古富士山から新富士山へ/後編
さて、いよいよ「後編」のスタートだけど、奈良時代の終わりから平安時代の終わりにかけて、約400年の間に10回以上も噴火を繰り返した富士山は、平安時代の終わりの永保3年(1083年)の噴火を最後に、お昼寝を始めちゃった。次の鎌倉時代から南北朝時代を経て室町時代の末期にかけて、300年以上も一度も噴火しなかったのだ。『太平記』によると、鎌倉時代の元弘元年(1331年)に富士山の山頂が崩落してるけど、これは噴火じゃなくて地震が原因のようだし、『続古今集』や『李花集』などには、南北朝時代(1340~1346年)に富士山の火口から噴煙が上がったことが分かる和歌も見られるけど、噴火は見られない。
で、富士山がお昼寝から目覚めて、久しぶりに噴火したのが、室町時代の終わりの永正8年(1511年)だ。『妙法寺旧記』に「窯岩燃ゆ」と記されているので、溶岩が噴出したと思われる。そして、永禄3年(1560年)、今度は富士山の山頂の火口じゃなくて、「貞観(じょうがん)大噴火」のように斜面の側火山から噴火したようだ。室町時代は、この他に噴煙は何度も立ち上ってるんだけど、記録に残ってる噴火は、この2回だけだ。そして、次の安土桃山時代には1回も噴火していない‥‥って言っても、安土桃山時代は1573年から1603年まで、わずか30年間しかない今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、安土桃山時代が終わった1603年からは、徳川の時代、江戸時代が始まったワケだけど、このころになると、富士山からは噴煙もメッタに立ち上らなくなった。だから、当時の浮世絵の富士山も、噴煙が描かれているものはないし、噴煙が立ち上ると、珍しいことだとして記録された。『日本災異誌』によると、江戸時代に入って約100年、元禄13年(1700年)に噴煙が立ち上ったと記されてる。
そして、その7年後の宝永4年(1707年)、ついに大噴火が起こる。これが、富士山の「三大噴火」の最後の1つ、「宝永大噴火」だ。もう江戸時代なので、詳細な記録も残ってて、発生した日時も、宝永4年11月23日午前10時(1707年12月16日午前10時)と、時間まで分かる‥‥ってなワケで、この「宝永大噴火」を引き起こした原因と考えられてるのが、この噴火の49日前、10月4日(10月28日)に発生した「宝永地震」だ。
遠州沖が震源の東海地震と、紀伊半島沖が震源の南海地震が同時に発生、つまり、南海トラフの連動型地震が発生して、マグニチュードは推定8.7という巨大地震になった。東海地方から四国にかけて、地震と津波によって10万戸近い家屋が失われ、2万人以上の人々が犠牲になった。そして、この巨大地震の翌日、今度は現在の富士宮市を震源とする大地震が起こり、約1ヶ月後の11月10日(12月3日)から、富士山全体がゴゴゴゴゴゴ‥‥と、ジョジョに奇妙な山鳴りを始めた。
小さな地震が2週間ほど続いた後、11月22日(12月15日)の夜から翌日の朝にかけて大きな地震が数十回も起こり、11月23日(12月16日)の午前10時ころから、富士山の南東側の斜面から白い噴煙が立ち上り始めた。噴煙はどんどん大きくなって行き、ドカーン!と大噴火。溶岩の噴出しないタイプの噴火だったけど、それでも、広範囲に焼けた噴石が降り注ぎ、多くの農家や田畑が焼き尽くされてしまった。
噴火が始まってから15日目の12月8日(12月31日)の夜、噴火が激しくなり、深夜に最後の大噴火をして、翌12月9日(1708年1月1日)、ようやく収まった。2週間も続いた噴火によって、現在の御殿場周辺は3mの高さまで噴石が積もり、100kmも離れた江戸にも3~5cmほど火山灰が降り積もったという。当時、江戸に住んでいた学者で政治家の新井白石(はくせき)は、随筆集『折りたく柴の記』(おりたくしばのき)の中に、次のように記している。
