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2016.02.06

ヴォルフガングと悪魔の話

1987年にアメリカのギタリスト、クリス・インペリテリが結成したヘヴィメタルバンド「インペリテリ」は、レインボーやアルカトラスのヴォーカルをつとめて来たグラハム・ボネットを迎えて発表したファーストアルバム「スタンド・イン・ライン」で注目された。そして、1994年にリリースされたサードアルバム「アンサー・トゥ・ザ・マスター」のジャケットがこれだ。

 

 

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何も知らない人が見ても、これが「聖職者と悪魔」を描いたものであることは分かると思うし、よく見ると悪魔のお尻にも顔があることが分かる。実は、この絵は、このアルバムのために描かれたものじゃなくて、15世紀に活躍したミヒャエル・パッヒャー(Michael Pacher)というオーストリアの祭壇画家で彫刻家の作品だ。

 

この作品には、主に2つのタイトルがある。「St. Augustine and the Devil (聖アウグスチヌスと悪魔)」と「St. Wolfgang and the Devil (聖ヴォルフガングと悪魔)」だ。だから、悪魔は悪魔で間違いないんだけど、聖職者のほうが、聖アウグスチヌスなのか聖ヴォルフガングなのか分からない。で、いろいろと調べてみたら、「The Devil Presenting St. Augustine with the Book of Vices (悪癖の本で聖アウグスチヌスを紹介している悪魔)」という第3のタイトルが見つかった。

 

聖アウグスチヌスは4世紀、聖ヴォルフガングは10世紀の聖人なので、聖アウグスチヌスのことが書かれている本を聖ヴォルフガングに見せるということは可能だけど、その逆は不可能だ。そして、もっと調べてみたら、これは、当時いろいろと創作されていたキリスト教的な都市伝説みたいなものを絵にした作品だということが分かった。

 

実際のヴォルフガングは、920年にドイツ南部のスウェーベンの貴族の家に生まれ、修道院のある学校で学び、神学校へと進み、大司教に任命された友人の招きで神学校の校長になる。そして、972年、皇帝オットー2世からレーゲンスブルクの司教に任命される。自身は質素な生活を続けながら、貧しい人々の支援に尽力した。994年に没した後、1052年に聖人となった今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?

 

 

‥‥そんなワケで、オーストリアの首都ウィーンから南西へ220キロほどの場所に、かつて「アパー湖」と呼ばれていた湖があった。976年、この湖の湖畔でヴォルフガングが修行をしていると、「ヴォルフガングよ、その手にしている斧を投げよ。そして落ちたところに教会を立てよ」という神のお告げがあった。そして、そのお告げに従って建てられたのが「聖ヴォルフガング巡礼教会」だ。

 

もちろん、これは、あくまでも伝説なので、本当にヴォルフガングが神のお告げを聞いたのか分からないし、斧を投げたのかも分からないけど、この教会は多くの巡礼者を集め、街は発展し、湖の名前は「アパー湖」から「ヴォルフガング湖」に改められた。残念なことに、この教会は1429年に火事で焼けてしまったけど、1477年に後期ゴシック様式の教会が再建され、年間数万人もの巡礼者が訪れるようになった。この教会の主祭壇は、オーストリアに現存するゴシック式祭壇の中の最高傑作と言われている。そして、1471年から1481年まで、10年を費やしてこの祭壇画を制作したのが、そう、ミヒャエル・パッヒャーなのだ。

 

で、話はクルリンパと戻るけど、そのミヒャエル・パッヒャーが描き、500年後にアメリカのヘヴィメタルバンド「インペリテリ」がアルバムのジャケットに使用した作品が、3つのタイトルを総合すると、「聖ヴォルフガングに悪癖の本で聖アウグスチヌスを紹介している悪魔」ということになる。

 

これが、どういうことかというと、1人では教会を建てる力のなかったヴォルフガングに、悪魔が「聖アウグスチヌスは悪魔の力を借りて教会を建てたのだ」という嘘が書いてある本を見せている場面なのだ。ようするに、文字通り「悪魔のささやき」というワケで、ヴォルフガングはこの「悪魔のささやき」に乗っかり、悪魔の力を借りて教会を建てることにしたのだ。

 

悪魔との契約では、教会建設の対価は「完成した教会に最初に足を踏み入れた者の魂」だった。そこで、ヴォルフガングは、教会が完成すると、最初にオオカミを誘導して教会へ入れたのだ。そのため、悪魔はオオカミの魂しか手に入れることができなかった。めでたし、めでたし‥‥って、ちょっと聖職者としては疑問の残る手口だけど、これは皆さんがウスウス気づき始めてるように、ヴォルフガング(Wolfgang)という名前の「ヴォルフ」が、英語では「ウルフ」、つまり「オオカミ」だというところから創作された話なのだ。

