カヴァーという文化
最近、日本の歌手の間で「カヴァーアルバム」をリリースするのが流行ってる。自分以外の歌手やバンドの過去のヒット曲や名曲をセレクトして、熱唱して、1枚のアルバムにしてリリースする。無名の歌手も有名な歌手も、なんかヤタラと「カヴァーアルバム」をリリースするし、それらがそこそこ売れてる。そりゃあ、それなりに歌唱力のあるプロの歌手たちが、多くの人たちに支持されたヒット曲の数々を歌ってんだから、買っても「大ハズレ」になることはないと思うけど、この風潮をあたしは「何だかな~」って思ってる。
たとえば、ニール・ダイヤモンドの「レッド・レッド・ワイン」や、エルヴィス・プレスリーの「好きにならずにいられない」などのバラードの名曲を、UB40がレゲエにアレンジしてカヴァーしたケースなら、明らかに「新しい作品」に仕上がってるし、そこには「UB40のカラー」が満載だから、あたしは、ひとつの音楽の形として「カヴァー」というものを理解することができる。ヴァン・ヘイレンがカヴァーしたキンクスの「ユー・リアリー・ガット・ミー」しかり、原曲に敬意を払いつつも、完全に「新しい作品」として完成されている。当時は、ヴァン・ヘイレンのカヴァーを先に聴き、後からキンクスの存在を知った人も多かったハズだ。
日本で言えば、RCサクセションのアルバム「COVERS」に収録されてる楽曲も、バリー・マクガイアの「明日なき世界」、ボブ・ディランの「風に吹かれて」、エルヴィス・プレスリーの「ラブ・ミー・テンダー」、ローリング・ストーンズの「黒く塗れ!」、アダモの「サン・トワ・マミー」、ジョン・レノンの「イマジン」、どれも完全に「新しい作品」に仕上がってる。エディ・コクランの「サマータイム・ブルース」に至っては、ザ・フーの不動のカヴァーが眼前に立ちはだかってるのに、まったく別の切り口で「新しい作品」に仕上げられてる。このアルバムは「反核・反原発」というテーマがあるから、原曲とは歌詞が大きく変えられてて、ある意味、「替え歌」的な部分もあるけど、原曲の歌詞の世界観もちゃんと大切にしてある。
忌野清志郎さんがタイマーズでカヴァーしたザ・モンキーズの「デイドリーム・ビリーバー」にしても、演奏自体は原曲とそれほど変わらないけど、日本語の歌詞に込められた清志郎さんの思い、そして、独特の歌声で、「新しい作品」として仕上がってる。
「もう今は彼女はどこにもいない 朝はやく目覚ましが鳴っても そういつも 彼女と暮して来たよ ケンカしたり仲直りしたり ずっと夢を見て安心してた 僕はデイドリーム・ビリーバー そんで彼女はクイーン」
一見、別れた恋人のことを歌ってるように感じるけど、これは、清志郎さんがお母さんへの思いを歌ったものだ。清志郎さんのお母さんは、清志郎さんが3歳の時に亡くなってしまい、清志郎さんはお母さんのお姉さん夫婦に育てられた。つまり、清志郎さんには産みの親と育ての親がいたワケだけど、そのクダリを書くと激しく長くなっちゃうので、今回は割愛する。とにかく、このカヴァーは、清志郎さんがお母さんへの思いを歌った曲で、完全に「新しい作品」として昇華してる。
だから、あたしは、原曲とほとんど変わらないアレンジで、ただ単に普通に歌ってるだけの最近の安易な「カヴァーアルバム」の数々が、どうしても「1人カラオケ大会」にしか聴こえないのだ。歌の上手なプロの歌手が1人でカラオケに行き、自分の好きな過去のヒット曲を順番に熱唱して、いい気分になってるだけ、そんなふうにしか感じられない今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、あたしは、シロートがカラオケに行って歌うのとは違って、仮にもプロの歌手やバンドがお金を取ってCDを販売するのであれば、カヴァーだって「新しい作品」であるべきだと思ってる。UB40やヴァン・ヘイレンのように大幅にアレンジを変更したり、忌野清志郎さんのように歌詞の一部を変更したりと、ここまでは冒険しないとしても、一定のオリジナリティーは必要だと思う。それは、カヴァーだって「創作」だからだ。何の工夫もオリジナリティーもなく、他人のヒット曲を歌ってるだけのアルバムは、申し訳ないけど「創作」とは呼べないし、あたしには他人のフンドシで相撲を取ってるようにしか見えない。
