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2015.06.28

幕末の安倍晋三

司馬遼太郎と言えば、実在した歴史上の人物を主人公にした歴史小説家、というのが一般的な認識だろう。もちろん、違ったジャンルの著作も多いけど、代表作とされるのは、坂本龍馬を描いた『竜馬がゆく』、土方歳三を描いた『燃えよ剣』、斉藤道三、織田信長、明智光秀を描いた『国盗り物語』、豊臣秀吉を描いた『新史太閤記』、島左近、石田三成、徳川家康を描いた『関ヶ原』、小幡景憲を描いた『城塞』、秋山好古、秋山真之兄弟、正岡子規を描いた『坂の上の雲』など、多くは実在した歴史上の人物が主人公だ。

これらは「歴史書」じゃなくて、あくまでも「小説」だから、ザックリ言えば「フィクション」だ。だけど、坂本龍馬が実はタイムマシンでやってきた未来人だったり、土方歳三が実は男装の麗人だったりという、今どきのライトノベルみたいな内容じゃなくて、それなりの時代考証に基づいてホントっぽく書かれてる。だから、何も知らずに読むと、実際に起こったことだと勘違いしちゃう人もいる。

司馬遼太郎の歴史小説は、その人物や事件や出来事について多くの資料を集めて、綿密に調べた上で書かれてるので、すべてがフィクションというワケじゃない。実際に起こった歴史的な事件が正確に描かれてて、その上で、そこに登場する人たちの考えや感情やセリフが創作だったりする。そして、そこに完全にオリジナルの枝葉が広がったりもしてるので、一体どこまでが史実でどこからがフィクションなのか分からなくなる今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、司馬遼太郎と言えば「長編」とか「大作」とかのイメージが強いけど、短編でも面白い作品がいろいろある。あたしは、今、『アームストロング砲』(講談社文庫)という短編集を読んでるんだけど、これは、幕末の男たちを描いた短編9作が収められている。題名を順番に挙げると、「薩摩浄福寺党」「倉敷の若旦那」「五条陣屋」「壬生狂言の夜」「侠客万助珍談」「斬ってはみたが」「太夫殿坂」「理心流異聞」「アームストロング砲」の9作で、このうち何作かは土方歳三や沖田総司などの登場する新撰組に関連した作品だし、新撰組の隊員が登場しない作品でも、時代背景が同じなので、どこかで関連してたりする。

で、今回、あたしが取り上げるのは、新撰組の隊員は直接は登場しないけど、2番目の「倉敷の若旦那」という作品だ。今日のブログの変なタイトルを見て「なんだろう?」と思った皆さん、ここでようやく種明かしするけど、この短編の中に、安倍晋三にソックリの人物が登場するのだ。もちろん実在した人物で、私利私欲のために権力を悪用して平然と法律を無視する極悪人だ。

この短編は、慶応2年(1866年)に実際に起こった「倉敷浅尾騒動(くらしきあさおそうどう)」を描いた作品で、『オール読物』(昭和40年6月号)に発表されたものだ。ちなみに、この作品は、司馬遼太郎の没後に、倉敷の郷土史家が長年かけて調べてまとめた自費出版の著書からの「盗作疑惑」が報じられた「いわく付き」の短編なんだけど、この点にまで触れると収拾がつかなくなっちゃうので、今回は内容だけに絞って書いていく。

この「倉敷の若旦那」は、ほぼ史実の通りに書かれている。主人公である倉敷の大町人の養子、大橋敬之助(後の立石孫一郎)や、他の登場人物のセリフなどは、もちろん司馬遼太郎の創作だけど、人間関係や事件のあらましなどについては、特に大きく手が加えられている部分はない。実際に起こった事件を下敷きにして、実際に関わった人たちを登場させ、その人たちがどんな会話をしてどんなふうに動いたのかという部分を司馬遼太郎が想像して書いているワケだ。


‥‥そんなワケで、ぜんぶを書いたら長くなりすぎちゃうし、これから作品を読もうと思ってる人にはネタバレになっちゃうから、導入部分だけを紹介する。まず、主人公の大橋敬之助は、播州の大庄屋の生まれて、幼いころから剣術や学問を学んでいた。17歳の時に倉敷の裕福な商家、大橋家の娘のお慶と結婚して婿養子になり、二男一女の3人の子どもをもうけて、婿養子としての役割も果たして、「大橋の若旦那」と呼ばれるようになる。大橋家は大町人だったので、町人と言えども「苗字」と「帯刀」を許されていた。

当時は「天保の大飢饉」で、全国的にコメの不作が続いていたため、コメの値段は3年で8倍にまで跳ね上がり、自殺する人や行き倒れになる人が続出した。そんな中、ここ倉敷の下津井屋という大きな商人は、他の領地にまで手代を走らせて、カネにものを言わせて百姓からコメを買い集め、瀬戸内の港で船に積み込み、京都や大阪へ運んでボロ儲けをしていた。

当時、領主は、コメなどの特定物資を領内外に移送することを「津留(つどめ)」と言って禁止していた。「津」とは「港」のことで、港が運搬の起点になっていたのでそう呼ばれていた。つまり、この下津井屋は、「津留」を破って、密輸出でカネ儲けをしていたワケだ。

下津井屋がコメを買い占めるため、倉敷のコメの値段はさらに高騰し、町民たちの暮らしは限界に達していた。そこで、商家の月まわりの当番だった大橋敬之助は、持ち前の正義感で下津井屋の悪事を調べ上げ、密輸出の証拠とともに倉敷の代官所へ訴え出た。しかし、これほど大掛かりな悪事を働いていた下津井屋のことだから、当然、代官所にも手を回してある。当時の代官、大竹左馬太郎のところには、下津井屋からワイロが届けられていた。時代劇でよく見る、和菓子の折の中に大判が敷き詰められている例のアレだ。

だから、いくら大橋敬之助が訴え出ても、代官所は、そう簡単に下津井屋を呼び出して罰することはできなかった。でも、大橋敬之助も負けていなかった。自分の商家のお金をどんどんつぎ込んで調査を続けて、これでもか、これでもかと新たな証拠を持って行った。そして、とうとう代官所も下津井屋の悪事を認めざるを得なくなり、下津井屋の一味を呼び出して、当主の吉左衛門には「手錠」、息子の寿太郎には「入牢」という罰が与えられた。「手錠」というのは、牢には入らなくて良いが、決められた期間、鉄製の手錠をして生活しなくてはならないという刑罰だそうだ。

もちろん、下津井屋は激怒した。だって、これまでタップリとワイロを渡しておいたのに、「これじゃあ話が違うじゃん!」ってことだ。そして、この作品では「この事件とはなんのかかわりもない」と解説されてるけど、この事件の直後、下津井屋に刑罰を与えた代官の大竹左馬太郎は更迭されたのだ。

そして、大竹左馬太郎の代わりに倉敷の代官所にやってくる新任の代官は、旗本の桜井久之助だった。下津井屋の一味は、江戸から赴任してくる桜井久之助を途中の大阪で待ち伏せし、大阪での宿を探し出し、まんまと大金をつかませることに成功した。そのため、桜井久之助は倉敷の代官所に着任早々、この下津井屋の事件を裁き直し、下津井屋を「無罪」、訴え出た大橋敬之助を「敗訴」としたのだ。このクダリを「倉敷の若旦那」の本文から、そのまま引用する。


(引用ここから)
桜井久之助は着任早々、右の事件をさばきなおし、
「倉敷は港ではないから、津留があるわけがない」
という新解釈によって下津井屋一味を無罪とし、敬之助は敗訴となった。
(引用ここまで)

※司馬遼太郎著『アームストロング砲』(講談社文庫)の「倉敷の若旦那」より引用


そう!この悪代官、桜井久之助こそが「幕末の安倍晋三」なのだ!倉敷に港がないことは最初から分かっていたワケで、だから下津井屋は他の領地の瀬戸内の港を使って密輸出をしていたワケで、それに関する証拠はすでに大橋敬之助が山のように提出していたワケで、だからこそ先代の代官の大竹左馬太郎はワイロを受け取りながらも下津井屋を「有罪」にするしかなかったワケなのに、おいおいおいおいおーーーーい!「新解釈」って何ですかーーーー!?

