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2017.01.01

明けましてめでとうございます♪

皆さま、明けましておめでとうございます♪

今年も「歳旦三つ物」を詠みました。


歳旦三つ物
モヒカンの赤き鶏冠や恵方道
春着に混じるパンクファッション
八重霞ひらけて沖を望むらん
きっこ


俳句では本来、自分の句を自分で解説することは野暮なのでNGなのですが、俳句を勉強していないと意味の分からない言葉や言い回しもありますので、今年も簡単に説明させていただきます。

まず、最初の五七五の発句は、「恵方道(えほうみち)」が新年の季語です。「恵方」とは、その年の吉方で、恵方巻きを食べる時に向く方角のことです。新年の初詣で、その年の恵方にある神社をお参りすることを「恵方詣」と言い、その神社までの道を「恵方道」と呼びます。ちなみに、今年の恵方は「北北西」になります。この句は、初詣に行くために、今年の恵方にある神社に向かって恵方道を歩いていたら、ひときわ目立つ赤い鶏冠(とさか)のモヒカン男性がいた、という意味で、「鶏冠」という言葉を使ったのは、もちろん今年が「酉年」だからです。

そして、発句に寄り添う脇の七七は、新春の晴着を意味する「春着(はるぎ)」が季語です。「晴着」は、晴れの日に着る着物のことなので、季感がなく季語ではありませんが、その中でも新春に着る「春小袖」「正月小袖」「春着」などの名称を使えば、新春の句になります。また、発句と脇から飛躍する第三の五七五は、「八重霞(やえがすみ)」が春の季語です。幾重にも重なった深い霞がゆっくりとひらけて行くと、峰々の向こうに海が見えたという句です。


昨年は、熊本地震を始め、北から南まで数々の災害が発生しました。6年近く前に発生した東日本大震災では、未だに多くの被災者がつらい避難生活を続けているというのに、次から次へと発生する地震、台風、豪雨、豪雪、そして、昨年末には新潟で大規模な火災も発生してしまいました。年に一度のお正月を、自宅で迎えることのできない被災者の方々のことを思うと、本当に胸が痛くなります。

2011年3月11日に発生した東日本大震災と、それに伴う福島第1原発事故によって避難をしている方々は、昨年末の時点で約13万4000人もいるのです。一時は20万人以上もいましたから、少しずつ減少してはいますが、それでも、震災から6年近くが経つというのに、未だに13万4000人もの被災者の方々が自宅に帰ることができずに、避難先で6度目のお正月を迎えたのです。

大人にとっての5年、6年は、それほど長くないかもしれませんが、子どもにとっての6年は、とても長いものです。震災時に小学1年生だった子どもは、今年、中学1年生になるのです。そう考えると、この6年間の長さが分かると思います。そして、この6年間、一度も自宅に帰ることができず、毎年のお正月を避難先で迎えてきた子どもがたくさんいるのです。

昨年は、原発事故が原因で福島県から他県へ避難している子どもたちが、転校先の同級生から名前に「菌」をつけて呼ばれたり、仲間外れにされたり、文房具や傘を捨てられたり、暴力を振るわれたり、挙句の果てには「原発事故の補償金を貰っているんだろ?」と脅されて現金を巻き上げられるなど、信じられないような酷い虐めが何件も報告されました。でも、これらの虐めは、昨年になって急に始まったことではなく、それぞれの事案を詳しく見てみると、どの子どもも他県に避難した当初から何年間も虐めを受けていて、ずっと我慢していたことが分かりました。

あたしは、これらの虐め問題を見て、通常の学校内の虐めとは一線を画した恐ろしさを感じました。それは、「原発事故で避難してきた」という背景を「自分たちと違う者」と見なして、自分たちの輪から排除しようとする行動原理が、まるで、移民や難民を排除しようとするEU諸国の極右勢力や、イスラム排除を掲げるドナルド・トランプ次期アメリカ大統領、そして、在日コリアンへのヘイトスピーチを繰り返す日本の人種差別団体などと重なって見えたからです。

異物を排除しようとする行動原理は、動物の種族保存の法則に基づく本能的なものですが、相手は野生の猛獣や猛毒を持った危険生物ではありません。同じ人間なのです。それなのに、人種や肌の色、国や宗教の違いだけで相手を「異物」と認定して敵視し、排除しようとするなんて、本当に悲しくなります。ましてや、原発事故で避難してきた子どもたちは、同じ日本人なのです。それなのに、やさしい言葉をかけて元気づけるどころか、まるで汚い物のように名前に「菌」を付けて呼んだり、仲間外れにしたり、お金を巻き上げたり、あたしは本当に悲しくなりました。

自分たちと見た目が違っていても、生まれ育った環境や背景が違っていても、同じ人間同士なのですから、どこかで出会えば「一期一会」です。それも、同じ船に乗り合わせている相手、同じ道を歩いている相手なのですから、それを敵視して排除しようとするなんて、あまりにも悲しすぎます。


そんな思いから、あたしは、今年の「歳旦三つ物」を詠みました。お元日の朝、初詣に向かう晴着やコート姿の人々の列の中に、ひときわ目立つ赤いモヒカンのパンクファッションの男性が混じっていても、自分たちと違うのは見た目だけなのです。同じ道を同じ目的で歩いているのですから、「恵方にある神社で昨年一年の感謝を捧げ、今年一年の無事と平安をお祈りしたい」という思いは一緒なのです。

自分たちと違う相手を「異物」として敵視し、排除しようとする空気は、至るところに蔓延しています。インターネット上でも、自分の顔が見えないことをいいことに、1人の人を寄ってたかって吊し上げる「正義の名を借りた集団リンチ」が横行しています。匿名で他人に嫌がらせすることを生き甲斐にしている悲しい人たちもたくさんいます。こうした排外的な憎しみの心は、まるで幾重にも重なった霞のようで、簡単には消えないと思います。でも、そんな深い霞でも、いつかはきっと晴れわたり、美しい峰々の間から希望の海が見えてくる、そんな思いと願いを、あたしは第三の句に込めました。


‥‥そんなワケで、あたしは、自分たちと違う者への嫌がらせや虐めがなくなり、どんな人たちも心を覆っていた霞が晴れわたり、希望の沖を目指して船出ができるような一年になってほしいと思いました。今年もこれまで通りに社会的弱者の立場と視点を大切にして、いろいろな発言や提言を続けていきたいと思います。皆さん、今年も一年、よろしくお願いいたします♪

きっこ


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