「よべ地震ひ、この日の午時雷(いかづち)の声す、家を出るに及びて、雪のふり下るごとくなるをよく見るに、白灰の下れる也。西南の方を望むに、黒き雲起こりて、雷の光しきりにす。西城に参りつきしに及びては、白灰地を埋みて、草木もまた皆白くなりぬ。(中略)やがて御前に参るに、天甚だ暗かりければ、燭(しょく)を挙て講に侍る」
「ゆうべは地震が起こり、この日の昼前には雷鳴が轟き、家を出ると雪が降って来たが、よく見ると白い灰だった。西南のほうから雷をともなって黒い雲が迫って来た。城へ向かうと、地面を白い灰が埋めていて、草や木も白くなっていた。(中略)藩主のもとに行ったが、あまりにも暗いのでロウソクの火を灯して講義を行なった」
当時、新井白石は、甲府藩主綱豊(後の六代将軍家宣)に仕えていて、綱豊に学問を教えていたので、ザックリ言えば、お城へ家庭教師に行ったってワケだ。で、昼間なのに真っ暗になっちゃったので、ローソクの火を灯して講義を行なったってワケだ。だけど、この時点では、江戸の人たちは誰1人、富士山が噴火したなんて知らなかった。江戸の人たちに富士山の噴火の報せが届いたのは、この2日後なのだ。
「廿五日に、また天暗くして、雷の震するがごとくなる声し、夜に入りぬれば、灰また下る事甚だし。『此日富士山に火出て焼ぬるによれり』といふ事は聞えたりき。これよりのち、黒灰下る事やまずして、十二月の初に及び、九日の夜に至て雪降りぬ。」
25日というのは、11月23日(12月16日)に噴火してから2日後だ。ここで初めて「富士山が噴火した」という報告があったと書かれてる。そして、新井白石は、当初は白い灰が降り積もり、その後、黒い灰に変わったと記してるけど、実際に富士山の周辺で「宝永大噴火」の堆積物を調べると、下に白い火山灰や軽石の層があり、その上にスコリアと呼ばれる黒い噴石の層があり、この記述が正確だったことが分かる。
江戸では、断続的に10日前後も火山灰が降り続けたという。時には黒い砂が大量に降りしきって、屋根に当たる音が土砂降りの雨のようだったという。江戸中に大量の火山灰が降り積もったため、噴火が収まってからも、風が吹くたびに火山灰が舞い上がり、江戸の人たちは長いこと目の痛みと咳に苦しんだと記されている。もしかしたら、この時に「風が吹けば桶屋が儲かる」というコトワザが生まれたのかもしれない。
‥‥そんなワケで、100kmも離れた江戸でもこんな状況だったから、富士山の周辺は大変だった。最初に書いたように、この噴火は富士山の南東側の斜面からのものだったため、富士山の南東の山麓に点在していた村々には大量の噴石が降り続いた。特に、噴火口に最も近かった須走村には、直径が50cmもある噴石が降り続いた。75戸のうち37戸は噴石の直撃を受けて全焼してしまい、残った家もすべて倒壊してしまった。大量の噴石、砂礫、火山灰が広範囲に降り積もり、草木はすべて焼き尽くされてしまい、川はすべて埋まってしまった。
周辺の村人たちは必死に避難したんだけど、噴火が収まってから自分の村に戻って来ると、家も田畑もすべてのものが1~3mの砂礫と火山灰に埋まっていた。この噴火で50もの村が埋没してしまったという。飢餓に直面した村々に対して、当時の小田原藩は米を配布したけど、まったく足りなくて、大量の砂礫と火山灰を取り除く作業も、村人たちだけでは厳しくて、多くの村人が餓死してしまった。
ここで、ようやく幕府が重い腰を上げたんだけど、資金難からなかなか復興は進まない。そうこうしてるうちに、春になって降り続いた大雨で砂礫が少しずつ酒匂川を流れて行き、川の傾斜が緩くなった足柄平野で川底に溜まり始めた。大量の砂礫は酒匂川のあちこちに天然のダムを作ってしまい、宝永5年6月21日(1708年8月7日)から翌日にかけて降り続いた豪雨が大洪水を起こしてしまった。足柄平野は小田原藩の重要な穀倉地帯だったので、洪水対策として丈夫な堤が造られていたんだけど、川底に堆積した砂礫によって川が浅くなっていたため、堤が決壊してしまったのだ。この大洪水で、足柄平野の水田地帯は大きな被害を受け、数えきれないほどの米農家が家と田んぼを失った。