この桜井久之助の「倉敷は港ではないから、津留があるわけがない」というトンチンカンな説明は、「自衛隊の行く場所は戦闘地域ではないから、リスクがあるわけがない」とまったく同じ構造の屁理屈だ。ま、これくらいの支離滅裂さがなければ、多くの憲法学者の指摘を無視することなんてできないだろうけど、それにしても、誰がどう見ても完全に法律に違反していた「有罪」の事件を、結論ありきのトンチンカンな「新解釈」で正反対の「無罪」にしちゃうなんて、まさに「幕末の安倍晋三」だろう。


‥‥そんなワケで、このデタラメなお裁きに激怒した大橋敬之助は、城下町の刀屋へ行き、百両を支払って「摂津鍛冶鬼神丸国重(せっつかじ きじんまるくにしげ)」という二尺三寸の業物の刀を手に入れる。そして、私利私欲のために悪行三昧の親子に天誅を下すため、仲間とともに覆面をして下津井屋に押し入り、当主の吉左衛門と息子の寿太郎の首を撥ねた。それから、話はどんどん進み、最終的には多くの兵を従えて倉敷の代官所と浅尾藩陣屋を襲撃する。これが「倉敷浅尾騒動」なんだけど、天誅の目的だった「幕末の安倍晋三」こと桜井久之助は広島へ出張中で助かり、代官所に詰めていた幕府側の上級武士たちも自分たちだけトットと逃げ、殺されたのは身分の低い者たちばかりだった。ま、詳しくは「倉敷の若旦那」を読んでほしいけど、いつの世も、権力者と金持ちが手を組んで一般市民を苦しめる構図は同じだと思った今日この頃なのだ。


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2015.06.18

あてなるものな生活

さすがは梅雨だけのことはあって、ここんとこ、雨が降ってなくても「湿度80%」なんていう蒸し暑い日が続いてる。こんな時は、冷たいものを食べたり飲んだりしても涼しくならないので、あたしは逆に「熱いもの」「辛いもの」「酸っぱいもの」を食べたり飲んだりしてる。こないだはタカノツメをドバッと入れた激辛の麻婆豆腐を作って食べたし、ゆうべはサッポロ一番の醤油味をベースにして、黒酢とラー油を加えて酸辣湯麺(スーラータンメン)を作って食べた。

だけど、梅雨が明けて本格的な夏が来たら、湿度が下がって気温だけが高くなるから、今度は「冷たいもの」が美味しくなる。その代表格は、もちろんキンキンに冷やしたビールだけど、食べ物で言えば「かき氷」だろう。流し素麺は涼を感じるし、冷たく冷やしたスイカやトマトを食べれば涼しくなるけど、外に立ってたら5分で倒れちゃうくらい暑い真夏日に、ひとくち食べただけでスーッと汗がひき、一気に涼しくなるような食べ物、それは「かき氷」だろう。

日本のかき氷は、ナニゲにイチゴ味が代表みたいな位置づけで、その対極にメロン味があって、少し離れたとこにレモン味があるけど、イチゴ味ってイチゴの味なんかしないし、メロン味も微妙のメロンぽい香りがする程度だし、レモン味も気持ち酸味があるような気がするくらいで、どれもそのフルーツの味なんかしない。だからあたしは、「イチゴ色」「メロン色」「レモン色」って呼び方にすべきだと思ってる。

ちなみにあたしは、子どものころは「カルピス系」のかき氷が好きだった。クマさんのかき氷器で一生懸命に氷をかいて、それにカルピスを掛けて食べてた。普通のカルピスも美味しいけど、お中元でいただいた時しか家になかったオレンジカルピスやグレープカルピスは、最高に嬉しかった。オレンジカルピスは色だけじゃなくてちゃんとオレンジの味がしたし、グレープカルピスもちゃんとブドウの味がしたから、あたしは大好きだった。

だけど、大人になってからは、あたしは「スイ」が好きになった。「氷水」と書いて「こおりすい」、略して「スイ」だ。ようするに、砂糖水を掛けただけのシンプルなかき氷なんだけど、コンビニとかのアイスのコーナーで売られてる100円のカップのやつだと「みぞれ」っていうやつだ。

ただし、あたしの場合は、これに梅干しを入れる。大きなガラスの器に氷をかいて行き、小山になったら手で軽く押して、真ん中に大きくて柔らかい梅干しを乗せる。そして、その上にまた氷をかいて行く。最後に、煮詰めて冷蔵庫で冷やしておいたシロップ状の砂糖水を掛ければ出来上がり。スプーンで梅干しを掘り出して、ちょっとだけかじってから氷を口に入れると、酸味と甘みの絶妙なハーモニーが楽しめる今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、現代の日本のかき氷は、ベーシックなスイやイチゴやメロンだけでなく、小倉や抹茶に白玉が入った和風でゴージャスなものもあるし、ブルーハワイやマンゴーやキウイなどのような洋風のものもあるし、ヨーグルト味でいろんなフルーツを乗せたパフェ風のものもあるし、鹿児島県で発祥した「白くま」のようなご当地ものもあるし、様々なバリエーションが楽しめる。

ここ数年は、氷やシロップや削り方にこだわった「高級かき氷」の専門店がブームだ。どこそこの名水だかを使って、長時間かけてゆっくりと凍らせる。そうして出来た氷を削ると、雪のようにフワフワに削っても、なかなか溶けないかき氷になるそうだ。こうした専門店は、季節に関係なく1年中やってて、1杯700円くらいで提供してるらしい。

さすがにあたしは、かき氷に700円は払えないから、自分で氷をかいて作って食べるか、ガリガリ君で間に合わせてるけど、そんなかき氷は、日本では一体いつごろから食べられていたのか?‥‥ってなワケで、きっこお姉さんはモグタンと一緒に「かき氷のはじめて」を見に行ってみることにした。


「クルクルバビンチョ、パぺッピポ、ヒヤヒヤドキンチョのモ~グタン!」


‥‥そんなワケで、よく考えてみたら、あたしの家にはモグタンはいなかったので、タイムスリップすることはできなかった。そこで、現存する昔の文献の中で「かき氷」が登場する最も古いものを探してみたら、清少納言の『枕草子』に行きついた。今から約1000年前の平安時代中期に編まれたと言われてる『枕草子』は、春夏秋冬の様々なことが書かれた随筆集で、当時の様子を知るための貴重な文献でもある。で、その『枕草子』の第四十二段が、次の内容だ。


「あてなるもの、薄色に白襲(しらがさね)の汗衫(かざみ)。かりのこ。削り氷にあまづら入れて新しき金椀に入れたる。水晶の数珠。藤の花。梅の花に雪の降りかかりたる。いみじううつくしき児の、いちごなど食ひたる。」


