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2017.03.16

みんなの寅さん、そして、寅さんだけのリリー

去年の暮れから今年の1月にかけて、GyaOで「年末年始にオススメの映画」が何作か無料配信されて、その中に『男はつらいよ』の第1作があったので、あたしは、お元日の夜に母さんと晩酌をしながら楽しんだ。『男はつらいよ』と言えば、最初に寅さんが怪獣と戦ったり鼠小僧になったりするミニドラマがあって、それが寅さんの夢だったというお約束のオチになり、そこからあのテーマソングが始まると、「ああ~、お正月だな~♪」という気分に浸れるからだ。

あたしの場合は、浅丘ルリ子さんがマドンナ役の「リリー三部作」が最高に大好きなんだけど、この3作はすべて夏休みに公開された作品で、内容も夏なので、お正月には向かないように思われる。だけど、実際に観てみると、公開された季節や内容の季節なんか関係ない。思いっきり笑って、思いっきり泣いて、最後に幸せな気持ちになって、お正月気分を満喫できるのだ。

あたしは『男はつらいよ』が大好きなので、第1作から第48作までの全作と、あたしの25歳のお誕生日に公開された『寅次郎 ハイビスカスの花 特別編』と、「リリー三部作」の1作目の第11作『寅次郎 忘れな草』のアニメ版をぜんぶ、何度も観てるんだけど、第1作から最終作までをきちんと順番に観たことはなかった。それで、1月1日のお元日に第1作を観たのも何かの縁だと思って、今年は母さんと2人で毎週1作ずつ、月に4作のペースで順番通りに観ていって、大晦日に『寅次郎 ハイビスカスの花 特別編』を観てみようという計画を立ててみた今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、今年のお元日は日曜日だったので、1月2日が月曜日になり、あたしが毎週月曜日と火曜日の朝5時から聴いてる、斉藤りささんのbayfm『POWER BAY MORNING』を新年早々から聴くことができた。この番組では、毎回メールテーマが出るんだけど、今年最初の1月2日の放送では、新年らしく「2017年○○します」というテーマだったので、あたしはさっそく、前日のお元日に決めた計画を書いてメールを送った。


りささん、明けましておめでとうございます!
私は昨日のお元日、母と2人で「男はつらいよ」の第1作を観て、初笑いと初泣きをしました。
そこで思いついたのが、今年は1カ月に4作ずつ「男はつらいよ」を観ていって、年末に全48作を観終わるようにしてみよう!という計画です。
母も私も「男はつらいよ」が大好きで、これまでに全作を観ているのですが、きちんと第1作から順番に観たことはないので、今年はそれにチャレンジしてみようと思いました。
アラフォーきっこ


このメール、りささんに読んでもらえて、あたしはとっても嬉しかった。そして、それから約3カ月後の2月28日の火曜日、今度はアカデミー賞が発表されたということで「私がお薦めしたい映画」というメールテーマが出たので、あたしはまたメールをした。


りささん、おはようございまーす!
私は「男はつらいよ」が大好きなので、今年は毎週1作ずつ、1年かけて全48作を順番に観直す、というメールを、先日、りささんに読んでいただきましたが、まだ寅さんを一度も観たことがないという人に、私は是非、リリー三部作をお薦めしたいです。
浅丘ルリ子さんがマドンナのリリーを演じている三部作で、寅さんがリリーと初めて出会う第11作「寅次郎 忘れな草」、寅さんがリリーと再会する第15作「寅次郎 相合い傘」、寅さんとリリーの距離が一気に近づく第25作「寅次郎 ハイビスカスの花」、この三部作を観たあと、最後の第48作「寅次郎 紅の花」を観ると、もう、号泣!号泣!大号泣!です。
1人でも多くの人に、この感動と切なさを味わってほしいです。
アラフォーきっこ


このメールも、りささんに読んでもらえたんだけど、「私は「男はつらいよ」が大好きなので、今年は毎週1作ずつ、1年かけて全48作を順番に観直す、というメールを、先日、りささんに読んでいただきましたが」というところまで読んだ時、りささんが「そうそう!そう言ってたね!今は何作まで観たのかな?」って言ってくれて、以前のメールをちゃんと覚えてくれてたことが嬉しかった。


