場させてるのは、タバコの銘柄を特定することでストーリーにリアリティーを持たせる‥‥ってよりも、タバコの銘柄をキャラクターのイメージの1つにするってケースだ。有名なとこでは、レイモンド・チャンドラーの『大いなる眠り』や『さらば愛しき女よ』から『長いお別れ』へと至るハードボイルドの名作に登場する私立探偵、フィリップ・マーロウがいつもくわえてる「キャメル」だ。ハンフリー・ボガートがフィリップ・マーロウを演じた『大いなる眠り』は、日本では『三つ数えろ』という邦題で公開されたけど、スクリーンの中のハンフリー・ボガートはタバコばかり吸ってるし、実際のハンフリー・ボガートもヘビースモーカーだった。

だから、余談になるけど、映画『イージーライダー』の中で、マリファナのジョイント(手巻きタバコ)を回してるシーンで流れる The Fraternity of Man の『Don't Bogart Me』って曲では、「Don't bogart that joint, my friend.Pass it over to me.(ハンフリー・ボガートみたいに独り占めしないで、こっちにもマリファナのジョイントを回してくれよ)」なんて歌詞が繰り返されてる。これは、ハンフリー・ボガートが必要以上に時間を掛けてタバコを吸うことから生まれた言い回しで、タバコやマリファナだけじゃなくて、食べ物でも飲み物でも何にでも使われる。


‥‥そんなワケで、話はクルリンパと元に戻るけど、作者の朱川湊人さんが、この古本屋のご主人をヘビースモーカーにしたことや、セブンスターという強い銘柄を好みにさせたのは、タバコという嗜好品が男のカッコ良さを表現するための小道具の1つだった古き佳き時代への回帰、さらには、フィリップ・マーロウへのオマージュが背景にあったのかもしれない。もちろん、何よりも大きい理由は、昭和40年代という時代背景に合致させるための演出なんだろうけど、あたしは、それ以上のものを感じた。だから、余計に謎なのだ。何がって、3話目の「栞の恋」に登場する、次の一節がだ。


「主人は近くにあったハイライトの箱を取ると、一本くわえて火をつけながら言った。」


全7話から成る『かたみ歌』の中で、たった1ヶ所だけ、否、たった1本だけ、古本屋のご主人はハイライトを吸ってるのだ。そして、その理由はどこにも書かれていない。たとえば、自分のセブンスターを切らしてしまい、たまたま友人が忘れていったハイライトがあったので、それを間に合わせに吸った‥‥とか、何らかの理由が書かれていれば何も問題ないし、この一節が何かの伏線になってて、最終話でツジツマが合うとかなら言うことなしなんだけど、どうしてハイライトを吸ったのかは最後まで謎のままなのだ。

そこで、あたしは、この謎を解くために、ヒサビサにあの人を呼び出してみることにした。そう!頭脳は子供でもベッドでは大人!迷探偵キッコナン!‥‥てなワケで、キッコナンはさっそく『かたみ歌』を読み始めた。そして、数時間後、読み終えたキッコナンは、開口一番にこう言った。


「分かったわ!」

「ええっ?」

「確かに、きっこの言う通り、どの話でもセブンスターを吸ってるご主人が、3話だけはハイライトを吸ってるわね」

「でしょ?」

「だけど、3話の内容を考えれば、これは作者が仕組んだ『ちょっとした遊び心』だってことが分かるはずよ」

「どういうこと?」

「3話の主人公は商店街の酒屋の娘さんだけど、その娘さんが古本屋の棚にある一冊の専門書を使って、ある男性と手紙のやりとりをするって話よね?」

「うん!」

「酒屋の娘さんが、ひと言だけメッセージを書いたメモをその本に挟んでおき、数日後にまた古本屋さんに行ってその本をひらくと、ある男性からの返信が挟んである。こうして、2人は手紙のやりとりを続けていく」

「うんうん!」

「だけど、とっても不思議で、とっても悲しい結末が待ってる」

「うんうんうん!」

「つまり、この数奇なストーリーは、酒屋の娘さんが古本屋の棚の一冊の専門書をひらくことから始まったわけよね?」

「うんうんうんうん!」

「で、ご主人がハイライトを吸うシーンの一節には、何て書いてあった?」

「え~と、『主人は近くにあったハイライトの箱を取ると、一本くわえて火をつけながら言った』って書いてあるわ」

「セブンスターの描写との違いが分かる?」

「ええっ?」

「セブンスターの描写は、どれも『セブンスターを一本くわえ』とか『セブンスターに火をつけた』とか『セブンスターを三つ取り出して』とかで、1つも『セブンスターの箱』って表現は使ってないでしょ?だけど、ハイライトは『ハイライトの箱を取ると』って言ってるの」

「そう言われてみれば、その通りだわ。だけど、それが一体‥‥」

「ハイライトのくだりは、『主人は近くにあったハイライトを一本くわえて火をつけながら言った』でも通じるのに、それをわざわざ『主人は近くにあったハイライトの箱を取ると、一本くわえて火をつけながら言った』と書いてる。つまり、ハイライトの謎は、この『箱』にあるのよ!」

「どういうこと?」

「ハイライトの箱には何て書いてある?」

「そりゃあ、ハイライトって書いてあるでしょ?」

「そうだけど、正確には、カタカナじゃなくて英語で『hi-lite』って書いてあるのよ」

「うん!」

「そして、この『hi-lite』っていう文字を半分くらいローマ字読みすると『ひらいて』って読めない?」

「ええっ?」

「つまり、古本屋の棚にある専門書を『ひらいて』って意味なのよ!作者の朱川湊人さんは、ちょっとした遊び心で、この話だけセブンスターをハイライトに変えたってわけ!」

「う、う~ん‥‥何か無理があるような‥‥キッコナン、もしかして推理力が鈍ったんじゃない?」

「そんなこと言ったって、他に何も理由が見つかんないんだも~ん!この業界、タフでなければ生きて行けないし、優しくなれなくては生きている資格がないのよ!」

「はあ?」


‥‥そんなワケで、サスガの迷探偵キッコナンも、久しぶりすぎて勘が鈍っちゃったのか、推理のほうはイマイチだったけど、最後の捨てゼリフだけはフィリップ・マーロウ風味に決めてくれた‥‥てなワケで、あたしが密かに楽しんでる「コラボ読書」だけど、今回ご紹介した角田光代さんの『トリップ』と朱川湊人さんの『かたみ歌』との「コラボ読書」は、初めての人でもケッコー楽しめると思う。何でかって言うと、『トリップ』の全10話の8話目までは現実的な現代のストーリーなのに、9話目で突然、郷愁をまとった不思議な出来事が起こり、最後の10話で大きく飛躍して、まるで昭和30年代か40年代にタイムスリップしたかのような世界へと誘ってくれるからだ。ここから『かたみ歌』の世界へ流れ込むと、言葉じゃ説明できないような感覚に包まれることウケアイな今日この頃なのだ♪


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2013.03.18

風が吹けば何が起こる?

