本歌どりの世界/前編
俳句に興味がない人でも「松尾芭蕉」という名前くらいは聞いたことがあると思うし、「古池や蛙(かわず)飛びこむ水の音」や「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」や「閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声」や「五月雨をあつめて早し最上川.」や「荒海や佐渡によこたふ天の河」など、芭蕉の代表句を並べれば、このうちの1句か2句くらいは耳にしたことがあると思う。
だけど、いろんな場所で「有名な俳句」として紹介されてるこれらの作品は、厳密に言うと「俳句」じゃない。「俳句」という詩形を作ったのは芭蕉より200年も後の明治時代の正岡子規であって、芭蕉の活躍してた江戸時代の前期には「俳句」なんてものは存在してなかった。芭蕉がやってたのは「俳句」の前身の「俳諧(はいかい)」であり、芭蕉は「俳人」ではなく「俳諧師」だ。
こうしたバックボーンを無視して純粋に作品だけを鑑賞すれば、これらは「俳句という詩形が存在しなかった時代に詠まれた俳句」と言うより他に説明のしようがないんだけど、とにかく、まだ「俳句」という詩形が誕生する200年も前の作品なんだから、これらの句を詠んだ芭蕉本人だって、これらの作品を「俳句」とは思ってなかった。作者が「俳句」と思ってないものを、後世の人間が勝手に「俳句」だなんて決めつけることはできない。
「俳句」を知らない現代人の多くは、「俳句」を古臭くて堅苦しくて難しいものだと思ってる。立派な掛け軸か何かに、読めないような文字で書いてあって、床の間とかに飾られてるものだと思ってる。でも、これは大きな間違いで、「俳句」の前身の「俳諧」ってのは、今で言う少年ジャンプや深夜のアニメ、AKB48やジャニタレみたいなモノだった。ようするに、「庶民の娯楽」だったワケだ。
「俳句」の前身の「俳諧」は、ザックリ言っちゃえば「パロディー」の世界だった。これは、芭蕉の初期の作品を見ればよく分かる。芭蕉は、寛文2年(1662年)、19歳の時に、伊賀の国のお武家さん、藤堂新七郎良清の息子の「良忠」に仕えることになる。良忠は芭蕉の2歳年上で、「蝉吟(せんぎん)」という俳号で俳諧を勉強してた。で、芭蕉も薦められて俳諧を始めることになり、良忠の先生である京都の北村季吟(きぎん)を師事することになる。そんな芭蕉が、季吟を師事して1年目の20歳の時に詠んだのが、次の句だ。
月ぞしるべこなたへ入らせ旅の宿 宗房
芭蕉が「芭蕉」を名乗るのは、ずっと後のことで、俳諧を始めた当初は、本名の「宗房」を俳号にしてた。で、この句だけど、宿の前に立つ客引きが旅人に向かって「夜道を明るく照らすお月さまが道しるべですよ。さあ、こちらのお宿へお入りください」と話しかけてるっていう内容だ。なんだか岡本おさみが吉田拓郎に書いた「旅の宿」みたいだけど、この句には元ネタがある。
それは、当時の庶民なら誰もが知ってた謡曲『鞍馬天狗』の一節だ。電気もラジオもテレビもない時代だから、庶民の楽しみは「能」や「歌舞伎」などのお芝居を観に行くことで、『鞍馬天狗』は人気の演目の1つだった。これは、牛若丸がまだ沙那王と呼ばれてた幼年時代に、平家を倒して源氏を再興させるために鞍馬山の大天狗から武術を習うっていうストーリーだ。で、この『鞍馬天狗』の中に出てくるのが、次の一節だ。
「夕を残す花のあたり、鐘は聞えて夜ぞ遅き、奥は鞍馬の山道の花ぞしるべなる、こなたへ入らせ給へや」
日が暮れて薄暗くなってきた山道ですが、薄暗くなっても目につく満開の桜の花を道しるべにして、こちらへお入りください‥‥って言ってるワケだけど、芭蕉の句は、当時の人たちの多くが知ってたこのフレーズを元ネタにして、詠まれてる。だから、芭蕉の句を目にした人は、誰もが「ハハ~ン、鞍馬天狗のパロディーだな」って思ったワケだ。
だけど、これは、今で言う「パロディー」とは違って、俳諧特有のいろんな小技が使われてる。パッと見ただけだと、ただ単に「道しるべ」である「桜の花」を「お月さま」に変えただけみたいに見えるだろうけど、春を代表する季題での「桜」を、秋を代表する季題の「月」に変えたこと自体に、まず、第一の趣向がある。