‥‥そんなワケで、あたし1人で観るのなら、深夜でも早朝でもいつでも観られるんだけど、何よりも大事なことは「母さんと2人で観る」という点なので、あたしの都合だけでは決められない。母さんの体調とか都合とか気分とかを優先しつつ、あたしの都合とも折り合いをつけて、2人そろって2時間近く、映画に集中できる時間を作るとなると、どうしても「晩ごはん絡み」ということになる。

でも、「この日は寅さんを観よう」と決めたら、それに合せて早めにお風呂を済ませ、母さんがお風呂に入ってる間に晩ごはんの支度をして、2人でごはんを食べながら寅さんを楽しみ、途中から晩酌へと流れていくのは、とっても楽しい時間だ。母さんと一緒に笑って、母さんと一緒に泣いて、最後には母さんと一緒に幸せな気分に浸る。こうした時間を毎週1回持てるというのは、我ながら素晴らしい計画だったと思う。

今では、毎週の「寅さんの日」が楽しみの1つになり、カレンダーに付けた赤丸の日が近づくとワクワクしてくるようになった。そして、今週、ついに「リリー三部作」の最初の1作目、第11作『寅次郎 忘れな草』の番が巡ってきた。この作品は、シリーズの中であたしが最も多く観てる作品で、セリフもほとんど暗記してるほど観てるけど、それでも、母さんと2人で晩酌しながら観るのは楽しくて、お決まりのシーンで一緒に笑い、お決まりのシーンで一緒に泣き、最後には一緒に幸せな気分に浸ることができた。


‥‥そんなワケで、その2日後の14日、あたしがナニゲにツイッターで安倍内閣のバカバカしさについてツイートしたら、文化放送で『みんなの寅さん』を担当していた、娯楽映画研究家で「寅さん博士」の佐藤利明さんからリプライが来たので、あたしは思わず最初のツイートとは関係ない、寅さんのことを書いて返信してしまった。すると、そこから「プチ寅さん談義」に発展してしまったので、皆さんに紹介したい。


きっこ @kikko_no_blog
首相夫人を「私人」だと閣議決定した安倍内閣のことだから、次は国有地を「私物」だと閣議決定しそうだな(笑)
17:21 - 2017年3月14日


佐藤利明‏ @toshiakis
なんだろうね。この閣議決定は?バカボンのパパなら「そんなこと、国会でいつ青島幸男が決めたのだ?」と言いそう。
21:01 - 2017年3月14日


きっこ @kikko_no_blog
@toshiakis あ、佐藤さん!私は寅さんを全作観てるのですが、これまで1作から48作まで順番に観たことがないので、今年のお正月から1週間に1作ずつ、1年かけて全作を順番に「母と一緒に観る」という企画を楽しんでます!今週ちょうと大好きな11作の忘れな草を観て母と号泣しました♪
21:11 - 2017年3月14日


佐藤利明 @toshiakis
素晴らしい!ですね。第11作「寅次郎忘れな草」の良さは、他の映画が束になってきても叶わない、そんな良さです。毎週、一作ずつというのは「みんなの寅さん」で5回半、やったシステムです。観るたびに発見!それが「男はつらいよ」の素晴らしいところ!です。
21:31- 2017年3月14日


きっこ @kikko_no_blog
@toshiakis 私は忘れな草がフェイバリットなのですが、忘れな草と相合い傘からのハイビスカスの花で大号泣してしまうのです。那覇の病院に寅さんが駆け付けた時のリリーの笑顔、リリーのほうからプロポーズしたのに照れから逃げた寅さん、そして最高のエンディング、何度観ても号泣です♪
21:36- 2017年3月14日


佐藤利明 @toshiakis
第25作「寅次郎ハイビスカスの花」は、柴又駅の別れ際、寅さんがリリーに「幸せになれよ」と声をかけます。そして、あの再会です。幸福な瞬間とは、あのシーンのことでもあります。
21:53- 2017年3月14日