1週間くらい前のこと、朝から晴れ渡ってた東京の視界が急に霞んでしまうという異常事態が発生した。あたしのいる西日本の某所は「単なる曇天」だったけど、ツイッターでは黄色く霞む東京タワーの写メがRTされてきて、「中国の黄砂だ!」「いや、中国のPM2.5だろう!」「スギの花粉じゃないのか?」「また福島原発が爆発したんじゃないのか?」って、いろんな憶測が飛び交った。挙句の果てには「天変地異だ!」「世界の終わりだ!」って言い出す人もいたもんだから、あたしは「上空でPM2.5と放射性物質が交差(黄砂)してるようだ」っていうオヤジギャグをつぶやいてみたら、そこそこウケた(笑)

で、気象庁はすぐに「黄砂でもPM2.5でもありませんので安心してください。これは雨が降らずに乾燥していた時に強風が吹き、土ぼこりが上空まで舞い上がって発生した煙霧です」って説明したんだけど、あたしは、この説明に首をひねった。だって、何日も雨が降らずに乾燥してた時に強風が吹いたことなんて、あたしが生まれてから今までに何百回もあったのに、東京タワーや高層ビルが黄色く霞んで見えなくなったことなんて一度もなかったからだ。

たとえば、東京の真ん中で竜巻が発生したとかなら、地表の土ぼこりが上空まで舞い上がったとしても理解できる。だけど、単に強風が吹いただけなら、土ぼこりは地上の数メートルの高さを横に飛ぶだけだろう。そういうのなら、学校の校庭でも多摩川の河川敷でも何度も見たことがある。でも、3階建ての校舎の屋上まで舞い上がった土ぼこりなんて見たことがない。3階建てでも見たことがないのに、東京タワーや高層ビルの高さまで土ぼこりが舞い上がるなんて、どうしても想像できない。

それに、コンクリートやアスファルトばかりの都心に、そんなに土ぼこりがあるとは思えない。あたしが強風で飛ぶ土ぼこりを見たのは、乾いた土が剥き出しの校庭や河川敷のグラウンドとかで、地面が舗装された街じゃ見たことがない。だから、どんなに強風が吹いたとしても、東京の空一面が霞むほどの土ぼこりが発生するなんて信じられない。それで、疑い深いあたしは、ホントは人体に害がある「何か」が発生してたんだけど、東京都民がパニックになることを恐れたとか、はたまた「何か」の発生源を隠蔽する必要があったとかで、「これは煙霧です」なんていう嘘の広報をしたような気がする今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、昔から「風が吹けば桶屋が儲かる」なんてことを言うけど、これって、もともとは「桶屋」じゃなくて「箱屋」だったんだよね。「強風が吹くと土ぼこりが飛んでくる」→「土ぼこりが目に入って失明する人が増える」→「失明すると三味線を弾いてお金をもらう門付(かどづけ)くらいしか仕事ができなくなるから三味線がたくさん売れる」→「三味線の皮にするために町から猫がいなくなる」→「猫がいなくなってネズミが増える」→「増えたネズミは桶をかじるから桶屋が儲かる」っていう流れはおんなじなんだけど、最後のとこだけが「桶屋が儲かる」じゃなくて「箱屋が儲かる」って話が最初だった。でも、時代の流れとともに、「箱屋」なんて言われてもピンと来ない人たちが増えてきたからなのか、分かりやすい「桶屋」に変わったみたいだ。

だけど、今じゃ「桶屋」もピンと来ないし、「オケ屋」と言えば「カラオケボックス」のことだと思っちゃう人のほうが多いから、そろそろ次の商売に変わるかもしれない。ネズミがかじりそうな物と言えば、現代なら電気のコードや配線類を思い浮かべるから、「風が吹けばコジマ電気が儲かる」とかになるのかな?‥‥つーか、それ以前に「失明すると三味線を弾いてお金をもらう門付くらいしか仕事ができなくなるから三味線がたくさん売れる」って部分が違ってくるし、さらに、それ以前に「土ぼこりが目に入って失明する人が増える」って部分も違ってくる。現代の医学なら、目に土ぼこりが入っただけで失明することなんか稀だし、目に土ぼこりが入らないようにするゴーグルタイプの防護グラスとかもあるし、もっともっと大前提として、都市部の地面は大半が舗装されてるから土ぼこりが立たない。そう、あたしが言いたいのはココなのだ!なのだったらなのなのだ!

それなのに、東京に「煙霧」って何?東京タワーや高層ビルまでが霞むほどの「土ぼこり」って何?まさか「これがホントの霞ヶ関ビル」ってギャグを言いたいためのネタフリ?それとも「どろろん煙霧くん」ってギャグを言いたい永井豪ファンのサシガネ?‥‥とか思っちゃう。


‥‥そんなワケで、「煙霧」のことは置いといて、昔の日本では「失明したら三味線を習って門付になる」ってことがコトワザに使われるほどポピュラーだったんだけど、コレって意外と最近まで続いてた。あたしの大好きな初代の高橋竹山は、今から100年ほど前の明治43年(1910年)に生まれて平成10年(1998年)に亡くなったんだけど、3歳の時の病気が原因で視力をほとんど失ったため、「門付になるくらいしか生きていく道がない」ってことで、津軽三味線を習うことになった。そして、17歳の時から、実際に東北や北海道を回って、いろいろな家の前で演奏をしてお金や食べ物をもらう門付をして生活してた。

そんな竹山も、太平洋戦争の影響で三味線だけでは生活してくことが困難になり、28歳の時、鍼灸師とマッサージ師の資格を取るために盲学校に入学する。その後、三味線の仕事に戻ったんだけど、若いころのように門付の旅をするんじゃなくて、いろいろな場所に呼ばれて、お客さんの前で演奏して出演料をもらうという形がメインになった。だから、竹山が辛い門付の生活をしたのは若いころだけなんだけど、その門付の経験があったからこそ、多くの人たちの心の奥の奥にまで響いてくる日本一、世界一の津軽三味線奏者へと昇華したんだと思う。

竹山が3歳の時、病気で失明したことは不幸なことだけど、もしも失明しなければ津軽三味線の道には進まなかったんだから、「失明=不幸」という単純な図式じゃ語れない。それこそ「風が吹けば桶屋が儲かる」のように、偶然の連鎖が必然を生み出してるのだ。そして、あえてキレイゴトを言わせてもらえば、竹山は「光」を失ったからこそ津軽三味線という「音」を得たのかもしれない。


‥‥そんなワケで、この門付と似たものに、古代から中世にかけてヨーロッパにいた「吟遊詩人」てのがある。各地を回ってハープやギターやバイオリンなどを弾きながら自分の作った詩曲を歌ってお金をもらう人のことで、古代ギリシャでは吟遊詩人の多くが盲目だったと伝えられてる。だけど、これは、「目が見えないから仕方なく吟遊詩人になった」って感じじゃなくて、当時は、「目が見えないからこそ、そのぶん音に関する感性が優れている」っていう見方をされてた。

だから、古代ギリシャの盲目の吟遊詩人は、生まれながらに目の見えない人もいれば、病気や事故で失明した人もいるけど、中には「もっとよく世の中を見るために自ら失明した」って人もいる。まるでジョジョと戦ったワムウみたいだ。そして、そんな古代ギリシャの盲目の吟遊詩人たちの中でも、興味のない人でも名前くらいは聞いたことがあると思うのが、長編叙事詩『イーリアス』や『オデュッセイア』の作者と言われてるホメロス(ホメーロス)だ。

『イーリアス』や『オデュッセイア』って聞いても「何だ?それ」、ホメロスって聞いても「誰だ?それ」って人でも、さすがに『風の谷のナウシカ』は知ってるだろう。ホメロスが書いたと言われてる『イーリアス』の続編の『オデュッセイア』に登場するのが「ナウシカア姫」、ナウシカのモデルになったお姫様だ‥‥ってなワケで、知った名前が出てリトル馴染んだとこで本題に戻るけど、この『オデュッセイア』には、作者であるホメロスが自分をモデルにしたと言われてるデモドコス(デーモドコス)って人が登場する。ナニゲにドンタコスに似てる気がするけど、この人は盲目の吟遊詩人だ。そして、こんなふうに書かれてる。