「宝永大噴火」は、こうした二次災害も引き起こしたため、特に被害が大きかった武蔵国、相模国、駿河国の三国が元通りに復旧したのは、噴火から約80年後、1790年ころだったと言われてる。さらには、ようやく被災地が復興し始めた天明3年(1783年)、今度は浅間山が大噴火、こちらの噴火は火山灰だけでなく溶岩流も大量に流れ出たため、周辺の村々を焼き尽くし、2万人以上の人々が犠牲になった。この時も、150kmも離れている江戸にも火山灰が3cmほど降り積もったという。そして、この2つの大噴火が主な原因となり、「天明飢饉(ききん)」(1783~1786年)が起こってしまった。
‥‥そんなワケで、話を富士山の噴火へクルリンパと戻すけど、この宝永4年(1707年)の「宝永大噴火」で誕生したのが、3つの宝永火口と宝永山だ。宝永山は富士山最大の側火山で、寄生火山とも言う。東京や横浜のほうから観ると、富士山の左側の稜線の真ん中あたりが出っ張ってるけど、アレが宝永山だ。東海道新幹線の窓から観ると、富士山の中腹の凹みに穴が観えるけど、アレが3つの火口の中で一番大きい第1火口で、凹みのすぐ右下に観えるのが宝永山だ。
つまり、富士山が今の形になったのが、この「宝永大噴火」ってワケだけど、これを最後に、富士山は現在まで約300年間も噴火してない。だけど、「宝永大噴火」の翌年の宝永5年(1708年)には山鳴りが確認されてるし、200年後の大正12年(1923年)には噴気が確認されてるし、昭和62年(1987年)には山頂付近で地震が起こってるし、平成21年(2009年)にはGPSによる観測で地殻変動を確認、富士宮市と富士吉田市の距離が約2cm伸びたことが分かってる。これは、1996年4月の観測開始から初めてのことだそうだ。だから、富士山は火山活動を完全に停止したワケじゃなくて、あくまでも「お昼寝中」なのだ。
今回の前編、中編、後編に及んだ長いエントリーで、あたしが何で伊豆半島の誕生から書いて来たのかと言うと、伊豆半島が乗ってるフィリピン海プレートこそが、すべての原因だったからだ。最初に書いたように、日本列島は北米プレートとユーラシアプレートの上に乗っかってるんだけど、日本列島に向かって移動し続けてるフィリピン海プレートは、日本まであとちょっとのとこで、この2つのプレートの下に沈み込み続けてる。
そして、これが、太平洋側で起こる海溝型地震の原因になってる。南関東から東海にかけての「東海地震」、東海から南紀にかけての「東南海地震」、南紀から四国にかけての「南海地震」、これらはすべてフィリピン海プレートがユーラシアプレートの下に沈み込む過程で発生するし、1923年に関東大震災をもたらした大正関東地震は、フィリピン海プレートが北米プレートに沈み込む過程で発生した。
また、富士山や他の火山の噴火も、このプレートの移動が大きく関係してる。「宝永大地震」の49日後に「宝永大噴火」が起こったことだけでなく、他の噴火の時も大地震が起こってる。たとえば、864年の「貞観大噴火」の前後を見てみると、その恐ろしさが分かると思う。
850年11月、出羽国地震(M7)
863年7月、越中越後地震(M8)
864年5月、富士山の貞観大噴火
864年11月、阿蘇山の噴火
867年3月、鶴見岳(大分県)の噴火
867年6月、阿蘇山の噴火
868年8月、播磨・山城地震(M7)
869年1月、摂津地震(M8.4)
869年7月、貞観地震(M8.3以上)
871年5月、鳥海山(山形県・秋田県)の噴火
874年3月、開聞岳(鹿児島県)の噴火
878年10月、相模・武蔵地震(M7.4)
880年11月、出雲地震(M7)
885年7月、開聞岳(鹿児島県)の噴火
885年8月、開聞岳(鹿児島県)の噴火
887年8月、仁和地震(M8.5)
850年から887年までのわずか37年間に、これだけの地震と噴火が起こってるのだ。もちろん、これは、特に大きなものだけを抜粋したもので、小規模なものは数えきれないほど発生してる。他の時期の富士山の噴火を見ても、その前後に大きな地震や他の火山の噴火が頻発してる。そして、これらの大半は、プレートの移動が原因なのだ。
