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2018.03.31

歳時記と注解の世界

あたしは俳句が趣味なので、いつでもバッグに俳句の歳時記を入れて持ち歩いている。歳時記を選ぶのって難しくて、たくさんの季語が掲載されていて解説も詳しいものは、大きくて分厚くて重たいから持ち運びには向いていないし、小型のハンディータイプのものは、季語の掲載数も少なく、解説も雑だったりする。だから、たいていの俳人は、大きな本格的な歳時記は自宅用、小型のハンディータイプは吟行用にしているけど、欲張りなあたしは、小型でも内容の濃い歳時記じゃないと困るので、山本健吉編集の『季寄せ』(文芸春秋社)を愛用している。

これは、あたしが国語の先生の影響で俳句を始めた中学生の時に買ったもので、今年でちょうど30年目になる。ずっと大切に使ってきたけど、どこへ行く時も常にバッグに入れて持ち歩いているので、表紙の布地は色褪せているし、ページは黄ばんでいるところもあるし、栞の紐はちぎれているし、ずいぶんと劣化している。だけど、今でも大切に愛用している。それは、これがあたしにとって理想的な歳時記だからだ。

この『季寄せ』は、春と夏の上巻と、秋と冬の下巻とに分かれているので、ふだんは「その時の季節の一冊」だけを持ち歩けばいい。一冊は、文庫本をひとまわり大きくした程度の大きさなので、荷物にならないし、電車の中でも気軽にひらくことができる。そんなサイズなのに、内容が素晴らしいのだ。歳時記は、俳句を詠む時に季語を調べたり確認したりするための辞書のような役割もあるけど、その前に読み物として優れているから、あたしは、電車の中やお仕事の待ち時間などにパラリとひらき、ひらいたページを読むことが多い今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、こんなにもあたしが惚れ込むほど素晴らしい歳時記、山本健吉編集の『季寄せ』は、春と夏の上巻が緑色、秋と冬の下巻がえんじ色の布の装丁で、見た目も素敵だ。だけど、やっぱり、その中身が素晴らしい。たとえば、新年のページをめくると、こんな季語が掲載されている。


【絵踏(ゑぶみ)】旧幕時代に、正月四日ごろ、肥前長崎・五島・大村・平戸で、切支丹(きりしたん)信者でない証拠に、奉行所などで耶蘇(やそ)や聖母の絵像を踏ませた。丸山の遊女たちは盛装して出かけ、衣装競(くら)べの観があった。踏絵。
海の日の欄干として絵踏かな 青邨
小さなる小さなる主を踏まさるる 汀女


かつて、隠れキリシタンを摘発するために「踏み絵」が行なわれていたことは多くの人が学校で習って知っていると思うけど、それが旧暦の正月4日(現在の2月)に行なわれていて、初春の季語になっていたことまで知っている人は、ほとんどいないだろう。あたしだって、この歳時記を読んで、初めて知ったくらいだ。そして、その「踏み絵」の場が、まさか着飾った遊女たちの衣装くらべに使われていただなんて、この歳時記を読むまで、あたしはまったく知らなかった。

歳時記には、自然や動植物、気象や天文、人々の生活から地方の風習に至るまで、季節ごとにこうした記述が満載なので、まるで玉手箱のように楽しむことができる。他にも、あたしが歳時記で知って一番驚いたのは、「大原雑魚寝(おおはらざこね)」という冬の季語だ。


【大原雑魚寝】節分の夜、京都府大原村の江文神社の拝殿に、灯を滅して参籠し、男女入り交って寝、一夜は体を許したと、今は語り草になった風習。
文机や見ぬ世の人と雑魚寝せむ 也有


今はなくなったとは言え、かつては神社の拝殿で乱交パーティーみたいなイベントが行なわれていただなんて、あたしは、さすがにこれには驚いた。それも、中学生の時にこの歳時記を読んで知ったワケだから、あたし的には、ものすごい衝撃だった。だけど、あたしは、衝撃を受けるとともに、昔のすでに消えてしまった風習が、こうして歳時記の中に生き残っていたことに面白さを感じたのだ。だから、あたしにとっての歳時記は、「俳句のための季語の辞典」というよりも「楽しい読み物」になった。

子どものころ、男の子だったら昆虫図鑑や恐竜図鑑、働く自動車の図鑑などに興味を持ったと思うけど、あたしは、お魚の図鑑とお花の図鑑が大好きだった。特にお魚の図鑑が大好きで、最初は小学生用のもの、前半3分の2が海のお魚、後半3分の1が川や湖の淡水のお魚が並んでいる図鑑を飽きずに眺めていたけど、そのうち、もっとたくさんのお魚を知りたくなって、読めない漢字がたくさん出てくる大人用の図鑑で、海水魚専門とか淡水魚専門とかも図書館で見るようになった。

