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2016.02.25

妖怪ももんじいと肉食のタブー

あたしは、俗に言う「グルメ本」の類はいっさい読まないけど、池波正太郎の食べ物に関するエッセイは大好きだ。それは、古き佳き東京の庶民の味や風俗が満載で、東京生まれ東京育ちのあたしにとって、子どものころに食べていたものや体験していたことに符合する点がたくさんあるからだ。あ、一応、現代風に「エッセイ」と書いたけど、池波正太郎の場合は「随筆」と呼んだほうがいいかもね。

 

で、たとえば、あたしが子どものころ、おばあちゃんや母さんは小麦粉にキャベツと紅ショウガだけを混ぜたシンプルなお好み焼きを作ってくれて、これを「どんどん焼き」と呼んでいた。だけど、子どもだったあたしが「何で、どんどん焼きと言うの?」と聞いても、おばあちゃんも母さんも呼び名の由来は知らなかった。何でも知りたがる子ども時代のあたしが、それでも「何で?何で?」と聞くと、母さんは笑いながら「美味しくて、どんどん食べるからでしょ」なんて言っていた。

 

だけど、大人になってから池波正太郎の『食卓の情景』(新潮文庫)を読んでみたら、この中に東京の「どんどん焼き」について詳しく書かれていた。「どんどん焼き」という名前の由来にこそ触れてなかったけど、池波正太郎が子どもの時に、東京の下町のあちこちに出ていた屋台の「どんどん焼き」について、数々の思い出とともに詳しく書かれていた。それで、あたしは、長年の謎が解けたのだ。

 

子どもだったあたしは、おばあちゃんや母さんが作ってくれる「どんどん焼き」が大好きで、いつも大喜びして食べていた。でも、たまに父さんが家にいる時に「どんどん焼き」を作ると、父さんだけはお茶漬けとか別のものを食べていた。あたしはこれが不思議だったんだけど、池波正太郎の『食卓の情景』を読み、「どんどん焼き」が東京の下町の食文化だったことを知り、東京は東京でも下町とは反対の山の手育ちの父さんは、あまり好きではなかったんだと納得した今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?

 

 

‥‥そんなワケで、こないだ池波正太郎の食べ物エッセイ『散歩のとき何か食べたくなって』(新潮文庫)を読んでいたら、とっても興味深い一節に遭遇した。東京の蕎麦について書かれている「藪(やぶ)二店」という項の中で、池波正太郎が子どものころ、曾祖母に連れられて、よく蕎麦屋へ行ったという思い出だ。以下、その部分を引用させていただく。

 

 

(引用ここから)
 私を可愛がってくれた曾祖母も、何かごちそうしてくれるといえば、蕎麦やであった。先ず、天ぷらなどの種物(たねもの)をとってくれ、自分はゆっくりと一合の酒をのみながら、
「おいしいかえ?」
 などと、はなしかけてくる。
「うん、うまいよ」
 仕方なく、こたえる。
 実際のところ、どうせ、ごちそうしてくれるなら、支那飯屋のシューマイ御飯か、洋食屋のカツライスのほうがいいとおもうのだが、曽祖母は、
 「肉(ももんじい)なぞ食べると、ろくなことはないよ」
 と、私をたしなめた。
 維新のころは、大名屋敷に奉公をしていて、殿さまの〔御袴(おはかま)たたみ〕を受け持っていた曾祖母だけに、万事がこれだった。
(引用ここまで)
※池波正太郎『散歩のとき何か食べたくなって』(新潮文庫)より引用

 

 

この一節を読んだあたしが何よりも興味を持ったのが、池波正太郎の曽祖母が「肉」のことを「ももんじい」と言っている点だ。東京の下町には、今も「ももんじ屋」という店名で、イノシシ肉の牡丹鍋や牛肉のすき焼きなどを提供しているお店が残っているけど、池波正太郎が子どものころ、つまり、昭和初期には、一般の庶民の中にも「肉」のことを「ももんじい」と呼んで、忌み嫌っている人が残っていたのだ。

 

池波正太郎は大正12年(1923年)の生まれなので、その曾祖母ともなれば、たとえ時代は明治になっていても、まだまだ江戸時代を引きずっている世の中に生まれたことになる。さっきの引用の最後にも、大名屋敷に奉公していて殿さまの袴をたたむ仕事をしていたと書かれている。だから、池波正太郎の曾祖母は、少女のころから「獣の肉を食べることはNG」という江戸時代の風習が身に染みついていたんだと思う。

 

 

