嘘つきは小説家のはじまり
「小説」って、ようするに作り話なワケだけど、日本には「私小説」っていう面白い小説のジャンルがある。自分の実体験を下敷きにして、そこに大なり小なりの脚色をして書かれた小説のことで、基本的には作者自身が主人公だから、「私」とか「僕」とかの一人称で書かれてることが多い。でも、架空の人物を主人公にして、その主人公に自分の実体験を辿らせるってパターンもあるから、そうした場合は「田中一郎」とか「彼」とかの三人称で書かれてる。
初期の太宰治や晩年の芥川龍之介にも「私小説」は多いけど、具体的に言うと、森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』、夏目漱石の『道草』、川端康成の『伊豆の踊子』、三島由紀夫の『仮面の告白』などが有名で、現代の作家の作品だと、ここから急に敬称を付けるけど、村上龍さんの『限りなく透明に近いブルー』やリリー・フランキーさんの『東京タワー』など、どちらもベストセラーだし映画化もされたから、知ってる人も多いと思う。
他にも有名な「私小説」は数えきれないほどあるけど、最近だと、2010年に『苦役列車』で芥川賞を受賞した西村賢太さんが、ラジオにゲスト出演した時に「僕は私小説しか書けません」て言ってた。西村賢太さんは受賞の時の会見で「そろそろ風俗に行こうかなと思ってた」ってコメントして話題になったから、作品は読んでなくてもニュースなどで知ってると思う。
で、これらの「私小説」は、作者の実体験をベースにして書かれてるから、内容の何割かは作り話じゃなくて事実だ。中には、内容の9割以上が事実だって作品もあるだろう。だけど、内容の9割以上が事実である「私小説」でも、内容の5割が事実で5割が作り話の「恋愛小説」でも、内容の10割すべてが作り話の「SF小説」でも、あたしはおんなじように読む。それは、書かれてることのすべてが事実だと思い込みながら読むってことだ。
これは、あたしに限ったことじゃなくて、誰もがそうだと思う。だって、どんなに現実離れした内容の小説だって、どんなにアリエナイザーな内容の小説だって、「これは作り話だ!」「これは嘘だ!」なんて思いながら読んでたら、ぜんぜん楽しめないからだ。だから、現実には起こりえない「SF小説」でも、現実に起こる可能性がある「恋愛小説」でも、「ツジツマ」や「リアリティー」が重要になってくる。
現代の人類の科学力じゃ、火星どころか月に移住することも無理だ。だけど、火星や月に空気がないことは分かってるから、人類が火星や月に移住して生活してる「SF小説」では、居住空間は人工的なシステムによって空気で満たされてるし、外に出る時には宇宙服を着て空気のボンベを背負ったり、空気で満たされた乗り物とかに乗ってる。だから、これらが作り話だと分かってても、あたしたちはホントの話のように物語の世界を楽しむことができるのだ。
もしも、月で暮らす人たちが、空気のボンベを背負わずに、そこらのコンビニへ行くようなイデタチで月面をウロウロしてたら、この時点で「月には空気がない」っていう事実に対しての「ツジツマ」が合わなくなり、そのトタンに「リアリティー」が消滅して、もうホントの話のように楽しむことができなくなっちゃう。だから、登場人物たちがそこらのコンビニへ行くようなイデタチで月面をウロウロしてるのなら、その前に、「1錠飲んだだけで月面の環境に24時間順応できる薬が開発された」とか、「月に移住した人たちは月の環境に順応するための超小型機器を体内に埋め込んでいる」だの、「ツジツマ」を合わせるための前フリが必要になる今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、誰もが「小説」は多かれ少なかれ作り話だと分かって読んでるワケだけど、だからって何から何までデタラメでいいってワケじゃない。読んでる側は、作り話だと知りつつも、ホントの話だと思い込みながら読んでるんだから、キチンと「ツジツマ」が合ってて、それなりに「リアリティー」がないと楽しめなくなる。某売れっ子作家の作品の中には、細かい部分で「ツジツマ」の合ってないものや、前半でたくさん広げた枝葉のうちの何本かがラストまで戻って来ないで、そのままホッタラカシになっちゃってるものがある。あたしは、こうした作品を読むと、「この作家って読者を軽く見てるんだな」って思っちゃう。