本来、図鑑というものは、辞書と同じで、何かを調べる時に使うものだ。お魚の図鑑なら、自分が実際に見たお魚の名前や習性を知りたくて調べるものだけど、子どものころって、まったく逆で、好きなものの図鑑を見て、いろんな名前を覚えたり、お絵描きする時にマネして描いたりしたよね。あたしの場合は、この感覚が人一倍に強かったみたいで、川のお魚のイラストを見ながら自分も川の中を泳いでいる気持ちになったり、深海魚のイラストを見ながら自分も深海を漂っている気持ちになったり、いろんな空想を膨らませて楽しんでいた。

こんなあたしだから、国語や英語の辞書を手にしても、ページをめくって面白い説明文や例文を探して楽しんだり、電話帳やイエローページを手にしても、ページをめくって面白い名前や広告を見つけて楽しんでしまう。そして、そんなあたしが何よりも夢中になっているのが、名づけて「注解読み」だ。現代小説にはメッタに登場しないけど、ひと昔前の小説の改定版を読むと、現代では分かりにくい言葉に小さな米印が振ってあって、後ろのページに解説が書かれている。これが「注解」なんだけど、とにかく面白いのだ。

たとえば、谷崎潤一郎の小説の中で、あたしが一番好きな『猫と庄造と二人の女』、この平成15年の改定版を見ると、わずか120ページほどの短い小説なのに、日本近代文学研究者で甲南女子大学名誉教授である細江光氏による注解が、巻末に合計127も書かれている。これは、神戸を舞台にした小説で、リリーという名前の猫を溺愛した男、庄造が、今の妻と前の妻との間に挟まれて、愛するリリーを手放さなきゃならなくなって困ってしまう物語なんだけど、過去には映画化もされた面白い作品だ。

で、注解だけど、冒頭で庄造がお酒を飲みながら、晩酌のおつまみの小アジをリリーにあげる場面で、小アジが欲しくて立ち上がったリリーのことを「ノートルダムの怪獣のよう」と表現していて、ここに米印がついている。そして、文末の注解を見てみると、次のように解説されている。


※ノートルダムの怪獣 パリにあるノートルダム〔Notre-Dame(仏)〕大聖堂の外壁上層部を飾る奇怪な鳥や獣の像。中でも、一八五〇年頃の改修に際して鐘楼の欄干に設置された、頬杖を突いて町を見下ろす翼と角のある怪獣(通称「思索者」)が有名。


ね、これ、いいでしょ?さらには「この前の出水で泥だらけになった」というクダリの「出水」にも米印がついているんだけど、「出水」くらい説明されなくても「洪水」のことだって分かるのに‥‥なんて思いつつ、念のために文末の注解を見てみると、次のように解説されていたのだ。


※この間の出水 この小説は、昭和十一年一月と七月に雑誌「改造」に分載された。従って、ここで言う出水は、昭和十年六月二十九日に京阪神各地に発生した豪雨による大水害を指すと思われる。各地に床上浸水などの被害が出たため、後に登場する畳屋の塚本が、大量の仕事に追われる事になる。


なるほど!あたしは「出水」に米印がついていると思ったんだけど、「この前の出水」が注解の対象だったのね。この小説は、もちろん谷崎潤一郎の創作だけど、こうした天災などには実際の体験が使われていたのだ。谷崎潤一郎と言えば、明治19年(1986年)、東京は日本橋に生まれ、ずっと東京で執筆活動をしていたけど、大正12年(1923年)、37歳の時に関東大震災で自宅が焼失してしまい、これを機に、現在の兵庫県神戸市に移住したことが知られている。だけど、神戸でも水害を体験していたなんて、この小説の注解を読まなければ、あたしはまったく分からなかった。

この『猫と庄造と二人の女』には、他にも興味深い注解や面白い注解が目白押しだ。たとえば、「蚊遣(かやり)線香」に振られた米印の注解を見てみよう。


※蚊遣線香 除虫菊を利用したものは、明治二十三年に作られた棒状の蚊取り線香が最初。渦巻き状のものが売り出されたのは、明治二十八年から。


これだけ読むと、ただ単に「蚊取り線香の歴史」を簡単に紹介しているだけにしか見えないだろうけど、あたしが今書いた谷崎潤一郎の略歴と併せて読むと、谷崎潤一郎が生まれた時には蚊取り線香はなかったのか~、とか、谷崎潤一郎が4歳の時に初めて売り出された蚊取り線香は棒状だったのか~、とか、9歳の時に初めて渦巻き状の蚊取り線香を見た谷崎少年はどれほど驚いたのだろうか~、とか、いろんな想像が膨らんで、とっても楽しくなってくる。

