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2013.03.18

風が吹けば何が起こる?

1週間くらい前のこと、朝から晴れ渡ってた東京の視界が急に霞んでしまうという異常事態が発生した。あたしのいる西日本の某所は「単なる曇天」だったけど、ツイッターでは黄色く霞む東京タワーの写メがRTされてきて、「中国の黄砂だ!」「いや、中国のPM2.5だろう!」「スギの花粉じゃないのか?」「また福島原発が爆発したんじゃないのか?」って、いろんな憶測が飛び交った。挙句の果てには「天変地異だ!」「世界の終わりだ!」って言い出す人もいたもんだから、あたしは「上空でPM2.5と放射性物質が交差(黄砂)してるようだ」っていうオヤジギャグをつぶやいてみたら、そこそこウケた(笑)

で、気象庁はすぐに「黄砂でもPM2.5でもありませんので安心してください。これは雨が降らずに乾燥していた時に強風が吹き、土ぼこりが上空まで舞い上がって発生した煙霧です」って説明したんだけど、あたしは、この説明に首をひねった。だって、何日も雨が降らずに乾燥してた時に強風が吹いたことなんて、あたしが生まれてから今までに何百回もあったのに、東京タワーや高層ビルが黄色く霞んで見えなくなったことなんて一度もなかったからだ。

たとえば、東京の真ん中で竜巻が発生したとかなら、地表の土ぼこりが上空まで舞い上がったとしても理解できる。だけど、単に強風が吹いただけなら、土ぼこりは地上の数メートルの高さを横に飛ぶだけだろう。そういうのなら、学校の校庭でも多摩川の河川敷でも何度も見たことがある。でも、3階建ての校舎の屋上まで舞い上がった土ぼこりなんて見たことがない。3階建てでも見たことがないのに、東京タワーや高層ビルの高さまで土ぼこりが舞い上がるなんて、どうしても想像できない。

それに、コンクリートやアスファルトばかりの都心に、そんなに土ぼこりがあるとは思えない。あたしが強風で飛ぶ土ぼこりを見たのは、乾いた土が剥き出しの校庭や河川敷のグラウンドとかで、地面が舗装された街じゃ見たことがない。だから、どんなに強風が吹いたとしても、東京の空一面が霞むほどの土ぼこりが発生するなんて信じられない。それで、疑い深いあたしは、ホントは人体に害がある「何か」が発生してたんだけど、東京都民がパニックになることを恐れたとか、はたまた「何か」の発生源を隠蔽する必要があったとかで、「これは煙霧です」なんていう嘘の広報をしたような気がする今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、昔から「風が吹けば桶屋が儲かる」なんてことを言うけど、これって、もともとは「桶屋」じゃなくて「箱屋」だったんだよね。「強風が吹くと土ぼこりが飛んでくる」→「土ぼこりが目に入って失明する人が増える」→「失明すると三味線を弾いてお金をもらう門付(かどづけ)くらいしか仕事ができなくなるから三味線がたくさん売れる」→「三味線の皮にするために町から猫がいなくなる」→「猫がいなくなってネズミが増える」→「増えたネズミは桶をかじるから桶屋が儲かる」っていう流れはおんなじなんだけど、最後のとこだけが「桶屋が儲かる」じゃなくて「箱屋が儲かる」って話が最初だった。でも、時代の流れとともに、「箱屋」なんて言われてもピンと来ない人たちが増えてきたからなのか、分かりやすい「桶屋」に変わったみたいだ。

だけど、今じゃ「桶屋」もピンと来ないし、「オケ屋」と言えば「カラオケボックス」のことだと思っちゃう人のほうが多いから、そろそろ次の商売に変わるかもしれない。ネズミがかじりそうな物と言えば、現代なら電気のコードや配線類を思い浮かべるから、「風が吹けばコジマ電気が儲かる」とかになるのかな?‥‥つーか、それ以前に「失明すると三味線を弾いてお金をもらう門付くらいしか仕事ができなくなるから三味線がたくさん売れる」って部分が違ってくるし、さらに、それ以前に「土ぼこりが目に入って失明する人が増える」って部分も違ってくる。現代の医学なら、目に土ぼこりが入っただけで失明することなんか稀だし、目に土ぼこりが入らないようにするゴーグルタイプの防護グラスとかもあるし、もっともっと大前提として、都市部の地面は大半が舗装されてるから土ぼこりが立たない。そう、あたしが言いたいのはココなのだ!なのだったらなのなのだ!

