« 2016年12月 | トップページ

2017.01.19

エゾイタチの女神

北は北海道から南は沖縄まで、日本には数えきれないほどの神話がある。一番メジャーなのは『古事記』や『日本書紀』に収められてる神話の数々で、イザナミとイザナギによる「国造り」を始め、スサノオによる「ヤマタノオロチ退治」、オオクニヌシノミコトによる「因幡の白うさぎ」、アマテラスオオミカミによる「天孫降臨(てんそんこうりん)」、『浦島太郎』のルーツと言われてる「ウミサチとヤマサチ」、三本足のヤタガラスに導かれての神武天皇の「東征建国」など、他にもたくさんの神話がある。

日本の神話の面白さは、これまたあたしの大好物のギリシャ神話と同様に、登場人物の大半が「神様」だという点だ。日本には「八百万(やおよろず)の神」がいると言われてるように、人間の神だけでなく、海の神、山の神、木の神、花の神、鳥の神、獣の神、魚の神など、すべてのものに神がいるので、本来は文字通りに神々しいはずの神様たちが、神話の中では欲望を剥き出しにして、神様同士が私利私欲のために奪い合いや殺し合いを繰り広げてる。とっても人間くさい神様たちの「何でもあり」の神話の数々は、ある意味、童話やお伽噺よりも面白いと思う。

そんな日本の神話の中でも、とりわけ面白いのが、北海道に伝わるアイヌ民族発祥の神話と、沖縄に伝わる琉球民族発祥の神話だ。『古事記』では、天の神が「国造り」のために地上へ降ろした神はイザナミとイザナギだけど、北海道の神話では「コタン・カラ・カムイ(国造神)」だし、沖縄の神話では「シマコーダ・クニコーダ(島建国建)」になってる。天から降りてきた神様が、長い棒状のもので泥を搔き回して島を造るという基本的なストーリーは全国共通なんだけど、登場する神々の名前だけでなく、細かい枝葉の部分が、それぞれの土地や民族に根差したものになってる今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、北海道や沖縄に伝わる数々の神話の中には、このように『古事記』に残されてるメジャーな神話とルーツを同じにするものもあるんだけど、北海道ならでは、沖縄ならではのマイナーで土着的な神話も多い。あたしは、こうした地方色の強いマイナーな神話が特に好きで、いろいろと集めてるんだけど、今回は、その中でもあたしの大好きな神話の1つ、北海道に伝わる『エゾイタチの女神』という神話を紹介したいと思う。ただ、原典に忠実に紹介すると、とても長くなってしまうので、あたしが枝葉の部分を端折って半分くらいの長さにまとめた「短縮バージョン」で紹介したい。


『エゾイタチの女神』(きっこ短縮バージョン)

空には、五つの空があるんだよ。
一番低い「霧の空」、その上の「架かっている空」、その上の「星をささえる空」、その上の「高い雲の空」、そして、「一番高い空」。
この「一番高い空」には、大きな鉄のお城があり、すべての神様の中で一番偉い神様が住んでいるんだよ。


さて、エゾイタチの女神は、一番低い「霧の空」を守る神様でした。エゾイタチの女神は、お日さまの光から集めた金色の糸、お月さまの明かりから集めた銀色の糸、虹から集めた七色の糸を使って、来る日も来る日も趣味の刺繍(ししゅう)をしていました。時折、刺繍に飽きて下界を眺めると、春なら山へ百合の根を掘りにいく若い娘たちの楽しそうなおしゃべりが、秋なら山へ葡萄(ぶどう)を摘みにいく若い娘たちの明るい歌声が聞こえてきて、エゾイタチの女神も楽しい気持ちになりました。

ある日のこと、エゾイタチの女神が淡い紫色の綿雲の刺繍を縫い上げると、その刺繍は布地から浮き上がり、ふわふわと空へ漂っていき、本物の綿雲になりました。続いて、銀色の筋雲の刺繍を縫い上げると、その刺繍は布地から浮き上がり、きらきらと空へ流れていき、本物の筋雲になりました。エゾイタチの女神は楽しくなり、これまで以上に刺繍に夢中になりました。下界の様子を見ることもなく、来る日も来る日も刺繍に没頭していました。