そして、芭蕉の句では「こなたへ入らせ」としか言ってないけど、元ネタでは「こなたへ入らせ給へや」と言ってる。ここがこの句の最大のポイントで、「給(たま)へ」は「給(た)べ」とも言うことから、この「たべ」が「旅」に掛かってるのだ。つまり、「こなたへ入らせ」をそのまま流用しただけじゃなくて、「こなたへ入らせ旅」までが元ネタを踏まえてるってワケだ。
謡曲「鞍馬天狗」を知らず、俳諧の小技や楽しみ方を知らない現代人には、こうして無粋な説明をしないと理解してもらえないことでも、当時の人たちなら、誰もが一読で「ハハ~ン」って理解して、感心して、「うまい!山田く~ん!座布団持ってきて~!」ってことになった今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、誰もが知ってる有名な謡曲や和歌なんかを元ネタにして、それをひと捻りして人々を感心させる句を詠むのが、芭蕉が最初に出会った「貞門(ていもん)派」の俳諧で、これが当時の主流だった。だけど、何年も俳諧を続けてるうちに、芭蕉はこうした小手先の作品を詠むことに疑問を感じるようになっていく。そして、最初に挙げたような「侘び」や「寂び」を内蔵した芸術的な句を詠むようになっていくんだけど、俳諧を始めたころの芭蕉はと言えば、さっきの句からも分かるように、今で言う「替え歌の名人」だった。
うかれける人や初瀬の山桜 宗房
これは、芭蕉が24歳の時に詠んだ句だけど、和歌が好きな人、『小倉百人一首』が好きな人、『ちはやふる』を観てる人なら、みんな「ハハ~ン」って思っただろう。そう、この句の元ネタは、『小倉百人一首』にも収められてる次の歌だ。
うかりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを 源俊頼朝臣
この歌は、『新古今和歌集』や『小倉百人一首』の選者をつとめた藤原定家の祖父、藤原俊忠のお屋敷でひらかれた歌会で、源俊頼(みなもとのとしより)が詠んだもので、この時のお題は「祈れども逢はざる恋」だった。つまり、神様や仏様に祈願したのに成就しなかった悲しい恋について歌を詠んだワケだ。
リトル専門的なことを書くと、この歌の「うかりける」は「憂かりける」、「思い通りにならなくて心が苦しい」という意味の「憂(う)し」の連用形に、過去の助動詞「けり」の連体形を接続したものなので、「うかりける人」ってのは「思い通りにならなくて私の心を苦しくしている人」、ザックリ言っちゃえば「冷たいあの人」って感じだ。「初瀬」は、奈良県桜井市初瀬(はせ)のことで、昔は「はつせ」と読んだ。だから、歌全体の意味は、次のようになる。
「私に冷たいあの人と恋仲になりたいと初瀬の長谷寺の観音様にお祈りしたのに、あの人の態度はますます冷たくなるばかり。私は『初瀬の山から吹き下ろす風のように、もっと冷たくなれ』なんて祈っていないのに‥‥」
この歌のどこに「長谷寺」なんて書いてあるの?どこに「観音様」なんて書いてあるの?‥‥って言うのは野暮だ。「初瀬」と言えば「長谷寺」、「長谷寺」と言えば「観音様」、この辺は「言わなくても分かること」であり、逆に、「言わなくても分かることをわざわざ言ったら野暮」になる。
ちなみに、『ちはやふる』的に言うと、この歌は「二枚札」だ。『小倉百人一首』の100枚の札の中で、おんなじ音で始まる歌が他になくて、最初の1音で取れる札を「一枚札」と呼ぶんだけど、これはぜんぶで7枚ある。「むらさめの」「すみのえの」「めぐりあひて」「ふくからに」「さびしさに」「ほととぎす」「せをはやみ」の7枚なので、頭の一字を並べて「む・す・め・ふ・さ・ほ・せ」と覚える。この7枚は、おんなじ音で始まる歌は他にないから、「むらさめの~」と読み上げられる最初の「む」で、ソッコーで「きりたちのぼるあきのゆうぐれ」の札をパシッと取ることができる。