だけど、これも、媒体が違ってくると話は違ってくる。たとえば、小説をドラマ化したり映画化する場合、マンガをアニメ化する場合、アニメを実写映画化する場合、これらのケースは、他人のヒット曲を自分がカヴァーする「音楽→音楽」ということではなく、「文章→映像」だったり「二次元→三次元」だったりと媒体そのものが大きく変わる。だから、逆に、できる限り原作に忠実に制作してほしいと思う。原作の小説の中のイメージとはカケ離れたタイプの俳優がドラマの主役を演じてたり、原作には出てこないキャラが登場したり、ストーリーそのものが変えられてたりすると、完全に興ざめしちゃう。
マンガをアニメ化する場合でも、キャラの画風が変わってると馴染めないし、マンガのイメージと違う声優が起用されてるとシラケちゃう。だから、あたしは、マンガやアニメの実写化には基本的に反対だ。これまで、いろいろなマンガやアニメが実写化されて来たけど、感心できた作品はほとんどないし、中には原作を愚弄してるようにしか思えない酷いものもあった。
だいたいからして、現実にはアリエナイザーな世界を描くのがマンガやアニメなんだから、そのマンガやアニメを実写化するという考え自体に最初から無理がある。もちろん、たくさんお金をかけて全編に最新鋭のCGを多用すれば、原作のマンガやアニメに忠実な実写版が作れるかもしれないけど、そしたら実写化の意味がなくなる。
でも、この逆は「アリ」だ。つまり、もともと実写だったドラマや映画などを後からマンガ化したりアニメ化するというカヴァーだ。これなら、まったく無理はない。もともと生身の人間が演じてたのだから、それをマンガやアニメにすることは簡単だと思う。ただし、この場合には、「音楽→音楽」のカヴァーのように、一定のオリジナリティーが必要になってくる。だって、大ヒットした映画を、そっくりそのままアニメにしたところで、何の意味もないからだ。
‥‥そんなワケで、あたしは、日本の娯楽映画の中では「男はつらいよ」と「釣りバカ日誌」が大好きなんだけど、皆さん、ご存知の通り、「釣りバカ日誌」はマンガが原作だ。やまさき十三さんと北見けんいちさんのコンビによる作品で、今も「ビッグコミックオリジナル」で連載を続けてるから、35年も続いてる人気マンガだ。で、この「釣りバカ日誌」の場合は、マンガを原作としてテレビアニメと劇場映画が作られたワケだけど、2002年の秋から約1年、テレビ朝日系列で放送されたアニメは、それなりに原作に忠実だった。キャラの画風はマンガと同じだったし、ストーリーも当初は原作に忠実だった。
でも、対象が「子どもを含んだファミリー」だったので、途中から原作にはないオリジナルストーリーの回が増えて、釣りや仕事よりもハマちゃんの家族を中心に描くようになっていった。それでも、キャラの画風がマンガと同じだということと、ハマちゃん役の山寺宏一さん、スーさん役の大塚周夫さん、みち子さん役の渡辺美佐さんを始めとした声優陣が初回から構築していったイメージがしっかりしていたので、オリジナルストーリーでも違和感はなかった。
