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2014.01.20

母さんのどんどん焼き

こないだのお昼、冷蔵庫を覗きながら母さんが「久しぶりにどんどん焼きでも作ろうか?」って言ったので、あたしは「わ~い♪」って反射的に子どもみたいな返事をしちゃった。「どんど焼き」は1月15日の「小正月」に、河原とかの広い場所にお正月の門松とか注連縄とか書初めとかを持ち寄って高く積み上げて焼く行事だけど、「どんどん焼き」は食べ物だ。思いっきりザックリと言うと「貧乏なお好み焼き」って感じで、あたしが子どものころに母さんが作ってくれたのは、小麦粉をお水で溶いて、そこに刻んだ長ネギと紅ショウガを入れてフライパンで焼くだけ。これにソースをかけて、オカカをふりかけて食べる。

まだお金に少し余裕がある時は、これに魚肉ソーセージやキャベツが入る。そして、魚肉ソーセージが無くなり、キャベツが無くなり、長ネギと紅ショウガだけの「どんどん焼き」になると、あたしは子どもながらに「そろそろお金が無いんだな」って思ってた。母さんは、晩ご飯に「どんどん焼き」が続くと、3日目くらいには「ごめんね、もう飽きちゃったよね?」って聞くんだけど、あたしは、別に母さんに気を使ってたワケじゃなくて、母さんの作ってくれる「どんどん焼き」が大好きだったから「ずっとどんどん焼きでもいいよ♪」って答えてた。

ようするに、月末にお金の余裕がなくなり、お米の残りも心細くなってきた時に、お米よりも安い小麦粉を主食にしてたワケだけど、この「どんどん焼き」の晩ご飯が続くのは、最長でも3日か4日くらいだった。そして、「どんどん焼き」を食べながら、母さんが「明日の夜は何が食べたい? 何でも作ってあげるよ」って言うと、それが、その月の「どんどん焼き最後の日」の合図だった。次の日には、ハンバーグでも、オムライスでも、鶏の唐揚げでも、焼き魚でも、何でも作ってくれた遠い記憶の中の今日この頃、皆さん、粉モノはお好きですか?


‥‥そんなワケで、あたしは「小麦粉」って書いたけど、子どものころは「うどん粉」って呼んでた。そして、あたしの母さんが子どものころは「メリケン粉」って呼んでた。これは「メリケン波止場」や「メリケンサック」と同じで「アメリカン」が訛ったものだ。でも、ちょっと調べてみたら、これは同じものの呼び名じゃなくて、正確に言うと、日本産の小麦を製粉したものが「うどん粉」で、アメリカから輸入した小麦を製粉したものが「メリケン粉」なんだそうだ。

で、今は多くの人が「小麦粉」って言うけど、これは「薄力粉」と「強力粉」のうち「薄力粉」のほうを指して使われてる。「薄力粉」と「強力粉」も「小麦粉」だけど、単に「小麦粉」って言った時は「薄力粉」を指し、「強力粉」の場合はそのまま「強力粉」と言う。ちなみに、今の日本で消費されてる小麦は年間約650万トンなんだけど、このうち約85%は輸入に頼ってる。そして、輸入小麦の約60%がアメリカから、約20%がカナダから、約10%がオーストラリアから、残りの10%がその他の国々からのものだ‥‥ってなワケで、小麦に関する基本的なお勉強はこれくらいにして、話をクルリンパと「どんどん焼き」に戻す。

マクラの部分で、あたしは「どんどん焼き」のこと「貧乏なお好み焼き」って説明したけど、これはあたしがそう思ってただけで、ゴージャスなものも存在してたらしい。「らしい」ってのは、あたしは食べたことがないからだ。食通としても知られた池波正太郎さんの『食卓の情景』(新潮文庫)によると、昭和初期の東京の下町には、たくさんの「どんどん焼き」の屋台が出ていて、牛肉や豚肉から乾エビや鶏卵まで、いろんな具材を入れたメニューがあったそうだ。

東京の下町と言えば「もんじゃ焼き」が有名だ。あたしは下町のお店で普通に食べてたけど、母さんが子どものころには駄菓子屋さんで食べるものだったそうだ。下町の駄菓子屋さんには「もんじゃ焼き」を作るコーナーがあって、そこで子どもたちがお小遣いで食べてたそうだ。だけど「もんじゃ焼き」は、とっても美味しいのに1つだけ欠点がある。それは、柔らかすぎるから鉄板の上じゃないと食べられないという点だ。

そこで考え出されたのが、小麦粉をもっと固めに溶いて、焼いてから持ち運びできて、手で持って食べることができる「どんどん焼き」だった。これなら、駄菓子屋さんのようにお店を構えてなくても、屋台でも売ることができる。屋台の鉄板は焼く時に使うだけで、焼き上がった「どんどん焼き」は、お客さんにどんどん渡していくことができる。どんどん売れて、どんどん儲かる。

だから、当時の東京の下町では、「もんじゃ焼き」は駄菓子屋さんに行って食べるもので、「どんどん焼き」は屋台で買って食べるものだったそうだ。池波正太郎さんの『食卓の情景』によると、昭和初期の「どんどん焼き」の屋台では、最初に水溶きした小麦粉だけを鉄板の上に丸く広げて、それからお客が注文した具材を乗せていき、その上にまた水溶き小麦粉をかけて、コテでクルリンパと返して焼く‥‥という方式だったそうだ。池波正太郎さん曰く、「いまのお好み焼きのごとく、何でも彼(か)でもメリケン粉の中へまぜこんで焼きあげる、というような雑把(ざっぱ)なものではない。」とのこと。