「あてなるもの」とは「上品なもの」という意味で、この段では、清少納言が思いついた「上品なもの」を羅列してるワケだ。まず「薄色に白襲の汗衫」だけど、「薄色」とは単に「薄い色」のことじゃなくて「薄い紫色」のこと。そして「白襲」は涼しい白の上着を羽織ることで、「汗衫」は平安時代の貴族の女児用の薄手の上着のこと。当時、「紫色」は最も地位の高い貴族しか身に着けられなかったので、これは地位の高い貴族の女児が、薄紫色の打掛の上に白の上着を羽織ってる姿を「上品なもの」として1番に挙げてることになる。

続いての「かりのこ」とは「鳥の卵」のこと。そして、次に登場する「削り氷にあまづら入れて新しき金椀に入れたる」というのが「かき氷」のことだ。これはあとから説明するとして、まずは最後まで行っちゃうけど、続いての「水晶の数珠」と「藤の花」と「梅の花に雪の降りかかりたる」は説明の必要はないよね。で、最後の「いみじううつくしき児の、いちごなど食ひたる」は、「とっても可愛い子どもが苺などを食べている姿」ということ。

で、クルリンパと戻って「削り氷にあまづら入れて新しき金椀に入れたる」だけど、「削り氷」というのが「かき氷」のことで、当時は「かき氷器」なんてなかったから、これは氷の塊を小刀で削ったものだ。そして「あまづら」というのは「甘葛を煎じた汁」のことで、平安時代には高級な甘味料とされていた。これを「新しい金属の器」に入れて食べるなんて、それこそ地位の高い貴族にしかできなかった「ザ・贅沢の極み」だろう。

何しろ、当時は冷蔵庫も冷凍庫もなかったワケだし、それ以前に電気がなかったワケだから、氷を人工的に作ることなんてできなかった。だから貴族たちは、冬場に水のきれいな池などに張った天然の氷を採取させて、日の当たらない山裾に掘った「氷室(ひむろ)」と呼ばれる貯蔵庫の中に保存してた。夏でもひんやりする氷室の中に、ワラなどを敷き詰めて採取して来た氷を積み重ねて、ワラなどで覆ってた。

当時、氷はホントに貴重品だったから、誰かに盗まれないように、氷室の入り口には交代で見張り番が立ち、氷の在庫を専門の役人が管理してた。だから、現在の日本人で「氷室」という苗字の人は、こうした役人の子孫なのかもしれない‥‥ってのも織り込みつつ、いくら氷室と言えども、冬に採取した氷が夏までそのままのワケもなく、ある程度は解けてしまう。

そして、それ以上に大変だったのが、氷室から貴族の宮廷までの運搬だ。採取した氷を氷室まで運ぶのは寒い冬だったから問題なかったけど、氷室から貴族の宮廷まで運ぶのは真夏なのだ。だから、何重にもワラでくるんだ氷の塊を大八車や馬に積んで、なるべく気温の低い夜明けとともに出発してたようだ。それでも、貴族の宮廷に到着した時には、半分以上が解けてしまっていたそうだ。

こんなふうに、ものすごい手間と人件費を掛けて届けさせた氷を、これまた当時は最高級品だった金属の器に削り入れて、これまた最高級品だった「あまづら」をたっぷりと掛けていただくなんて、まさに貴族だけの贅沢だったんだろう。単価を計算することなんてできないけど、現代の金額にしたら1杯数万円から数十万円くらいは掛かってるかもしれない。少なくとも、700円のかき氷にも手が出ないあたし的には、清水の舞台からバンジージャンプしても食べることはできなかったと思う。


‥‥そんなワケで、この『枕草子』を書いた清少納言については、だいたい966年ごろに生まれて1025年ごろに亡くなったと推測されてるけど、正確なことは分からないし、名前も分かっていない。ただ、三十六歌仙の1人で、908年に生まれて990年に亡くなった清原元輔の娘だということはハッキリと分かってる。つまり、苗字が「清原」で名前が「不明」ということだ。

前にも書いたことがあるけど、「清少納言」というのは「清少・納言」という名前じゃなくて、「清・少納言」だ。「清」は「清原」のことで、「少納言」は役職だ。「大納言・中納言・少納言」は、「部長・課長・係長」みたいな感じだろう。ちなみに「大」「中」と来たのに「小」じゃなくて「少」なのは、「大佐・中佐・少佐」なんかと同じで、日本では階級などを表わす時には「小」じゃなくて「少」を使うことになってるからだ。

で、この清少納言は、父親の清原元輔が60歳くらいの時に生まれた子だったと言われてて、陸奥守(むつのかみ)だった橘則光(たちばなののりみつ)と結婚して男の子をもうけたんだけど、その後、離婚して、980年に生まれて986年から1011年まで在位した一条天皇の中宮の藤原定子(ふじわらのていし)に仕えることになる。

清少納言はとても博学で、文才もあったので、四季折々のことや宮中でのことを書き綴った『枕草子』は、宮中の人たちに愛読されるようになる。定子は清少納言をとても大切にしていて、清少納言もまた定子のことを敬愛していた。そのため、定子が亡くなると清少納言は宮廷を去り、40代で再婚して女の子をもうけるが、また離婚して、山里と1人静かに暮らし、『枕草子』を書き続けた。そして、最後は尼僧になり、60歳前後で亡くなったと推測されている。


‥‥そんなワケで、この『枕草子』の記述によれば、少なくとも今から1000年前には、すでにかき氷が食べられていたということになる。もちろん、現代のように子どものお小遣いで買える庶民のオヤツなんかじゃなくて、貴族や将軍などピラミッドの上層部にいる人たちの口にしか入らない最高級の食べ物だったワケだけど、お椀状の器に氷を削り、甘いシロップを掛けて味わい、夏の暑さをしのいでいたんだから、そのビジュアルや位置づけは、現代のかき氷に極めて近いものだったと思われる。

そう考えると、いつでもコンビニに行けば100円ほどでかき氷を買うことができる現代人のあたしたちは、1000年前の人たちには想像もできないような贅沢をしてることになる。それどころか、お水を入れた製氷皿を自宅の冷蔵庫のフリーザーに入れておけば、ほんの数時間で氷ができちゃう。あたしたちは、特に感動も感激もないまま、ごく普通のこととして氷を作り、飲み物に入れたりお素麺に入れたりしてジャンジャン氷を使ってるけど、ホントはものすごくアリガタイザーなことなのだ。

そして、何も1000年前の人たちと比べなくても、今の世界を見回してみれば、冷蔵庫なんて持ってない人たちもたくさんいるし、電気のない生活をしてる人たちもたくさんいる。たとえば、昨年11月にバングラデシュ全土で大規模な停電が発生したけど、長時間の停電にも関わらず大きなパニックにならなかったのは、バングラデシュでは約1億6000万人の人口のうち4割にあたる約6500万人が、もともと電気のない生活をしてるからだ。このような国は、他にもたくさんある。