そして、おんなじ音で始まる歌が2首あるのが「二枚札」だ。「二枚札」は5組、「うらみわび」と「うかりける」、「つくばねの」と「つきみれば」、「しらつゆに」と「しのぶれど」、「もろともに」と「ももしきや」、「ゆうされば」と「ゆらのとを」、これも頭の一字を並べて「う・つ・し・も・ゆ」と覚える。これらの歌は、最初の1音で札を取るとお手付きになる可能性があるから、「うら」か「うか」か、2音目まで聞かないと手が出せない。でも、どちらか1枚が読まれたあとには、残った1枚は「一枚札」とおんなじ状態になるから、今度は最初の1音で札を取れるようになる。
‥‥そんなワケで、母さんもあたしも『小倉百人一首』が大好きで、みんな知ってる「坊主めくり」、100枚の札をぜんぶ散らしてみんなで取る「散らし」、下の句を詠んで上の句を取る「逆さまかるた」など、子どものころからよく遊んでた。だから、母さんもあたしも「競技かるた」はやったことがないけど、普通の「かるた取り」ならまあまあ得意だし、上の句を詠まれればすぐに下の句が分かる。だけど、アニメの『ちはやふる』を観れば分かるように、「競技かるた」の世界は尋常じゃないスピードが要求されるから、母さんやあたしみたいに歌の内容を味わってる余裕なんてない。
最初の「う」の音を聞いた瞬間に「うらみわび」と「うかりける」の2枚の札に照準を合わせ、2音目の「か」が聞こえた瞬間に「はげしかれとはいのらぬものを」の札をパシッと取らなきゃならない。さらに言えば、2音目の「か」が聞こえてからじゃ遅いワケで、「か」が聞こえる前の「う」から「か」へと流れる「何か」を感じ取って札を取る‥‥らしい‥‥「ちはやふる」によれば。
「競技かるた」は、歌の意味よりもスピードが命だから、初心者は、まずは上の句の最初の音と下の句の最初の音を語呂合わせで覚えることから始める。今回の源俊頼の歌なら「二枚札」だから、上の句は「う」だけじゃなくて「うか」までを聞かなきゃならない。そして、場に並んでる下の句の札に書いてあるのは「はげしかれとはいのらぬものを」だから、「うか」に対して「はげ」ってワケで、これを「うっかりハゲ」って覚える(笑)
‥‥そんなワケで、ちょっと「ちはやふる」の世界に脱線しちゃったけど、ここで芭蕉の句の話にクルリンパと戻るので、分かりやすいように、元ネタになった源俊頼の歌と芭蕉の句を並べてみる。
うかりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを 源俊頼朝臣
うかれける人や初瀬の山桜 宗房
こうして並べてみると分かりやすいけど、最初に紹介した「月ぞしるべこなたへ入らせ旅の宿」が、「こなたへ入らせ」だけじゃなくて「こなたへ入らせ旅」までを元ネタにカケてあったように、こちらも、「初瀬」までだけじゃなくて「初瀬の山」までカケてあることが分かる。だけど、この句の場合は、最大のポイントは「うかれける」だ。
源俊頼の歌は「憂かりける」だけど、芭蕉は「浮かれける」、お花見に繰り出して浮かれてる人々を詠んでいる。「月ぞしるべ」の句では、元ネタの「春」を対照的な「秋」へと大転換させたけど、この句では「つらくて苦しい景」を「楽しくて賑やかな景」へと大転換させてる。こうした有名な先人の詩や歌を元ネタにして詠む「本歌どり」の場合は、「元ネタが何であるか誰にでもすぐに分かるように詠む」ってことは大前提だけど、その上で、「句の背景や意味などを大転換させる」ってことが重要になる。秋の悲しい失恋の和歌を元ネタにして、秋の悲しい失恋の句を詠んだら、それは「本歌どり」じゃなくて「パクリ」になっちゃうからだ。
‥‥そんなワケで、『小倉百人一首』にも収められてる有名な歌を「本歌どり」したのが芭蕉の句だけど、そんな『小倉百人一首』の中にも、人の歌を元にして詠まれてる「本歌どり」の歌が何首もある‥‥ってなワケで、ここからは『小倉百人一首』の中の「本歌どり」の歌の数々を紹介していきたいんだど、そうするとあまりにも長くなっちゃうので、今日はここまで。続きは「後編」をお楽しみに!‥‥なんて感じの今日この頃なのだ♪
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