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2014.09.29

昭和は遠くなりにけり

今朝、bayfm「POWER BAY MORNING」を聴いてたら、パーソナリティーの斉藤りささんが電話でお天気を聴くウェザーニュースのお姉さんが、いつもの香山智里さんじゃなくて、荒牧京子さんだった。いつもの斉藤りささんと香山智里さんとのやりとりも最高に楽しいけど、タマに他のお姉さんが登場した時も楽しい。斉藤りささん、今日は「荒牧さんて会社でシャケって呼ばれてるの?」って言ってケラケラと笑ってて、やっぱり楽しかった。それにしても、「あらまき」だから「シャケ」って直球すぎる(笑)

で、「シャケ」で思い出したんだけど、あたしがちっちゃかったころ、シャケ缶は贅沢品だった。もちろん今でもメッタに買えない高級品で、缶詰の高級さのランキングで言えば、不動の1位のカニ缶に次ぐ2位だけど、それでも、あたしがちっちゃかったころは、今よりもっと贅沢品だった。今でも、ホントに最高級のカニ缶やシャケ缶は缶切りで開けるタイプだけど、当時はパッカンなんてなかったから、どんな缶詰も缶切りでキコキコと開けてた。

小学校に上がってからか、そのちょっと前かは記憶がサダカじゃないけど、そのくらいの時、あたしは、缶切りの使い方を覚えた。それで、缶切りが使えるようになったからには、缶詰を開けるのはあたしの役目になった‥‥って言うか、あたしが勝手に「缶切り係」を自認してただけなんだけど、母さんが缶詰を開けちゃったりすると、あたしはプンプンと膨れた。

たとえば、お台所から炒め物を作ってる音が聞こえて来て、見に行くと母さんがキャベツとシーチキンの炒め物を作ってる。あたしはハッとして燃えないゴミのゴミ箱を覗く。そこにシーチキンの空き缶を発見!母さんに「なんであたしを呼んでくれなかったの!」って怒ったりもした。缶詰なんて、そうそう頻繁には食べないから、タマに缶詰を食べる時には、あたしに開けさせて欲しい。そう思ってた。

そう言えば、今、これを書いてて思い出したけど、当時はシーチキンも缶切りで開けるタイプの缶詰で、あたしが小学校の高学年くらいの時に、初めてパッカンのシーチキンが登場した。だけど、パッカンのシーチキンは何か特別なやつで、家で買ってたのは缶切りで開けるタイプのだった‥‥なんてのも織り込みつつ、シャケ缶の話に戻るけど、あたしがちっちゃかったころ、夜の11時とかにおトイレに行きたくなって目が覚めると、お台所の電気がついてて、テーブルで父さんと母さんがお酒を飲んでることがあった。

で、おトイレを済ませてから覗きに行くと、父さんと母さんはシャケ缶をおつまみにしてお酒を飲んでる。シャケ缶はお皿に出さずに、缶のまま食べてる。シャケ缶を開けて、そこにお醤油をちょっと垂らして、コショウをちょっと振って、おつまみにするのが父さんは好きだった。あたしは子ども心に「また大人だけでコッソリとシャケ缶を食べてるよ」なんて思いつつ、大好物のシャケ缶の「骨」をねだる。

シャケ缶の「骨」は1つの缶に1つしか入ってないから、(タマに2つ入ってるアタリもあったけど)、先に父さんに食べられてたらもらえない。だけど、まだ飲み始めたばかりで缶詰も開けたばかりなら、高確率でもらうことができた‥‥なんてことを思い出しつつ、あたしが大人になったら、「シャケの骨の缶詰」なんていう夢のようなものが発売された。大人だからお金は持ってる上に、普通のシャケ缶よりも遥かに安いから、あたしは何のためらいもなくソッコーでスーパーのカゴに入れた。

だけど、ワクワクしながら食べてみたら、思ってたほどは美味しくなかった。父さんのように、お醤油を垂らして、コショウを振って食べてみたけど、10点満点で10点だと思ってた味が、7点くらいの感じだった。たぶん、味に違いはないと思うけど、やっぱり、「メッタに食べられないシャケ缶の中に1つしか入ってない」っていうレア感が味覚をアップさせてたみたいで、大量にあってアリガタ味が希薄になると味覚もダウンしちゃうのかもしれないと思った今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、久しぶりに長いマクラを書いちゃったけど、「便利」になる前は「不便」だったワケで、昔の缶詰はホントに「不便」だったらしい。だって、これは有名な話だから知ってる人も多いと思うけど、昔は缶切りがなかったんだよ。今のパッカンとは違って、缶切りがないと開けられないタイプの缶詰なのに、缶切りがないんだよ。どうすりゃいいのよ?(笑)