さて、どれくらいの月日が経ったでしょうか。エゾイタチの女神のもとに、下界からイナウ(木幣)の神が訪ねてきました。イナウとは木製の祭具のひとつで、人間が神事を行なう時の神様への捧げものであり、また、神様へ伝言を伝えるための道具でもあります。イナウの神は、大きな金杯をなみなみと酒で満たしてエゾイタチの女神へ捧げ、人間からの伝言を伝え始めました。


「私は浦士別村(うらしべつむら)の長(おさ)からの伝言を伝えにやってまいりました。低い空を守る女神よ、どうかお聞きください。これまで下界は、山にはシカが、川にはサケが豊かで、人々は満ち足りて幸せに暮らしておりました。ところが、どうしたことでしょうか。突然、恐ろしい飢饉(ききん)がやってきたのです。山にはシカどころかウサギの1羽もおりません。川にはサケどころか雑魚の1匹もおりません。草花は黄色く枯れ果て、葡萄も桑も葉を落してしまいました。人間は弱い者から次々と倒れ始めました。低い空を守る女神よ、どうか人々を飢饉からお救いくださいませ。今はこの酒しか捧げられませんが、人々が飢饉から救われたら、さまざまなご馳走を捧げ、心やさしい女神を村の守り神として祀らせていただきます」


伝言を終えたイナウの神がひらひらと下界へ帰っていった後、エゾイタチの女神が下界を眺めてみると、なるほど、自分が刺繍に夢中になっている間に、人間の村には飢饉が訪れていて、人々の苦しむ声が聞こえてきました。エゾイタチの女神は何とかしなくてはならないと思い、他の神々の力を借りるために、酒宴をひらくことにしました。

酒宴の招待を受け、ミソサザイの神、ミヤマカケスの神、トガリネズミの神、シギの神など、多くの神々がやってきました。自慢の刺繍を施した着物で美しく着飾ったエゾイタチの女神は、神々に酒を注いでまわりました。神々は喜び、酒宴は賑やかに始まりました。そして、宴もたけなわになると、エゾイタチの女神は静かに舞い始め、美しい声で歌い始めました。


「シカの神よ~どうか下界へシカを降ろしてください~サケの神よ~どうか下界へサケを降ろしてください~人間の村が飢饉に襲われています~子どもたちはお腹が空いたと泣いています~弱い者から死んでいっています~神々よ~どうか助けてあげてください~皆さんが飲んでいる酒は~浦士別村の長からお願いのしるしに届けられたものなのです~」


神々は、エゾイタチの女神の舞いを見ながら美しい歌声にうっとりと聞き入っていましたが、シカの神とサケの神だけは目を閉じたまま、静かに歌だけを聞いていました。そして、エゾイタチの女神が歌い終わると、シカの神は目をひらいて話し始めました。


「女神よ、その訳を話そう。昔は人間たちもつつましく、どんな獣を殺すにも礼儀があった。人間たちは礼儀をもって、イナウの飾り矢でシカを殺したから、殺された俺の仲間たちは、その飾り矢をくわえ、喜んで天に帰ってきた。でも、人間は悪くなり、腐った木でシカを叩き殺すようになった。殺された俺の仲間たちは、その腐った木をくわえ、泣きながら天に帰ってくるようになった。だから俺は下界からシカの根を絶ったのだ」


シカの神が話し終ると、今度はサケの神が目をひらき、話し始めました。


「シカの神の言う通りです。昔の人間たちは礼儀をもって、イナウの飾り棒でサケを殺したので、殺された私の仲間たちは、その飾り棒をくわえて、ぴちぴちと跳ねながら天に帰ってきたのです。でも、人間は礼儀を忘れ、腐った木でサケを叩き殺すようになりました。殺された私の仲間たちは、その腐った木をくわえ、泣きながら天に帰ってくるようになったのです。ですから私は下界からサケの根を絶ったのです」