だから、「小説」が作り話だっていう大前提を踏まえて言えば、「嘘をつくのが上手な作家ほど素晴らしい作品を生み出す」ってことになるし、「嘘をつくのが下手な作家でも私小説なら素晴らしい作品を生み出すケースもある」ってことになる。あたしは、川上弘美さんの作品が大好きなんだけど、川上弘美さんは『蛇を踏む』のあとがきにこんなことを書いてる。
『何かを書くのは大好きなのですが、ほんとうにあったことを書こうとすると、手がこおりついたようになってしまいます。ほんとうにあったことではないこと、自分の頭の中であれこれと想像して考えたことなら、いくらでもつるつると出てくるのですが。自分の書く小説を、わたしはひそかに「うそばなし」と呼んでいます。(中略)「うそばなし」を書いているときには、顔つきもうそっぽくなり、そんなときに誰かが話しかけてきたら、うそばっかりぺらぺら言うような気がします。「うそ」の国に入り込んでしまっているからでしょう。「うそ」の国は「ほんと」の国のすぐそばにあって、ところどころには「ほんと」の国と重なっているぶぶんもあります。(後略)』
つまり、川上弘美さんは、「僕は私小説しか書けません」て言ってた西村賢太さんとは正反対で、「うそばなし(小説)しか書けない」ってワケだけど、そんな川上弘美さんは、現実には絶対に起こりえない「うそばなし」を書く時でも、何から何まですべてが「うそ」ってワケじゃなくて、ところどころに「ほんと」を散りばめてる‥‥ってことになる。この『蛇を踏む』では、主人公の女性が蛇を踏んでしまい、蛇は「踏まれたらおしまいですね」って言って消えてしまう。そして、煙みたいになってから人間の姿になるんだけど、こんなこと現実には絶対に起こりえない。だけど、もしかしたら、川上弘美さんは、どこかで蛇を踏んだことがあるのかもしれない。その部分だけが「ほんと」の国の出来事で、そこから先が「うそ」の国の出来事なのかもしれない。
‥‥そんなワケで、現実には絶対に起こりえない内容の「SF小説」でも、たとえば、登場人物全員が作者の空想から生まれた架空の人格ってワケじゃなくて、現実世界にモデルがいるってパターンも多い。主人公の宇宙船の船長は、作者が前に勤めてた会社の上司の佐藤部長がモデルだったり、乗組員のナントカ星人の女性は、作者の親友の幼馴染がモデルだったり、こんなふうに登場人物の人格を設定する作家も多い。こういうふうに設定しておけば、それぞれのシーンでのセリフを考える時に、「佐藤部長ならこんなふうに言うだろうな」って想像しやすいからだ。これも、ある意味、「ほんと」の国が重なってることになる。
「恋愛小説」の場合なら、登場人物の設定にモデルがいるだけじゃなくて、数々のシーンに作者の実体験が使われてるケースも多いと思う。女性の作者なら、自分が過去に付きあった男性たちとの会話や食事やデートやセックスが、小説の中に使われてると思う。実体験そのままじゃなくても、実体験をヒントにしたり、実体験と真逆の演出にしてみたりと、いろんな形で使われてると思う。
つまり、一般的な「小説」の場合は、基本的には作り話なんだけど、いろんな部分に作者の実体験が散りばめられてて、それが「リアリティー」を生み出すための要素の1つになってるってワケだ。そして、作者が実体験してなくても、資料を集めたり取材したりして得た「知識」も、「リアリティー」を生み出すための要素の1つになってる。自分が過去に経験したことのある職業の女性を主人公にした小説なら、自分の過去の経験を生かして書くことができるけど、自分が経験したことのない職業、たとえば、「万引きGメン」の女性を主人公にするなら、「万引きGメン」のことをいろいろと調べなきゃ書くことはできないし、場合によっては実際の「万引きGメン」の女性に取材する必要も出てくる。