きっこ @kikko_no_blog
@toshiakis そして、この三部作から長い年月が過ぎての「紅の花」、もう、言うことはありません。「紅の花」のラストのリリーからの手紙が、寅さんの長い長い旅のすべてを語っています。私は寅さんと出会えて本当に幸せです♪
22:01- 2017年3月14日


佐藤利明 @toshiakis
寅さんが帰る場所が、リリーのところになった、あのラスト、茫漠たるナミダでした。
09:13- 2017年3月15日


‥‥そんなワケで、この佐藤利明さんの「寅さんが帰る場所が、リリーのところになった、あのラスト、茫漠たるナミダでした。」という言葉は、ホントに寅さんのすべて、リリーのすべてを表わしてると思った。実はあたしも、まったく同じことを思い、2009年1月11日のブログ『リリーににれない女』の最後に書いている。今日は最後に、以下、その部分を紹介したいと思う。


‥‥寅さんとリリーは、最後の作品、「寅次郎 紅の花」でも、結婚こそできなかったけど、十分すぎるくらいに幸せな生活を送ってた。だけど、いくら愛するリリーと一緒だって言っても、糸の切れた風船みたいな生き方をして来た寅さんが、暖かい南の島で2人で幸せに暮らしてくなんてホントにできるのだろうか?そして、そんな暮らしが、ホントに寅さんの理想だったんだろうか?‥‥なんて思いつつ映画のエンディングが近づいて来ると、新年を迎えた柴又の「とらや」に、リリーからの手紙が届く。


あけましておめでとうございます。
みなさんどんなお正月をお過ごしですか。

さて寅さんのことですが、一週間前、例によってお酒の上でちょっとした口げんかをした翌朝、置手紙をしていなくなってしまいました。
あの厄介なひとがいなくなって、ほっとしたりもしましたが、こうして独りで手紙を書いていると、ちょっぴり淋しくもあります。

でもいつか、またひょっこり帰ってきてくれるかもしれません。
もっとも、その日まで私がこの島に暮らし続けちゃってるか分かりませんけどね。
もしかして、この次寅さんに会うのは、北海道の流氷が浮かぶ港町かもしれません。
寅さんにお会いになったら、どうかよろしくお伝えくださいね。

奄美の浜辺にて  リリー


‥‥そんなワケで、この手紙は、リリーの声で読み上げられるんだけど、ここで注目すべきは、ただヒトコト、「またひょっこり帰ってきてくれるかもしれません」て部分だろう。「顔を見せにきてくれるかも」とか「遊びにきてくれるかも」とかじゃなくて、リリーは「帰ってきてくれるかも」って書いてるのだ。そう、今までずっと港を持たなかった寅さんに、初めて「リリー」って言う港ができたのだ。こんなにステキなことはない。だけど、そのリリーのほうも、「もっとも、その日まで私がこの島に暮らし続けちゃってるか分かりませんけどね」って書いてるように、寅さんとおんなじに糸の切れた風船みたいな生き方をして来た女なのだ。だから、この手紙に書かれてるように、ホントに2人が次に再会できるのは、奄美大島とは正反対の流氷が浮かぶ港町なのかもしれないのだ。ああ、なんて切なくも心温まる恋なんだろう? あたしは、これほど純粋な恋愛を他に知らない。2004年3月11日の日記、「愛しの寅さん」にも書いたけど、いつ帰って来るか分からない人を待ち続ける女なんて、ハタから見たら不幸そのものなのに、そんなものに憧れてるあたしは、きっと、その奥にある純粋さに憧れてるのかもしれない‥‥なんて思う今日この頃なのだ。


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2017.03.12

擬人化された3匹の黒猫

小説でも漫画でも映画でも、そこに登場する動物のキャラクターは、大きく分けて、その動物が動物のままのものと擬人化されたものとがある。たとえば、映画『南極物語』のソリ犬のタロとジロや、映画『ハチ公物語』のハチ公は、動物のまま、犬のままで、擬人化されてはいない。だけど、ディズニーのアニメ映画に登場する動物たちは、ネズミもアヒルも犬も猫も、そのほとんどが擬人化されている。人間の言葉で会話するだけでなく、人間のように二足歩行もするし、洋服も着てるし、場合によっては自動車を運転したりもする。