シカの神とサケの神の話を聞き、エゾイタチの女神はようやく飢饉の意味が分かりました。2人の神の言うことはもっともです。しかし、人間もバカではないのだから、きちんと理由を話せば分かること。そして、エゾイタチの女神は、また歌い始めました。


「シカの神よ~サケの神よ~お話はよく分かりました~お怒りはごもっともです~ですがもう一度~思い直してくださいませ~このまま飢饉が続くと人間は死に絶えてしまいます~そうなれば誰が私たちに~かぐわしい酒や美味しい食べ物~そして美しい飾りのイナウを捧げるのでしょうか~人があっての神であり~神があっての人なのです~シカの神よ~サケの神よ~どうか人間たちを許してやってくださいませ~シカを下界へ~サケを下界へ~どうか降ろしてやってください~」


すると、他の神々も声をそろえて歌い始めました。


「そうだ~そうだ~許してやれ~許してやれ~」


エゾイタチの女神の歌と、他の神々の歌を聞いたシカの神とサケの神は、なるほどと思ったのでしょう。シカの神は静かに立ち上がると、6つの蔵の扉を開け放ちました。すると、数えきれないほどのシカの群れが飛び出して下界へと降りていきました。次に、サケの神が立ち上がり、6つの蔵の扉を開け放つと、数えきれないほどのサケの群れが下界へと降りていきました。

その様子を見ていたエゾイタチの女神と他の神々は、手を叩いてシカの神とサケの神を祝福しました。エゾイタチの女神はようやくホッとすることができ、また、趣味の刺繍を楽しめるようになりました。そして、平和な日々がしばらく続いたある日のこと、また下界からイナウの神が訪ねてきました。イナウの神は、大きな金杯をなみなみと酒で満たしてエゾイタチの女神へ捧げ、人間からの伝言を伝え始めました。


「低い空を守る尊い女神よ、あなたのおかげで村は救われました。子どもたちはお腹いっぱいになって走り回り、病人たちも元気になりました。わずかではございますが、浦士別村の長からのお礼のしるしを持参しました」


エゾイタチの女神が大きな金杯を受け取ると、美しく飾られたイナウの神がずらりと並び、海の幸と山の幸が次々と運び込まれました。エゾイタチの女神はとても喜び、また神々を招待して酒宴をひらき、神と人とが助け合っていく喜びを歌いました。そして、エゾイタチの女神は、浦士別村の長の夢の中に現われて、長に獣を殺す作法、魚を殺す作法を教えました。浦士別村の長は、この作法を村人たちに伝え、それからというもの、殺されたシカは美しい飾り矢をくわえ、殺されたサケは美しい飾り棒をくわえ、喜んで天に帰ってくるようになったのです。


空には、五つの空があるんだよ。
そして、その一番低い空で、エゾイタチの女神は、来る日も来る日も刺繍をしながら、人間の村を守ってくれているんだよ。

【おしまい】


‥‥そんなワケで、実際の神話は、エゾイタチの女神のところで酒宴が始まってから、いろんなことが巻き起こり、神様同士がケンカを始めちゃって、それを仲裁するために他の神様を呼びに行ったりと、けっこう長いドタバタがあるんだけど、そのクダリはスパッと省略させていただいた。ちなみに、この「命に対する礼儀を忘れた人間に罰を与えるために、獣の神と魚の神が人間界から獣と魚を消してしまい、村が飢饉になった」というシチュエーションは、アイヌ民族発祥の神話の定番の1つで、他にも何パターンもの類似した神話がある。その中でも、あたしはこの『エゾイタチの女神』が一番好きなので、今回は短縮バージョンで紹介させていただいたけど、北海道には他にもアイヌ民族発祥の面白い神話がたくさんあるので、興味を持った人は図書館で探してみてほしいと思う今日この頃なのだ。