行ったことのない土地や国を舞台にして小説を書くのなら、最低でも地図やガイドブックで徹底的に調べる必要があるし、できれば実際に行ってみて、自分が体験してから書かないと「リアリティー」が生まれない。ストーリー自体が作り話の「小説」だからこそ、こうした背景などには「リアリティー」が必要になってくる。
たとえ、それが「架空の島」だったとしても、「九州の島」っていう設定であれば、登場人物たちは、その地方の方言で会話してないと「リアリティー」が生まれない。その地方の天候、その地方の食べ物、その地方の植物や動物や鳥や虫、こうした「知識」が必要になってくる。九州には生息してない植物や鳥が出てきたら、分かる人には分かっちゃうワケで、一気に「リアリティー」が消滅しちゃう。
‥‥そんなワケで、あたしは、1月26日のブログ「号泣のススメ」の中で、こないだ読み直した井上荒野さんの『切羽へ』について、こんなことを書いた。
「『切羽へ』は直木賞受賞作なので、読んだ人も多いと思うけど、これは、文中に多用されてる方言から、九州は長崎県周辺の島だということが分かる。そして、この島が「かつて炭鉱で栄えた島」だということから、井上荒野さんのお父さんの井上光晴さんが少年時代の何年間かを過ごした島、長崎県の崎戸島をモデルにしてると推測できる。」
『切羽へ』は、もちろん作り話なワケだけど、その「架空の島」の中の風景、道、人々、本土からの船、港の様子など、すべてに「リアリティー」がある。そして、その「リアリティー」を不動のものにしてるのが、主人公の女性が使う言葉だ。この島の出身で、東京で働いてて、またこの島に戻ってきて結婚した主人公の女性は、島の言葉と標準語とを相手や状況によって使い分ける。この「リアリティー」は、やっぱり「作者のお父さんが少年時代を過ごした島」という特別の背景があるからこそ生まれたものだと思う。
そして、実在する島を舞台にして、実在する風景や方言を散りばめて、最初から最後まで空想で生み出した作り話で読者を感動させられるのだから、井上荒野さんは、川上弘美さんと同様にプロの「嘘つき」だと思う。それも、親子二代にわたる「大嘘つき」だ。もちろん、この「嘘つき」は褒め言葉として使ってるワケだけど、井上荒野さんの短編集『ベーコン』の巻末の解説で、「共同通信社」の編集委員の小山鉄郎さんが、こんなことを書いてる。
『(前略)井上荒野さんはなぜ、こういうふうに小説を書くのだろうか。それは嘘をついて生きている人間、嘘をついて生きざるを得ない人間という存在に対して、井上荒野さんが深い洞察をしていて、そこから作品を書いているからではないだろうか。このことに気が付いたのは彼女の最初の作品集『グラジオラスの耳』でインタビューした時のことだった。一九九一年五月十五日、それは井上荒野さんの父・井上光晴さんが亡くなる一年前、光晴さんの六十五歳の誕生日だったが、この日付で光晴さんの小説『紙咲道生少年の記録』が刊行され、同日付で荒野さんの『グラジオラスの耳』も一緒に刊行されたのだ。父娘同時刊行というので、この時、二人同時のダブルインタビューというものを試みた。』
『井上光晴さんは自筆年譜が嘘ばかりという人。祖母からも「嘘つきみっちゃん」と呼ばれていたそうだから、折り紙つきの嘘つきだ。小説家は嘘つきが商売だから決して悪いことではないが、近現代の作家で最も嘘つきは誰かというアンケートをすれば、井上光晴さんはかなり上位に入るのではないだろうか。井上荒野さん自身も「私も小さい時、嘘つきと言われていたので、そのへん似ているかも」と笑っていた。』