それなのに、東京に「煙霧」って何?東京タワーや高層ビルまでが霞むほどの「土ぼこり」って何?まさか「これがホントの霞ヶ関ビル」ってギャグを言いたいためのネタフリ?それとも「どろろん煙霧くん」ってギャグを言いたい永井豪ファンのサシガネ?‥‥とか思っちゃう。


‥‥そんなワケで、「煙霧」のことは置いといて、昔の日本では「失明したら三味線を習って門付になる」ってことがコトワザに使われるほどポピュラーだったんだけど、コレって意外と最近まで続いてた。あたしの大好きな初代の高橋竹山は、今から100年ほど前の明治43年(1910年)に生まれて平成10年(1998年)に亡くなったんだけど、3歳の時の病気が原因で視力をほとんど失ったため、「門付になるくらいしか生きていく道がない」ってことで、津軽三味線を習うことになった。そして、17歳の時から、実際に東北や北海道を回って、いろいろな家の前で演奏をしてお金や食べ物をもらう門付をして生活してた。

そんな竹山も、太平洋戦争の影響で三味線だけでは生活してくことが困難になり、28歳の時、鍼灸師とマッサージ師の資格を取るために盲学校に入学する。その後、三味線の仕事に戻ったんだけど、若いころのように門付の旅をするんじゃなくて、いろいろな場所に呼ばれて、お客さんの前で演奏して出演料をもらうという形がメインになった。だから、竹山が辛い門付の生活をしたのは若いころだけなんだけど、その門付の経験があったからこそ、多くの人たちの心の奥の奥にまで響いてくる日本一、世界一の津軽三味線奏者へと昇華したんだと思う。

竹山が3歳の時、病気で失明したことは不幸なことだけど、もしも失明しなければ津軽三味線の道には進まなかったんだから、「失明=不幸」という単純な図式じゃ語れない。それこそ「風が吹けば桶屋が儲かる」のように、偶然の連鎖が必然を生み出してるのだ。そして、あえてキレイゴトを言わせてもらえば、竹山は「光」を失ったからこそ津軽三味線という「音」を得たのかもしれない。


‥‥そんなワケで、この門付と似たものに、古代から中世にかけてヨーロッパにいた「吟遊詩人」てのがある。各地を回ってハープやギターやバイオリンなどを弾きながら自分の作った詩曲を歌ってお金をもらう人のことで、古代ギリシャでは吟遊詩人の多くが盲目だったと伝えられてる。だけど、これは、「目が見えないから仕方なく吟遊詩人になった」って感じじゃなくて、当時は、「目が見えないからこそ、そのぶん音に関する感性が優れている」っていう見方をされてた。

だから、古代ギリシャの盲目の吟遊詩人は、生まれながらに目の見えない人もいれば、病気や事故で失明した人もいるけど、中には「もっとよく世の中を見るために自ら失明した」って人もいる。まるでジョジョと戦ったワムウみたいだ。そして、そんな古代ギリシャの盲目の吟遊詩人たちの中でも、興味のない人でも名前くらいは聞いたことがあると思うのが、長編叙事詩『イーリアス』や『オデュッセイア』の作者と言われてるホメロス(ホメーロス)だ。

『イーリアス』や『オデュッセイア』って聞いても「何だ?それ」、ホメロスって聞いても「誰だ?それ」って人でも、さすがに『風の谷のナウシカ』は知ってるだろう。ホメロスが書いたと言われてる『イーリアス』の続編の『オデュッセイア』に登場するのが「ナウシカア姫」、ナウシカのモデルになったお姫様だ‥‥ってなワケで、知った名前が出てリトル馴染んだとこで本題に戻るけど、この『オデュッセイア』には、作者であるホメロスが自分をモデルにしたと言われてるデモドコス(デーモドコス)って人が登場する。ナニゲにドンタコスに似てる気がするけど、この人は盲目の吟遊詩人だ。そして、こんなふうに書かれてる。


「ムーサは、この吟遊詩人をこよなく愛し、良いことと悪いことを合わせて与えた。両目の光を奪った代わりに甘美な歌を与えたのであった」


「ムーサ」ってのは、ナニゲにカラムーチョを連想しちゃうけど、英語で「ミューズ」、文芸をつかさどる女神のことだ。学芸全般の神がアポロンで、その下にたくさんのムーサがいる。つまり、この一節は、「デモドコスは生まれながらに盲目だったが、その代わりに素晴らしい歌声を持っていた」ってことを言ってるワケだ。そして、このデモドコスが作者と言われたホメロスをモデルにしたキャラだと伝えられてたために、作者のホメロスも盲目だったと推測されてる。