‥‥そんなワケで、縄文時代以前の日本人は狩猟民族だったから、もともと日本では、木の実や魚と同じように動物の肉も食べていた。そして、縄文時代の終わりころに稲作が始まったけど、それでも狩猟は続いていたし、日本人は長い間、動物の肉を食べて来た。500年代の飛鳥時代に、大陸から仏教が伝来して、動物を殺して食べることをタブー視するような風潮が生まれても、600年代の奈良時代に、稲作を促進して税収をアップさせるため、稲作の労働力であるウシやウマなどの肉食を禁止する法令が発布されても、それでも、日本人の多くは動物の肉を食べ続けて来た。

 

野生のイノシシやシカなどは、田畑の作物を食べてしまう害獣でもあったので、大切な作物を守るという意味でも、農民たちは罠を仕掛けたり鉄砲で撃ったりして害獣を駆除していたし、その害獣の肉を食べたり、皮や角や骨などを加工して生活用品を作ったりすることは、それこそ生活の一部だった。だから、いくら肉食をタブー視するような風潮が生まれても、法令で肉食が禁じられても、それをきちんと実践していたのは、仏教のお坊さんのような一部の人たちだけだった。

 

そのため日本では、庶民までが本格的に動物の肉を食べにくくなったのは、江戸時代に入って、5代将軍徳川綱吉が「生類憐みの令」を発布してからだ。その証拠に、「生類憐みの令」が発布される50年ほど前の江戸時代初期、寛永20年(1643年)に編まれた『料理物語』という、当時の料理をまとめた本には、一般的に食べられている動物の肉として、「シカ、タヌキ、イノシシ、ウサギ、カワウソ、クマ、イヌ」の7種があげられていて、その代表的な料理方法まで紹介させている。

 

そして、この「生類憐みの令」にしても、発布しても発布しても隠れて動物の肉を食べる庶民が後を絶たなかったため、ナンダカンダと内容を変えたり追加条項を作ったりして、100回以上も発布されている。だけど、これは綱吉のほうに問題があったと思う。だって、「イヌを殺してはいけない」とかだけなら多くの庶民が従ったと思うし、百歩ゆずっても「四つ足の動物を殺してはいけない」くらいならともかく、綱吉は「魚や貝や虫」まで殺生を禁じたのだ。虫を殺してもいけないなんて、こんなの守れるワケがない。

 

 

‥‥そんなワケで、この「生類憐みの令」は、その内容こそ「おいおい!」と思うほど厳しいものだったけど、実際の取り締まりはそれほど厳しくなかった。だって、腕にとまった蚊を叩いて殺した人まで摘発していたらキリがないからだ。でも、地方はともかく、徳川綱吉のお膝元の江戸では、それなりに取り締まらないとシメシがつかないので、ある意味、見せしめ的な感じで、年に2~3件は処罰されていた。ちなみに、綱吉が「生類憐みの令」を最初に発布してから亡くなるまでの24年間に、処罰されたのは計69件だったと言われている。

 

これでも、どこそこの誰々は「生類憐みの令」を破ったので死罪にするとか島流しにするとか書かれた紙が貼り出されるワケだし、瓦版にも書かれるワケだから、隠れて動物の肉を食べている庶民に対しては、一定の効果はあったのかもしれない。でも、ほとんどの庶民は、それまでずっと続いて来た自分たちの食文化をおいそれと変えられるワケがないから、やっぱり、隠れて食べ続けていた。

 

一方、武家の側を甘くするワケには行かないから、たった1羽の鳥を殺しただけで、死罪や切腹になった旗本や与力もいた。当時、武家の間では、こうした不祥事を出さないように、法令で縛るだけではなく、「生き物を殺生するとバチが当たる」とか「動物の肉を食べると不幸なことが起こる」とか、仏教を利用した洗脳が行なわれていた。そして、ここでようやく話がクルリンパと戻るんだけど、大名屋敷に奉公して殿さまの下で働いていた池波正太郎の曽祖母は、こうした洗脳をタップリと浴びていたということになる。

 

 

‥‥そんなワケで、少女のころに大名屋敷に奉公していた池波正太郎の曽祖母は、時代が明治、大正、昭和と変わっても、シューマイ御飯やカツライスを食べたがる自分の曾孫の池波正太郎に対して、「肉(ももんじい)なぞ食べると、ろくなことはないよ」と言い続けていたのだ‥‥ってなワケで、長い前置きも済んだので、いよいよ本質に迫っちゃうけど、池波正太郎の曾祖母は、どうして「肉」のことを「ももんじい」と言っていたのだろうか?