小説の場合なら、谷崎潤一郎の『猫と庄造と二人のおんな』に登場する猫のリリーは、タイトルでも一番初めに「猫」と書いてあるように、ほぼ主役のような役割を果たしてるけど、全編を通じて猫のままで、「ニャア」としか鳴かない。一方、夏目漱石の『吾輩は猫である』の主人公の吾輩は、全編を通じて人間の言葉で自分の考えなどを述べていて、最後に死ぬ時には人間でもなかなか辿り着けない悟りの境地にまで達してしまう。

だけど、同じ擬人化でも、この吾輩がディズニーアニメの動物たちと大きく違うのは、見た目は猫のままだし、人間たちと会話などしないから、人間たちからは「単なる猫」として見られてるという点だ。全編が吾輩による独白というスタイルの小説なのに、それは本を読んでるあたしたち読者だけが知ってる秘密で、小説に登場する人間たちは、まさかこの猫が人間の言葉を理解しているとは夢にも思っていない。吾輩は、人間の会話が分かるだけでなく、人間の文字も読めるし、さらには、アンドレア・デル・サルトやレオナルド・ダ・ヴィンチまで知ってるほどの博学だけど、小説の中の人間たちは、そんなことは想像だにしてない今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、あたしは猫が大好きで、特に黒猫が好きなので、今回は、あたしの大好きな「擬人化された黒猫のキャラクター」を3匹紹介して、それぞれの擬人化レベルの違いを考察したいと思う。あたしの大好きな「擬人化された黒猫のキャラクター」は、横内なおきさんの漫画『サイボーグ クロちゃん』の主人公のクロちゃん、斉藤洋さんの児童文学『ルドルフとイッパイアッテナ』の主人公のルドルフ、そして、角野栄子さんの原作をスタジオジブリがアニメ映画化した『魔女の宅急便』の主人公キキの相棒のジジ、この3匹だ。

まず、『サイボーグ クロちゃん』のクロちゃんだけど、あたしはとにかくメッチャ大好きで、単行本11巻全巻の他に、テレビアニメも全話録画して持ってるし、カセットテープ付きの絵本や各種フィギュアも持ってる。ストーリーは、普通の猫だったクロちゃんが世界征服をたくらむドクター剛という悪い博士に捕まってしまい、サイボーグに改造されてしまい、もの凄く強いサイボーグ猫になっちゃうところから始まる。

「悪者に捕まって改造されちゃう」というシチュエーションは、『サイボーグ009』や『仮面ライダー』のような石ノ森章太郎フレーバーだし、猫をサイボーグにするという無理やり感は、『鉄腕アトム』を手塚治虫自身がパロディーにした『アトムキャット』みたいで、二大巨頭の面影が感じられる。クロちゃんが敵と戦うたびに街中がメチャクチャに破壊されるというスペクタクル具合は永井豪的だし、壊滅的に破壊された街が次の回ではシレッと元通りになってるとこは赤塚不二夫的だし、それでいてタマに号泣させてくれる感動の回は高橋留美子的だし、昭和の少年漫画の面白さが満載の作品だ。

クロちゃんはサイボーグだから、人間の言葉が分かるだけでなく、人間と普通に会話ができるし、二足歩行もできる。だけど、飼主のじいさんとばあさんを驚かせたくないため、じいさんとばあさんの前では「ニャア」と鳴き、四本足で歩き、普通の猫のフリをしてる。つまり、今回のテーマである「擬人化」という点では、ディズニーアニメの動物たちの擬人化レベルを10点満点とするなら、クロちゃんは8~9点くらいの擬人化レベルということになる。

続いては、斉藤洋さんの児童文学『ルドルフとイッパイアッテナ』のルドルフだけど、これは、岐阜県の普通の家庭の飼い猫だった黒猫のルドルフが、地元の商店街の魚屋さんでシシャモを盗み、魚屋さんに追いかけられて飛び乗ったトラックが、東京の江戸川区まで行ってしまう。そして、東京で知り合った体の大きなトラ猫のイッパイアッテナから、人間の文字を教えてもらい、岐阜県の自分の家に帰るためにがんばる物語だ。