‥‥そんなワケで、この吟遊詩人てのも時代や国によって様々なんだけど、ザックリ言っちゃえば「身分の低い放浪の芸人」てことになる。そして、日本の門付とおんなじように、町から町を渡り歩いて自作の詩を歌い、わずかなお金をもらって生活してた人たちがほとんどだ。だけど、他の人たちよりも素晴らしい詩を書ける才能があったり、他の人たちよりも素晴らしい歌声を持ってたりすれば、その吟遊詩人は評判になり、そのうち王様のお目にとまり、宮廷の専属になれたりすることもあった。そうなれば、街角や酒場で歌ってる吟遊詩人よりもずっと上の生活が保障された。

『オデュッセイア』に登場するデモドコスも、文芸の女神であるムーサが溺愛し、「両目の光を奪った代わりに甘美な歌を与えた」ってくらいだから、当然、街角や酒場で歌ってる吟遊詩人たちとは格が違って、アルキノオス王の宴で歌を披露する。そして、彼の歌を聴いた人たちは涙する。現代のように、「盲目=障害」、「盲目=ハンディキャップ」という捉え方とは違って、古代ギリシャでは、盲目の人は「目の見える人よりも感覚が優れている」、「目の見える人にはない特殊な能力を持っている」って捉えられてたから、王様の宴に登場して聴衆たちを感動させる吟遊詩人は、盲目じゃなければ成り立たなかったのだ。

だから、古代ギリシャでは、吟遊詩人だけでなく、預言者にも盲目の人が多かった。盲目の人は、音楽の才能だけでなく、記憶力や直観力も優れているケースが多いため、古代ギリシャでは「予知能力を持っている」って考えられてたからだ。ま、予知能力は非科学的だとしても、少なくとも記憶力や直観力が優れてることは証明されてる。たとえば、ピアノの上級者でも楽譜を見ながらじゃないと弾けないような長くて複雑な楽曲を、盲目のピアニストが一度聴いただけで暗記してしまい、その場で完璧に弾いてみせたりする。

ホメロスの場合は、時代的にもピアノじゃなくてハープを弾きながら歌ってたんだと思うけど、それでも、詩を書く才能と歌声の素晴らしさだけじゃなくて、ハープの腕前もワンダホーだったと思う‥‥って、ここまで書いてきて今さら言うのもアレだけど、ホメロスは、実在したかどうかハッキリとは分かってない人物なのだ。なんせ、紀元前8世紀、日本で言えば縄文時代からようやく弥生時代に入ったころの話だ。ハッキリと分かるワケがない。だから、あたしは、「長編叙事詩『イーリアス』や『オデュッセイア』の作者のホメロス」とは書かずに、「作者と言われてるホメロス」って書いたのだ。

ホメロスに関しては、いろんな説があって、もちろん「実在した」って説が濃厚ミルクなんだけど、その反面、「当時の複数の詩人が共同で作品を書き、その共同名義としてホメロスという名前を使った」なんて説もある。かつて、「きっこなんて女は存在しない。きっこの日記は複数の雑誌記者が交代で書いてるのだ」なんて噂がまことしやかに流されたことがあったけど、あまりにも才能がある人物が彗星のように登場すると、凡人は「とても1人で書ける作品じゃない!」って思うんだろう(笑)


‥‥そんなワケで、ホメロスが実在したかどうかはともかく、ホメロスの作だと言われてる作品は存在してるんだから、紀元前8世紀の古代ギリシャで、誰かがその作品を作ったことだけは紛れもない事実だ。ホントにホメロスっていう盲目の吟遊詩人が作ったとしても、別の吟遊詩人が作ったとしても、複数の吟遊詩人が共同で作ったとしても、その時代に作品が作られたことだけは事実であり、その作品は、2500年後の現代にまで連綿と伝えられてきた。そして、その流れの中で、英語に翻訳され、日本語に翻訳されたから、あたしも読むことができたってワケだ。

で、そんな実在したのかも分からないホメロスの言葉で、2500年後のあたしたちも使ってる言葉がある。ライオンを指す「百獣の王」って言葉だ。正確には、ホメロスの言葉は「獣達の王」で、この表現が後のヨーロッパでよく使われるようになり、日本にも伝わってきたと言われてる。つまり、ホメロスが実在して、その上、伝えられてきたように盲目だったと仮定すると、ホメロスはいろんな動物を目で見て、その中で「ライオンがナンバーワンだ」って判断したワケじゃない。

だけど、ライオンを始めとした猛獣に触ることなんてできない。せいぜい檻の外から吼える声や唸り声を聞くくらいしかできないハズだ。あとは目の見える人たちから、どんな動物なのかを説明してもらって、頭の中で想像するしかない。これだけの情報量で決められたナンバーワンなんだから、イマイチ信頼度は低い。さらに言えば、紀元前8世紀のギリシャなんだから、世界中の猛獣を見ることなんてできなかったハズだ。当時のギリシャで見ることのできた何種類かの猛獣の中だけで決められた王、だからこそ「百獣の王」じゃなくて「獣達の王」だったんじゃないかって、あたしは思ってる。