「ムーサは、この吟遊詩人をこよなく愛し、良いことと悪いことを合わせて与えた。両目の光を奪った代わりに甘美な歌を与えたのであった」


「ムーサ」ってのは、ナニゲにカラムーチョを連想しちゃうけど、英語で「ミューズ」、文芸をつかさどる女神のことだ。学芸全般の神がアポロンで、その下にたくさんのムーサがいる。つまり、この一節は、「デモドコスは生まれながらに盲目だったが、その代わりに素晴らしい歌声を持っていた」ってことを言ってるワケだ。そして、このデモドコスが作者と言われたホメロスをモデルにしたキャラだと伝えられてたために、作者のホメロスも盲目だったと推測されてる。


‥‥そんなワケで、この吟遊詩人てのも時代や国によって様々なんだけど、ザックリ言っちゃえば「身分の低い放浪の芸人」てことになる。そして、日本の門付とおんなじように、町から町を渡り歩いて自作の詩を歌い、わずかなお金をもらって生活してた人たちがほとんどだ。だけど、他の人たちよりも素晴らしい詩を書ける才能があったり、他の人たちよりも素晴らしい歌声を持ってたりすれば、その吟遊詩人は評判になり、そのうち王様のお目にとまり、宮廷の専属になれたりすることもあった。そうなれば、街角や酒場で歌ってる吟遊詩人よりもずっと上の生活が保障された。

『オデュッセイア』に登場するデモドコスも、文芸の女神であるムーサが溺愛し、「両目の光を奪った代わりに甘美な歌を与えた」ってくらいだから、当然、街角や酒場で歌ってる吟遊詩人たちとは格が違って、アルキノオス王の宴で歌を披露する。そして、彼の歌を聴いた人たちは涙する。現代のように、「盲目=障害」、「盲目=ハンディキャップ」という捉え方とは違って、古代ギリシャでは、盲目の人は「目の見える人よりも感覚が優れている」、「目の見える人にはない特殊な能力を持っている」って捉えられてたから、王様の宴に登場して聴衆たちを感動させる吟遊詩人は、盲目じゃなければ成り立たなかったのだ。

だから、古代ギリシャでは、吟遊詩人だけでなく、預言者にも盲目の人が多かった。盲目の人は、音楽の才能だけでなく、記憶力や直観力も優れているケースが多いため、古代ギリシャでは「予知能力を持っている」って考えられてたからだ。ま、予知能力は非科学的だとしても、少なくとも記憶力や直観力が優れてることは証明されてる。たとえば、ピアノの上級者でも楽譜を見ながらじゃないと弾けないような長くて複雑な楽曲を、盲目のピアニストが一度聴いただけで暗記してしまい、その場で完璧に弾いてみせたりする。

ホメロスの場合は、時代的にもピアノじゃなくてハープを弾きながら歌ってたんだと思うけど、それでも、詩を書く才能と歌声の素晴らしさだけじゃなくて、ハープの腕前もワンダホーだったと思う‥‥って、ここまで書いてきて今さら言うのもアレだけど、ホメロスは、実在したかどうかハッキリとは分かってない人物なのだ。なんせ、紀元前8世紀、日本で言えば縄文時代からようやく弥生時代に入ったころの話だ。ハッキリと分かるワケがない。だから、あたしは、「長編叙事詩『イーリアス』や『オデュッセイア』の作者のホメロス」とは書かずに、「作者と言われてるホメロス」って書いたのだ。

ホメロスに関しては、いろんな説があって、もちろん「実在した」って説が濃厚ミルクなんだけど、その反面、「当時の複数の詩人が共同で作品を書き、その共同名義としてホメロスという名前を使った」なんて説もある。かつて、「きっこなんて女は存在しない。きっこの日記は複数の雑誌記者が交代で書いてるのだ」なんて噂がまことしやかに流されたことがあったけど、あまりにも才能がある人物が彗星のように登場すると、凡人は「とても1人で書ける作品じゃない!」って思うんだろう(笑)


‥‥そんなワケで、ホメロスが実在したかどうかはともかく、ホメロスの作だと言われてる作品は存在してるんだから、紀元前8世紀の古代ギリシャで、誰かがその作品を作ったことだけは紛れもない事実だ。ホントにホメロスっていう盲目の吟遊詩人が作ったとしても、別の吟遊詩人が作ったとしても、複数の吟遊詩人が共同で作ったとしても、その時代に作品が作られたことだけは事実であり、その作品は、2500年後の現代にまで連綿と伝えられてきた。そして、その流れの中で、英語に翻訳され、日本語に翻訳されたから、あたしも読むことができたってワケだ。

で、そんな実在したのかも分からないホメロスの言葉で、2500年後のあたしたちも使ってる言葉がある。ライオンを指す「百獣の王」って言葉だ。正確には、ホメロスの言葉は「獣達の王」で、この表現が後のヨーロッパでよく使われるようになり、日本にも伝わってきたと言われてる。つまり、ホメロスが実在して、その上、伝えられてきたように盲目だったと仮定すると、ホメロスはいろんな動物を目で見て、その中で「ライオンがナンバーワンだ」って判断したワケじゃない。

だけど、ライオンを始めとした猛獣に触ることなんてできない。せいぜい檻の外から吼える声や唸り声を聞くくらいしかできないハズだ。あとは目の見える人たちから、どんな動物なのかを説明してもらって、頭の中で想像するしかない。これだけの情報量で決められたナンバーワンなんだから、イマイチ信頼度は低い。さらに言えば、紀元前8世紀のギリシャなんだから、世界中の猛獣を見ることなんてできなかったハズだ。当時のギリシャで見ることのできた何種類かの猛獣の中だけで決められた王、だからこそ「百獣の王」じゃなくて「獣達の王」だったんじゃないかって、あたしは思ってる。

つまり、あたしたちは当たり前みたいに「百獣の王」って言葉を使ってるし、この言葉のセイで、ナニゲにライオンが一番強いと思い込んでるけど、実際は違うんじゃないのか?‥‥ってことだ。だって、ライオンなんて、所詮は「デカい猫」じゃん。巨大なワニに噛まれたら負けそうだし、巨大なサイに体当たりされても負けそうだし、巨大なゾウに踏まれても負けそうだ。ワニやサイに負けるのは仕方ないとしても、ゾウに踏まれて負けちゃったら、ライオンはアーム筆入れよりも弱いってことになっちゃう。筆箱より弱い「百獣の王」なんてガッカリだ。

他にも、巨大なヒグマに仁王立ちされてクマパンチを食らったら負けそうだし、巨大なゴリラに馬乗りされてタコ殴りにされても負けそうだし、巨大なコモドオオトカゲに噛みつかれても負けそうだし、巨大なアナコンダに巻きつかれても負けそうだし、小さくても猛毒を持ったヘビに噛まれても負けそうだし、アンタッチャブルの柴田さんは「カバ最強説」を唱えてるし、とてもじゃないけどライオンが「百獣の王」だとは思えなくなってくる。たとえば、トラとかジャガーとかピューマとかのネコ科の動物の中での王、「猫族の王」とかなら、まあまあ納得できる。でも、「百獣の王」は無理がある。

そこで、あたしは、真の「百獣の王」を決めるために、世界初の「動物相撲大会」を開催してみた。もちろん脳内での話だけど。で、すべての動物を総当たりにしてたらキリがないので、トーナメント戦にしてみた。そして、次々と相手を投げ飛ばして勝ち上がってきたのは、意外にもライオンとサイだった。サイはお得意の体当たりで勝ち上がってきたから順当だったけど、ライオンは今まで自分が「百獣の王」と呼ばれてたことに対する意地とプライドだけで勝ち上がってきたようだ。だから、決勝戦までコマを進めてきても息ひとつ乱れていないサイに対して、ライオンのほうは満身創痍の状態だった。

誰が見ても「ライオンの負け」がハッキリしている決勝戦が始まった。「これからは俺様こそが百獣の王だぜ!」、サイはニヤリと笑った。行司のテナガザルの「ハッケヨイ!のこった!」の掛け声で、サイは突進した。フラフラで立っているのもやっとのライオンは、一発で土俵の外へ飛ばされてしまう‥‥と思った瞬間、ネコ科の動物特有の体の柔らかさを利用してサイの角を間一髪でかわすと、相手の力を利用して一本背負いを炸裂させた!