だから、ルドルフにしてもイッパイアッテナにしても他の猫にしても、みんな人間の言葉で会話してるけど、人間から見たら普通の猫で、『吾輩は猫である』と同様に、人間たちはまさか猫たちが人間のように会話してるとは思ってない。でも、本の挿絵を見ると、ルドルフやイッパイアッテナたちは人間のように二足歩行をしてる。一方、人間の前では、四本足で歩いたり、普通の猫のように「ニャア」と鳴いて甘えたりもしてる。これは、クロちゃんがじいさんとばあさんの前でワザと「ニャア」と鳴いているのとは違って、もとともと人間とは会話ができないからだ。

猫同士の会話が人間の言葉になってるのは、便宜上、読者に内容を伝えるためで、この点も『吾輩は猫である』と同じだ。でも、歩行に関して言えば、都合によって二足歩行も四足歩行もできるから、馬場のぼるさんの絵本『11ぴきのねこ』のシリーズみたいな感じだ。だから、擬人化レベルとしては、10点満点で5~6点くらいだと思う。

最後に、『魔女の宅急便』のジジだけど、これは今さら説明はいらないだろう。あたしはジジのこともメッチャ大好きで、ぬいぐるみを持ってる。スタジオジブリのアニメキャラでぬいぐるみを持ってるのは、このジジと『となりのトトロ』のネコバスだけだ。どちらも髙かったけど、どうしても欲しくて、どちらも無理して買った。

で、黒猫のジジだけど、アニメではキキと普通に会話をしてるし、意思の疎通も完璧だ。ジジはセリフも多いから、一見、けっこう擬人化されてるみたいに思いがちだけど、実はほとんど擬人化されてない。実際には、ジジは人間の言葉など話すことはできないし、キキ以外の人間からは「ニャア」と鳴く普通の猫にしか見えない。キキとジジが会話できるのは、キキが魔法の力でジジと会話できてるだけで、キキがトンボのパーティーの件で落ち込んで魔法の力が弱まったら、キキにはジジの言葉が「ニャア」としか聞こえなくなった。

さらには、ジジは二足歩行もできないし、体の動きはすべて猫のままだから、本来は「擬人化されてない普通の猫」なのだ。だけど、物理的には「ニャア」としか鳴けないジジの声を、キキが魔法の力で聞いてる「人間の言葉」に置き換えて、本の読者やアニメの視聴者にも理解できるようにしてるワケだから、この部分だけは『ルドルフとイッパイアッテナ』と同じことになる。ジジの場合、物理的な擬人化レベルは低く、10点満点で1点と言ったとこだけど、猫が自分と同じ黒猫の絵の描いてあるマグを欲しがったりはしないから、言葉うんぬんよりも、知能や嗜好が擬人化されてることになり、それも踏まえると擬人化レベルは2点だろう。

でも、これは、ジジに限ったことじゃなくて、これまでに挙げた猫たちはみんな、人間並みの知能や嗜好を持ってるし、だからこそ擬人化されてるのだ。もしも、猫の知能や嗜好が猫のままなら、仮に人間と会話ができるキャラにしたとしても、「お腹が空いた」とか「眠くなった」とかの簡単な言葉しか話さないと思うし、人間みたいにハッキリとした喜怒哀楽は表わさなくなると思う。

犬は喜べはシッポを振るし、飼い主に叱られればシュンとする。猫は気持ち良ければノドをゴロゴロと鳴らすし、怒れば背中やシッポの毛を逆立てて「シャー!」と威嚇する。だから、犬や猫にも喜怒哀楽があると思うし、他の動物にもあると思う。だけど、犬や猫や他の動物たちには、人間のような豊かな表情はない。犬はシュンとすれば悲しそうな目をするし、猫は怒れば耳を平たくして牙を見せるから、ある程度の表情はあるけど、人間のように笑ったり泣いたりはしない。