一方、実写版の映画シリーズのほうは、原作とは大きく違っていた。ハマちゃん、スーさん、みち子さんを始めとしたメインのキャラや全体の設定は同じでも、ストーリーは完全に映画用に作られたものだった。だから、形としてはマンガが原作だけど、実際には原作を離れて完全に独立した「娯楽映画シリーズ」と言えると思う。さっき、「あたしは、マンガやアニメの実写化には基本的に反対だ。これまで、いろいろなマンガやアニメが実写化されて来たけど、感心できた作品はほとんどない」って書いたけど、映画「釣りバカ日誌」くらい原作を離れて独立していれば、話は別だ。
この「釣りバカ日誌」という作品は、マンガをアニメ化した場合には「できるだけ原作に忠実に」という形だったし、映画化した場合には「新しい作品」として成り立ってたので、マンガもアニメも映画も、あたしはぜんぶ大好きだ‥‥ってなワケで、いよいよ長かった前置きも終わったので本題に入るけど、あたしの大好きなもうひとつの娯楽映画「男はつらいよ」にも、幻のアニメ作品がある。
「男はつらいよ」の寅さんを演じてた‥‥と言うか、寅さんそのものだった渥美清さんは1996年8月4日に68歳で亡くなったけど、その渥美清さんの没後2年の命日に合せて、1998年8月7日、TBS「金曜テレビの星!」で特別に制作された「アニメ 男はつらいよ~寅次郎忘れな草~」が放送された。このアニメは、約10年後にもう一度、テレビ朝日系列でも再放送されてるので、この再放送のほうを観た人もいると思う。
あたしは、これまでに何度か書いて来たけど、「男はつらいよ」の中では、何と言ってもリリーと寅さんが大好きなので、俗に「リリー三部作」と呼ばれてる3作が大好きで、セリフを暗記しちゃうほど何度も観てる。「リリー三部作」とは、寅さんとリリーが初めて出会う11作目の「寅次郎忘れな草」(1973年)、2人が再開する15作目の「寅次郎相合い傘」(1975年)、そして、ついに寅さんがリリーに告白をする25作目の「寅次郎ハイビスカスの花」(1980年)のことで、この3作に、最後の48作目の「寅次郎紅の花」(1995年)と、渥美清さん亡きあとに作られた49作目の「寅次郎ハイビスカスの花 特別篇」(1997年)を加えて連続して観れば、あたしは一晩中、号泣し続けることができる。
で、この「リリー三部作」の最初の作品、寅さんとリリーの出会いを描いた「寅次郎忘れな草」がアニメ化されたワケだけど、これが、映画とはまた別の「良さ」がある秀作なのだ。さっきあたしは「(実写の映画をアニメ化する場合には)一定のオリジナリティーが必要になってくる。だって、大ヒットした映画を、そっくりそのままアニメにしたところで、何の意味もないからだ」って書いたけど、このアニメは、基本的には原作の映画に忠実でありつつも、いろいろな部分でオリジナリティーを発揮してて、それが泣けてくるほど素晴らしいのだ。
これには理由がある。このアニメは、厳密にいうと、映画「男はつらいよ~寅次郎忘れな草~」を原作にしてるんじゃなくて、映画「男はつらいよ~寅次郎忘れな草~」を原作にして描かれた林律雄さんと高井研一郎さんによるマンガ「コミック寅さん」の第6巻「寅次郎忘れな草」を原作にしてるのだ。つまり、マンガにカヴァーされた時点で、いろいろな部分にオリジナルの演出などが加えられてたんだけど、それをアニメ化したってワケだ。
だから、画風は「コミック寅さん」と同じ高井研一郎さんの絵なので、とってもホノボノとしてるんだけど、ここで高ポイントになるのが、寅さんの声も山寺宏一さんがやってるということだ。「釣りバカ日誌」のハマちゃんの声と「男はつらいよ」の寅さんの声を両方とも担当するなんて、これは凄いことだ。さらには、リリーの声をやってる冬馬由美さんがとってもイイ!決して「めっちゃ歌がうまい」とは言えないけど、そこが「三流歌手のリリー」らしくてイイ!