 

「ももんじい」とは「百々爺」、妖怪の名前だ。あたしの大好きな『ゲゲゲの鬼太郎』では、鬼太郎を無実の罪で告発した悪い妖怪だ。百々爺が捏造したインチキな証拠写真で鬼太郎を告発したため、鬼太郎は、閻魔大王が裁判長をつとめる妖怪裁判で「千年の壺漬けの刑」に処せられてしまいそうになる。でも、ギリギリのとこで、鬼太郎に助けられた妖怪たちが鬼太郎に有利な証言をした上、百々爺の側についていたねずみ男までもが鬼太郎の味方になり、ホントの悪者は百々爺だったということが明らかになる。

 

そんな百々爺だけど、江戸時代中期の浮世絵師の鳥山石燕(とりやま せきえん)が安永8年(1779年)に刊行した妖怪画集『今昔画図続百鬼』では、次のように解説してある。

 

 

「百々爺未詳。愚按ずるに山東に摸捫ぐはと称するもの、一名野襖ともいふとぞ。京師の人小児を怖しめて啼を止むるに元興寺といふ。もゝんぐはとがごしとふたつのものを合せてもゝんぢいといふ。原野夜ふけてゆきゝたえ、きりとぢ風すごきとき、老夫と化して出て遊ぶ。行旅の人これに遭へばかならず病むといへり」

 

 

この解説を読んでも、何が何だか分からないと思うので、あたしがザックリと現代文に訳すけど、まず「未詳」というのは「まだハッキリしないこと」という意味だ。つまり、これを書いている鳥山石燕自身が、百々爺という妖怪については、まだハッキリとしたことが分からないので、取りあえず、現時点で分かっていることだけを書いておきますね~って感じの解説ってワケだ。

 

で、カンジンの本文だけど、「山東に摸捫ぐはと称するもの」の「摸捫ぐは」は「ももんぐは」、あの「ももんが」のことだ。そして、別名「野衾(のぶすま)」とも言うと解説している。それから、「京都では子どもを叱る時に『元興寺』と言って脅かす」と書かれている。「元興寺(がんごうじ)」は奈良にあるお寺のことだけど、ここでは「元興寺に鬼が出た」という言い伝えから転じて、その鬼のことを「元興寺(がごし)」と呼ぶようになったという流れを踏まえている。つまり、悪いことをした子どもを叱る時に、大人は「がごしが出るぞ」と言って脅かしていたという意味だ。

 

続く、「もゝんぐはとがごしとふたつのものを合せてもゝんぢいといふ」というのは、山東の妖怪の「摸捫ぐは(ももんが)」と、元興寺に出た鬼の「元興寺(がごし)」を合体ロボさせて、「百々爺(ももんじい)」というようになった‥‥ってことだ。そして、その後の解説では、「夜が更けても風の強い日には、(百々爺は)老人に化けて外に遊びに出る。旅人などが(この百々爺に)出くわすと、必ず病気になってしまう」と書かれている。

 

で、「ももんがの別名」として登場した新たな妖怪「野衾(のぶすま)」だけど、これも『ゲゲゲの鬼太郎』が大好きなあたしにはオナジミの妖怪だ。そして、さっきの百々爺と同じく、『今昔画図続百鬼』で解説されている。

 

 

「野衾は鼯(むささび)の事なり。形蝙蝠(かたち こうもり)に似て、毛生ひて翅(つばさ)も即肉なり。四の足あれども短く、爪長くして、木の実をも喰ひ、又は火焔をもくへり」

 

 

これは現代語に直さなくてもだいたいの意味は分かると思うけど、「野衾とはムササビのことで、姿はコウモリに似ている。全身が毛に覆われていて、翼までもが鳥とは違って肉質だ。4本の手足を持っているが、その手足自体は短く、しかし爪は鋭く長い。木の実を食べるような大人しい妖怪でありながら、その一方で、口から火を吐くこともある」ってな感じだ。

 

今でこそ、「モモンガやムササビは哺乳類」だと分かっているけど、モモンガやムササビは、山や森を歩く人をめがけて飛んで来て、人の顔に覆いかぶさったり、夜、焚き火や松明(たいまつ)の火に釣られて飛んで来ることがあったようで、こうした習性から、実在の動物でありながら、妖怪の一種とも見られていたようだ。だから、昔の江戸周辺では、実際のモモンガやムササビのことを野衾とか飛倉(とびくら)と呼ぶこともあったし、野衾とか飛倉と呼ばれている「モモンガやムササビに似た妖怪がいる」という認識もあった。

 