だけど、擬人化された犬や猫などの動物キャラは、人間のように笑ったり泣いたりと表情が豊かだ‥‥って、ここまで書いてきて「ハッ!」と気づいたけど、『魔女の宅急便』のジジも、喜んだり悲しんだり驚いたり困ったり、鳥籠に入れられてぬいぐるみのフリをさせられた時は犬が近づいてきたら冷や汗を垂らしたり、けっこう表情が豊かだよね。だから、さっきは「擬人化されてない普通の猫」とか「体の動きはすべて猫のまま」とか書いちゃったけど、表情はちゃんと擬人化されてるから、擬人化レベルはさっきの2点から3点に格上げしようと思う。


‥‥そんなワケで、友達同士とかでよく出る話題で、「人間以外の生き物に生まれ変わるとしたら何になりたい?」というのがあるけど、ワリと多いのが猫や鳥や魚だ。あたし自身も、猫か鳥か魚に生まれ変わりたいと思ってた。だけど、ここでひとつ問題なのは、あたしたちがこの話題について考える時って、みんな、擬人化した動物を想像してるんだよね。もちろん、生まれ変わった動物が人間の言葉を話せないことは分かってるけど、今の自分の知能や五感がそのままで、体だけが猫になったり鳥になったり魚になったりした姿を想像してるケースが多い。

でも、これは、『ひみつのアッコちゃん』がスーパーミラーで猫や鳥や魚に「変身」するワケじゃなくて、その動物に「生まれ変わる」ワケだから、知能だって五感だって生まれ変わった動物と同じになる。知能だけでなく、五感、つまり、視覚や聴覚や嗅覚や味覚や触覚も変わるということは、たとえば視覚なら、猫になったら暗闇でも目が見えるようになり、鳥になったら夜は目が見えなくなり、魚になったら魚眼レンズで見た世界になっちゃうワケだ。そう考えると、トンボに生まれ変わったら視覚が大変なことになっちゃいそうだけど、それが、それぞれの動物の「普通」なんだから仕方ないし、逆に、そういう視覚じゃないと、その動物としての生活ができないのだ。

犬の嗅覚は、普通の匂いでも人間の100万倍、刺激臭なら人間の1億倍と言われてるけど、もしも犬に生まれ変わったら、この嗅覚ももれなく付いてくるワケで、刺激臭が1億倍だなんて、考えただけでもゾッとする。でも、世の中の犬たちがみんな普通に暮してるということは、人間にとっては嫌な匂いでも、犬にとってはそうでもないということになる。犬だけでなく猫だって人間よりも遥かに嗅覚が優れてて、犬も猫もオシッコで縄張りを主張するから、他の犬や猫のオシッコの匂いを嗅いで、その匂いで「ここは誰の縄張りか」を判断してる。だから、あたしが猫に生まれ変わったら、他の猫のオシッコの匂いを、今よりも遥かに敏感になった鼻で、クンクンと嗅ぎ回らなきゃならなくなる。

そう考えると、猫に生まれ変わるのがジョジョに奇妙に嫌になってくるし、鳥だって魚だって同じだ。あたしはスズメが大好きなので、鳥ならスズメに生まれ変わりたいと思ってたけど、スズメってミミズを食べるんだよね。だから、あたしが今の知能や五感のまま、体だけがスズメになるのなら、お米とか木の実とかだけを選んで食べるけど、知能も五感もスズメになっちゃったら、普通にミミズを食べることになる。これは、魚だって同じだから、鳥や魚に生まれ変わるのも嫌になってくる。


‥‥そんなワケで、動物のキャラクターの擬人化というのは、結局のところ、中身は人間で、見た目が動物になってるだけなのだ。人間と会話ができない猫のキャラでも、二足歩行ができない猫のキャラでも、知能や五感、喜怒哀楽や嗜好は人間と同じだから、「擬人化された猫」というよりも「猫の形をした人間」なのだ。ま、煎じ詰めれば、それを「擬人化」というワケだけど、読者や視聴者の目線としては、こうした動物のキャラクターたちを、常に「猫」や「犬」として見てしまうきらいがあった。でも、そこに描かれていたものは、「猫の形をした人間」であり「犬の形をした人間」だったのだ。そして、もしも自分が猫や犬に生まれ変わった時には、そんなに都合のいい猫や犬にはなれないということが分かった今日この頃なのだ。


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