つまり、あたしたちは当たり前みたいに「百獣の王」って言葉を使ってるし、この言葉のセイで、ナニゲにライオンが一番強いと思い込んでるけど、実際は違うんじゃないのか?‥‥ってことだ。だって、ライオンなんて、所詮は「デカい猫」じゃん。巨大なワニに噛まれたら負けそうだし、巨大なサイに体当たりされても負けそうだし、巨大なゾウに踏まれても負けそうだ。ワニやサイに負けるのは仕方ないとしても、ゾウに踏まれて負けちゃったら、ライオンはアーム筆入れよりも弱いってことになっちゃう。筆箱より弱い「百獣の王」なんてガッカリだ。

他にも、巨大なヒグマに仁王立ちされてクマパンチを食らったら負けそうだし、巨大なゴリラに馬乗りされてタコ殴りにされても負けそうだし、巨大なコモドオオトカゲに噛みつかれても負けそうだし、巨大なアナコンダに巻きつかれても負けそうだし、小さくても猛毒を持ったヘビに噛まれても負けそうだし、アンタッチャブルの柴田さんは「カバ最強説」を唱えてるし、とてもじゃないけどライオンが「百獣の王」だとは思えなくなってくる。たとえば、トラとかジャガーとかピューマとかのネコ科の動物の中での王、「猫族の王」とかなら、まあまあ納得できる。でも、「百獣の王」は無理がある。

そこで、あたしは、真の「百獣の王」を決めるために、世界初の「動物相撲大会」を開催してみた。もちろん脳内での話だけど。で、すべての動物を総当たりにしてたらキリがないので、トーナメント戦にしてみた。そして、次々と相手を投げ飛ばして勝ち上がってきたのは、意外にもライオンとサイだった。サイはお得意の体当たりで勝ち上がってきたから順当だったけど、ライオンは今まで自分が「百獣の王」と呼ばれてたことに対する意地とプライドだけで勝ち上がってきたようだ。だから、決勝戦までコマを進めてきても息ひとつ乱れていないサイに対して、ライオンのほうは満身創痍の状態だった。

誰が見ても「ライオンの負け」がハッキリしている決勝戦が始まった。「これからは俺様こそが百獣の王だぜ!」、サイはニヤリと笑った。行司のテナガザルの「ハッケヨイ!のこった!」の掛け声で、サイは突進した。フラフラで立っているのもやっとのライオンは、一発で土俵の外へ飛ばされてしまう‥‥と思った瞬間、ネコ科の動物特有の体の柔らかさを利用してサイの角を間一髪でかわすと、相手の力を利用して一本背負いを炸裂させた!


ヒュ~~~~~~~~~~ドッカーン!!


行司のテナガザルの軍配が上がり、ライオンは、とうとう自分の力で「百獣の王」の称号を手に入れたのだ。喜びと感動で目をうるませたライオンは、しばらく空の一点を見つめていたが、ハッと我に返ると、遠くの床に叩きつけられて動けなくなっていたサイのところへ走っていった。そして、サイの体を起こしながら、勇敢なライバルにねぎらいの言葉をかけた。サイは苦しそうに、しかし爽やかな笑顔で言った。


「おいライオン、これでようやく『百獣の王』という言葉がお前のものになったな‥‥おめでとう!」

「ありがとう!」

「でも、俺も自分の言葉を見つけたぜ‥‥」

「何だい?」

「俺の言葉は『サイは投げられた』だ!」


‥‥そんなワケでして、おあとがよろしいようで、テケテンテンテンテン♪‥‥ってなワケで、「百獣の王」の元の言葉を生み出したホメロスも、さすがに2500年後にサイが投げられるとは予想だにしなかっただろう。そして、あたしはそれをオチに使ったんだから、最初に巻き戻して早送りすると、「強風が吹くと土ぼこりが飛んでくる」→「土ぼこりが目に入って失明する人が増える」→「失明すると日本では三味線を弾いてお金をもらう門付が増え、古代ギリシャでは吟遊詩人が増える」→「吟遊詩人の中には優れた感性で『百獣の王』という言葉を生み出す者も出てくる」→「2500年後にその言葉に疑問を持つ者が現われる」→「真の『百獣の王』を決めるために脳内で動物相撲大会が開催される」→「決勝戦でサイがライオンに投げられる」ってなワケで、新しいコトワザは「風が吹けばサイが投げられる」に決定!‥‥って感じの今日この頃なのだ(笑)


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