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2014.09.08

桃色は幸せの色♪

「桃色」と言えば、今どきは「ももいろクローバーZ」なんだろうけど、あたしが子どものころは、「桃色」と言えば「桃色でんぶ」だった。こうして久しぶりに文字にすると、ナニゲに「桃色臀部」って感じで、エッチなお姉さんのお尻を想像しちゃうけど、これは橋本治さんの『桃尻娘』のイメージによるものだと思う。あたしが言ってる「でんぶ」は、食べ物の「でんぶ」、ご飯に乗せて食べるピンク色のやつだ。

正式には「桜でんぶ」って言うんだけど、あたしの家では「桃色でんぶ」って言ってた。最近はメッタに見かけなくなったけど、あたしが子どものころは、いつも家に「桃色でんぶ」があった。小型のタッパーに入れてあって、ご飯の時に冷蔵庫から出してくる。キュウリやナスの糠漬けは、ご飯の時に糠味噌から出して洗って刻んで器に盛り付けるけど、買ってきた東京タクアンや壺漬けや柴漬けなんかは小型のタッパーに入れてある。あと、昆布やシジミの佃煮とか、塩昆布なんかも小型のタッパーに入れてあった。

そして、ご飯の時間になると、冷蔵庫から小型のタッパーをいくつも出してきて、フタを開けてテーブルの真ん中に並べるのがあたしの役目だった。今、思い出したけど、亡くなったおばあちゃんは、まっ黄色の東京タクアンを薄く切って、それを重ねて細い千切りにして、そこに金ゴマをふりかけて混ぜたのが大好きだった。だから、それが入ってる小型のタッパーは、いつもおばあちゃんの席の前に置くようにしてた。

そんなこんなで、あたしが子どものころは、メインのおかずがなくても、ご飯を炊いてお味噌汁を作るだけで、これらのタッパーを並べれば食事ができた。もちろん、母さんもおばあちゃんもいろんな美味しいおかずを作ってくれたけど、美味しいおかずがあっても、あたしはご飯に「桃色でんぶ」を乗せるのが好きだった。だから、幼稚園の時の遠足や運動会、小学校に上がってからも、母さんが作ってくれるお弁当には、必ずご飯の一部に「桃色でんぶ」が乗せてあった‥‥って、ここまで引っぱっちゃったけど、「桃色でんぶ」の「でんぶ」は、お尻の「臀部」じゃくて、漢字だと「田麩」って書く今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、「田麩」の「麩」は「お麩」の「麩」だけど、「お麩」とは関係ないと思う。「お麩」は小麦のグルテンで作るものだけど、「田麩」の原料は白身のお魚だ。東京のおでんの具の中で、あたしが一番好きな「ちくわぶ」の場合は、漢字で「竹輪麩」と書くけど、これは小麦粉を練って作るので、「竹輪の形をしたお麩」と理解することができる。でも、「田麩」の場合は、どう考えても「お麩」の一種とは思えない。

たとえば、世界三大珍味にも数えられる「キャビア」、あれはチョウザメの卵だから動物性の食べ物だ。それに対して、単に見た目が似てるというだけで、ホウキ草の実で作る「とんぶり」のことを「畑のキャビア」と呼んでるけど、これは「アリ」だ。だから、普通の「お麩」がお魚とかを原料にしてる動物性の食べ物だったとして、それ対して「でんぶ」が植物性の食べ物だったとすれば、これなら「畑のキャビア」と同じに「田のお麩」という意味で「田麩」と表記しても意味が通じる。

だけど、実際は逆だ。お魚を原料にして作った食べ物に「田」の文字を当てるのはおかしい‥‥ってなワケで、あたしは、何で「でんぶ」と名づけられたのか?何で「田麩」と書くのか?いろいろと調べてみた。そしたら、こういうのって必ず「諸説ある」って結果になるけど、やっぱり、良い意味のと悪い意味のと、正反対な感じの説が見つかった。

まず、良い意味のほうから紹介すると、古来から日本では秋の豊作を祈念するいろんな神事が行なわれてきたんだけど、その中に「田植えの時に舞いを踊る」というのがあって、これを「田舞(たまい/でんぶ)」と呼んでいた。で、この神事の時に振る舞う料理に使う色鮮やかなモノのことを「でんぶ」と呼ぶようになった。でも、「田舞」と書くと神事そのものとゴッチャになっちゃうので、食べ物であることが分かるように「舞」を「麩」に変えた‥‥っていう説。

