古富士山から新富士山へ/中編
約400万年~600万年前に琵琶湖が誕生し、約200万年前に大きな火山島が本州にぶつかって伊豆半島が誕生し、約10万年前に今の富士山の前身の古富士山が誕生したワケだけど、この古富士山が約4000年の眠りから目を覚まして噴火をしたのが今から約5000年前で、ここから今日に至る活動期を「新富士火山」と呼ぶ‥‥ってなワケで、あれほど長かった前編も要点をマトメれば5行で済んじゃう今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、マクラは短くしてトットと本題を始めちゃうけど、前回の古富士火山で「富士二湖」は「富士三湖」になり、富士山の北のふもとに西から大きな「石花湖(せのうみ)」と中ぐらいの「河口湖」、東のふもとに「山中湖」っていう配置だった。この中の一番大きな「石花湖」が、新富士火山の新たな溶岩流によって分断されて、西側の小さなほうが今の「本栖湖」になった。
この時点では、大きいほうは、まだ「石花湖」なので、北のふもとに、西から「本栖湖」「石花湖」「河口湖」と並んでる形で、東の「山中湖」を入れて「富士四湖」になったワケだ。そして、また何度も噴火を繰り返しながら時は流れ、急に最近になっちゃうけど、平安時代の貞観(じょうがん)6年(864年)に起こった「貞観大噴火」で、大量の溶岩流が「石花湖」を分断、これで「西湖」と「精進湖」ができて、ようやく「富士五湖」ができあがったのだ。
それにしても、何百万年も前から話を始めたから、つい、平安時代を「最近」なんて言っちゃったよ(笑)‥‥ってなワケで、富士山のことだけ書いて来たから「人間」のことがぜんぜん見えなかったと思うけど、この「富士五湖」ができあがった平安時代には、当然、人間は住んでるし、ちゃんと言葉も話してるし、ちゃんと服も着てるし、ちゃんと家に住んでるし、ちゃんと文化的な生活を送ってた。そして、何よりもワンダホーなのは、平安時代には「文字」があったってことだ。だから、こうして、1000年以上も後のあたしたちでも、当時の文献などから富士山が噴火した時の詳しい様子を知ることができるのだ。
でも、小御岳(こみたけ)山や愛鷹(あしたか)山の間から新たな噴火が始まって古富士山が誕生した約10万年前には、日本に人間はいなかった‥‥って言うか、いたのかいなかったのか分からない。日本の人間の歴史は、一般的には約4万年前からと言われてて、当時、まだユーラシア大陸と地続きだった日本に渡って来たホモ・サピエンスが、今のあたしたちの先祖の人たち、つまり、新石器時代や縄文時代を作った人たちだ。
一方、日本の最も古い遺跡は、岩手県遠野市の「金取(かねどり)遺跡」で、約8万年~9万年前だと言われてる。また、2009年に石器が発見された島根県出雲市の「砂原(すなばら)遺跡」は、約11~12万年前だと言われてる。こちらは、カンジンの石器がホントに人間の作ったものかどうかハッキリしてないので、現時点では研究中で、まだ「日本最古」の認定はされてないけど、これらの遺跡が本物だったとしたら、ここで生活してたのは、あたしたち現代人の先祖であるホモ・サピエンスじゃなくて、年代的にホモ・エレクトゥスってことになる。
あたしが中学校で習った時には、人類の進化は「猿人→原人→旧人→新人」と教えられたけど、今はこの区分けは使ってないそうだ。でも、この区分けで言えば、縄文人もあたしたち現代人も同じ「新人」になる。そして、ホモ・エレクトゥスは、北京原人と同じジャンルの「原人」になる。ネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシス)などの「旧人」は日本には到達してないから、「新人」が誕生するよりも古い時代に日本にいたのなら「原人」ということになる。つまり、「金取遺跡」や「砂原遺跡」が本物だったとしたら、そこで暮らしてたのは、あたしたちの先祖じゃなくて、まったく別の先住民族だったことになる。