ザックリと説明すると、世界で初めて缶詰が誕生したのが今から200年以上前の1810年なんだけど、世界で初めて缶切りが誕生したのは、その60年後の1870年なのだ。じゃあ、缶切りが誕生するまでの60年間、人間はどんなふうに缶詰を開けてたのかと言えば、まるでギャグ漫画みたいだけど、ノミとトンカチで開けてたのだ。たぶん、床に座って両足で缶詰をはさんで、左手にノミ、右手にトンカチを持ち、缶切りが缶詰のフチを一周するように、コンコンとノミを打ち進めて行ったんだと思う。

他には、もっと乱暴な方法もあったそうだ。なんかビジュアルが想像できないんだけど、トンカチで直接、缶詰を叩いて破壊して中身を出してたらしい。ビジュアルは想像できないけど、ジョジョの第3部で「運命の車輪」が岩と岩の間にボディーを強引に捻じ込んで追いかけて来た時のポルナレフのセリフ、「たとえるなら!知恵の輪ができなくてカンシャクを起こしたバカな怪力男という感じだぜ」を思い出した(笑)

で、60年間もこんな具合だったから、缶切りの発明は画期的なことだった。それまでは、開ける時に激しく振動するから、シロップやスープなどの液体はこぼれちゃうので入れられなくて、缶詰に入れるのはミンチ状にした肉や魚などの特定の食べ物に限られてたんだけど、缶切りの発明によって、いろんな食べ物の缶詰が開発されるようになった。そして、今日に至る‥‥ってワケだ。だから、この「ノミとトンカチ」から「缶切り」への進化は、「便利」だけでなく、多くの「プラスアルファ」を人類にもたらしたと思う。


‥‥そんなワケで、あたしが子どもの時に「缶切り係」になれたことも、缶切りの発明による「便利」の他の「プラスアルファ」の1つだと思う。「缶切り係」を自認してたあたしは、どんな缶詰でもワクワクしながらも慎重に開けてたけど、当時、何よりも開けるのが難しくて慎重だったのが、輪切りのパイナップルやミカン、白桃などのフルーツの缶詰だった。フルーツの缶詰はシロップがたっぷり入ってるから、左手で缶をしっかりと押さえてないと、グイッと突き刺す最初のとこで、缶がナナメになってシロップがこぼれちゃうからだ。

あ、フルーツの缶詰で思い出したけど、おばあちゃんも母さんもあたしも大好きだったのが、栄太楼の「みつ豆」の缶詰だった。お米屋さんが届けてくれた栄太楼の「みつ豆」の缶詰は、すぐに冷蔵庫に入れて、いつでも食べられるように冷やしておく。そして、いよいよ食べる日が来たら、よく冷えた缶詰を冷蔵庫から出して、まず、缶の底に小さな穴を対角線上に2つ開けて、シロップを捨てる。小さな穴は、1つずつだとシロップを捨てるのに時間が掛かっちゃうから、片側には3つか4つくらい開ける。

シロップを捨てたら、今度は小さな穴をつないで行くように缶切りでぜんぶ開けて、中の寒天や豆やフルーツをガラスの器に移す。そして最後に、反対側を開けて黒蜜をかけて、「は~い栄太楼です~♪」っていうテレビCMのジングルを歌いながらテーブルに置く。もう、ここまで来ると、缶詰を開ける作業も、家族の楽しい一種のイベントだったりする(笑)


‥‥そんなワケで、楽しい思い出のある栄太楼の「みつ豆」の缶詰も、今ではもちろん便利なパッカンになっちゃった。「ノミとトンカチ」から「缶切り」への進化は人類に多くのものをもたらしたけど、この「缶切り」から「パッカン」への進化はどうなんだろう?あたしは、「便利」になったぶん、逆に何か大切なものを失ってしまったような気がする。おばあちゃんと母さんと3人でワイワイ楽しく栄太楼の「みつ豆」の缶詰を開けてた昔を思い出すと、あたしは、中村草田男(くさたお)の「降る雪や明治は遠くなりにけり」という俳句のパロディーで、「蜜豆や昭和は遠くなりにけり」なんて詠みたくなっちゃう気分の今日この頃なのだ‥‥。


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