『この時の父娘の小説はともに「嘘をつく人間」への興味に満ちた作品で、特に『グラジオラスの耳』の表題作は、嘘つきの同級生と再会した主人公が同級生とのかかわりの中で不思議に揺れていく短編だった。そしてこのインタビューで、井上荒野さんは「結局、みんな嘘をついて、うまく生きようとしている。そんな感じを書きたかった。嘘をついて、うまく生きるというのは、ほんとうにいい生き方ではないのかもしれない。けれどなんとなく自分を納得させて生きる。自分で意識しているか、いないかは別として、嘘ばっかりついて生きている感じを書きたかった」と語っていた。(後略)』
ちょっと引用が長くなっちゃったけど、この解説の後半で、小山鉄郎さんは、井上荒野さんの作風を「嘘を通して人間の本当を描く」と評してる。この『ベーコン』は、食べ物をテーマにして、主に不倫や離婚などのドロドロ系の恋愛を描いた短編集なんだけど、扱ってるものが不倫や離婚だから、当然、そこにはたくさんの嘘がある。自分のための嘘だけじゃなく、恋人を愛するゆえの嘘もある。だから、小山鉄郎さんの「嘘を通して人間の本当を描く」という評はとても的を射てるんだけど、その「嘘を通して人間の本当を描」いてる数々の作品が、これまたすべて「嘘」で書かれた作り話ってワケだ。
‥‥そんなワケで、川上弘美さんの言葉を借りれば、「小説」ってのは、「うそ」の国での出来事に、ほんのちょっぴり「ほんと」の国の出来事を重ねて生み出すものってことになる。そして、自分の実体験を下敷きにしてる「私小説」ってのは、「ほんと」の国での出来事に、ほんのちょっぴり「うそ」の国の出来事を重ねて生み出すものってことになる。どちらにしても、そこには「嘘」があるワケで、前者では「嘘」が根幹になってて、後者では「嘘」が枝葉になってるワケだ。
だけど、これは、「小説」だけの話じゃない。今回は、たまたま「小説」を取り上げたけど、「歌」や「映画」、「漫画」や「アニメ」など、これはすべての「創作」に共通してることだ。シンガーソングライターの中には、たとえば、植村花菜さんの『トイレの神様』のように、自分の体験をそのまま歌にしたもので、これは、小説で言えば「私小説」にあたる。
逆に、現実には絶対に起こりえない内容の漫画やアニメだって、登場人物のモデルが作者の知り合いだったり、ストーリーの枝葉の部分に作者の実体験が使われてたり、ちょっとした主人公のリアクションやセリフなどに作者の実体験が反映されてるケースもあるだろう。つまり、「小説」に限らず、すべての「創作」は、100%ぜんぶが「事実」って作品が存在しないように、100%ぜんぶが「嘘」って作品も存在しないワケだ。だから、「小説」に限らず、すべての「創作」は、「嘘をつくのが上手な人ほど素晴らしい作品を生み出す」ってことになるし、「嘘をつくのが下手な人でも自分の実体験を下敷きにすれば素晴らしい作品を生み出すケースもある」ってことになる。
‥‥そんなワケで、「嘘」と言えば、真っ先に思い浮かぶのが政治家の面々だ。民主党を崩壊させた野田佳彦は、誰が見ても収束なんかしてない福島第一原発について平然と「事故は収束した」と宣言し、あれほど自民党の消費税増税案を批判してたのに自分が首相になったトタンに消費税増税案を強行した。自民党の安倍晋三にしても、去年12月の衆院選の時には「ウソつかない。ブレない。TPP断固反対。」っていうポスターを農村部を中心に貼りまくってたのに、政権をとったらわずか2ヶ月で「TPP交渉参加」と来たもんだ。だけど、野田佳彦や安倍晋三を始めとした日本の政治家は、単なる「大嘘つき」ってだけで、決して「嘘が上手」ってワケじゃない。何しろ、言ってるそばから嘘がバレてるんだから、とてもじゃないけど小説家になんかなれっこない。こういう人たちは、嘘が下手でもツラの皮が厚ければ誰でもなれる「政治家」がお似合いだと思う今日この頃なのだ。
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