ヒュ~~~~~~~~~~ドッカーン!!


行司のテナガザルの軍配が上がり、ライオンは、とうとう自分の力で「百獣の王」の称号を手に入れたのだ。喜びと感動で目をうるませたライオンは、しばらく空の一点を見つめていたが、ハッと我に返ると、遠くの床に叩きつけられて動けなくなっていたサイのところへ走っていった。そして、サイの体を起こしながら、勇敢なライバルにねぎらいの言葉をかけた。サイは苦しそうに、しかし爽やかな笑顔で言った。


「おいライオン、これでようやく『百獣の王』という言葉がお前のものになったな‥‥おめでとう!」

「ありがとう!」

「でも、俺も自分の言葉を見つけたぜ‥‥」

「何だい?」

「俺の言葉は『サイは投げられた』だ!」


‥‥そんなワケでして、おあとがよろしいようで、テケテンテンテンテン♪‥‥ってなワケで、「百獣の王」の元の言葉を生み出したホメロスも、さすがに2500年後にサイが投げられるとは予想だにしなかっただろう。そして、あたしはそれをオチに使ったんだから、最初に巻き戻して早送りすると、「強風が吹くと土ぼこりが飛んでくる」→「土ぼこりが目に入って失明する人が増える」→「失明すると日本では三味線を弾いてお金をもらう門付が増え、古代ギリシャでは吟遊詩人が増える」→「吟遊詩人の中には優れた感性で『百獣の王』という言葉を生み出す者も出てくる」→「2500年後にその言葉に疑問を持つ者が現われる」→「真の『百獣の王』を決めるために脳内で動物相撲大会が開催される」→「決勝戦でサイがライオンに投げられる」ってなワケで、新しいコトワザは「風が吹けばサイが投げられる」に決定!‥‥って感じの今日この頃なのだ(笑)


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2013.03.11

3.11に寄せて

今日は3月11日です。改めまして、東日本大震災でお亡くなりになられた方々に哀悼の意を表しますとともに、被災された皆さまにお見舞い申し上げます。


今日で東日本大震災から2年が経ちました。そして、この2年間で、日本の首相は2回代わりました。震災時に首相だった菅直人・元首相は、震災後に「大きな夢を持った復興計画を進めたい」と言いました。次の野田佳彦・前首相は「福島の復興なくして日本の再生はありえない」と言いました。現在の安倍晋三首相は「新たな創造と可能性の地としての東北をともに創りあげよう」と言いました。

でも、被災地の復興は、遅々として進んでいないのが現状です。前民主党政権も現自民党政権も、まるで呪文のように「復興」という言葉を連呼していますが、その復興の最大の妨げになっている福島第一原発の事故が、未だに収束の目途も立っていないからです。いくら「福島のコメは安全だ」「東北の魚は安全だ」と連呼したところで、事故から2年が経った現在も世界の多くの国々が日本からの食品の輸入を厳しく規制しているのは、原発事故が収束していないからです。野田佳彦・前首相は「福島の復興なくして日本の再生はありえない」と言いましたが、「原発事故の収束なくして被災地の復興はありえない」のです。

メルトダウンして溶け落ちた核燃料を回収する技術は、これから10年かけて開発するそうですから、本当の収束はいつになるか分かりません。それどころか、原子炉建屋の地下に地下水が流れ込んでいるため、現在も1日に約400トンずつ放射能汚染水が増え続けていて、東電はまた海への放出を計画しているそうです。そして、未だに多くの人たちが放射能汚染のために自宅に帰ることができず、辛い避難生活を余儀なくされています。

安倍政権は、避難者が帰還できないのは「当時の民主党政権が年間積算線量1ミリシーベルト以下とした除染目標が帰還の障害となっている」として、放射線の年間積算線量の見直し、つまり、安全基準値の引き上げを行なうそうです。しかし、民主党政権が目標とした「年間積算線量1ミリシーベルト以下」という数値は、国際放射線防護委員会(ICRP)が定めた一般の成人の年間積算線量に沿ったもので、決して厳しい数値ではありません。

避難者を帰還させるために年間積算線量を引き上げるというのは、「憲法9条を変えるために96条を変えてしまえ」という考え方と同じで、どちらも「結論ありき」の本末転倒な自民党方式です。住民の健康など二の次で、とにかく「避難者を1人でも多く帰還させたという実績を作りたい」という政権の都合によるものです。

原発事故は収束の目途も立っておらず、増え続ける放射能汚染水の処理にも困り、避難者を帰還させるために安全基準値以上の被曝を強要する。こんな状況なのにも関わらず、安倍政権は早くも前政権の定めた「原発ゼロ」を白紙撤回して、再稼動・新増設に舵を切りました。日本の原発事故を受けて、先進国の多くが脱原発へシフトしたというのに、事故の当事国である日本が「原発推進」で本当に良いのでしょうか。

安倍首相は、電力の安定供給と発電コストばかりを取り上げて原発の必要性を訴えていますが、原発事故による天文学的な経済的損失を考えたら、これほどコストの掛かる発電は他にありません。また、原発の発電コストの試算には、増え続ける使用済み核燃料の処理費用も計上されていません。未だに安全な処理方法が開発されていないため、明確な数字は出ておらず、現在の使用済み核燃料を処理するだけでも10兆円とも20兆円とも言われていますが、これを計上して試算すると、原発の発電コストは石油火力よりも遥かに高くなります。

ドイツでは、使用済み核燃料を地層処理する場所を30年間も探しましたが、結局、どこも危険で「適切な場所はない」という結論に至りました。これも、ドイツが脱原発へシフトした大きな要因の1つです。地震の少ないドイツでも適切な場所が見つからなかったのですから、2000を超える活断層が縦横無尽に走っている日本に、何万年も危険な使用済み核燃料を地層処理できる場所など見つかるわけがありません。

今の自分たちのことしか考えずに、未来の人たちへ膨大な量の「負の遺産」を遺すことになる原発などにしがみついていては、同じ過ちを繰り返すだけです。原発事故の当事国だからこそ、どの国よりも率先してやらなければいけないエネルギー政策があるのではないでしょうか。

原発推進派の常套句である「日本には資源がない」というセリフも、再生可能エネルギーの視点から見れば嘘になります。一般的な太陽光発電や風力発電だけでなく、内陸部にある国と違って周囲を海に囲まれている日本には、潮力発電や波力発電、海流発電の資源が無限にありますし、川を利用した小水力発電や温泉を利用した地熱発電などの資源もたくさんあります。特に低温でも発電できる地熱バイナリ―発電に関しては、日本中に適した土地があり、経済産業省は「原発8基ぶん」にあたる「約833万キロワット」を発電できると試算しています。

