雷鳴と恋愛
あたしは読書が大好きだけど、新刊を次々と買えるような状況でもないし、近くに図書館もないから、ここ数年は、手持ちの愛読書を読み返してる。マイ・フェバリットである角田光代さんの『対岸の彼女』(文春文庫)や、加納朋子さんの『ささら さや』(幻冬舎文庫)は、何度読み返したか分からないほどで、読み返すたびに、何かしらの新しい発見を授けてくれる。
で、今は、これまたマイ・フェバリットである川上弘美さんの『センセイの鞄』を読み返してたんだけど、酔ってセンセイのお家に行ったツキコが、突然の雷に驚いて、センセイのことが好きだと告白して、センセイに抱きしめられる場面で、深夜1時のあたしの部屋の真っ暗だった窓が、ピカッと光って、1秒後にガラガラドッカーン!と雷鳴が轟き、真横からの雨が窓ガラスを叩き始めた。
残念ながら、あたしの周囲に包容力のあるセンセイはいなかったし、母さんは隣りの部屋で熟睡してたから、あたしは、とりあえずカーテンを閉めて、電気ポットでお湯を沸かして、8杯ぶんで190円のコーヒーを淹れて、それを飲みながら、川上弘美さんの『センセイの鞄』の続きを読んだ今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、あたしは、ツキコほどは雷が恐くないけど、それでも、あまりにも激しい雷鳴を聞くと、ちょっとは恐くなる。遠くのほうで鳴ってるぶんには大したことないけど、ピカッ!からガラガラドッカーン!までの間隔が狭くて、目と鼻の先に落ちたような雷鳴を聞くと、さすがに恐くなる。
だけど、そんなに恐ろしい雷鳴でさえも、恋愛のネタにしてしまっていたのが、万葉の時代の貴族たちなのだ。まず、今まで何度も書いて来たけど、恋愛感情のある女性が男性を呼ぶ時は「君(きみ)」、男性が女性を呼ぶ時は「妹(いも)」、この基本を踏まえた上で、あたしの大好きな『万葉集』には、こんな歌が収められている。
「鳴る神の少し響(とよ)みてさし曇り雨も降らぬか君を留めむ」 詠み人しらず
(雷が少し響き始め、空が曇り始め、雨も降ってくれないかしら。そうなれば、愛しいあなたを引き留められるのに)
これは、自分の部屋を訪ねて来た男性に対して、その部屋の女性が詠んだ歌なんだけど、状況と思いがすごくよく分かるよね。この女性は、午後の比較的早い時間に訪ねて来た男性と早々に一戦まじえちゃったワケで、やることをやったらトットと帰りたい男性に対して、まだまだ余韻を楽しみたい女性が、何とか引き留めようとしてるのだ。
やることをやってトットと帰りたい男性としては、帰るための理由が欲しい。たとえば、もしも遠くでカミナリの音が聞こえたら、今のうちに早く帰らないと雨が降ってくるってワケで、これを理由にオイトマできる。一方、まだまだ余韻を楽しみたいし、できれば「もう一戦」なんて思ってる女性としては、何とか引き留めたい。そこで、「鳴る神の少し響みてさし曇り雨も降らぬか君を留めむ」なんて歌を詠んだワケだ。
だけど、男性のほうにしても、もともと好きでもないなら、わざわざ会いには来ないワケだし、ましてや外が明るいうちから一戦をまじえたりしないワケだ。この時は、「射精欲さえ満たされればトットと帰りたくなる」という男性特有の自分勝手な動物的本能が首をもたげただけで、愛する彼女から、「お願い、まだ帰らないで」って内容の、こんなにもラブリーな歌を詠まれちゃった日にゃあ、またまた股間の別の首が頭をもたげて来る。それで、彼女にこんな返歌をプレゼントしちゃった。
「雷神(なるかみ)の少し響(とよ)みて降らずとも我(わ)は留らむ妹(いも)し留めば」 詠み人しらず
(もしも本当に雷が少し鳴って、今にも雨が降り出しそうになったとしても、僕はずっとここにいるよ。君が望むのなら)
‥‥そんなワケで、現代人のカップルだったら、セックスが終わったトタンにソソクサとパンツを穿いて服を着て帰ろうとするカレシに対して、まだベッドで余韻を感じてるカノジョが「まだ帰らないで‥‥」と囁き、しばしの沈黙のあと、カレシが「うん、分かったよ‥‥」と答えて、またベッドに戻って来るっていう流れなんだけど、たったそれだけのやり取りを、わざわざ雷に喩えて紙に筆で書きしるして、これはあたしの想像だけど、たぶん30分くらいの時間をかけてやり取りしてたんだよね。
これって、ある意味、この単純なやり取りでさえも、恋愛の一部分としてお互いに楽しんでたって言えるんじゃない?事実、万葉の数々の恋愛の歌を読んでみると、男性がどこかで自分のタイプの女性を見初めて、その思いを歌にしたためて、その歌を送り届けて、最終的に結ばれるまで、ずいぶん大変な手間がかかってることが分かる。インターネットもケータイもなければ、電車もバスも車もないんだから、好きになった相手の家が50キロ離れていたら、自分の詠んだ歌を届けるだけだって、ひと仕事だ。
だけど、思い立った瞬間にLINEでコクれる現代と違って、それだけ手間や苦労のかかる時代だったからこそ、その手間や苦労をも、恋愛の一部分として楽しんでたんじゃないだろうか?自分の気持ちを31音の歌にしたため、その歌を送り、一日が千秋の思いで返事を待ち、何日後かにようやく届いた返歌を読み、次はどんな歌を送ろうかと悩み、考え、これぞと思う歌をしたため、また相手に届ける。こうしたやり取りの果てに、ようやく結ばれる。
これは、相手と結ばれることが恋愛なんじゃなくて、このやり取りの時点から、すべてが恋愛なんだと思う。今どき人たちの多くは、とにかく結果を求めたがるし、結果が得られないと意味がないと思ってる人までいる。最近のスマホのゲームでは、高レベルのデータの入ったアカウントを高額で売買しているという。ここまで来ると、ゲームという遊びの意味が分からなくなってくる。
あたしだけじゃなく、多くの人が、小学生の時、遠足の前の日にワクワクして眠れなかった経験があると思うけど、今になって考えてみれば、眠れなかった前日の夜から遠足は始まっていたのだ。遠足は、遠足に行ったことだけが遠足なんじゃなくて、ワクワクして眠れなかった前日の夜も遠足の一部だし、帰ってきてから感じる楽しかった思い出も遠足の一部なのだ。
‥‥そんなワケで、今回、何でこんな話を書いて来たのかと言うと、川上弘美さんの『センセイの鞄』を読み返していて、雷のシーンでホントに窓の外で雷が鳴った上に、深夜になってGyaOでアニメで観ようと思ってアクセスしてみたら、あたしの大好きなアニメ映画『言の葉の庭』(2013年)が無料配信されてたのだ。たぶん、新海誠監督の新作アニメ『君の名は。』が公開されたから、それとの関係なんだと思うけど、9月11日までの無料配信なので、まだ観たことのない人は、今回のブログであたしが紹介した万葉集の歌と、その意味を読み直してから、ぜひ、楽しんで欲しいと思う今日この頃なのだ♪
■アニメ映画『言の葉の庭』(2013年)■
http://gyao.yahoo.co.jp/player/00085/v06507/v0649200000000517135/?list_id=2200573
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