推敲の日々、添削の週末
ツイッターは文字数の制限が140文字までだけど、いちいち文字数を数えながら文章を考えてる人なんていないと思う。たいていの人は、つぶやきたいことをそのまま入力して、それが140以内だったらそのまま送信するし、140文字を超えてたら文章の一部を削ったりして、140文字に収まるように修正してから送信してると思う。
あたしの場合はノートPCでアクセスしてるから、140文字を超える恐れがある長めのつぶやきの場合は、まず、ワードパッドに目分量で「だいたい140文字くらい」の文章を書く。そして、それをツイッターの投稿フォームにコピペする。白い字で「12」って表示されれば「あと12文字は余裕がありますよ」ってことだし、赤い字で「-8」って表示されれば「8文字オーバーしてますよ」ってことだから、白い文字が表示されたらそのまま送信するし、赤い文字の場合はオーバーしてるぶんの文字数を削る。
ま、オーバーするって言っても、「だいたい140文字くらい」を目指して書いてるから、たいていの場合は「1~5文字」くらいなので、「読点」を省略したり「あたし」を「私」に変えるくらいで何とかなる。だけど、たまに10文字以上もオーバーしてた場合には、本格的に文章を直さなきゃならなくなる。
「東京電力の福島第一原子力発電所」は15文字だけど、これを「福島第一原発」に直せば9文字も少なくできる。「1キログラムあたり100ベクレルの放射性セシウム137」は27文字だけど、これを「100Bq/kgのセシウム」に直せば14文字も少なくできる。
ただ、140文字を超えそうな長めの文章の場合は、最初から「東京電力の福島第一原子力発電所」だの「1キログラムあたり100ベクレルの放射性セシウム137」だの、こんな長い表現は使ってないから、なかなか削る場所が見つからない。変な部分を削ったら意味が伝わらなくなっちゃうから、おんなじ意味で文字数の少ない単語を探したり、重複してる表現を1つにマトメたりと、いろいろと工夫する。
たとえば、「Aを食べることもあるし、Bを食べることもある」っていう文章なら、「食べることもある」って部分が重複してるから、「AやBを食べることもある」に直す。「A×2+B×2=」っていう数式を「(A+B)×2=」に直すような感じだ。
ツイッターには、140文字を超える長い文章もつぶやくことができる「ツイット・ロンガー」っていう無料アプリもあるし、「長文をいくつかに分割して番号を振って連続してつぶやく」って方法もある。だから、140文字を超えても一字一句を正確に伝えなきゃならない必要がある場合は、あたしはこれらの方法を取ってるけど、ふだんのくだらないつぶやきの場合は、できる限り140文字以内にキレイに収めて一発で決めたいと思ってる。
あたしは俳句が好きで、文章で説明したら30音にも50音にもなっちゃうような風景や出来事を、削って削って削りまくって17音にマトメるってことを25年以上も続けてきたから、「文章の無駄を省く」「言わなくても分かることを削る」って作業が得意だし、自分の発見を17音に仕上げてく過程は、なんかパズルをやってるみたいで楽しく感じる。Aの言葉とBの言葉、どっちを使ったほうが雰囲気が伝わるかな?ここは漢字表記と平仮名表記、どっちが気持ちがが伝わるかな?こんなことを考えるのが楽しくて仕方ない。
だから、あたしは、ツイッターも俳句とおんなじで、思いついたことを思いついたままに書いたら200文字や300文字になっちゃうような複雑な内容を、要点を絞り、無駄を省き、言葉を選び、表現を工夫して、140文字以内にキレイに収めて明快に伝えるってことに面白さを感じてる。ツイッターの場合は、何人にRTされたかという数字で、そのツイートがどれくらい支持されたかがある程度は分かるから、140文字以内に収めるために苦労したツイートがたくさんRTされると、テストでいい点数をとったみたいな嬉しい気持ちになる今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、今から1200年くらい前の800年ころのこと、日本で言えば平安時代の初めころだけど、中国の「唐(とう)」の時代に、賈島(かとう)っていう詩人がいた。これは、いかりや長介が「おい!加藤!志村!」って言う場合の「加藤」とは違って、「賈(か)」が苗字で「島(とう)」が名前だ。
で、今から1200年くらい前のある日のことだけど、この賈島は、今で言う「官僚」になるための「科挙(かきょ)」っていう登用試験を受けるために、都の長安(ちょうあん)へ出てきてた。この「科挙」っていう登用試験は激しく難しくて、5歳くらいから、この試験を目指して勉強を始めて、20歳を過ぎるころまで、ずーーーーーーっと勉強した全国各地のエリートたちが受験するんだけど、合格率はわずか1%!その上、この試験は3年に1回しか行なわれないから、不合格になれば、次のチャンスは3年後まで巡ってこない。