北海道では多くの住民の努力で、泊原発を再稼動しなくても、この冬を乗り切ることができました。しかし、大雪による送電線や鉄塔の事故で広い地域が停電になり、復旧に時間が掛かり、たいへんな思いをした人たちもいました。北海道のように大雪が降る地域の場合、大きな発電所から遠くまで送電線で電力を送っていると、こうした事故が起こってしまいます。しかし、地域ごとに小型のバイナリ―発電所を置くようにすれば、送電網のトラブルは大幅に減少されますし、トラブルが起こった時の復旧も短時間で済むようになりますし、平均して5~10%と言われている送電ロスも防ぐことができます。

でも、現在の日本の電力会社は、発電も送電も一社が牛耳っている事実上の「一社独占」なので、電力会社が「原発推進」であれば何も変えることができないのです。そのため、前民主党政権の時から「発送電分離」が議題にあがって来ましたが、実現しませんでした。

発電と送電が別会社になれば、一般企業が発電に参入しやすくなるだけでなく、電力利用者も「どの会社から電気を買うか」という選択ができるようになります。たとえば、東京電力の管内に住んでいる人なら、今は東電から電気を買うことしかできないため、東電が強引に原発を再稼動すれば原発で作った電気を使うしかありませんし、東電が一方的に値上げをしたらそれに従うしかありません。しかし、「発送電分離」が実現して多くの企業が参入するようになれば、「原発の東電」と「バイオマス発電のA社」と「太陽光発電のB社」と「地熱発電のC社」の中から選ぶことができるようになります。こうなると、当然、価格競争が起こりますから、東電は現在のように自分たちのボーナスや昇給ぶん、ゴルフ代や温泉旅行代、年8%もの社内財形貯蓄の利息ぶんなどを電気料金に上乗せできなくなり、世界一高いと言われている日本の電気料金も欧米並みの適正価格になるのです。

欧米では、1990年代に発送電分離と電力自由化が行なわれましたが、日本では発送電分離を行なわずに電力自由化だけが行なわれました。そのため、現在まで事実上の「一社独占」が続いているのですが、安倍政権は、前民主党政権から持ち越しされた「発送電分離」を先送りしました。これは、少しでも長く電力会社に甘い汁を吸わせておくための配慮で、ここには原発利権が大きく絡んでいます。

自民党が受け取っている企業献金は、年間20~30億円ですが、このうち約7割が、電力関連の企業や原発メーカー、原発建設を主とするゼネコンなど、つまりは「原発関連企業」からの献金なのです。そのため、安倍首相は、国内での原発の再稼動や新増設だけでなく、ベトナムやインド、中国への日本製原発の売り込みにも精力的です。


あたしは、今日、朝からずっと、この2年間のことを考えていました。被災された方々とは比べ物にもなりませんが、それでも、あたしにとって、本当に辛く苦しい2年間でした。それは、すべて原発が原因です。そして、原発事故から2年目の今日、何の反省もなく平然と原発を推進するような人間が日本の首相になっていることを、あたしは日本人として、心の底から恥ずかしく思いました。来年の3月11日には、日本が脱原発を実現して世界に誇れる国になっているように、あたしなりに努力したいと思います。


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2013.03.06

ベルヴィル・ランデブー

日本で生まれて日本で育ったあたし的には、「アニメ」っていうと真っ先に思い浮かぶのが、やっぱり日本のアニメだ。今、テレビでやってる『ドキドキ!プリキュア』とか『宇宙兄弟』とか『ジョジョの奇妙な冒険』とか、昔見てた『ドラえもん』とか『サザエさん』とか『ちびまる子ちゃん』とか、子どものころに夢中で観てた『ドラゴンボールZ』とか『ベルサイユのばら』とか『アルプスの少女ハイジ』とか、他にも数えきれないほどある。

だけど、あたしがちっちゃかったころには、こうした日本のアニメだけじゃなくて、アメリカのアニメもいろいろと放送されてた。たぶん再放送なんだと思うけど、『トムとジェリー』とか『チキチキマシン猛レース』とか、他にもハッキリ覚えてないけど、お化けが出てくるやつとか、ヒーロー物みたいなやつとか、いろんなアメリカのアニメを放送してた。

あとは、『白雪姫』とか『シンデレラ』とか『ピノキオ』とか『バンビ』とか『ダンボ』とか『ふしぎの国のアリス』とか『ピーターパン』とか、他にもいろいろディズニーのアニメを観た。ほとんどは、夏休みや冬休みにテレビで放送してた子供向けのスペシャル枠みたいなので観たんだと思うけど、何本かは、おばあちゃんに連れてってもらった渋谷の映画館で観たような気もする今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、おばあちゃんに連れてってもらった渋谷の映画館と言えば、何よりも記憶に残ってるのが、毎年、春休みに連れてってもらった『ドラえもん』だ。小学1年生か2年生の時に最初の劇場版、『のび太の恐竜』が公開されて、それから3年か4年は毎年の春休みの楽しみだったんだけど、あたしが5年生の時に、おばあちゃんは病気で入退院を繰り返すようになり、あたしが中学へ上がる年に亡くなった。

だから、おばあちゃんと映画館で観た『ドラえもん」は3本か4本なんだけど、その後、毎年年末になるとテレビで『大晦日だよ、ドラえもん』と銘打って劇場版が放送されるようになったから、今じゃ映画館で観たんだかテレビで観たんだか記憶がゴチャゴチャになってる。

そうそう、1つだけ、確かに映画館で『ドラえもん』を観たっていう物的証拠がある。どの年の『ドラえもん』でもらったのか覚えてないけど、おばあちゃんが前売り券を買っててくれたからなのか、入口のお姉さんから小さな箱に入ったドラえもんをもらったのだ。顔もお腹もぜんぶが水色っていう雑な作りで、ちゃんとドラえもんの色には塗られてない。小さなドラえもんの下にビー玉みたいなのが入ってて、テーブルの上とかを走らせて遊べるようになってるもので、今でも探せばどこかにあるハズだ。


‥‥そんなワケで、子どものころのアニメの思い出っていろいろあるけど、ザックリ言っちゃえば、あたしが観てきたアニメって、日本のアニメとアメリカのアニメの2種類だ。そして、日本のアニメとアメリカのアニメの大きな違いはと言えば、それは「セリフの比重」だ。日本のアニメって、とにかくセリフが多くて、登場人物の会話でストーリーが進んでくし、場合によっては状況を説明するためのナレーションまで入る。だから、音を消して画面だけを観てたらチンプンカンプンだ。

一方、アメリカのアニメって、セリフよりも絵で伝えるものが多い。あたしがちっちゃいころに観た記憶がある『トムとジェリー』や『チキチキマシン猛レース』にしても、母さんが好きだと言うから、大人になってからYOU TUBEとかで観た『ポパイ』や『マイティーマウス』や『猫のフィリックス』にしても、セリフが極端に少なくて、ほとんどが絵で伝えてる。ギャグも「動き」で笑わせるものばかりだから、言葉が分からなくても笑うことができるし、音を消して画面だけを観てても、ストーリーはだいたい分かる。

特に、ディズニーのアニメ映画は、映像と音楽がメインで、セリフの重要度が低いように思う。もちろん、これは、「日本のアニメと比べたら」ってことで、逆に、アメリカのアニメを基準にしたら、「日本のアニメがセリフに比重を置きすぎてる」ってことになる。