★ 今日も最後まで読んでくれてありがとう!
★ よかったら応援のクリックをポチッとお願いします!
  ↓



|

2017.01.09

小説の映画化という功罪

あたしは、自分の好きな小説がドラマ化や映画化されることがあまり好きじゃない。あたしのイメージとかけ離れたキャスティングや、適当に端折ったような脚本は仕方ないとしても、原作には登場しない人物が重要な役回りとして現われたり、原作にはなかったシーンが盛り込まれたりと、あまりにも原作を軽視してるように感じるからだ。こういうドラマや映画って、原作の小説を読んでない人なら普通に楽しめるかもしれないけど、原作のファンとしては、これほど腹の立つことはない。あまりにも酷いものは、原作に対する冒涜のようにも感じられてしまう。

中でも最悪なのは、映画の動員数を稼ぐために、最初から人気アイドルの出演が決まってて、そのアイドルのために原作にはない登場人物を作るというパターンだ。百歩ゆずって、複雑なストーリーを分かりやすくするために、原作にはない登場人物を補足的に導入するとかなら分かるけど、ロクな演技もできないアイドルを動員数稼ぎのためにムリクリにキャスティングするなんて、原作のファンをバカにするのも保土ヶ谷バイパスだ。だから、あたしは、好きな小説をドラマ化や映画化したものは、なるべく観ないようにしてるし、観る時は「原作とは別物」と割り切って観るようにしてる今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、あたしは角田光代さんの小説が大好きで、ほとんどの作品を愛読してきたけど、角田光代さんは人気作家なので、その作品がドラマ化や映画化されることも多い。誘拐をテーマにした『八日目の蝉』は、永作博美さん主演で映画化されたし、横領をテーマにした『紙の月』は、原田知世さん主演でNHKでドラマ化され、その後、宮沢りえさん主演で映画化もされた。あたしは、どれも観たけど、どれもそこそこだった。キャスティングもそこそこだし、脚本もそこそこだったので、原作を読んだ上で観た人でも、それほどガッカリすることもなく最後まで観られるように作られてると思った。でも、これは、この2作品をそれほど好きじゃないあたしの感想だ。

あたしは、角田光代さんの小説は全体的に好きで、特に嫌いな作品はない。そんな中で、この『八日目の蝉』と『紙の月』は、まあまあ好きな作品ではあるけど、あたしのベスト10には入ってない。だから、たとえドラマや映画が原作のファンを裏切るような酷い内容だったとしても、あたしはそれほどガッカリすることもなく、「所詮は別物」と割り切ってたと思う。だけど、もしもこれが、あたしの「マイ・フェバリット小説」である『対岸の彼女』だったりしたら、ガッカリした気分を何年間も引きずることになり、とても割り切ることなんてできやしない。だから、あたしは、2006年にWOWOWでドラマ化された『対岸の彼女』を、今までずっと観ることができなかった。

このドラマは、レンタルショップにDVDがあるし、あたしの友人もDVDを持ってるから、いつでも観ることはできた。だけど、これまでに数えきれないほど読み返してるのに、それでも読むたびに号泣するほど大好きな小説だから、あたしの頭の中にできあがってるイメージを壊されるのが恐くて、ドラマを観ることができなかったのだ。

この小説は、楢橋葵という女性のことを2つの視点から描いている作品で、1つは30代半ばの現在の葵を同世代の小夜子の目から見たもの、もう1つは高校時代の葵自身が親友であるナナコを通して自分を見つめたもの。この2つの世界が章ごとに交互に進んで行き、最後に融合するんだけど、あたしはとにかくナナコのことが大好きで、葵とナナコがやり取りするセリフはすべて暗記してしまったほど、何度も何度も読み返してきた。