 

 

‥‥そんなワケで、火事で焼けてしまった聖ヴォルフガング巡礼教会が、後期ゴシック様式で再建され、ミヒャエル・パッヒャーによる祭壇画が納められてから約300年後の1755年11月2日、オーストリアの首都ウィーンで、1人の女性が誕生した。神聖ローマ皇帝のフランツ1世シュテファンとオーストリア女帝のマリア・テレジアの間に生まれたマリア・アントーニア、フランス語読みならマリー・アントワネットだ。

 

そして、マリー・アントワネットの誕生から3カ月後の1756年1月27日、ザルツブルクでモーツァルトが誕生した。ザルツブルクは、今はオーストリアの都市だけど、当時は神聖ローマ帝国の領土だった。そんなモーツァルトのフルネームは、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト‥‥ってなワケで、またまた「ヴォルフガング」が登場した!

 

幼少時に「天才」や「神童」の名を欲しいままにしたモーツァルトは、音楽家の父親に連れられてパリやロンドンなどを演奏してまわった。そして、1762年10月13日、女帝マリア・テレジアに招かれてウィーンのシェーンブルン宮殿で演奏することになった。この時、当時6歳だったモーツァルトはピカピカに磨き抜かれた床で足を滑らせて尻餅をついてしまったが、サッと手を差し伸べたのが、モーツァルトと同年代の皇女マリア・アントーニア(マリー・アントワネット)だった。

 

助け起こされたモーツァルトは、その少女の美しさにひと目惚れしてしまい、その場で「大きくなったら僕のお嫁さんになってほしい」と言った。だけど、この時、すでにマリア・アントーニアには婚約者がいた。そう、フランス王太子ルイ・オーギュスト、後のルイ16世だ。

 

オーストリア系ハプスブルク家とフランス系ブルボン家は、何世紀にもわたって、ドイツ、イタリア、フランドルを戦場としてヨーロッパの覇権を争って来たけど、長年の戦争でお互いに疲弊して来た。その上、正統カトリックを離脱したイギリスがヨーロッパ支配を目論み始め、プロテスタントのプロイセンも強大な王国へと発展して来て、もはやアッチもコッチも危険な状態になった。そこで、ハプスブルク家とブルボン家は、長年にわたる争いに終止符を打ち、手を結ぶことにしたのだ。この両家が手を結べば、その勢力は強大になり、誰もオイソレとは手が出せなくなるからだ。

 

それが、両家の婚礼、つまり、政略結婚だった。ハプスブルク家の皇女がブルボン家の王太子と結婚すれば、両家、両国は太い絆で結ばれて、周辺の勢力は誰もケンカなど売って来なくなる‥‥ってなワケで、オーストリアの女帝マリア・テレジアの娘マリア・アントーニアは、最初はフランス王太子ルイ・ジョゼフと政略結婚するハズだった。だけど、王太子ルイ・ジョゼフは1961年に結核で亡くなってしまったため、その弟のルイ・オーギュストが王太子となり、結婚相手になったのだ。

 

こうした大人の事情を後から知らされた6歳のモーツァルトは、生意気にも生まれて初めての失恋に心を痛めてしまい、3年間にも及ぶ傷心ツアーへと旅立った。松本伊代的に言えば「センチメンタル・ジャーニー」ってワケだけど、ミュンヘン、フランクフルト、パリ、ロンドンなどを演奏してまわった。

 

フランクフルトには3週間ほど滞在し、計4回のコンサートを行なった。姉のナンネルがピアノを弾き、弟のモーツァルトがバイオリンを演奏するというのが定番の演奏スタイルだったけど、コンサートの中ではモーツァルトが目隠しをしてピアノを弾くという見世物カラーの強い出し物もあったので、どちらかというと純粋なコンサートではなく、「天才少年」を売り物にしたショーのような感じだったのかもしれない。そして、このフランクフルトでのコンサートの聴衆の中に、当時14歳だったゲーテがいたのだ。この日から60年以上たった晩年、ゲーテは次のように語っている。

 

 

「私は7歳のモーツァルトを見ました。彼は旅の途中で演奏会を開いていたのです。私は当時14歳でしたが、あの小さな人物の調髪と剣を今でもはっきりと覚えています」

 

 

‥‥そんなワケで、ゲーテと言えばモーツァルトと同じく名前くらいは誰でも知っているドイツの文豪だけど、そんなゲーテのフルネームは、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ‥‥ってなワケで、またまたまたまた「ヴォルフガング」が登場した!