たとえば、今、放送してる『ジョジョの奇妙な冒険』は、あたしの大好きな作品だし、今回のアニメ化は最高の出来だから文句なんか一言もないけど、アメリカのアニメと比較すると、とにかく激しく説明的だ。これは、原作からの流れだから、批判してるワケじゃなくて、「ジョジョ」の魅力の1つなんだけど、ジョジョが敵に技を繰り出しながら「何々するように見せかけておいて何々する!相手の裏の裏をかくのがジョースター家の伝統なのだ~!」なんて言ったりする。

さらには、最初の第1部と今やってる第2部に登場してるスピードワゴンの立ち位置だ。ジョジョが何かしてるとこをドアの隙間から見てるスピードワゴンが、「そうか!ジョースターさんは何々が何々だったから、あえて自分を犠牲にして何々していたのか!何という何々だ~!」なんてふうに、ご丁寧すぎる説明をしてくれる。それどころか、元はイギリスの不良だったのに、アメリカに渡って大金持ちになってスピードワゴン財団を設立してジョジョたちの戦いをサポートしてるっていう、このスピードワゴンの設定自体が、「ジョジョたちが仕事もせずに戦いに明け暮れていられる不思議」に対する「説明」になってるのだ。つまり、波紋を使えないスピードワゴンの存在理由は、ストーリーを円滑に進めるための「進行役」ってことになる。

主人公が技を繰り出すたびに、その技を使うに至った経緯や状況を長々と説明してくれる上に、ストーリーの分かりにくい部分を説明するためのキャラまでが用意されてるなんて、痒いところに孫の手が5本も6本も差し出されるほどの親切さで、アメリカのアニメじゃアリエナイザーだ。だから、さっきも書いたけど、音を消して画面だけ観てたら、完全にチンプンカンプンになっちゃう。そして、画面を観ずに音だけを聴いてたら、そこそこストーリーが分かっちゃう。それが、日本のアニメだ。


‥‥そんなワケで、あたしは、今、テレビのない生活をしてるから、録画してもらったアニメをまとめて観ることが多い。場合によっては、2時間も3時間もアニメを観続けることもある。だけど、そんなにアニメだけを観てるワケにも行かないから、アニメの画面を小さくしてディスプレイの右上あたりに移動させて、他のウインドウで別の作業をすることもある。アニメは音だけを聴いてて、何か大きなことが起こった感じの時だけ画面を観る。これでも成り立っちゃうのが、今の日本のアニメなのだ。だから、極端な言い方をすれば、アニメの音声だけをラジオで流しても、「ラジオドラマ」として通用しちゃうかもしれない。

念のために言っとくけど、あたしは、セリフに比重を置いた日本のアニメを批判してるワケじゃない。『ジョジョの奇妙の冒険』みたいに、説明的なセリフ回しが「味」として魅力の1つになってる作品もあるからだ。だけど、冒頭からナレーションが入って長々と設定を説明されるようなアニメにはウンザリしてるし、スタジオジブリの『ゲド戦記』に代表されるような、セリフの大半がクドクドとした説明ばかりで、まるで本の朗読を聴かされてるようなアニメも大嫌いだ。こうなってくると、何のためのアニメなのか分からなくなってくる。アニメなんだから、ナレーションやナレーションもどきのセリフなんかに頼らずに、絵で伝えてほしい‥‥って思っちゃう。

で、長い前置きも終わり、いよいよ本題に入るけど、あたしは、ゆうべ、久しぶりにお酒を飲みながら、GyaOで無料配信されてた『ベルヴィル・ランデブー』っていうフランスのアニメを観た。1時間以上もある長編アニメなので、つまんなかったらせっかくの「お酒タイム」が台無しになっちゃうので、まずはユーザーレビューを見てみた。そしたら、ほとんどの人が星5つの最高点をつけて絶賛してて、こんなコメントもあった。


『冒頭のアニメで「何だコレは?」と見るのをやめてはいけません。これは、単なる前フリです。予測のつかないストーリー展開、クセのある登場人物(犬も)、超デフォルメされた描写、そこかしこに漂うエスプリ、台詞を極力省略した演出、何もかもが最高です。各国の賞を総ナメしたのも納得です。』

『宮崎アニメの湯婆婆やティム・バートンの異形の人物たちとも違う独特の誇張されたキャラクターたちに、最初は違和感。子供は可愛くないし、おばあちゃんはおじさんみたいだし。でも見ているうちにおばあちゃんがどんどん可愛く見えてくる不思議。(後略)』

そして、あたしは観始めたワケだけど、このコメントのオカゲで、冒頭のアニメに「何だコレは?」と思っても、登場したおばあちゃんや孫のキャラにぜんぜん馴染めなくても、とにかく観続けてたら、ツール・ド・フランスに出場するあたりから完全にハマッちゃって、次から次へと登場する斬新な表現に感動しつつ、最後までタップリと楽しむことができた。

で、途中で気づいたんだけど、このアニメ、セリフがほとんどないのだ。たまに短いセリフもあるんだけど、ほとんどセリフがなく、絵だけですべてを伝えてくれてる。だから、フランス語なんか分からなくても、誰でも楽しめる。たとえば、おばあちゃんが新聞を読んでると、新聞の一部が小さく四角く切り取られてるから、あたしは「何だろう?」って思ったんだけど、ナレーションやセリフなどの説明は一切ないのに、この理由が絵だけでちゃんと分かるように作られてる。

極端に背を高くした大型船とか、スーツの中に畳を入れたみたいなギャングとか、日本のアニメのデフォルメとは違った独特のデフォルメにも驚いた。シトロエンのミニバスは普通なのに、おんなじシトロエンでもディアーヌだか2CV(ドゥーシーヴォー)だかはヤタラとノーズが長くなってたり、ホントに面白かった。場面転換の時には、広げた新聞のモノクロ写真の人が動き出したり、人の鼻がハンバーガーショップの看板に変化したりと、とにかく細かいとこまで凝りに凝ってて、画面から目が離せなかった。


‥‥そんなワケで、この『ベルヴィル・ランデブー』は、仏題が『Les Triplettes de Belleville』、英題が『The Triplets of Belleville』、フランスのシルヴァン・ショメ監督による2002年の長編アニメで、日本では2004年に公開されたそうだ。あたしは、ゆうべ観るまでぜんぜん知らなかったんだけど、いろんな賞を総ナメにしてるらしい。とにかく、セリフがないと成り立たない「耳で楽しむアニメ」ばかりを観てるあたしにとって、久しぶりに「目で楽しむアニメ」を観ることができて、それこそ目からウロコが5枚も6枚も落ちる思いがした。今回は3月31日までの無料配信なので、この機会に、ぜひ1人でも多くの人に観てほしいと思った今日この頃なのだ♪


『ベルヴィル・ランデブー』(2013年3月31日まで無料配信)
http://gyao.yahoo.co.jp/player/00968/v00040/v0000000000000000052/?list_id=1672711&sc_i=gym084


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2013.03.02

嘘つきは小説家のはじまり

「小説」って、ようするに作り話なワケだけど、日本には「私小説」っていう面白い小説のジャンルがある。自分の実体験を下敷きにして、そこに大なり小なりの脚色をして書かれた小説のことで、基本的には作者自身が主人公だから、「私」とか「僕」とかの一人称で書かれてることが多い。でも、架空の人物を主人公にして、その主人公に自分の実体験を辿らせるってパターンもあるから、そうした場合は「田中一郎」とか「彼」とかの三人称で書かれてる。