そして、去年の暮れから今年のお正月にかけて、この『対岸の彼女』の葵とナナコの章だけを読み進めるという「ナナコ読み」をして楽しんでたら、ふと、「そろそろドラマを観てみようかな?」という気分になったのだ。WOWOWでドラマ化されたのが2006年で、去年で10年も経ったので、たとえガッカリする内容だったとしても、もう、割り切れそうな気がしてきたからだ。


‥‥そんなワケで、今年のお正月にあたしは、10年という時を経て、ついにドラマ『対岸の彼女』を観たワケだけど、これが予想外に、とても素晴らしい作品だった。何と言ってもあたしの「マイ・フェバリット小説」だから、最初からあたしのハードルはめっちゃ高くて、そうとうのレベルじゃないと納得できない状況だったけど、そんなあたしが、このドラマの大部分を納得することができたのだ。

このドラマの主要キャストは、現在の30代半ばの楢橋葵が財前直見さん、小夜子が夏川結衣さん、そして、高校時代の楢橋葵が石田未来さん(現・未来さん)、ナナコが多部未華子さんで、この4人の演技はすべて素晴らしかった。他にも、高校時代の葵のお父さん役の香川照之さんや、小夜子のダンナ役の堺雅人さんを始め、脇を固める俳優陣も素晴らしかった。監督は平山秀幸さん、脚本は神山由美子さんと藤本匡介さん、音楽は長谷部徹さんで、とにかく脚本がよく練られていた。

いろいろと変更されてる部分もあったけど、キチンと考えられた上で変更されてるから、原作の大ファンのあたしでも「意味のある変更」として納得することができた。たとえば、あたしの最大の号泣ポイントであるラストシーンの「ナナコからの手紙」の中に、「あした(中略)オリーブの新しいやつと北斗の拳持ってくね。」というクダリがあるんだけど、このドラマでは、長すぎるナナコからの手紙をコンパクトにまとめるため、この部分が省略されていた。でも、その代わりに、2人が仲良くなって手紙のやり取りを始めたドラマの前半で、葵からナナコへの手紙の中に「オリーブの新しいやつと北斗の拳持ってくね。」という言葉が出てくるのだ。

ようするに、ナナコの手紙の内容が葵の手紙の内容に変わったワケだけど、この手紙のやり取りは、赤毛のアンが夜の窓辺でランプの灯を使って離れた家の友達とやり取りしたように、お互いの存在を確かめ合うためだけの「儀式的な行為」だったのだから、2人の手紙の内容が部分的に逆になっていても、あたしは特に違和感を覚えなかった。

2人の出会いにしても、原作では高校の入学式で出会うのに、ドラマではナナコのいる高校に葵が転校してくる設定に変更されていた。でも、最初から葵のことを「アオちん」と馴れ馴れしく呼んでくるナナコの人懐っこさや無邪気さは原作のイメージそのもので、細かい変更点など気にならなかった。ただ、全体的に素晴らしかったからこそ、たった一点だけ、とっても残念な部分があった。それは、2人の身長差とナナコのヘアスタイルだ。

原作では、葵のほうが背が高くて、ナナコは葵の肩くらいまでしか背がない。そして、ナナコはショートヘアで、痩せてて、小学生の男の子のような顔立ちをしてる。だから、あたしの脳内では、10年以上も、葵は163センチくらい、ナナコは150センチくらいと思い続けてきた。それなのに、このドラマでは、ナナコのほうが背が高く、おまけにナナコは髪が長くてツインテールにしてる。これは、単に「イメージが違う」というだけじゃなくて、とても重要なことなのだ。

2人のプロフィールを見てみると、葵役の石田未来さんは153センチ、ナナコ役の多部未華子さんは158センチで、ナナコのほうが5センチほど背が高い。2人とも演技は素晴らしいし、顔立ちや話し方も原作のイメージにすごく近くて、原作の大ファンのあたしでも納得できるレベルだったけど、だからこそ、この身長が逆という点が残念だった。