また、こうした注解によって、当時の貨幣価値も見えてくる。まず、次の一節を読んでから、米印のついた部分の注解を読んでみてほしい。


「阪神電車の沿線にある町々、西宮、蘆屋、魚崎、住吉あたりでは、地元の浜で獲れる鯵(あじ)や鰯(いわし)を「鯵の取れ取れ」「鰯の取れ取れ」と呼びながら大概毎日売りに来る。「取れ取れ」とは「取れたて」と云う義で、値段は一杯十銭(※)から十五銭ぐらい、それで三四人の家族のお数(かず)になるところから、よく売れると見えて一日に何人も来ることがある。」


※十銭 一円の十分の一。当時の一円を現在の二千円ぐらいとすると、十銭は二百円に当たる。


それから、別のページの「月十五銭の地代が二年近くも滞って」というクダリの注解には、次のように書かれている。


※坪十五銭 石井家の借地が仮に三十六坪とすると、地代は月五円四十銭、二年で百二十九円六十銭になる。当時の一円を現在の二千円程度とすると、百二三十円は二十四~六万円程度に過ぎないが、それすら払えない程度の暮らしなのである。


これらの本文を読んだだけだと、文中に出てくる十銭とか十五銭とかの金額は、落語に出てくる十銭とか十五銭とかのお金と同じで、ぼんやりしたイメージしか持てない。だけど、こうして注解にも目を通してキチンと把握すると、現代の貨幣価値に置き換えて考えることができるから、あたしが生まれる何十年の前の遠い過去の人々の生活が、急に身近に感じられてくる。だから楽しいのだ。

さらには、最初に紹介した『季寄せ』の「絵踏」や「大原雑魚寝」の解説を超えるような注解もある。


※カフェエ 〔cafe(仏)〕大正から昭和の戦前にかけて、女給と呼ばれる若い女性が接待を行う酒場風洋食店の呼び名。女給は店から給与を貰わず、チップだけを収入源としたため、客に濃厚なサービスを行い、店の方でも薄暗いボックス席や個室などを設け、エロチックなサービスを売り物にした。客も女給が目当てだった。


これも、あたしはこの注解を読むまで知らなかった。この時代に、美人の女給さんを目当てに男性たちが通う「カフェ」があったということは知っていたけど、その女給さんたちはお給料がゼロで、チップだけが収入だったなんて、ぜんぜん知らなかった。その上、少しでもチップを多く貰うために、まるで現代の風俗店みたいなサービスをしていただなんて、あたしの想像していた「カフェ」とは大違いだった。さらには、「カフェ」じゃなくて「カフェエ」だっただなんて、当時の「貨幣価値」だけじゃなくて「カフェエ価値」まで知ることができた(笑)

こんなふうに、ひと昔前の小説の改定版には、小説そのものを楽しむだけでなく、注解を読んで楽しむというプラスアルファの面白さがある。そして、こんなふうに注解をじっくりと読み込むと、その小説の世界が一気に現実味をおびてくる。小説だけを読んだ時には、70年前の昭和初期の神戸での物語は、ぼんやりとした輪郭しかないモノクロ映画のような世界だったのに、こうして注解を読み込んでその時代の様々なことが分かってくると、風景に色がつき始め、登場人物たちがリアルに動き出し、猫の鳴き声までもが行間から聞こえてくるようになる。だから、あたしは、「出水」などの知っている言葉に米印がついていても、必ず注解を見て確認するようになった。

あたしは、「BOOK OFF」の100円コーナーに行くと、すでに読んだことがある有名な純文学でも、とりあえず文末の注解のページをひらいてみて、そこが面白かったら買ってみて、注解を楽しむことをメインにして作品を読み返すようにしている。また、文庫本と全集とでは同じ作品でも注解の担当者が違うことが多いので、何度も読んだことがある作品でも、図書館に行くと全集の注解をチェックする。たとえば、夏目漱石の『吾輩は猫である』や『坊ちゃん』や『こころ』などでも、図書館に並んでいる岩波の全集を見てみると、文庫本とはまったく違うディープな注解がびっしりと書き込まれていて、思わず夢中になってしまう。そして、何度も読んだはずの作品なのに、以前に読んだ時よりも何倍も鮮明な世界が広がってくるのだ。


‥‥そんなワケで、同じ小説でも、中学校で初めて読んだ時と、社会人になってから読み返した時と、結婚して子どもを持ってから読み返した時では、それぞれ印象が違ってくると思う。これは、最初に読んでから二度目に読み返すまで、二度目に読んでから三度目に読み返すまでに、いろんな人生経験をして、いろんな知識を得て、自分が成長したからだ。一方、文末の注解をじっくりと読み込んだ上でその小説を読み返すということは、この10年も20年も掛けて得る「いろんな知識」を、簡単に得られるお手軽な方法なのだ。だから皆さんも、ひと昔前の小説を読む時には、なるべく注解がびっしりと書き込まれた改定版を選び、じっくりと読み込んでみてほしい。そうすれば、たとえ何度も読んだことがある作品でも、必ず新しい世界が見えてくると思う今日この頃なのだ。


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