そして、悪い意味のほうは、「田夫野人(でんぷやじん)」という四字熟語があるように、古来は人をバカにする表現として「田夫」と「野人」が使われてた。「田夫」とは農夫のことで、「野人」とは庶民のことなんだけど、相手がホントの農夫じゃなくても、ホントの庶民じゃなくても、「この田舎者!」みたいな感じで使われてた。田舎くさくてダサい人、教養がなくて礼儀を知らない粗野な人、そんな意味だ。で、せっかくのお魚の身をボロボロにほぐして作った食べ物なんて田舎くさくて野暮ったいってことで、「田夫」の「夫」を「麩」に変えて「田麩」と呼ぶようになった‥‥っていう説。

う~ん、あたし的には、やっばり前者だなあ。だって、「田麩」の作り方を調べてみたら、ものすごく手間の掛かる工程で、大半が機械化された現代でも大変なのに、これをすべて手作業でやってた時代に、まさか「田舎くさくて野暮ったい食べ物」だなんて言うワケないもん。

ザックリと説明すると、まず、タイとかタラとかイシモチとかヒラメとかの白身のお魚を三枚におろして、コトコトと煮るかセイロで蒸す。それから、身の小骨や皮を丁寧に取って完全に身だけにして、それを圧搾して水分を絞る。その身を細かくほぐして、擂鉢で擂ってから、今度は残ってる水分を飛ばすために焙煎する。ようするに、フライパンみたいなもので乾煎りするワケで、これも付きっきりで木ベラとかで混ぜ続けてないと焦げちゃうから大変だ。

そして、ようやくパラパラの身になったら、次は味付けだ。お魚の身の量に対して、約7%のお砂糖、約1%のお塩、あとはミリンや日本酒やお醤油などの調味料を加えて、茹で汁を少し加えて、食紅で色を付けて、また水分がなくなるまで炒っていく‥‥ってワケで、これを読んで、スーパーでお魚を買ってきて自分で作ってみようって思った人いる?いないよね(笑)


‥‥そんなワケで、これほど手間の掛かる上に、見た目はきれいな桃色なんだから、まさに「特別な時の食べ物」であり「おめでたい席にこそピッタリの食べ物」だと思う。いつも冷蔵庫のタッパーに入ってて、食べたい時にはいつでもご飯に乗せることができた子どものころのあたしだけど、それでも、運動会や遠足の時、お弁当をひらいて「桃色でんぶ」の色がなかったら、きっとガッカリしてたと思う。

「桃色でんぶ」の色には、食べる人をおめでたい気分、幸せな気分にしてくれる力があるんだと思う‥‥って言ったのもトコノマ、せっかくこれだけ持ち上げてきたのに、ここでものすごく悲しいお知らせをしなきゃならない。それは、江戸時代の寛文年間の終わりから延宝年間の始めにかけて、1670年~1674年ころに書かれた『古今料理集』の中に、次のような記述があったのだ。


「田夫は、色々を鍋に入れて、酒をひたひたにさして、甘味の付程にとっくと煮て、この汁をよくしため、(中略)汁のなきやうに煎付て用いること也」


のあーーー!ハッキリと「田夫」って書いてあるじゃん!‥‥ってワケで、これが農夫のことだったら仕方ないけど、それでも、せめて「田舎くさくて野暮ったい食べ物」って意味じゃなくて、「お米や野菜を作ってくれる農夫のような素晴らしい食べ物」って意味であってほしい。「田麩」の語源が「田夫」で、それが「田舎くさくて野暮ったい食べ物」なんて意味だったとしたら、いっそのこと「臀部」に表記を変えてもらいたい。こっちのほうが「形と色がセクシーなお尻」って感じで、まだマシだ。


‥‥そんなワケで、ネーミングの語源はどうであれ、きれいで可愛い「桃色でんぶ」のおかげで、あたしは幸せな子ども時代を送ることができた。3月3日の「雛祭り」に、母さんやおばあちゃんが作ってくれたちらし寿司にも、必ず「桃色でんぶ」が散らしてあった。錦糸卵の黄色と、さやいんげんの緑色は、「桃色でんぶ」のピンク色があってこそ際立つのだ。華やかで、温かくて、食べる人にハピネスをチャージしてくれるプリキュアみたいな食べ物、それが「桃色でんぶ」なのだ♪


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