原作では、家出中の2人がラブホで髪を脱色するんだけど、ナナコは失敗してショートヘアの金髪になってしまい、葵はナナコの失敗から学んでロングの茶髪になる。そして、数カ月後に再会した時、ナナコは黒髪が生え始めてて頭が「プリン」になってるんだけど、2人の身長差を知っているからこそ、ナナコのプリンを斜め上から見てる葵の姿が想像できて、このシーンに胸を打たれるのだ。だけど、身長が逆だと、このシーンは成り立たないし、ナナコの髪がロングだと、イメージも違ってくる。結局、ドラマでは、ナナコは金髪にはならず、再会した時には黒髪に戻っていて、あたしの大好きな「プリン」のクダリは味わえなかった。

他にも、細かい変更点はたくさんあった。たとえば、2人が夏休みに住み込みでバイトする伊豆半島の今井浜のペンション「ミッキー&ミニー」は、ドラマでは民宿「西島荘」に変わっていた。ま、これは、ディズニー的な大人の事情なのかもしれないし、大掛かりなセットを作るよりも実際の民宿を使ったほうが安上がりだったからかもしれないけど、土屋久美子さん演じる民宿のおばさんが原作通りのイメージだったので、これまた自然に受け入れることができた。

また、ドラマでは、民宿の浴場を掃除しながら、2人は佐野元春の『ガラスのジェネレーション』を歌ってるんだけど、これは原作にはないシーンだ。でも、最初のほうの、2人が河原で自分の好きなものを言い合うシーンで、ナナコが「デヴィット・ボウイ」と言い、葵が「佐野元春」と言い、ナナコが「げえ~、佐野元春?アオちんは困った人だねえ」というクダリがあって、これは原作通りにドラマでも描かれてる。つまり、このクダリを踏まえた上で、新しく付け足されたシーンなのだ。

知り合ったころには、佐野元春が好きだという葵の趣味を「げえ~」と言っていたナナコが、今では一緒に笑い合いながら『ガラスのジェネレーション』を歌っている。このシーンが付け足されたことで、原作を読んでいない人でも、2人の関係性が、知り合ったころよりも深くなったことを感じられるのだ。

こうした変更点の大半をあたしが受け入れることができたのは、多くのセリフが原作に忠実だったことと、それぞれの俳優さんが原作をしっかりと読み込み、原作の登場人物のイメージ通りに演じてくれたからだと思う。特に、葵役の石田未来さんとナナコ役の多部未華子さんの演技は最高で、身長が逆転していても、ナナコがショートヘアじゃなくても、ナナコが学校指定じゃない大きな黄色い肩掛けバッグを使ってなくても、ドラマ自体は受け入れることができた。

ただ、これも残念な点なんだけど、夏休みのバイトが終わって帰ろうとした時、駅のホームのベンチで、ナナコが「帰りたくない、帰りたくない、帰りたくない‥‥」と言うシーン、原作ではナナコの目から大粒の涙がポタポタと落ちて、膝丈のパンツに次々とシミを作っていく。あたしは、ここで必ず号泣するんだけど、ドラマでは、セリフこそ原作に忠実だったけど、涙がパンツにシミを作るカットが見られなかった。ドラマのラストでは、床の拭き掃除をする小夜子の顔から汗が滴るカットが丁寧に描かれていただけに、ナナコの涙のシミが描かれなかったのはホントに残念だ。

それでも、初めて葵の家に来た時のナナコの「わーいカルピス」とか、2人が河原でお互いの好きなものを言い合うシーンとか、他にも多くの部分のセリフが原作に忠実で、原作のファンとしては嬉しかった。たとえば、家出中の2人がラブホにいて、葵が所持金を数えるシーンでは、葵「あーやばい。まじでお金なくなる」ナナコ「今いくら?」葵「十九万二千八百七十五円」というやり取りも、ドラマでは原作通りに「19万2875円」と言っている。ただし、原作では2人はラブホのダブルベッドに横になってるんだけど、ドラマでは回転ベッドに寝転がって、ゆっくりと回転しながらやり取りしてるのだ。これは、変更は変更でも「嬉しい変更点」と言えるだろう(笑)