 

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトと、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは、まさか「ヴォルフガングつながり」って理由からじゃないだろうけど、お互いを尊敬し合っていた。直接的な交流はなかったけど、お互いの存在や作品は知っていた。そんな中、ゲーテの詩をモーツァルトが歌曲に仕上げた「すみれ」が生まれたワケだけど、この作品にしても、2人の間で何らかのやり取りがあったワケじゃなくて、このゲーテの詩を偶然に目にしたモーツァルトが、勝手に歌曲にしたものだ。

 

そして、モーツァルトがマリア・アントーニアに失恋してから8年後、14歳になったマリア・アントーニアは、ついにフランス王太子ルイ・オーギュストと結婚することになった。敵対していた国同士の政略結婚なので、一方の顔を潰さないようにと、何から何まで厳格に取り決められた。たとえば、どこで花嫁を引き渡すのか。オーストリアで引き渡せばフランスのメンツが潰れてしまうし、フランスで引き渡せばオーストリアのメンツが潰れてします。そこで、両国の国境を流れるライン川の中州に、花嫁のお引き渡しの儀式を行なう建物を造らせたのだ。

 

急きょ造られた建物は、市民たちの興味の的になったが、もちろん、中を観ることなどできなかった。でも、儀式まではまだ日にちがあったので、護衛の門番に銀貨の2~3枚でも握らせれば、コッソリと中に入ることができた。そして、たまたまこの地を訪れていた20歳のゲーテも、仲間の学生たちと一緒に建物の中に入った。中は素晴らしい装飾品や壁掛けなどで豪華に飾られていたが、感心する友人たちとは裏腹に、ゲーテは激怒した。

 

ゲーテの見つめていた壁掛けは、イアソン、メディア、クレウーサの神話を描いたものだった。魔女メディアはイアソンの妻となるが、イアソンが新しい妻としてクレウーサを迎えようとしたため、激怒したメディアはクレウーサを殺し、自分の子どもまで殺してしまうのだ。ギリシャ神話の中でも、特に残酷な結婚絡みの神話なのに、若き王妃のお輿入れの場にこんな縁起の悪いものを飾っているなんて、いったいぜんたいフランスの建築家や室内装飾家は何を考えているのだ!ゲーテの怒りは収まらなかった。

 

だけど、20歳の学生が王族に進言するワケには行かないし、それ以前に、そんなことをしたら、この建物に入ったことがバレてしまう。それで、ゲーテは、このことを自分の胸の中に仕舞って、口外はしなかった。でも、ゲーテの心配は取り越し苦労で、お引渡しの儀式で建物に入った付添人たちは、オーストリア側もフランス側も、誰1人として壁掛けなどには目もくれず、黙々と自分の仕事をこなし、最後までこの縁起の悪い壁掛けの存在は知られずに済んだのだ。

 

そして、この1年後、ゲーテが21歳の時に書き始めた「ファウスト」が完成したのは、60年後の81歳の時だった。日本では、手塚治虫の漫画や数々の映画、演劇などで観たことがある人も多いと思うけど、意外と原作を最後まで読んだ人は少ないと言われている。日本語訳は、森鴎外を筆頭にたくさんあるけど、あたしは高橋義孝の訳が好きだ。とっても読みやすくて面白いし、文庫本で上下2巻なのでそれほど長くないから、これから読んでみようと思った人には高橋義孝訳をオススメする。

 

「ファウスト」は、ザックリ言えば、ドイツに実在したと言われる錬金術師ゲオルグ・ファウストの伝説を下敷きにした創作で、主人公のファウスト博士は、ゲオルグ・ファウストと同じく、自分の魂を対価として悪魔と契約してしまい、最後には自分の魂を悪魔に持って行かれるって話だ。そして、「錬金術」や「対価」などの単語から「鋼の錬金術師」を想像した皆さんの期待通りに、ちゃんとホムンクルス(人造人間)も登場する。

 

 

‥‥そんなワケで、聖ヴォルフガングに関する都市伝説的な創作では、悪魔との契約をオオカミの魂でゴマカシて悪魔に一杯食わせることに成功したワケだけど、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの「ファウスト」では、ファウストは悪魔との契約が執行される言葉をうっかりと口にしてしまい、ファウストは死んで魂を悪魔に取られてしまう。でも、天上でファウストは、かつて愛した女性の祈りによって救われるから、バッドエンドとも言い切れない。それどころか、世の中に絶望して自殺しようとしていた老博士が、悪魔と契約してまで若返ったのに、現実世界では次々と不幸が起こり、ギリシャ神話の世界に行っても次々と不幸が起こり、結局、死をもってようやく永遠の安息を手に入れたという流れは、ある意味、ハッピーエンドと言ってもいいような気がする今日この頃なのだ。

 

 

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