‥‥そんなワケで、もしも約10万年前の日本で古富士山の誕生を見てた人間がいたとしても、それはホモ・エレクトゥスっていう原人だから、あたしたちホモ・サピエンスの先祖じゃない‥‥ってなワケで、大陸から人類が日本に渡って来た時から約1万6000年前までが「旧石器時代」、紀元前で言えば紀元前1万4000年になる。ちなみに、紀元前を「BC」、紀元後を「AD」って書くけど、「BC」は「Before Christ」の略なので「キリストが生まれる前」って意味で、「AD」は「Anno Domini(アンノ・ドミニ)」の略で、ラテン語で「主の年」、つまり「キリストの年」って意味だ。
で、「旧石器時代」の次は、紀元前1万4000年ころから紀元前300年ころまでが縄文時代、紀元前300年ころから紀元後250年ころまでが弥生時代、250年ころから600年末ころまでが古墳時代、592年から710年までが飛鳥時代、710年から794年までが奈良時代、794年から1185年までが平安時代‥‥って書いてくると、「鳴くよウグイス平安京」とか思い出しちゃうよね♪
ついでに書いとくと、平安時代の次の鎌倉時代は、あたしの時は「1192年」を「いい国つくろう鎌倉幕府」って覚えさせられたんだよね。それが、大人になったら「1185年」に変更になっちゃったから、わざわざ「いい箱つくろう鎌倉幕府」って覚えなおした。そして、もしも今後、「1184年」に変更されたら「いい箸つかおう」、「1186年」に変更されたら「いいハム食べよう」、「1187年」に変更されたら「いい花さかそう」って、いろんなケースに対応できるように準備してるあたしって‥‥って、いかん!いかん!またダッフンしはじめちゃった!(笑)
‥‥そんなワケで、平安時代と言えば、「平安」という名称からして平和そうに感じるけど、これは後から勝手につけられた名称で、当時の人たちは「今は平安時代だ」なんて思ってなかった。そして、ようやくここで話がクルリンパと戻るけど、一見、平和そうに感じる平安時代に、実は富士山がヤタラと噴火してるのだ。今から約5000年前に目覚めた新富士火山は、紀元前にも縄文時代にも弥生時代にも何度も噴火してきたけど、きちんと記録に残っているものだけで言えば、奈良時代の終わりの781年に噴火してから、現在までに16回噴火してて、そのうちの10回が平安時代に集中してるのだ。
平安時代に富士山が噴火した年は、延暦19年(800年)、天長3年(826年)、貞観6年(864年)、貞観12年(870年)、承平2年(932年)、承平7年(937年)、長保元年(999年)、寛仁元年(1017年)、長元6年(1033年)、永保3年(1083年)の10回なので、人によっては一生に3回くらい富士山の噴火を見た人もいたハズだ。
その上、この中の延暦19年と貞観6年の噴火は、江戸時代の宝永4年(1707年)の噴火とともに「三大噴火」と呼ばれてるものだ。記録されてる16回の噴火のうち、10回が平安時代に集中してるだけじゃなくて、そのうちの2回は「三大噴火」なんだから、これは大変なことだ‥‥ってなワケで、これらの噴火がどのくらいの規模だったのかは、当時の記録から知ることができる。たとえば、延暦19年の「延暦大噴火」の様子なら、平安時代末に成立した歴史書『日本紀略』の中に、駿河国司が6月6日付で朝廷に報告した内容が記されてる。
「自去三月十四日迄四月十八日、富士山嶺自焼、昼則烟気暗瞑、夜則火花照天、其声若雷、灰下如雨、山下川水皆紅色也」
「3月14日から4月18日まで、富士山が噴火を続けた。昼は噴煙が空を覆って辺りを暗くし、夜は噴き上げる火が天を明るく照らした。その音は雷のように轟き、火山灰は雨のように降り注いだ。山のふもとの川は(溶岩が流れ込んで)真っ赤に染まった」