‥‥そんなワケで、この作品は劇場で公開された映画じゃなくて、WOWOWが企画したテレビドラマだけど、ハッキリ言って、映画として製作された『八日目の蝉』や『紙の月』よりも、遥かに素晴らしかった。これは、単純に映像作品としてのクオリティーの比較だけでなく、「原作のファンの満足度」という視点も踏まえた上での感想だけど、原作を読んでいない人が観たとしても、やっぱり、この3作の中ではダントツの1位だと思う。だから、このドラマをまだ観たことがない人は、機会があれば、ぜひ観てほしい。あたしが、この小説を読んで何度も何度も号泣する理由が、きっと断片的にでも伝わると思う今日この頃なのだ。


 


★ 今日も最後まで読んでくれてありがとう!
★ よかったら応援のクリックをポチッとお願いします!
  ↓



|

2017.01.01

明けましてめでとうございます♪

皆さま、明けましておめでとうございます♪

今年も「歳旦三つ物」を詠みました。


歳旦三つ物
モヒカンの赤き鶏冠や恵方道
春着に混じるパンクファッション
八重霞ひらけて沖を望むらん
きっこ


俳句では本来、自分の句を自分で解説することは野暮なのでNGなのですが、俳句を勉強していないと意味の分からない言葉や言い回しもありますので、今年も簡単に説明させていただきます。

まず、最初の五七五の発句は、「恵方道(えほうみち)」が新年の季語です。「恵方」とは、その年の吉方で、恵方巻きを食べる時に向く方角のことです。新年の初詣で、その年の恵方にある神社をお参りすることを「恵方詣」と言い、その神社までの道を「恵方道」と呼びます。ちなみに、今年の恵方は「北北西」になります。この句は、初詣に行くために、今年の恵方にある神社に向かって恵方道を歩いていたら、ひときわ目立つ赤い鶏冠(とさか)のモヒカン男性がいた、という意味で、「鶏冠」という言葉を使ったのは、もちろん今年が「酉年」だからです。

そして、発句に寄り添う脇の七七は、新春の晴着を意味する「春着(はるぎ)」が季語です。「晴着」は、晴れの日に着る着物のことなので、季感がなく季語ではありませんが、その中でも新春に着る「春小袖」「正月小袖」「春着」などの名称を使えば、新春の句になります。また、発句と脇から飛躍する第三の五七五は、「八重霞(やえがすみ)」が春の季語です。幾重にも重なった深い霞がゆっくりとひらけて行くと、峰々の向こうに海が見えたという句です。


昨年は、熊本地震を始め、北から南まで数々の災害が発生しました。6年近く前に発生した東日本大震災では、未だに多くの被災者がつらい避難生活を続けているというのに、次から次へと発生する地震、台風、豪雨、豪雪、そして、昨年末には新潟で大規模な火災も発生してしまいました。年に一度のお正月を、自宅で迎えることのできない被災者の方々のことを思うと、本当に胸が痛くなります。

2011年3月11日に発生した東日本大震災と、それに伴う福島第1原発事故によって避難をしている方々は、昨年末の時点で約13万4000人もいるのです。一時は20万人以上もいましたから、少しずつ減少してはいますが、それでも、震災から6年近くが経つというのに、未だに13万4000人もの被災者の方々が自宅に帰ることができずに、避難先で6度目のお正月を迎えたのです。

大人にとっての5年、6年は、それほど長くないかもしれませんが、子どもにとっての6年は、とても長いものです。震災時に小学1年生だった子どもは、今年、中学1年生になるのです。そう考えると、この6年間の長さが分かると思います。そして、この6年間、一度も自宅に帰ることができず、毎年のお正月を避難先で迎えてきた子どもがたくさんいるのです。