‥‥そんなワケで、あたしの場合、電気代を節約するためにエアコンは使わないようにしてるけど、電気のない生活をしてる人たちのことを考えたら、少しも苦にならない。夏は扇風機を使ってるし、冬は電気コタツを使ってるし、冷蔵庫も洗濯機も使ってるからだ。テレビは捨ててラジオにしたし、掃除機は捨ててホウキと雑巾でお掃除してるけど、パソコンや電子レンジや電気ポットやヘアドライヤーやヘアアイロンは使ってる。それでも、できる限り節約をしてるので、毎月の電機料金は1500円前後、絶対に2000円を超えることはない。だから今年の夏も、冷蔵庫の氷を最大限に有効利用して、なるべくお金を使わずに、涼しくて快適で「あてなるもの」な生活を心掛けようと思ってる今日この頃なのだ。


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2015.06.08

「中谷元・防衛相」が「中谷・元防衛相」になる日

6月4日の衆議院憲法審査会に参考人として招致された3人の憲法学者が、安倍政権が強行している安保関連法案について、全員そろって「憲法違反」であると明言した。この3人とは、自民党と公明党、次世代の党が推薦した長谷部恭男・早稲田大学法学学術院教授、民主党が推薦した小林節・慶応大名誉教授、維新の党が推薦した笹田栄司・早稲田大教授で、3人とも日本を代表する憲法学者だ。

野党が推薦した参考人が「憲法違反」だと言ったのなら当たり前のことだけど、与党である自民党が推薦した参考人までもが「憲法違反」だと明言したのだから、この言葉は重いだろう。それも、自民党が推薦した長谷部教授は、「集団的自衛権の行使容認は従来の政府見解の基本的枠組みでは説明がつかず、法的安定性を大きく揺るがす」「外国軍隊の武力行使と一体化する恐れが極めて強い」とし、安倍政権の推し進める安保法制の「違憲性」と「危険性」を重ねて指摘したのだ。

これに対して、菅義偉官房長官は、この日の午後の会見で、「(憲法学者らの)違憲であるとの指摘はあたらない。法的安定性や論理的整合性は確保されている。まったく違憲でないという著名な憲法学者もたくさんいる」と反論した。でも、それなら、何で「まったく違憲でない」という憲法学者を参考人に呼ばなかったのだろうか?自民党の二階俊博総務会長は「完全に人選ミスだ」と言ったけど、参考人の1人として国会に招致された小林節・慶應義塾大学名誉教授は、菅官房長官の発言に対して、「日本の憲法学者は何百人もいるが、(違憲ではないと言うのは)2、3人。(違憲と見るのが)学説上の常識であり歴史的常識だ」とコメントした。

文化放送の鈴木敏夫デスクも、6月6日の『親父・熱愛』の中でこの問題に触れ、「安倍政権の集団的自衛権について、きちんと科学的に検証している憲法学者は大半が『憲法違反だ』と言っています。『合憲だ』と言っているのは安倍さんの周りにいる一部の憲法学者だけです。彼らは思想的な憲法学者で発言に説得力がありませんから、国会に招致したらすぐにバケの皮が剥がれてしまいます」と、モットモな解説をしていた今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、自分たちが推薦した参考人に「安倍政権の集団的自衛権は憲法違反」だと明言されてしまうという前代未聞のオウンゴールを炸裂させちゃった安倍政権だけど、このあまりにもお粗末なボヤ騒ぎに、消火器を持って駆け付けたのが中谷元・防衛相兼安全保障法制相だ。翌5日の衆議院特別委員会で、中谷元・防衛相は「集団的自衛権の行使容認は、これまでの憲法9条をめぐる議論との整合性を考慮したもので、行政府としての憲法の解釈の範囲内であって憲法違反にならない」と苦しい反論をした。

だけど、すぐに民主党の辻元清美議員に「中谷大臣もこれまでは3人の参考人と同じことを言って来たじゃないですか!」と鋭いツッコミを入れられ、タジタジとしちゃった。以下、6月5日の辻元清美議員の質疑と中谷元・防衛相の答弁だ。


辻元清美議員 「この法案(安保関連法案)に反対している人が世論調査で半数以上いらっしゃる、この事実はご存知ですね?そして、その中の中核的な意見が「憲法9条に違反しているのではないか」というもの。一方で、憲法学者や研究者の方々も200名近くが反対の声明を挙げ、今どんどんその数も増えている。そして、憲法審査会に呼ばれた日本でも権威のある参考人3人が口をそろえて自衛隊は違憲だと言っている。そんな法案にのっとって、この宣誓「日本国憲法及び法令を遵守し」とありますが、この法案の根幹がいま揺らいでいるわけですよ。違憲かもしれない、または違憲であると、そんな状況で政府だけが合憲だと言っている。そんな中で、命を懸けて戦えだとか、他国のために戦えだとか、そんなことが言えますか?私は昨日の憲法審査会や3名の憲法学者の「違憲である」との発言を受けて、政府は一度この法案を撤回すべきだと思っております。いかがでしょうか?」


中谷元・防衛相 「政府としましても様々な角度からご意見をいただいております。また現実に安保法制懇談会という非常に著名な方々に参画いただき、ご意見をいただきました。また、その後は政府としては、国民の命と平和な暮らしを守って行くために、この安全保障法制はどうあるべきか、これはこの国にとって非常に大事なことでありますので、与党でこういった観点でご議論いただき、現在の憲法、これをいかにこの法案に適用させて行けばいいのかという議論を踏まえた上で閣議決定を行ったのであります。多くの識者のご意見を聞きながら、真剣に検討して決定をしたということであります」


辻元議員 「私は中谷大臣が憲法調査会から一連の場で発言しているのを覚えております。「憲法9条は改正が必要である」と、この意見をずっと述べられておりました。ですよね?こういう意見を中谷大臣は言っておられます。これは中谷大臣のご著書です。『右でも左でもない政治/リベラルの旗』という中谷さんのご著書の中で、「憲法の拡大解釈は限界に達している」という章で、こうおっしゃっています。「現在各政党で憲法改正に関する議論が行われている。憲法を改正するかどうかは、改正をしなくとも解釈の変更を行うべきだとの議論があるが、私は現在の憲法の解釈変更はすべきではないと考えている。憲法の拡大解釈は限界に達しており、これ以上に拡げてしまうとこれまでの国会での議論はなんだったのか、ということになり、憲法の信頼性が問われることになる」素晴らしい意見をおっしゃっているじゃないですか。では、当時のことをお聞きします。中谷大臣は憲法調査会をはじめとする委員会にいたわけですから、当時なぜ「憲法の拡大解釈は限界を越えている。これ以上解釈の幅を拡げてはならない。憲法の信頼性が問われることとなる」とおっしゃったのか、その根拠を教えてください」


中谷防衛相 「当時はいわゆる集団的自衛権というものに定義がありまして、国際的な集団自衛権というものに関しては憲法を改正する必要があるという認識をずっとしておりました。この件はずっと自民党内でもこういった主張をしておりました。自民党の中には、いやいや集団的自衛権は憲法で容認されるという方もおられました。ここ2、3年、自民党で真剣な議論を交わしまして、自民党でマニュフェストを作る際に、憲法と安全保障法制をどう考えていくかという中で、このような現在の論理の帰結となりました。従来の憲法の基本的論理を維持した中で、時代の変化を踏まえ、安全保障の環境が客観的に大きく変化しておりますので、従来の憲法解釈との論理的整合性と法的安定性に十分留保した上で現在の論理を維持したまま、国民の命と幸福な暮らしを守るために、合理的な当てはめを導いた結果であります。他国を防衛するための集団的自衛権ではなく、あくまでも我が国の存立を脅かし、我が国を根底から覆される明白な危険がある事態に限定して、この集団的自衛権も容認できるという結論にいたりました。この間、2、3年、真剣に議論をしてまいりましたし、与党のなかでもこういう考えを議論しまして、私のなかではこういった部分におきましては現在の日本国憲法のなかでは容認される部分であると、理解したわけであります。ですから、私の当時の考え方は、他国を守ることも含めた集団的自衛権は、憲法の改正が必要という認識していたわけであります」