だから、野衾は、今のツチノコのような存在だったのかも知れない。事実、地方によっては、ツチノコの別名である「ノヅチ」や「ツチコロビ」を野衾と呼ぶところもある。飛んで来て旅人の顔に覆いかぶさるモモンガやムササビと、足元に飛び出して来て旅人を転ばせるノヅチやツチコロビは、どちらも山越えの旅人の足を止める妖怪として、同じ名前で呼ばれていても不思議じゃない。

 

一方の元興寺(がごし)のほうは、さっきの鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』には「がこし」と書かれていたけど、多くの文献には「がごじ」と書かれている。やっぱり、「寺」なんだから「じ」のほうがシックリ来るよね。で、もともとは奈良の元興寺(がんごうじ)に出た鬼の呼び名だったけど、この鬼が妖怪の代表格だったからなのか、そのうち妖怪全般を「がごじ」と呼ぶようになった。これも江戸周辺に広がったようで、江戸時代の文献には、妖怪のことを「がごじ」「がごぜ」「ぐわごぜ」「がんご」などと呼んでいるものが散見される。

 

 

‥‥そんなワケで、ここまで分かったことをマトメてみると、「もゝんぐは」は別名を「野衾(のぶすま)」と言い、全身が毛に覆われていて翼までもが肉でできている妖怪だということ。そして、その「もゝんぐは」と、妖怪の代名詞でもある「がごじ」を合わせた妖怪が「もゝんぢい」だということ。ここまで分かれば、もうゴールは目の前だ。

 

「生類憐みの令」を発布した5代将軍徳川綱吉が亡くなり、動物の肉を食べることが法に触れなくなってからも、仏教が禁じている殺生には反するということから、庶民はイノシシやシカなどの動物の肉を食べることを「薬喰い(くすりぐい)」と呼んでいた。栄養価の高い動物の肉を食べることは、ある意味、薬と同じ意味合いだったので、「薬なのだから」という観点が、仏教の禁じている殺生に反することへのイイワケにもなっていたのだ。

 

そして、冒頭でも「東京の下町には、今も「ももんじ屋」という店名で、イノシシ肉の牡丹鍋や牛肉のすき焼きなどを提供しているお店が残っている」と書いたけど、当時の江戸では、イノシシやシカなどの動物の肉を売ったり、料理して提供する店のことを「ももんじい屋」とか「ももんじ屋」と言っていた。この呼び名は、禁を破ってまで食べる動物の肉のことを、全身が毛に覆われていて翼までもが肉でできている妖怪の「もゝんぐは」の発展形の「もゝんぢい」になぞらえた、ある意味、自虐的なネーミングがルーツだ。表向きは「忌み嫌われている肉」で商売をしているため、「忌み嫌われている妖怪」の名前をつけたという流れだ。

 

さらには、食べると病気にならないと謳っていた「薬喰い」の店に、出くわすと必ず病気になってしまう妖怪「百々爺」の名前をつけるという、反語的な意味合いもあった。だから、正面切っての自虐的なネーミングというよりも、江戸っ子の洒落が効いたネーミングなのだろう。

 

もちろん、江戸の庶民は店の名前など関係なく、美味しい牡丹鍋や紅葉鍋、桜鍋やすき焼きなどを堪能していたワケだし、これが、明治時代に入ってからの「すき焼きブーム」へと繋がって行くワケだけど、それでも、頑なに肉食を拒んで来たのが、一部の信心深い武家の家系だったのだろう。そして、ようやくゴールにたどり着いた。そう、「肉(ももんじい)なぞ食べると、ろくなことはないよ」という池波正太郎の曾祖母の言葉だ。

 

 

‥‥そんなワケで、今でこそ、動物の肉を食べない日本人の大半は、思想的な理由、つまり、自分の意思で肉を口にしないことを選択したベジタリアンだけど、江戸時代には、法令や宗教的な理由から、動物の肉を食べたくても食べられない時期や、隠れて食べなくてはならなかった時期もあったのだ。そして、江戸から明治、明治から大正、大正から昭和へと時代が流れ、世の中が大きく変化しても、それでも頑なに江戸の武家の戒律を受け継いでいた人がいたのだ。昭和になっても「肉」のことを「ももんじい」と呼び、曾孫に向かって食べると「ろくなことはない」と言い切る。『散歩のとき何か食べたくなって』の、この一節を読んだあたしは、池波正太郎の曾祖母に対して、時代の犠牲者というマイナスの面よりも、日本文化の伝承者というプラスの面こそが際立って感じられた今日この頃なのだ。

 

 

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