鉄板の上に丸く広げた水溶き小麦粉の上に、牛肉や豚肉を乗せ、その上にまた水溶き小麦粉を回しかけ、その上にパン粉を振りかけて焼き上げたものが「カツレツ」、水溶き小麦粉に生タマゴを割り入れて焼き、四角く畳んでソースをかけたものが「オムレツ」、丸く広げた水溶き小麦粉の上に豆餅と漉し餡を並べて、くるくると巻いてから食べやすく切ったものが「お汁粉」という名前で呼ばれてたそうだ。つまり、本物のカツレツの代わりの「どんどん焼きのカツレツ」、本物のオムレツの代わりの「どんどん焼きのオムレツ」ってワケだ。

「カツレツ」は10銭、「お汁粉」は5銭だったそうだけど、当時の池波正太郎少年のお小遣いは「1日5銭」だったので、豆餅だけが入った「豆てん」を3銭で買って食べてたそうだ。他には、キャベツと揚げ玉が入った「キャベツボール」が1銭だったそうだ。こうして見ると、代用品とは言え、「カツレツ」は子どもたちには高嶺の花だったということが分かる。

それでも、池波正太郎少年たちだけでなく、大人たちにも大人気だった「町田」という屋号の屋台は、洋食屋のコックさんがやっていたプロの味の「どんどん焼き」だったから、この屋台の「カツレツ」を食べるために、お小遣いを貯めて食べに行ったと書かれてる。この屋台の「どんどん焼き」は信じられないほど美味しくて、池波正太郎少年は、この屋台のおじさんに弟子入りして、将来は「どんどん焼き屋」になろうとして、お母さんに叱られたそうだ。他にも、仲良くなった別の屋台のおじさんが、ある日、ヤクザに連れていかれて、二度と商売ができないように指を詰められた話とか、いろんな思い出話が綴られている。いろんな食べ物ごとに、思い出話や「うんちく」が満載のこの『食卓の情景』は、ホントに何度読んでも楽しめる。

で、あたしの母さんは、刻んだ長ネギも紅ショウガも、輪切りにした魚肉ソーセージも刻んだキャベツも、ぜんぶ水溶きした小麦粉の中に混ぜてから焼いてたから、池波正太郎さんに見られたら「そんな雑把なものはどんどん焼きじゃない!」って怒られちゃうかもしれない。だけど、チープさで言えば、「お好み焼き」と言うよりも、3銭の「豆てん」や1銭の「キャベツボール」に近いと思う。それに、月末のお金の無い時に、お米の代用として食べてたっていう我が家の背景は、本物のカツレツやオムレツがなかなか食べられない人たちのために「カツレツもどき」や「オムレツもどき」を作ってたという「どんどん焼き」の庶民性に通じてると思う。


‥‥そんなワケで、昭和初期に東京の下町で生まれた「どんどん焼き」は、山形や富山や宮城や岩手に伝わっていき、それぞれに独自の進化を遂げた。山形では立ち食いしやすいように割り箸に巻きつけてあるスタイル。富山では丸く焼いたものを半分に折って半月型にしてお箸でいただくスタイル。宮城(仙台)では富山と同じに半月型に折ったものをクレープのように紙などで包んで手に持って食べるスタイル。岩手では焼き海苔を乗せてソースの代わりにお醤油を使って磯辺焼きみたいにするスタイル。でも、呼び名はどこでも「どんどん焼き」だ。

だけど、発祥の地である東京では、「どんどん焼き」は完全に廃れちゃった。「どんどん焼き」のルーツである「もんじゃ焼き」は、駄菓子屋さんから「もんじゃ焼き専門店」へと出世したり、「お好み焼き&もんじゃ焼き」のお店として生き残ってきたけど、東京で「どんどん焼き」を食べられるお店は、たぶんもう無いと思う。あたしが中学生くらいの時までは、お祭りの屋台の中にタマに「どんどん焼き」を見かけたけど、今は「お好み焼き」ばかりになっちゃった。

それでも、お祭りの屋台の場合は、看板が「どんどん焼き」でも「お好み焼き」でも同じものが出てくる。唯一の違いは、「どんどん焼き」がソースだけなのに対して、「お好み焼き」にはソースとマヨネーズがかけてあるってことくらいだ。だから、東京のお祭りの「お好み焼き」の屋台で「マヨ抜き」を注文すれば、限りなく「どんどん焼き」に近いものが食べられる‥‥って、「それなら、お好み焼きのお店でお好み焼きを注文してマヨ抜きにしてもらえばいいじゃん」て思うかも知れないけど、お店で食べる「お好み焼き」はゴージャス過ぎて、あの「どんどん焼き」の持つ郷愁を帯びたチープさとは正反対なのだ。


‥‥そんなワケで、ここまで書いてきて、ようやく気づいたんだけど、水溶きした小麦粉に、刻んだ長ネギと紅ショウガだけを入れて焼いたものに、ソースとオカカをかけて食べる‥‥なんていう貧乏くさい食べ物なのに、あたしは、どうしてこんなに大好きなのか?どうして母さんが「久しぶりにどんどん焼きでも作ろうか?」って言ったら「わ~い♪」ってなっちゃうのか?それは、「どんどん焼き」のチープな味が、子どものころの郷愁を呼び起こしてくれるからなんだと気づいた。今回、久しぶりに母さんが作ってくれた「どんどん焼き」は、長ネギと紅ショウガだけじゃなくて、チクワの輪切りとキャベツも入ってて、ちょっぴりゴージャスだったけど、味は昔はおんなじで、あたしを子どものころにタイムスリップさせてくれた今日この頃なのだ♪


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