‥‥そんなワケで、辻元議員が取り上げたのは、中谷大臣が2007年に刊行した著書『右でも左でもない政治/リベラルの旗』(幻冬舎)の中に書かれている集団的自衛権に関する記述の部分だけど、「憲法の拡大解釈は限界に達している」という章まで作って書いているのだから、防衛大学から自衛隊へ進み、小泉政権では史上最年少で防衛庁長官に抜擢された中谷大臣としては、この本を書いた時点では、まだ「部下たちを憲法に違反する任務に就かせたくない」という最低限の「人の心」を持ち合せていたのだろう。

でも、安倍晋三首相や石破茂大臣のような「現場を知らない人たち」とは違って、自衛隊員としての実績を持つ中谷大臣だから、この「憲法の拡大解釈は限界に達している」という考えは一貫していた。わずか2年前にも、雑誌『ニューリーダー』の2013年8月号に掲載された「なぜいま憲法改正なのか リミットまできている集団的自衛権問題 明確なデザインとシナリオを提示できるか」という塩田潮氏との対談の中で、中谷大臣は次のように述べている。


「政治家として解釈のテクニックで騙したくない。自分が閣僚として「集団的自衛権は行使できない」と言った以上は、「本当はできる」とは言えません。そこは(きちんと改憲して)条文を変えないと‥‥」


20年も30年も前の発言なら、その間に日本の置かれている状況も変化するだろうし、考え方が変わることも理解できる。しかし、この中谷大臣の発言はわずか2年前なのだ。2年前に「集団的自衛権を行使できるようにするのなら憲法を改正して条文を変えなければならない」と明言していた人物が、自分が防衛大臣に抜擢され、安全保障法制大臣も兼務させられたトタンに、手のひらを返したように正反対のことを言い出したのだ。

これまで一貫して「これ以上の解釈変更は限界」「改憲せずに解釈変更だけで集団的自衛権を行使するのは無理」と主張し続けて来た中谷大臣なのだから、普通に考えたら、今も考えは変わっていないはずだ。つまり、本心では安倍政権の安保法制案に「無理がありすぎる」と思っているのにも関わらず、防衛大臣に抜擢された千載一遇のタナボタ・チャンスを手放したくないという私利私欲によって、多くの自衛官の命を危険に晒す「戦争法案」などに賛成のフリを演じているのだ。何という恥知らずなのだろうか?

そして、辻元議員から厳しくツッコミを入れられ、過去の自身の発言との矛盾を問われた中谷大臣は、とうとうこんな支離滅裂なことを言い出した。


「他国を防衛するための国際的な定義による集団的自衛権と、我が国の存立を脅かし国民の権利を根底から覆される明白な危険がある事態に限った集団的自衛権は違う」


支離滅裂&意味不明、もはや日本語として成立していない。だけど、中谷大臣は、これよりも前に、もっと驚くべき「トンデモ発言」を炸裂させていたのだ。それは、最初の答弁の中の次のセリフだ。


「現在の憲法、これをいかにこの法案に適用させて行けばいいのかという議論を踏まえた上で閣議決定を行ったのであります」


Ng1


おいおいおいおいおーーーーい!これ、マジで言ってんのか?「憲法」に沿って「法案」を作るのが普通なのに、まずは憲法を無視したトンチンカンな法案を作り、それをトットと閣議決定してしまい、それからそのトンチンカンな法案に「憲法のほうを適用させる」って、おいおいおいおいおーーーーい!


‥‥そんなワケで、あたしは久しぶりに、開いた口からエクトプラズムが流れ出して幽体離脱しちゃいそうになったよ、まったく!憲法を改定せずにデタラメな解釈変更だけで日本を戦争できる国に変える「戦争法案」にも開いた口が塞がらないけど、言うにことかいて「法案のほうに憲法を合わせる」って、こんな狂った話は前代未聞だ。だいたいからして、日本を代表する憲法学者が3人そろって「憲法違反」だと国会で明言したんだから、それを否定するのなら、安倍晋三首相、菅義偉官房長官、中谷元・防衛相の3人は、この3人の憲法学者と公開討論をして、その場で3人の専門家を論破してみろ!‥‥って思った。ま、どっちにして、ここまで支離滅裂で厚顔無恥な中谷元・防衛相は、ピリオドの位置が1つ前にズレて「中谷・元防衛相」になる日も近いと思った今日この頃なのだ。


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2015.06.05

映画で観る半世紀前の車たち

スズキの「アルト ラパン」が全面改良されて発売されたことを、4日付の各紙が報じた。朝日新聞の記事の冒頭を引用すると、次のように紹介されている。

 

 

「スズキは3日、女性向けの軽自動車「アルト ラパン」を全面改良して売り出した。ドライバーが乗り降りすると車が「おはよう」「シーユー(さようなら)」などと話しかけ、誕生日には音楽でお祝い。小物が入る引き出しや化粧に便利なテーブルもつけ、大幅に「女子力」を高めた。」

 

http://www.asahi.com/articles/ASH63528YH63ULFA00W.html

 

 

朝日新聞の記事によると、先代の「アルト ラバン」は購入者の9割が女性だそうで、スズキが約1年かけて女性社員や女性客の声を集めて、それを反映させたのが今回のモデルだそうだ。だから、あたしがこの記事を読んで思った「車が話しかけるとか誕生日に音楽とかってバッカみたい」という感想は、あくまでもあたし個人の感覚であって、世の中の多くの女性たちは、朝、自分の車に乗る時に「おはよう」って話しかけてほしいんだろう。

 

だけど、「しゃべる家電」や「しゃべる自販機」にもイライラしてるあたしとしては、車までしゃべり出しちゃった日にゃあ、イライラ用のタコメーターがレッドゾーンを振り切っちゃいそうだ。あたし的に「しゃべっていい車」ってのは、ドラマ『ナイトライダー』の「ナイト2000」とか、映画『ドラえもん のび太の海底鬼岩城』の水中バギーとか、あとは、アニメ『フューチャーグランプリ サイバーフォーミュラ』とか、あくまでもアニメや映画の中だけであって、現実世界ではカンベンしてほしいと思う。

 

でも、このスズキの「アルト ラパン」、デザインはワリとあたしの好みだ。あたしは、昔の車の個性的なデザインが好きなので、似たり寄ったりの「今どきのデザイン」の車は好きになれない。だから、現行の国産車で「欲しい」と思う車は1台もないんだけど、この「アルト ラパン」は、どことなくレトロなデザインがイイと思う今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?