昨年は、原発事故が原因で福島県から他県へ避難している子どもたちが、転校先の同級生から名前に「菌」をつけて呼ばれたり、仲間外れにされたり、文房具や傘を捨てられたり、暴力を振るわれたり、挙句の果てには「原発事故の補償金を貰っているんだろ?」と脅されて現金を巻き上げられるなど、信じられないような酷い虐めが何件も報告されました。でも、これらの虐めは、昨年になって急に始まったことではなく、それぞれの事案を詳しく見てみると、どの子どもも他県に避難した当初から何年間も虐めを受けていて、ずっと我慢していたことが分かりました。

あたしは、これらの虐め問題を見て、通常の学校内の虐めとは一線を画した恐ろしさを感じました。それは、「原発事故で避難してきた」という背景を「自分たちと違う者」と見なして、自分たちの輪から排除しようとする行動原理が、まるで、移民や難民を排除しようとするEU諸国の極右勢力や、イスラム排除を掲げるドナルド・トランプ次期アメリカ大統領、そして、在日コリアンへのヘイトスピーチを繰り返す日本の人種差別団体などと重なって見えたからです。

異物を排除しようとする行動原理は、動物の種族保存の法則に基づく本能的なものですが、相手は野生の猛獣や猛毒を持った危険生物ではありません。同じ人間なのです。それなのに、人種や肌の色、国や宗教の違いだけで相手を「異物」と認定して敵視し、排除しようとするなんて、本当に悲しくなります。ましてや、原発事故で避難してきた子どもたちは、同じ日本人なのです。それなのに、やさしい言葉をかけて元気づけるどころか、まるで汚い物のように名前に「菌」を付けて呼んだり、仲間外れにしたり、お金を巻き上げたり、あたしは本当に悲しくなりました。

自分たちと見た目が違っていても、生まれ育った環境や背景が違っていても、同じ人間同士なのですから、どこかで出会えば「一期一会」です。それも、同じ船に乗り合わせている相手、同じ道を歩いている相手なのですから、それを敵視して排除しようとするなんて、あまりにも悲しすぎます。


そんな思いから、あたしは、今年の「歳旦三つ物」を詠みました。お元日の朝、初詣に向かう晴着やコート姿の人々の列の中に、ひときわ目立つ赤いモヒカンのパンクファッションの男性が混じっていても、自分たちと違うのは見た目だけなのです。同じ道を同じ目的で歩いているのですから、「恵方にある神社で昨年一年の感謝を捧げ、今年一年の無事と平安をお祈りしたい」という思いは一緒なのです。

自分たちと違う相手を「異物」として敵視し、排除しようとする空気は、至るところに蔓延しています。インターネット上でも、自分の顔が見えないことをいいことに、1人の人を寄ってたかって吊し上げる「正義の名を借りた集団リンチ」が横行しています。匿名で他人に嫌がらせすることを生き甲斐にしている悲しい人たちもたくさんいます。こうした排外的な憎しみの心は、まるで幾重にも重なった霞のようで、簡単には消えないと思います。でも、そんな深い霞でも、いつかはきっと晴れわたり、美しい峰々の間から希望の海が見えてくる、そんな思いと願いを、あたしは第三の句に込めました。


‥‥そんなワケで、あたしは、自分たちと違う者への嫌がらせや虐めがなくなり、どんな人たちも心を覆っていた霞が晴れわたり、希望の沖を目指して船出ができるような一年になってほしいと思いました。昨年11月からは、コラボメルマガ『ゆっこ&きっこの言いたい放題 MAX!』もスタートしましたが、予想以上に好評なので、今年はブログとメルマガの二刀流で、今まで通りに社会的弱者の立場と視点を大切にして、いろいろな発言や提言を続けていきたいと思います。皆さん、今年も一年、よろしくお願いいたします♪

きっこ


★ 今日も最後まで読んでくれてありがとう!
★ よかったら応援のクリックをポチッとお願いします!
  ↓



|

« 2016年12月 | トップページ