この1ヶ月以上も続いた噴火は、あくまでも「最初の噴火」であって、この後も断続的に噴火が続いたようだ。それは、同じく『日本紀略』に、次のような記述があることから分かる。
「延暦廿一年正月八日乙丑、駿河相模国言、駿河国富士山、昼夜恒燎、砂礫如霰者、求之卜筮、占曰、于疫、宜令両国加鎮謝、及読経以攘災殃」
最初の噴火は「灰下如雨」、つまり、「雨のごとく灰が降って来た」だったけど、この延暦21年の正月8日付(802年2月13日)で、駿河国と相模国の国司から朝廷に報告された噴火は、「砂礫如霰」、「霰(あられ)のごとく砂礫(されき)が降って来た」となってる。そして、こんなに地震が続くのは、占いによると疫病が流行する前兆だとして、両国に対して鎮祭と読経を命じてる。当時でも、こうした災害に対する対応は迅速に行なわれていたから、この記述から推測すると、延暦20年の年末あたりに大きな噴火があったと思われる。また、次のような記述もある。
「延暦廿一年五月甲戊、廃相模国足柄路、開筥荷途、以富士焼砕石塞道也」
「延暦21年5月19日(802年6月22日)、富士山の噴火による焼砕石によって東海道の足柄路が塞がれてしまったため、この道を廃止にして、新たに箱根路を開いた」
ここまでに噴火の報告はないから、これは、先ほどの報告と同じ延暦20年の年末の噴火による被害で、約半年をかけて迂回ルートを造った、と理解することができる。また、この「焼砕石」は、文字通りに「焼けて砕けた噴石」が降り積もったものなのか、溶岩流のことなのかは分からないけど、どちらにしても火山灰や砂礫などの細かいものではないことは確かだ。また、「筥荷(はこね)途」が「路」じゃなくて「途」なのは、これが応急のものだという意味だ。その証拠に、翌年には元の足柄路が復旧して、こちらの箱根路は廃止になってる。
‥‥そんなワケで、平安時代に起こったもう1つの「三大噴火」、貞観6年(864年)のほうだけど、こっちは最初に書いたように、大量の溶岩流が「石花湖」を分断して「西湖」と「精進湖」を誕生させて「富士五湖」を作った「貞観大噴火」だ。湖の形を変えちゃうくらいだから、「三大噴火」の中で最も大きな噴火、つまり、記録に残ってる中で最大のものだと言われてる。
この「貞観大噴火」は、最初に噴火した日時の記述はなくて、さっきの延暦21年の報告書のように、噴火後にマトメられた報告書しか残ってない。でも、日時が分かる別の年の富士山の噴火では、噴火が起こってから50日後くらいの日付で報告書が出されてるので、それらの例にならえば、「貞観大噴火」は、駿河国司から出された報告書の日付が貞観6年5月25日(864年7月2日)なので、噴火が起こったのは約50日前の4月初頭(864年5月中旬)ということになる。当時の歴史書『日本三代実録』に記されてるの駿河国司の報告書には、次のように書かれてる。
「貞観六年五月廿五日庚戌、駿河国言、富士郡正三位浅間大神大山火、其勢甚熾、焼山方一二許里。光炎高二十許丈、大有声如雷、地震三度。歴十余日、火猶不滅。焦岩崩嶺、沙石如雨、煙雲鬱蒸、人不得近。大山西北、有本栖水海、所焼岩石、流埋海中、遠三十許里、広三四許里、高二三許丈。火焔遂属甲斐国堺」
「貞観6年5月25日付の駿河国司の報告によると、富士郡の正三位浅間大神大山が噴火した。その勢いは甚だ激しく、1~2里四方(約0.4~1.7平方km)の山を焼き尽くした。炎は20丈(約60m)の高さにまで及び、雷のような大音響が轟き、大地震が3回起こった。10日以上が過ぎても火の勢いは衰えない。岩を焦がし峰を崩し、砂や石が雨のように降り続けた。煙や雲が鬱々と立ち込めて、人は近づくことができない。西北のふもとの本栖湖へ溶岩流が流れ込んだ。溶岩流は長さが約30里(約16km)、幅が3~4里(約1.6~2.2km)、高さが2~3丈(約6~9m)に及んだ。溶岩流は遠く甲斐国との境にまで達した」