 

 

‥‥そんなワケで、数日前のこと、GyaOの特別企画で配信されてる昔の日活映画のコーナーで、『青春の風』(1968年)が無料配信されたので、あたしはさっそく観てみた。そしたら、ストーリーが面白かったのはもちろんのこと、あたしの期待する「昔の車」もたくさん登場して、とっても楽しかった。もうしばらく無料配信してるので、今回のブログを読んで興味を持った人は、このブログの内容と照らし合わせながら観てもらえれば、楽しさが倍増すると思う。

 

この映画は、サイトの解説によると「吉永小百合、山本陽子、和泉雅子といった日活3人娘に、お馴染みの浜田光夫が絡んで繰り広げるドタバタ調のラブコメ映画」とのことで、京都伸夫さんの『花の三銃士』が原作らしい。ただ、映画の最初のクレジットには「原作『花の三銃士』より」と書かれているので、原作を丸ごと再現したものではなさそうだ。

 

吉永小百合さんは「楠本光子」なので「ピカちゃん」、和泉雅子さんは「風見愛子」なので「ラブちゃん」、山本陽子さんは「小林峯子」なので「ネコちゃん」というニックネームで呼び合ってて、短大のフェンシング部で一緒だった3人は、卒業後、それぞれの道に進む。和泉雅子さん演じる「風見愛子」のお兄さんが浜田光夫さん演じる「風見圭介」で、この圭介さんとピカちゃんとネコちゃんの恋のさや当てがストーリーの根幹だ。

 

他には、ピカちゃんがハウスキーパーとして勤める「元・自宅」の外国人夫婦がE・H・エリックさんとイーデス・ハンソンさんだったり、放浪画家の岩ちゃんが杉良太郎さんだったり、養鶏場のお兄さんが藤竜也さんだったりと、脇を固める配役も楽しめる。ま、あんまり書きすぎるとネタバレになっちゃうから、ここからは車のことだけ触れてくけど、冒頭から9分くらいのとこで、ラブちゃんが勤め先のレンタカー屋さんに戻って来るシーンがある。ここで、背後に「いかるが牛乳」の自販機があることに注目しておいてほしい。

 

映画の最初のクレジットを細かく見ていれば分かるけど、この映画は「いかるが牛乳」が協賛しているのだ。だから、後半で訪ねて来たラブちゃんにピカちゃんが牛乳を出してもてなすシーンでも、画面の右下に「いかるが牛乳」のパックがちゃんと見えるように置かれてる。で、レンタカー屋さんには日野の「コンテッサ」とかが並んでて最高なんだけど、自販機のシーンのすぐあとに登場する「いかるが牛乳」の配達車も素晴らしい。水色の軽のワンボックスで、ピカちゃんに声をかけられて止まったこの車は、ダイハツの「ハイゼット」だ。

 

ダイハツの「ハイゼット」は、1960年に売り出されたボンネットタイプの軽トラックとライトバンが初代で、この映画に登場するキャブオーバータイプは2代目になる。当時は両方ともニーズがあったようで、初代のボンネットタイプは1960年から1967年まで生産され、2代目のキャブオーバータイプは1964年から1968年まで生産され、重複する4年間は用途に応じて選択購入できたようだ。

 

2代目の「ハイゼット」のエンジンは、直列2気筒の356ccで、5年間の製造期間のうち、1964年から1966年までが空冷エンジン、1966年から1968年までが水冷エンジンだ。映画に登場する「いかるが牛乳」の配達車が空冷か水冷かは判別できなかったけど、リアウインドウの形、テールレンズの形、セパレートタイプのリアバンパー、丸目の上にある眉毛のようなウインカーレンズ、オートバイのようなバックミラー、ルーフの真ん中から出ているアンテナなど、どれも最高に素敵だ。

 

また、ポーズを押して画面を停止してリアビューをよく見ると、リアの扉は右手にヒンジがあって左手にノブがあることが確認できる。つまり、今のワンボックスのような上に跳ね上げるタイプのハッチじゃなくて、ドアのように開くタイプだったことが分かる。ちなみに、この「ハイゼット」は、映画の映像には映ってないから分からないけど、運転席と助手席のドアが今の車のドアとは逆で、スバル360みたいに前から後ろへ開くタイプだ。

 

 

‥‥そんなワケで、1台の車のことを詳しく書きすぎてると先に進まないから、ここからはサクサク行くけど、冒頭から34分くらいのとこに、ピカちゃんを養鶏場まで乗せて行く「丹波畜産」と書かれたトラックが登場する。これは、トヨペットの2代目の「トヨエース」で、排気量は997cc、1トン積みのトラックだ。少し出っ張ったフロントは、丸目と丸目の間に開閉できる空気取り入れ用のダクトがあって、それを鼻に見立てるとロボットの顔のように見えるとこが可愛い。

 

冒頭から37分すぎには、またラブちゃんのレンタカー屋さんのシーンになり、また日野の「コンテッサ」が登場する。「コンテッサ」というのはイタリア語で「伯爵夫人」のことで、日野自動車がルノー「4CV」のライセンス生産で培ったノウハウを元に開発した車だ。1961年から1967年まで生産されたので、この映画が制作された当時は、とってもポピュラーな車だったんだと思う。

 

日野の「コンテッサ」は、前から見るとフロントグリルのないツルリとした顔が特徴だけど、これには意味がある。このシーンでは、ラブちゃんが車を借りに来たカップルの接客をしてて、そのカップルが「コンテッサ」に乗ってお店から出て行くので、その時の車のリアビューに注目してほしい。普通の車と違って、リアのテールランプとかがある面のほうが全面「グリル」になってる。これは「コンテッサ」が、リアエンジン・リアドライブの車だからだ。

 

まあ、日野の「コンテッサ」は有名だし、今でもレストアして大切に乗ってるマニアも多いから、知ってる人もたくさんいると思うけど、この後、冒頭から51分くらいのとこから登場する真っ赤なオープンカーは、今はメッタにお目にかかれない。ピカちゃんとラブちゃんが四国のお遍路に使う真っ赤なオープンカーは、ダイハツの「コンパーノ」だ。これはコンバーチブルなので、1965年に発売された「コンパーノ・スパイダー」、直列4気筒の958cc、65馬力のエンジンを積んでる。

 

 

‥‥そんなワケで、映画で主役の美女の運転する車の定番が「真っ赤なオープンカー」になったのは、これはあたしの推測だけど、映画がモノクロからカラーに変わった時に確立されたことだと思う。この『青春の風』から10年前の1957年に公開されたフランス映画『殿方ご免遊ばせ』の中で、主役のブリジット・バルドーは「真っ赤なオープンカー」、シムカの「アロンド・オセアーヌ」に乗ってるけど、当時はまだモノクロの映画もたくさん作られてたから、この「ブロンドの美女と真っ赤なオープンカー」という色彩的なインパクトは、相当のものだったと思う。

 

だから、この『青春の風』の中で、吉永小百合さんと和泉雅子さんが乗る車に「真っ赤なオープンカー」が選ばれたのも、いろいろと話し合った結果とかじゃなくて、最初から決まってたように思う。そして、コロナのコンバーチブルにするか、パブリカのコンバーチブルにするか、それともダットサンのフェアレディにするか‥‥みたいな、「どのメーカーの、どのオープンカーにするか」という話し合いだけが行なわれ、予算の関係とか協賛の関係とかのモロモロの大人の事情によって、このダイハツの「コンパーノ・スパイダー」に決まったんだと思う。

 

あたしの個人的な趣味だと、この時代の国産のオープンカーなら、何と言ってもダットサンのフェアレディが好きだ。でも、この映画の中で吉永小百合さんが運転するのなら、パワフルな本格派のスポーツカーよりも、トヨタの「パブリカ」やダイハツの「コンパーノ」など、大人しい車のほうが似合ってるから、これは正解だと思う。

 

 