初期の太宰治や晩年の芥川龍之介にも「私小説」は多いけど、具体的に言うと、森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』、夏目漱石の『道草』、川端康成の『伊豆の踊子』、三島由紀夫の『仮面の告白』などが有名で、現代の作家の作品だと、ここから急に敬称を付けるけど、村上龍さんの『限りなく透明に近いブルー』やリリー・フランキーさんの『東京タワー』など、どちらもベストセラーだし映画化もされたから、知ってる人も多いと思う。

他にも有名な「私小説」は数えきれないほどあるけど、最近だと、2010年に『苦役列車』で芥川賞を受賞した西村賢太さんが、ラジオにゲスト出演した時に「僕は私小説しか書けません」て言ってた。西村賢太さんは受賞の時の会見で「そろそろ風俗に行こうかなと思ってた」ってコメントして話題になったから、作品は読んでなくてもニュースなどで知ってると思う。

で、これらの「私小説」は、作者の実体験をベースにして書かれてるから、内容の何割かは作り話じゃなくて事実だ。中には、内容の9割以上が事実だって作品もあるだろう。だけど、内容の9割以上が事実である「私小説」でも、内容の5割が事実で5割が作り話の「恋愛小説」でも、内容の10割すべてが作り話の「SF小説」でも、あたしはおんなじように読む。それは、書かれてることのすべてが事実だと思い込みながら読むってことだ。

これは、あたしに限ったことじゃなくて、誰もがそうだと思う。だって、どんなに現実離れした内容の小説だって、どんなにアリエナイザーな内容の小説だって、「これは作り話だ!」「これは嘘だ!」なんて思いながら読んでたら、ぜんぜん楽しめないからだ。だから、現実には起こりえない「SF小説」でも、現実に起こる可能性がある「恋愛小説」でも、「ツジツマ」や「リアリティー」が重要になってくる。

現代の人類の科学力じゃ、火星どころか月に移住することも無理だ。だけど、火星や月に空気がないことは分かってるから、人類が火星や月に移住して生活してる「SF小説」では、居住空間は人工的なシステムによって空気で満たされてるし、外に出る時には宇宙服を着て空気のボンベを背負ったり、空気で満たされた乗り物とかに乗ってる。だから、これらが作り話だと分かってても、あたしたちはホントの話のように物語の世界を楽しむことができるのだ。

もしも、月で暮らす人たちが、空気のボンベを背負わずに、そこらのコンビニへ行くようなイデタチで月面をウロウロしてたら、この時点で「月には空気がない」っていう事実に対しての「ツジツマ」が合わなくなり、そのトタンに「リアリティー」が消滅して、もうホントの話のように楽しむことができなくなっちゃう。だから、登場人物たちがそこらのコンビニへ行くようなイデタチで月面をウロウロしてるのなら、その前に、「1錠飲んだだけで月面の環境に24時間順応できる薬が開発された」とか、「月に移住した人たちは月の環境に順応するための超小型機器を体内に埋め込んでいる」だの、「ツジツマ」を合わせるための前フリが必要になる今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、誰もが「小説」は多かれ少なかれ作り話だと分かって読んでるワケだけど、だからって何から何までデタラメでいいってワケじゃない。読んでる側は、作り話だと知りつつも、ホントの話だと思い込みながら読んでるんだから、キチンと「ツジツマ」が合ってて、それなりに「リアリティー」がないと楽しめなくなる。某売れっ子作家の作品の中には、細かい部分で「ツジツマ」の合ってないものや、前半でたくさん広げた枝葉のうちの何本かがラストまで戻って来ないで、そのままホッタラカシになっちゃってるものがある。あたしは、こうした作品を読むと、「この作家って読者を軽く見てるんだな」って思っちゃう。

だから、「小説」が作り話だっていう大前提を踏まえて言えば、「嘘をつくのが上手な作家ほど素晴らしい作品を生み出す」ってことになるし、「嘘をつくのが下手な作家でも私小説なら素晴らしい作品を生み出すケースもある」ってことになる。あたしは、川上弘美さんの作品が大好きなんだけど、川上弘美さんは『蛇を踏む』のあとがきにこんなことを書いてる。


『何かを書くのは大好きなのですが、ほんとうにあったことを書こうとすると、手がこおりついたようになってしまいます。ほんとうにあったことではないこと、自分の頭の中であれこれと想像して考えたことなら、いくらでもつるつると出てくるのですが。自分の書く小説を、わたしはひそかに「うそばなし」と呼んでいます。(中略)「うそばなし」を書いているときには、顔つきもうそっぽくなり、そんなときに誰かが話しかけてきたら、うそばっかりぺらぺら言うような気がします。「うそ」の国に入り込んでしまっているからでしょう。「うそ」の国は「ほんと」の国のすぐそばにあって、ところどころには「ほんと」の国と重なっているぶぶんもあります。(後略)』


つまり、川上弘美さんは、「僕は私小説しか書けません」て言ってた西村賢太さんとは正反対で、「うそばなし(小説)しか書けない」ってワケだけど、そんな川上弘美さんは、現実には絶対に起こりえない「うそばなし」を書く時でも、何から何まですべてが「うそ」ってワケじゃなくて、ところどころに「ほんと」を散りばめてる‥‥ってことになる。この『蛇を踏む』では、主人公の女性が蛇を踏んでしまい、蛇は「踏まれたらおしまいですね」って言って消えてしまう。そして、煙みたいになってから人間の姿になるんだけど、こんなこと現実には絶対に起こりえない。だけど、もしかしたら、川上弘美さんは、どこかで蛇を踏んだことがあるのかもしれない。その部分だけが「ほんと」の国の出来事で、そこから先が「うそ」の国の出来事なのかもしれない。


‥‥そんなワケで、現実には絶対に起こりえない内容の「SF小説」でも、たとえば、登場人物全員が作者の空想から生まれた架空の人格ってワケじゃなくて、現実世界にモデルがいるってパターンも多い。主人公の宇宙船の船長は、作者が前に勤めてた会社の上司の佐藤部長がモデルだったり、乗組員のナントカ星人の女性は、作者の親友の幼馴染がモデルだったり、こんなふうに登場人物の人格を設定する作家も多い。こういうふうに設定しておけば、それぞれのシーンでのセリフを考える時に、「佐藤部長ならこんなふうに言うだろうな」って想像しやすいからだ。これも、ある意味、「ほんと」の国が重なってることになる。

「恋愛小説」の場合なら、登場人物の設定にモデルがいるだけじゃなくて、数々のシーンに作者の実体験が使われてるケースも多いと思う。女性の作者なら、自分が過去に付きあった男性たちとの会話や食事やデートやセックスが、小説の中に使われてると思う。実体験そのままじゃなくても、実体験をヒントにしたり、実体験と真逆の演出にしてみたりと、いろんな形で使われてると思う。

つまり、一般的な「小説」の場合は、基本的には作り話なんだけど、いろんな部分に作者の実体験が散りばめられてて、それが「リアリティー」を生み出すための要素の1つになってるってワケだ。そして、作者が実体験してなくても、資料を集めたり取材したりして得た「知識」も、「リアリティー」を生み出すための要素の1つになってる。自分が過去に経験したことのある職業の女性を主人公にした小説なら、自分の過去の経験を生かして書くことができるけど、自分が経験したことのない職業、たとえば、「万引きGメン」の女性を主人公にするなら、「万引きGメン」のことをいろいろと調べなきゃ書くことはできないし、場合によっては実際の「万引きGメン」の女性に取材する必要も出てくる。

行ったことのない土地や国を舞台にして小説を書くのなら、最低でも地図やガイドブックで徹底的に調べる必要があるし、できれば実際に行ってみて、自分が体験してから書かないと「リアリティー」が生まれない。ストーリー自体が作り話の「小説」だからこそ、こうした背景などには「リアリティー」が必要になってくる。