ま、これは本題と関係ないから置いとくけど、とにかく、この「科挙」を受験するために長安へ出てきてた賈島は、吉田照美さんに乗りながら‥‥じゃなくて、ロバに乗りながら詩を考えてた。難しい試験を受けにきたってのに、ついつい詩なんか考えちゃうとこが「詩人の性」ってワケだ。それで、ロバに揺られてた賈島は、「鳥は宿る池中(ちちゅう)の樹、僧は推(お)す月下の門」ていう一節を思いつく。賈島は僧侶の経験もあったので、自分の僧侶時代を思い起こして詠んだのかもしれない。
でも、なかなかいいフレーズを思いついたと喜んだのもトコノマ、「僧は推す月下の門」「僧は推す月下の門」「僧は推す月下の門」‥‥って繰り返してるうちに、どうもイマイチしっくりこないことに気づく。そこで、他の表現も考えてみた賈島は、今度は「僧は敲(たた)く月下の門」ていうフレーズを思いつく。「推す」のほうがいいか、「敲く」のほうがいいか、賈島は目の前に「月下の門」を思い浮かべ、それを手で推してみたり敲いてみたりした。
ロバに揺られながら賈島が詩作に没頭してると、正面から政府の高官である韓愈(かんゆ)の一行が、立派な馬に乗ってやってきた。日本でもそうだったように、自分より身分の高い者がやってきた場合には、身分の低いほうは端によけて道を譲らなきゃならない。それなのに、賈島は、詩作に夢中になっていたため、前を見ていなかった。そして、賈島のロバは韓愈の馬とぶつかってしまった。
ハッと目が覚めた賈島は、自分が起こしてしまったコトの重大さに真っ青になり、すぐにロバから飛び降りてペコペコと謝った。だけど、唐から宋の時代にかけての優れた8人の文人を指す「唐宋八大家(とうそうはちたいか)」の1人にも数えられるほどの人物、韓愈だったから、頭ごなしに怒ったりはせず、やさしい口調で話しかけてきた。
「私は長安の知事の韓愈と申す者ですが、あなたはどうして私にぶつかったのですか?その理由を説明しなさい」
「韓愈さま、本当に申し訳ありませんでした!私は詩人なのですが、今、『鳥は宿る池中の樹、僧は推す月下の門』という一節を思いついたのです。しかし、『推す』よりも『敲く』にしたほうが良いのではないか、どちらにすべきか、夢中になって考えながらロバに乗っていたため、うっかりと韓愈さまの馬にぶつかってしまったのです。どうか私の非礼をお許しください!」
「そうでしたか。詩人が詩で悩むのはよくあること、私も詩人だからよく分かります。幸いにお互いケガもないようなので、気にすることはありません。それよりも、その詩は『推す』ではなく『敲く』にしたほうが良いでしょう」
「韓愈さま、ありがとうございます!」
身分に違いはあれど、ここは詩を愛する者同士、すぐに意気投合して、2人は馬とロバを並べて歩き、詩について語り合ったとさ。めでたし、めでたし‥‥ってなワケで、賈島は韓愈のアドバイスによって、こんなにワンダホーな詩を完成させることができたのだ。
「題李凝幽居」 賈島
閑居少鄰竝
草径入荒園
鳥宿池中樹
僧敲月下門
過橋分野色
移石動雲根
暫去還来此
幽期不負言
このままじゃ安倍晋三や麻生太郎でなくても読めない人が多いと思うので、安倍晋三が国会で棒読みしてる官僚の作文のように「振り仮名」や「送り仮名」を振ると次のようになる。
「李凝(りぎょう)の幽居(ゆうきょ)に題(だい)す」 賈島
閑居(かんきょ)鄰竝(りんぺい)少なく
草径(そうけい)荒園(こうえん)に入(い)る
鳥は宿る池中(ちちゅう)の樹(き)
僧は敲く月下の門
橋を過ぎて野色(やしょく)を分かち
石を移して雲根(うんこん)を動かす
暫く去って還(ま)た此(ここ)に来たる
幽期(ゆうき)言(げん)に負(そむ)かず
これでフランク・ザッパな意味は分かったと思うけど、ザックリと書いとくと、次のような意味になる。
「隣家もほとんどない閑散とした場所に、李凝が世俗を離れて静かに暮らしている幽居がありました。草の小径を進んで荒れた庭に入ると、池の端には鳥が眠る木がありました。僧侶は月明かりの下、来訪を報せるために門を叩きました。橋を渡ると、一面に野の色が広がっていました。大きな石を動かせば、そこから雲が湧き立つのではないかと思われるほどです。今夜はこれで帰りますが、また伺わせていただきます。この約束は必ず守ります」