‥‥そんなワケで、ここまでに取り上げて来た車の他にも、丸みを帯びた路線バスやボンネットのあるダンプカーなど、素敵な車がたくさん登場する映画だけど、ラストシーンに登場する「ワンワンパトカー」が、これまた素敵だ。詳しい内容はネタバレになるから触れないけど、これは1957年から1966年まで生産されたニッサンの初代の「キャブオール」だ。1966年にフルモデルチェンジした2代目はヘッドライトが丸目4灯なので、映画に登場する丸目2灯の「ワンワンパトカー」は初代の「キャブオール」ということになる。

 

微妙に丸みを帯びたスタイル、冷蔵庫の裏のようなフロントビュー、開閉できないハメ殺しのリアのサイドウインドウ、逆向きに開くため前のほうに付いてる運転席のドアのノブなど、あたしの萌えポイントが満載だ。そして、うっとりしながらこのニッサンの初代の「キャブオール」を眺めていたら、この車の前で圭介さんと話すピカちゃんの顔をナメた横に、ナニゲに可愛いピックアップ・トラックの後ろ姿が見えた。

 

運転席の屋根が白くて、ボディーが昔の商用車によくあるブルーグレーで、サイドに「六甲なんとか」って書いてある。リアウインドウが小さくて可愛いし、リアフェンダーもプレスのオーバーフェンダーでカッコイイ‥‥って、おおっ!運転席のすぐ後ろの荷台のサイドにエアダクトのルーパーが上下に2つ切ってある!そう、これはマツダのオート3輪の「K360」、通称「ケーザブロー」だ!

 

軽のオート3輪と言えば、映画『稲村ジェーン』に登場したダイハツの「ミゼット」が有名だけど、さすがは西日本を舞台にした映画だけのことはある。偶然に映り込んでたのが広島に本社があるマツダの「ケーザブロー」だったとは!‥‥ってことで、当時の軽のオート3輪は、ダイハツが「ミゼット」、三菱が「レオ」だったのに対して、マツダの「K360」は呼びにくいため「ケーザブロー」とか「ケサブロー」とか呼ばれてたそうだ。

 

あたしは自動車の博物館でしか実物を見たことがないけど、当時の軽のオート3輪の中だと、この「ケーザブロー」が一番可愛くて好きだ。だから今回は、レストアされた今の「ケーザブロー」じゃなくて、実際に働いてた当時の「ケーザブロー」の貴重な姿を見るために、ポーズを押して画面を停止させてジックリと眺めた。だけど、デジタル・リマスターされた映像でも、やっぱり荷台のサイドに書かれた文字はよく分からなかった。

 

 

‥‥そんなワケで、あたしは、停止した画面で吉永小百合さんの顔の横に半分だけ見えてる「ケーザブロー」の姿をぼんやりと眺めながら、目を細めたり、画面から離れてみたりと、いろいろ工夫してみた。そしたら、「六甲」の後のハッキリ見えない文字が、何となく「牧場」に見えて来た。もしも「牧場」だったとしたら、「六甲」と「牧場」の間の三角マークが「山」という意味になり、「六甲山牧場」ということになる。ま、そこまで推測しても仕方ないんだけど、こんなに可愛い車が、趣味とかじゃなくて、実際に「働く車」として全国各地で走り回ってただなんて、ホントに素敵だと思う‥‥ってなワケで、この映画『青春の風』(1968年)は、GyaOで6月15日まで無料配信してるので、興味を持った人はお見逃しなく!それから、吉永小百合さんとお父さんが2人で釣りをするシーンで、親子そろってスピニングリールの使い方を間違えてるので、釣りが好きな人はそこもお見逃しなく!‥‥なんて感じの今日この頃なのだ(笑)

 

 

■映画『青春の風』(6月15日まで)■
http://gyao.yahoo.co.jp/player/00805/v10209/v0985100000000541802/

 

 

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2015.06.01

6月の花嫁

今日から6月というワケで、6月と言えば「ジューンブライド(june bride)」だ。「ブライダル(bridal)」は「結婚式」だけど、「ブライド(bride)」は「花嫁」という意味で、直訳すれば「6月の花嫁」、6月に結婚した花嫁さんは幸せになれるって意味だけど、こんな梅雨のシーズンを選んで結婚式を挙げなくても‥‥って思うのが普通だろう。

 

日本では古来より、普通の日を「ケ」の日、祭礼などのお祝いごとを行なう日を「ハレ」の日と呼んで、日常と非日常を使い分けてきた。だから、「晴れの日」「晴れ着」「晴れ舞台」など、おめでたいコトやモノには「ハレ」という言葉が使われてる。

 

それなのに、何よりもおめでたい「晴れの日」であるはずの結婚式が「雨」じゃシャレにならない。もちろん、何ヶ月も先の結婚式の日のお天気なんか予想できないから、大切な日が「雨」になっちゃった人もたくさんいるだろうけど、それでも、わざわざ「雨の多いシーズン」を選ぶことはないだろう。

 

だから日本では、梅雨のシーズンである6月に結婚式を挙げる人は少なかった。どこのホテルの結婚式場も、毎年6月になると閑古鳥が鳴いていた。それで、困り果てたホテルの経営者たちが、何とか6月にも結婚式を挙げてくれる人を増やそうと思って考え出したのが、ヨーロッパの言い伝えである「ジューンブライド」を日本でも流行らせようという作戦だった。

 

梅雨というのは日本など東アジアの一部だけで起こる現象で、ヨーロッパでは起こらない。逆に、ヨーロッパでは6月は比較的お天気のいい日が続く月なので、この「ジューンブライド」が成り立つのだ。だけど、それを日本でも流行らせて、閑古鳥の鳴いていた梅雨のシーズンに結婚式を挙げる人を増やそうとするなんて、幸せになるのは「6月の花嫁」じゃなくて「6月のホテルの経営者」のような気がする今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?

 

 

‥‥そんなワケで、日本はともかく、そもそも何でヨーロッパでは6月に結婚した花嫁さんが幸せになると言われているのか?‥‥ってことだけど、これには3つの説がある。

 

まず1つめは、「ローマ神話」を起源とする説だ。あたしの大好きな「ギリシャ神話」については、これまでに何度も書いて来たから、昔から「きっこのブログ」を読んでくれてる人なら、ゼウスという誰彼かまわずヤリまくりのエロ神様と、ヘラという奥さんの名前くらいは覚えてると思う。ヘラは最高位の女神だけど、ものすごく嫉妬深くて、夫のゼウスが浮気をするたびに相手の女に復讐しちゃう。ヘラはゼウスが正妻に選んだほどの女神だから、もちろんとっても美しくて、ゼウスは結局、ヘラのところに戻って来る。ゼウスは浮気性だけど、本心ではヘラのことを愛してるから、絶対に別れることはない。

 

そのため、ヘラは、結婚と出産を司り、女性と子どもと家庭の守護神とされている。そして、そのヘラが守護している月が「6月」で、ヘラの祭礼は6月1日に行なわれている‥‥ってなワケで、この「ギリシャ神話」のゼウスとヘラが、「ローマ神話」になると、ユーピテルとユノという名前に変わる。英語読みをすると、ユーピテルはジュピター、ユノはジュノーになる。

 

ユノ(ジュノー)は「JUNO」、これが6月の呼び名である「JUNE」になった。だから「ジューンブライド」というのは、直訳すれば「6月の花嫁」だけど、それだけじゃなくて、「結婚と出産を司る女神であり、女性と子どもと家庭の守護神であるユノの月の花嫁」ということになる。これなら、6月に結婚式を挙げた花嫁さんが幸せになれる雰囲気がマンマンだ。