たとえ、それが「架空の島」だったとしても、「九州の島」っていう設定であれば、登場人物たちは、その地方の方言で会話してないと「リアリティー」が生まれない。その地方の天候、その地方の食べ物、その地方の植物や動物や鳥や虫、こうした「知識」が必要になってくる。九州には生息してない植物や鳥が出てきたら、分かる人には分かっちゃうワケで、一気に「リアリティー」が消滅しちゃう。


‥‥そんなワケで、あたしは、1月26日のブログ「号泣のススメ」の中で、こないだ読み直した井上荒野さんの『切羽へ』について、こんなことを書いた。


「『切羽へ』は直木賞受賞作なので、読んだ人も多いと思うけど、これは、文中に多用されてる方言から、九州は長崎県周辺の島だということが分かる。そして、この島が「かつて炭鉱で栄えた島」だということから、井上荒野さんのお父さんの井上光晴さんが少年時代の何年間かを過ごした島、長崎県の崎戸島をモデルにしてると推測できる。」


『切羽へ』は、もちろん作り話なワケだけど、その「架空の島」の中の風景、道、人々、本土からの船、港の様子など、すべてに「リアリティー」がある。そして、その「リアリティー」を不動のものにしてるのが、主人公の女性が使う言葉だ。この島の出身で、東京で働いてて、またこの島に戻ってきて結婚した主人公の女性は、島の言葉と標準語とを相手や状況によって使い分ける。この「リアリティー」は、やっぱり「作者のお父さんが少年時代を過ごした島」という特別の背景があるからこそ生まれたものだと思う。

そして、実在する島を舞台にして、実在する風景や方言を散りばめて、最初から最後まで空想で生み出した作り話で読者を感動させられるのだから、井上荒野さんは、川上弘美さんと同様にプロの「嘘つき」だと思う。それも、親子二代にわたる「大嘘つき」だ。もちろん、この「嘘つき」は褒め言葉として使ってるワケだけど、井上荒野さんの短編集『ベーコン』の巻末の解説で、「共同通信社」の編集委員の小山鉄郎さんが、こんなことを書いてる。


『(前略)井上荒野さんはなぜ、こういうふうに小説を書くのだろうか。それは嘘をついて生きている人間、嘘をついて生きざるを得ない人間という存在に対して、井上荒野さんが深い洞察をしていて、そこから作品を書いているからではないだろうか。このことに気が付いたのは彼女の最初の作品集『グラジオラスの耳』でインタビューした時のことだった。一九九一年五月十五日、それは井上荒野さんの父・井上光晴さんが亡くなる一年前、光晴さんの六十五歳の誕生日だったが、この日付で光晴さんの小説『紙咲道生少年の記録』が刊行され、同日付で荒野さんの『グラジオラスの耳』も一緒に刊行されたのだ。父娘同時刊行というので、この時、二人同時のダブルインタビューというものを試みた。』

『井上光晴さんは自筆年譜が嘘ばかりという人。祖母からも「嘘つきみっちゃん」と呼ばれていたそうだから、折り紙つきの嘘つきだ。小説家は嘘つきが商売だから決して悪いことではないが、近現代の作家で最も嘘つきは誰かというアンケートをすれば、井上光晴さんはかなり上位に入るのではないだろうか。井上荒野さん自身も「私も小さい時、嘘つきと言われていたので、そのへん似ているかも」と笑っていた。』

『この時の父娘の小説はともに「嘘をつく人間」への興味に満ちた作品で、特に『グラジオラスの耳』の表題作は、嘘つきの同級生と再会した主人公が同級生とのかかわりの中で不思議に揺れていく短編だった。そしてこのインタビューで、井上荒野さんは「結局、みんな嘘をついて、うまく生きようとしている。そんな感じを書きたかった。嘘をついて、うまく生きるというのは、ほんとうにいい生き方ではないのかもしれない。けれどなんとなく自分を納得させて生きる。自分で意識しているか、いないかは別として、嘘ばっかりついて生きている感じを書きたかった」と語っていた。(後略)』


ちょっと引用が長くなっちゃったけど、この解説の後半で、小山鉄郎さんは、井上荒野さんの作風を「嘘を通して人間の本当を描く」と評してる。この『ベーコン』は、食べ物をテーマにして、主に不倫や離婚などのドロドロ系の恋愛を描いた短編集なんだけど、扱ってるものが不倫や離婚だから、当然、そこにはたくさんの嘘がある。自分のための嘘だけじゃなく、恋人を愛するゆえの嘘もある。だから、小山鉄郎さんの「嘘を通して人間の本当を描く」という評はとても的を射てるんだけど、その「嘘を通して人間の本当を描」いてる数々の作品が、これまたすべて「嘘」で書かれた作り話ってワケだ。


‥‥そんなワケで、川上弘美さんの言葉を借りれば、「小説」ってのは、「うそ」の国での出来事に、ほんのちょっぴり「ほんと」の国の出来事を重ねて生み出すものってことになる。そして、自分の実体験を下敷きにしてる「私小説」ってのは、「ほんと」の国での出来事に、ほんのちょっぴり「うそ」の国の出来事を重ねて生み出すものってことになる。どちらにしても、そこには「嘘」があるワケで、前者では「嘘」が根幹になってて、後者では「嘘」が枝葉になってるワケだ。

だけど、これは、「小説」だけの話じゃない。今回は、たまたま「小説」を取り上げたけど、「歌」や「映画」、「漫画」や「アニメ」など、これはすべての「創作」に共通してることだ。シンガーソングライターの中には、たとえば、植村花菜さんの『トイレの神様』のように、自分の体験をそのまま歌にしたもので、これは、小説で言えば「私小説」にあたる。

逆に、現実には絶対に起こりえない内容の漫画やアニメだって、登場人物のモデルが作者の知り合いだったり、ストーリーの枝葉の部分に作者の実体験が使われてたり、ちょっとした主人公のリアクションやセリフなどに作者の実体験が反映されてるケースもあるだろう。つまり、「小説」に限らず、すべての「創作」は、100%ぜんぶが「事実」って作品が存在しないように、100%ぜんぶが「嘘」って作品も存在しないワケだ。だから、「小説」に限らず、すべての「創作」は、「嘘をつくのが上手な人ほど素晴らしい作品を生み出す」ってことになるし、「嘘をつくのが下手な人でも自分の実体験を下敷きにすれば素晴らしい作品を生み出すケースもある」ってことになる。


‥‥そんなワケで、「嘘」と言えば、真っ先に思い浮かぶのが政治家の面々だ。民主党を崩壊させた野田佳彦は、誰が見ても収束なんかしてない福島第一原発について平然と「事故は収束した」と宣言し、あれほど自民党の消費税増税案を批判してたのに自分が首相になったトタンに消費税増税案を強行した。自民党の安倍晋三にしても、去年12月の衆院選の時には「ウソつかない。ブレない。TPP断固反対。」っていうポスターを農村部を中心に貼りまくってたのに、政権をとったらわずか2ヶ月で「TPP交渉参加」と来たもんだ。だけど、野田佳彦や安倍晋三を始めとした日本の政治家は、単なる「大嘘つき」ってだけで、決して「嘘が上手」ってワケじゃない。何しろ、言ってるそばから嘘がバレてるんだから、とてもじゃないけど小説家になんかなれっこない。こういう人たちは、嘘が下手でもツラの皮が厚ければ誰でもなれる「政治家」がお似合いだと思う今日この頃なのだ。


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