このエントリーの前編の最初に載せた図のユーラシアプレートとフィリピン海プレートとの境目の線、伊豆半島の西側の根本から四国の沖にかけて伸びてる線、アレがオナジミの「南海トラフ」なんだけど、「トラフ」ってのは「海溝」のことで、これが震源になってる。深さは約4000mで、日本が乗ってるプレートの下に沈み込み続けてる。だから、このフィリピン海プレートは、常にユーラシアプレートと北米プレートに干渉し続けてるんだけど、2010年、あまりにも恐ろしいことが分かったのだ。
東京大学などの研究グループによると、伊豆半島よりも西の日本列島が乗ってるユーラシアプレートに、巨大な亀裂が入り、地下に沈み込んでると言うのだ。巨大な亀裂は、紀伊半島の西の端から淡路島の下を通り、鳥取県にまで到達してるそうだ。これがどういうことなのかと言うと、この巨大な亀裂の上の地域は、下に何もない状態、支えを失った状態なのだ。このまま亀裂が大きくなれば、淡路島は2つに引きちぎられるかもしれないし、中国地方は本州から切り離れちゃうかもしれない。
ま、もしもそんなことが起こるとしても、何万年、何十万年という未来の話なので、今、これを読んでる人たちには関係ないけど、南海トラフを震源とした巨大地震が発生して、関東から四国、九州にかけて大変な被害が出る‥‥ってことは、いつ起こってもおかしくない。何しろ、政府の「地震調査委員会」が「M8以上の巨大な南海トラフ地震が発生する確率」を2014年1月1日時点で「今後30年以内に70%」と試算してるからだ。
そして、この南海トラフ地震が、東日本大震災を引き起こした東北地方太平洋沖地震(M9.0)に匹敵する規模だった場合には、最悪で、死者は33万2000人、負傷者は約62万人、建物の全壊は約239万戸、経済的損失は約220兆円に上ると試算されてる。もちろん、これは、地震と津波による被害だけの話であって、もしも富士山や九州の火山が大噴火したり、原発事故を引き起こしたりしたら、被害はさらに大きくなり、日本は壊滅状態になるだろう。これが、明日起こるかもしれないのだ。
日本の人口は、弥生時代が約50万人、富士山が10回も噴火した平安時代が約500万人、富士山が2回噴火した室町時代が800~1000万人で、「宝永大噴火」を起した江戸時代でも約3000万人だった。それでも大変な被害が出たワケだけど、江戸時代の4倍の約1億2000人もいる今の日本で同じレベル地震と噴火が起こったら、その被害は計り知れない。その上、今の日本には、原発が林立してるのだ。
ちなみに、江戸時代の「宝永大噴火」以降、富士山は目立った火山活動を行なってないので、この300年間で、地下の巨大な「マグマだまり」には、そうとうのマグマを溜めこんでると推測されてる。事実、マグマが溜まることによって発生する低周波地震は、頻繁に起こってる。そして、その富士山が乗ってるユーラシアプレートに、今もフィリピン海プレートが干渉し続けてる。いつ大地震が起こっても、いつ富士山が噴火しても、不思議じゃない状況が続いてるのだ。
‥‥そんなワケで、日本には海底火山も含めて110の火山があるんだけど、これは、地球上の約1500の火山の約7%にあたる。一方、日本の面積はと言うと、地球の表面積の約0.0007%しかない。もしも約1500の火山が地球上に等間隔に分布してたとすれば、日本には火山は1つもないことになるし、あったとしても1つだ。それが110もあるんだから、紛れもなく世界一の「火山大国」だろう。そして、世界中で発生してる地震の約10%は、日本と日本の周辺で発生してるんだから、世界一の「地震大国」でもある。また、日本列島の下には北から南まで2000もの活断層が縦横無尽に走ってるんだから、世界一の「活断層大国」でもある。これらはすべて、4つのプレートの境界に位置するという世界でも珍しい日本の立地によるもので、言い方を変えれば、世界一の「原発に向いてない国」だと言える。だから、あたしは、これからも、日本の原発をゼロにするために、自分にできることをコツコツと続けて行こうと思った今日この頃なのだ。
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