そして、すべてを「コミック寅さん」から持って来たワケじゃなくて、映画「寅次郎忘れな草」も大いに参考にしてるという点も素晴らしい。ストーリーの冒頭で、寅さんがオモチャのピアノを買って来るシーンを始め、初めて「とらや」を訪ねて来たリリーが庭を歩くシーン、二度目の北海道へ向かう寅さんに駅の食堂でさくらがお金を渡すシーンなど、映画とアニメを観比べてみると、画角も小道具も人間の配置も動きもソックリなシーンがたくさん登場する。
それでいて、大きな変更点もある。あたしが何よりも感動したのは、最初のリリーとの出会いのシーンだ。映画では、北海道へ向かう夜汽車の中で、窓の外を見て涙をこぼすリリーに対して、寅さんは声をかけない。翌日、網走神社の前でレコードを叩き売りしてもぜんぜん売れなかった寅さんが橋にもたれてうなだれてると、そこにリリーが通りかかり、「さっぱり売れないじゃないか」って声をかけて来る。これが最初の出会いだ。
寅さんは、「不景気だからな、お互い様じゃねえか?」なんて言いつつ、「何の商売してんだい?」と聞くと、リリーは「私?歌うたってんの」と答える。リリーは売れない三流歌手で、地方のキャバレーとかをドサ回りしてる。この網走にも、ドサ回りでやって来てたのだ。そして2人は、河口の船の見える場所に腰を下ろす。
寅さん 「どうしたい、ゆんべは泣いてたじゃないか?」
リリー 「あらいやだ、見てたの?」
寅さん 「うん、何かつらいことでもあるのかい?」
リリー 「ううん別に‥‥ただ、何となく泣いちゃったの‥‥」
寅さん 「何となく?」
包みからタバコを出すリリー。
リリー 「うん、兄さん、なんかそんなことないかな?夜汽車に乗ってさ、外見てるだろ、そうすっと、何もない真っ暗な畑なんかにひとつポツンと灯りがついてて、ああ、こういうとこにも人が住んでるんだろうなって、そう思ったら、何だか急に悲しくなっちゃって、涙が出そうになる時ってないかい?」
寅さん 「うん」
マッチを擦る寅さん。
寅さん 「こんなちっちゃな灯りが、こう、遠くの方へス~ッと遠ざかって行ってなあ‥‥あの灯りの下は茶の間かな、もう遅いから子どもたちは寝ちまって、父ちゃんと母ちゃんが2人で、しけったセンベイでも食いながら、紡績工場に働きに行った娘のことを話してるんだ、心配して‥‥暗い外見てそんなこと考えてると、汽笛がボ~ッと聞こえてよ、何だかふっと涙が出ちまうなんて、そんなこともあるなあ‥‥分かるよ‥‥」
‥‥これが、映画「寅次郎忘れな草」の中で、あたしが最高に大好きなシーンなんだけど、アニメでは大幅に変更されてるのだ。まず、何が違うって、夜汽車の中で涙をこぼしてるリリーを見かけた寅さんは、ソッコーで声をかけちゃう。例の四角いカバンから缶チューハイを2本取り出して、それを持ってリリーの席まで行き、「よっ!どうだい?一緒に‥‥」なんて言って、ちゃっかり向かい合って座っちゃう。
寅さん 「姉さん、泣いてたようだが‥‥」
リリー 「あら、見てたの?いやだ~」
寅さん 「何か、つらいことでもあるのかい?」
リリー 「別に‥‥ただ何となく泣いちゃったのさ」
寅さん 「何となく?」
リリー 「うん、兄さん、なんかそんなことないかな?夜汽車に乗って外見てるだろ?そうすると何もない畑の中なんかに、ひとつポツンと灯りがついてて、ああ、こんなところにも人が住んでるんだなって、そう思うと何となく悲しくなっちゃって、涙が出そうになる時ってないかい?」
寅さん 「あの灯りの下は茶の間かな、もう遅いから子どもたちは寝ちまって、父ちゃんと母ちゃんが、しけったセンベイでも食いながら、都会に働きに行った娘のことを話してるんだ、心配してな‥‥そんなこと考えてると、汽笛がボ~ッと聞こえてよ、何だか涙が出てちまう‥‥なんてな。分かるよ、姉さんの気持ち‥‥」
‥‥そんなワケで、映画のセリフと比較してみると、寅さんのセリフの「紡績工場」が「都会」に変更されてるくらいで、ほとんど同じだ。つまり、映画では翌日の昼間に網走の海を見ながら話してるシーンが、アニメでは、そっくりそのまま、北海道へ向かう夜汽車の中で行なわれてるのだ。つまり、アニメの寅さんは、映画の寅さんよりも、ひと足早く、リリーと知り合いになったってワケだ。