‥‥そんなワケで、「きっこのブログ」の賢明なる読者諸兄は、もうとっくに気づいてると思うけど、賈島がこの詩を作る過程で、「月下の門」を「推す」にするか「敲く」にするか、ロバの背で悩んだことから生まれたのが、そう、「推敲(すいこう)」っていう言葉だ。詩や文章を少しでも良くするために、言葉を入れ替えたり表現を変更したり、アレコレと工夫することだ。
一方、悩んでいた賈島に対して、「『推す』ではなく『敲く』にしたほうが良いでしょう」と言った韓愈のアドバイスは、「推敲」じゃなくて「添削(てんさく)」に当たる。「月下の門」を「推す」にするか「敲く」にするかで悩むのが「推敲」なら、語句を「添え」たり「削っ」たりして直すのが「添削」だ。最大の違いは、作者が自分の作品に対して自分で行なうのが「推敲」で、作者が自分の作品を自分よりも上級者に見てもらってアドバイスを乞うことが「添削」だ。
あたしは俳人なので、「添削」と言えば真っ先に「俳句の添削」を思い浮かべるけど、今どきの子どもだったら「進研ゼミ」の赤ペン先生とかを思い浮かべるかもしれない。生徒が提出した解答用紙に「○」と「×」だけ付けていって点数を書き込むのは「採点」だけど、赤ペン先生みたいに「ここはこうしなさい」というアドバイスまで添えてあるのは「添削」になる。
新聞や雑誌や書籍などの場合は、記者や作者が書いた文章をチェックして、誤字脱字や句読点の間違いなどを直すことを「校正」と言うけど、ここでは文章の内容にまでは踏み込まない。あくまでも、表記の間違いを直すだけだ。一方、内容にまで踏み込んで直すのは「校閲(こうえつ)」だ。たとえば、誰かの原稿に「鎌倉幕府が誕生した1192年は」と書いてあれば、これを「1185年」に直す。これが「校閲」で、赤ペンで指摘した原稿を作者に確認してもらい、作者が了解したら修正する。
だから、「校正」と「校閲」ってのは、テストでの「採点」と「添削」の関係に似てるんだけど、これらすべてに共通してるのは、「校正」も「校閲」も「採点」も「添削」も「誰かにやってもらう」って点だ。もちろん、自分の書いた原稿の誤字脱字を自分でチェックすることも「校正」と呼べるかもしれないし、自分で解いたドリルの採点を自分でする「自己採点」なんていう例外もあるけど、基本的には「誰かにやってもらう」のが一般的だ。そして、唯一、自分でやらなきゃならないのが、1200年前に賈島も悩んだ「推敲」ってワケだ。
「校正」や「採点」の場合は、何が間違いで何が正解だっていう正誤がハッキリしてるから、「見落とし」にさえ気をつければ、自分でやっても問題はない。だけど、「推敲」の場合は正誤がハッキリしてないから悩んじゃう。賈島が「推す」にするか「敲く」にするかで悩んだのも、一方が「正」で一方が「誤」ってワケじゃないからだ。この時、偶然に出会ったのが韓愈だったから「敲く」を薦められたけど、もしも別の感性の詩人と出会ってたら逆に「推す」を薦められてた可能性だってある。
詩でも俳句でも絵画でも音楽でも映像でも、これらが「自己満足」で終わってしまうか、それとも「自己表現」になるかは、この「推敲」によるところが大きい。だから、あたしは、ツイッターでも、「自己満足でいい」と思ったことに関しては、ロクに推敲なんかしないでテキトーにつぶやいてる。でも、「これは重要なことだから1人でも多くの人に伝えたい」と思ったことに関しては、たとえ最初から140文字以内に収まってたとしても、すぐにそのまま送信したりせずに、自分が「読む側」になったと仮定して、客観的な視点から言葉や表現をいろいろと入れ替えてみたりして、より伝わるように推敲してる。
‥‥そんなワケで、自分の俳句やツイートに対する「推敲」は日常的に行なってるあたしだけど、実は、無意識のうちに「添削」もヒンパンに行なってたことに気づいたのだ。「添削」が何かと言えば、「進研ゼミ」の赤ペン先生がやってることが「添削」だ。NHKの俳句や短歌の番組で、投稿されてきた作品を担当の先生が「ここはこうしたほうが良いですね」と赤マジックで直してくれるのが「添削」だ。子どもころのお習字で、先生が朱色の墨で直してくれた経験のある人も多いと思うけど、あれも「添削」だ。つまり、対象が変われども「添削」に共通してるのは「赤い文字」ってワケで、週末になると渋谷や新宿の場外馬券売り場に集まって赤鉛筆を握りしめて競馬新聞とにらめっこしてる人たちも、実は「添削」をしてたのだ!そう、競馬の予想とは、良い馬に「○」を付けてダメな馬に「×」を付けるだけの「採点」ではなく、レース全体を脳内で組み立ててシミュレーションする「添削」だったのだ!‥‥ってなワケで、今週の週末も、あたしは、JRAの馬たちの「添削」に励もうと思った今日この頃なのだ!ヒヒ~ン!(笑)
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