ちなみに、現在は「1里=約3.9km」と言われてるけど、当時は大宝1年(701年)に制定された「大宝律令」で「1里=5町=300歩」と決められていたので、メートルに換算すると「1里=約533m」となるので、こちらで計算した。で、この報告書には、溶岩流は「本栖湖」に流れ込んだとしか書かれてないけど、約2ヶ月後の7月17日(8月22日)に出された甲斐国司の報告書によると、「石花湖(せのうみ)」にも流れ込んだと書かれてる。
「貞観六年七月十七日辛丑、甲斐国言、駿河国富士大山、忽有暴火、焼砕崗嶺、草木焦殺。土鑠石流、埋八代郡本栖并■両水海。水熱如湯、魚亀皆死。百姓居宅、与海共埋、或有宅無人、其数難記。両海以東、亦有水海、名曰河口海、火焔赴向河口海、本栖、■等海。未焼埋之前、地大震動、雷電暴雨、雲霧晦冥、山野難弁、然後有此災異焉」
■の部分は、「浅」の右側の部分の旧漢字に「利」の右側の部分を合せた字で、これが「せのうみ」のこと。「埋八代郡本栖并■両水海」は「八代郡の本栖と■の両方の湖を埋めてしまった」って意味だ。でも、この漢字は変換できないから貼り付けて使うしかなくて、そうすると閲覧する端末によってはバグッちゃうので、ここでは■に置き換えた。そして、「せのうみ」は「石花湖」という別表記もあるので、本文ではこちらを使った‥‥ってなワケで、全文の意味は次のようになる。
「貞観6年7月17日付の甲斐国司の報告によると、駿河国の富士山が大噴火した。岩肌や峰を焼き砕き、草木を焦がして殺した。土や石が溶けて流れ、八代郡の本栖湖と石花湖を埋めた。湖の水は熱湯になり、魚や亀などの生き物は全滅してしまった。農家は湖と共に埋まり、残った家に人影は無く、こうした例は数が多すぎて数え上げることができない。2つの湖の東に河口湖という名前の湖があり、火はこの方向へも向かった。この一帯が焼けて埋まる前に大地震があり、雷と豪雨があり、雲や霧が立ち込めて暗闇に包まれて、山と野の区別がつかなくなった。その後に、このような災厄が訪れた」
駿河国司の報告書が5月25日付だったのに対して、甲斐国司の報告書が2ヶ月近くも後の7月17日付になったのは、この内容を読めば理解できるだろう。埋まらずに残った家に「人影は無く」と書かれてるので、多くの人は逃げることができたと信じたいけど、たぶん、相当数の犠牲者が出たと思う。甲斐国の被害は駿河国よりも遥かに甚大だったから、甲斐国司は、すぐには報告書など出せなかったのだ。そして、大量の溶岩によって広範囲に焼き尽くされた富士山の裾野は、長い年月をかけて現在の青木ヶ原樹海となり、「富士山原始林」として国の天然記念物に指定されてたってワケだ。
‥‥そんなワケで、平安時代の前の奈良時代にも富士山は噴火してるけど、『万葉集』に収められてる奈良時代に詠まれた和歌の中には、富士山の噴煙を詠んだものも多い。こうしたことから、奈良時代には、噴火のない時にも富士山の火口から頻繁に噴煙が立ち上ってたことが推測できる。そして、そうであるのなら、活動が最も活発になった平安時代には、2回の大噴火を含む10回の噴火だけでなく、山が静かな時でも、常に噴煙がモクモクと出続けていたと思われる。それなのに、平安時代の終わりの永保3年(1083年)の噴火を最後に、富士山はお昼寝を始めちゃった。次の鎌倉時代から南北朝時代、そして次の室町時代にかけて、300年以上も一度も噴火しなかったのだ‥‥ってなワケで、またまた長くなっちゃったので、今回のは「中編」にさせてもらって、またまた「To Be Continued」って感じの今日この頃なのだ♪
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