そして、これが大きな変化へと繋がって行く。映画では、初めて会話をしたのが網走神社の前の橋で、海を見ながら少し話しただけで別れちゃうので、2人が深く知り合うのは、リリーが柴又の「とらや」を訪ねて来てからだ。だけど、網走へ向かう夜汽車の中で、すでにリリーと知り合っちゃったアニメの寅さんは、網走に着いてから商売をして、旅館に泊まり、繁華街をブラブラして、リリーのポスターが貼られてるキャバレーを見つけて中へ入る。ビールを注文した寅さんは、ボーイから「ご指名は?」と聞かれて「女はいい」と断る。ステージの上では踊り子さんが踊ってて、ダンスが終わるとリリーが登場、ピンクのドレス姿のリリーが「ジョニーへの伝言」を歌い出す。
寅さんは拍手をしてリリーの歌を聴いてるんだけど、ステージの前のボックス席の酔っ払ったオヤジがリリーにヤジを飛ばし、そのうち、ステージに上がって歌ってるリリーの胸にタッチしちゃう。怒ったリリーは「ふざけんじゃないよ!このエロじじい!」と怒鳴りつけて、平手でぶっ飛ばす。シーンとした店内に、寅さんの拍手だけが響く。そして、店を出た寅さんをリリーが追って来る。
リリー 「兄さん、付き合ってくれないか?」
寅さん 「飲みにでも行くか?」
りりー 「ううん、心の中までベトベトするような日は、酒なんかじゃダメなのさ」
そう言ってリリーが向かったのは、ナナナナナント!海を臨む町営の露天風呂!もちろん、皆さんのご期待通りに混浴!そして、満天の星空の下、寅さんはリリーと一緒の露天風呂に浸かり、しみじみと話をするんだけど、寅さんはリリーの「横乳」を見てドキドキ!そして、映画では「汽笛がボ~ッと聞こえてよ」の続きとして話している会話が始まる。
リリー 「ねえ、あたしたちの生活って、普通の人とは違うのよね。それも、いいほうへ違うんじゃなくて、何て言うのかなあ、あってもなくてもどうでもいいみたいな‥‥つまり、あぶくみたいなもんだね」
寅さん 「ああ、あぶくだ。それも上等なあぶくじゃなくて、風呂場の中でこいた屁じゃねえけど、背中のほうへ回って‥‥」
‥‥と、ここで、ホントにおならをしちゃった寅さんは、ブクブクと立ち上るあぶくを慌てて手でパタパタと煽いだら、足を滑らせてお湯の中に沈んでしまい、リリーの下半身を至近距離で正面から見てしまい、奇声を上げながらロケットのように夜空へ飛んで行き、ピカリーン!と星になってしまう(笑)
ま、この辺は「マンガならでは」「アニメならでは」の演出なんだけど、寅さんがリリーと一緒に露天風呂に入っただなんて、2人のことが大好きなあたしとしては、こんなに嬉しい演出は他にない。そして、この露天風呂のシーンを織り込むために、映画では海を見ながら話したやりとりが、アニメでは夜汽車の中と露天風呂とに2分割されてるのだ。ホントに良く考えられてると思う。
そして、ここで2人は別れ、寅さんは「労働」をするために牧場へ向かうんだけど、この牧場のシーンでも、映画と同じ画角のシーンがたくさん出てくる。一方、細かい変更点も多くて、たとえば、網走での寅さんの商売は、映画ではレコードを叩き売りしてるけど、アニメでは易学の冊子を売ってる。冒頭の法事のシーンでも、「とらや」の店番をしてる源ちゃんの後ろから忍び寄る寅さんは、映画だと素手で源ちゃんの頭を叩くけど、アニメではお土産の箱で叩く。酔ったリリーが深夜に「とらや」に来て暴れるシーンでは、お酒を飲みたがるリリーに寅さんは、映画だと「白雪」という日本酒を一升瓶で持って来てコップに注ぐけど、アニメでは瓶ビールを注いで飲ませてる。
‥‥そんなワケで、このアニメ「寅次郎忘れな草」で、露天風呂のシーンに次いで映画と大きく違うシーンと言えば、終盤、柴又のお祭りの「のど自慢大会」で特別審査員になったリリーが、中島みゆきさんの「時代」を熱唱することだ。映画の「寅次郎忘れな草」が1973年で、アニメの「寅次郎忘れな草」が25年後の1998年なんだから、四半世紀もの違いということを考えれば、アニメでリリーが中島みゆきさんの歌を歌うことも、寅さんのセリフの「紡績工場」が「都会」に変わったことと同様に、背景的には当然の流れだろう。だけど、そんなことじゃなくて、このアニメの終盤に歌われる「時代」は、さっきも書いたように、決して「めっちゃ歌がうまい」とは言えないけど、冬馬由美さんの‥‥と言うか、リリーという女性のすべてが表現されていて、胸の奥にまでジーンと沁み込んでくる。あたしは、この歌こそが、ホントの意味での「カヴァー」なんじゃないかと思った今日この頃なのだ。
| 固定リンク