 

で、2つめの説と言うのは、もっと現実的なものだ。ヨーロッパでも農業は、日本と同じように、畑を耕したり種を蒔いたりする春が忙しい。それで、この時期に結婚式が行なわれると農作業の妨げとなることから、昔のヨーロッパでは、3月、4月、5月の3カ月間を「結婚禁止」にしていたのだ。そのため、この禁止期間が明けた6月になると、カップルたちがいっせいに結婚式を挙げるようになり、村中、町中が祝福ムードになった。こうした歴史があるため、3カ月間の「結婚禁止」がなくなった現在も、「6月に結婚すると幸せになる」という言い伝えが残っている。

 

そして、最後の3つめの説は、もっと現実的なもので、ただ単に「ヨーロッパでは1年のうち6月が最も雨が少なくて気候が良いから」というもの。だから、もしもこの説がホントの由来だったとしたら、強引に「1年のうちで最も雨の多い時期」に持ち込んだ日本のホテルの経営者たちは、完全に「ジューンブライド」の意味を正反対にしちゃったことになる。

 

ま、この3つの説のうち、どれか1つが正解ってことじゃなくて、あたしは、3つとも正解なんだと思ってる。1番最初に「ジューンブライド」が誕生した時には、「ローマ神話」に基づいていたり、「結婚禁止」に基づいていたりしたのかもしれないけど、もしもヨーロッパにも梅雨があったとしたら、そんな時期を「結婚に適した月」にするハズがないから、3つめの説だって意味を持ってると思う。

 

 

‥‥そんなワケで、日本では、サンデー、マンデー、チューズデー‥‥という曜日は、日曜日、月曜日、火曜日‥‥と、それぞれ対応してるけど、月のほうは、ジャニアリー、フェブラリー、マーチ‥‥という魅力的な呼び名に対して、1月、2月、3月‥‥というように、ただ数字を並べてるだけで味気ない。だから、せっかくの「ジューンブライド」という素敵な言葉も、「6月の花嫁」なんていうイメージの湧きにくい訳になっちゃうのだ。だけど、日本でも、旧暦ではちゃんとした月の呼び名があった。

 

 

1月は「睦月(むつき)」、年の初めを家族と仲睦まじく過ごす月という意味。

 

2月は「如月(きさらぎ)」、着物を重ねて着る「衣更着(きさらぎ)」が転じたもので、また寒い月だという意味。

 

3月は「弥生(やよい)」、「いよいよ草花が生い茂る」という意味の「いやおい」という言葉が転じたもの。

 

4月は「卯月(うづき)」、卯の花(うのはな)が咲く月という意味。卯の花の別名はウツギで、お豆腐の搾りかすのオカラのことを卯の花と呼ぶのは、オカラの見た目が白いウツギの花に似ているから。

 

5月は「皐月(さつき)」、田んぼに早苗を植える月という意味の「早苗月(さなえつき)」が縮まったもの。

 

6月は「水無月(みなづき)」、梅雨が明けて水が枯れ始める月という意味。

 

7月は「文月(ふづき)」、思い人に文をしたためて七夕に託す月という意味。

 

8月は「葉月(はづき)」、木の葉が紅く色づき始める月という意味。

 

9月は「長月(ながつき)」、夜が長い月という意味。

 

10月は「神無月(かんなづき)」、日本中の神社にいる神様たちが出雲大社に集まるため、全国の神様がいなくなってしまう月という意味。そのため、出雲大社のある島根県だけは10月のことを「神有月(かみありづき)」と呼ぶ。

 

11月は「霜月(しもつき)」、霜が降り始める月という意味。

 

12月は「師走(しわす)」、お坊さん(師)が年末の仏事で忙しく走り回るというのは後から考えられた俗説で、古くは「四季の果てる月」を意味する「四極(しはつ)」を由来とする説や、「年の最後に成し遂げる」という意味の「為果つ(しはつ)」を由来とする説などがある。

 

 

‥‥そんなワケで、この一覧を見て「あれ?」って思った人もいるだろうけど、さんざん「6月は梅雨のシーズンだ」「6月は雨が多い」と書いて来たのに、6月は「水の無い月」と書いて「水無月(みなづき)」と呼ばれてるし、「梅雨が明けて水が枯れ始める月という意味」と書かれてるじゃん!‥‥って、これは「YES!プリキュア5」のキュアアクア、水無月かれんちゃんに聞くまでもなく、もちろん、「旧暦」だからだ。

 

この12カ月の呼び名は、あくまでも「旧暦」での呼び名だから、たとえば「水無月」なら、旧暦の6月1日から30日までのことなのだ。これを現在の新暦に直すと、6月1日は7月16日に当たる。つまり、7月16日からの30日間がホントの「水無月」であって、ほとんどの場合は梅雨が明けたあとなのだ。

 

逆に、新暦の6月1日の今日は、旧暦で言うと4月15日に当たる。だからホントなら、今は「水無月」どころか、その前の「皐月」の、もう1つ前の「卯月」なのだ。今日6月1日から月末までの30日間は、旧暦で言えば前半15日が4月の「卯月」で、後半15日が5月の「皐月」ということになる。

 

だけど、こうした対応をキチンとすると「月を跨ぐ形」になっちゃって解かりにくくなるし、何よりも新暦の1月から2月にかけてが「師走」になっちゃうので、ちょっと都合が悪い。それで、無理を承知で旧暦の1月の呼び名をそのまま新暦の1月に対応させちゃったのだ。

 

そのせいで、おかしなことがたくさん起こってる。たとえば、5月に降る雨のことを「五月雨(さみだれ)」と呼ぶけど、これは旧暦の「皐月」、つまり現在の梅雨の時期に降る雨のことだ。そして、毎日ジトジトと降り続くの梅雨の長雨の間に、たまに1日か2日だけ、お天気のいい日があって青空が見えたりする。これが本来の「五月晴れ(さつきばれ)」なのだ。だけど、現代の人の中には、新暦の5月の晴れ渡った青空のことを「五月晴れ」だと思い込んで、誤用している人が少なくない。

 

「うるさい」という言葉を「五月の蝿(はえ)」と書いて「五月蝿い」と表記する当て字があるけど、これにしたって現代の人にしてみれば、何で5月のハエがうるさいのか解からないと思う。これも「五月雨」や「五月晴れ」と同じく旧暦の5月、つまり、梅雨のシーズンのことなのだ。昔はエアコンも除湿機も冷蔵庫もなかったから、梅雨になればカビが生えやすくなり、食べ物も腐りやすくなり、その結果、ハエも増えたのだ。

 

 

‥‥そんなワケで、最後にクルリンパと話を「ジューンブライド」に戻すけど、あまり知られていないこととして、この「6月の花嫁は幸せになれる」という言い伝えには、「5月の花嫁は不幸になる」という対になる言い伝えがある。6月の守護神は結婚や出産を司る女神のヘラだけど、5月の守護神は豊作を司る女神のマイアなので、このマイアが農作業の忙しい5月に結婚式を挙げるような人たちを嫌ったからだと言われてる。つまり、最初に挙げた3つの説のうち、この「ローマ神話」の説と、農作業が忙しいために3月から5月までを「結婚禁止」にしていたからという説とは、根底ではつながっていたのだ‥‥ってなワケで、今日は特別な「ハレ」の日じゃなくて普通の「ケ」の日なので、特にオチもなく着地してみた今日この頃なのだ。

 

 

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