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2018.04.27

時空を超えたソデ不倫

あたしは中学生の時まで、「袖すりあうも他生の縁」のことを「袖すりあうも『多少』の縁」だと勘違いしてて、「道ですれ違っただけの人でも多少は縁があるものだ」という意味だと思い込んでいた。この勘違いって、あたしだけじゃなくて、けっこういるんじゃないかと思う。このことわざの正しい意味は、「人と人との関係には深い因縁があり、人間は何度も輪廻転生して生まれ変わるものだから、今の世で、道ですれ違っただけの相手でも、前世ではあなたと結ばれていた相手かもしれないのだ」という、今どきで言えば、大ヒットしたアニメ映画『君の名は。』みたいな意味なのだ。あたしは観てないけど。

 

で、「何度も生まれ変わる」ということだから、ホントは「他生」じゃなくて「多生」が正しい。「袖すりあうも他生の縁」じゃなくて「袖すりあうも多生の縁」、これが正解だ。だけど、現在は「他生」という表記のほうが多く使われていて、これでも「現世ではない別の世」という意味になるから、こちらの表記でも許容されるようになったそうだ。だから、さすがに「多少」は間違いだけど、「他生」でも「多生」でも現在はOKになったみたいだ。

 

そして、「多少」じゃなくて「他生」か「多生」だったということを知った中学生のあたしは、すぐに高校生になり、今度は「袖すりあうも」の他に、「袖ふりあうも」とか「袖ふれあうも」とかのバージョンもあるということを知った。これらは間違いということじゃなくて、どれも正しいんだけど、その中で「袖すりあうも」のバージョンがメジャーになった、ということなのだ。これ、知ってた?「多少」が間違いだということはワリと知られてるけど、「袖すりあうも」の部分に複数のバージョンがあったということまでは、あんまり知られてなかったと思う今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?

 

 

‥‥そんなワケで、「袖すりあうも」の部分の意味としては、どのバージョンも同じで、「道ですれ違って、お互いの着物の袖がふれあっただけの他人でも、前世などの別の世では深い因縁のあった人なのだ」というような意味だと言われてる。だけど、ここで、あたしが疑問に思ったのが、その表記だった。「袖すりあうも」は「擦りあうも」だから、「こすれあう」ということで問題はない。また、「袖ふれあうも」も、漢字で「触れあうも」と書くのなら、意味としてはおんなじだ。だけど、「袖ふれあうも」も「袖ふりあうも」も、多くのことわざ辞典や故事辞典などには、「振りあうも」「振れあうも」と表記されていたのだ。

 

「こすれあう」という意味なら、普通は「触りあうも」「触れあうも」と表記するはずなのに、「振る」という漢字を使われると、イメージがぜんぜん違ってくる。「袖振りあうも他生の縁」だと、道ですれ違った2人の様子じゃなくて、少し離れた場所にいる2人が、お互いに袖を振りあってるように思えるからだ。そして、ここであたしが「ハッ!」と思い出したのが、『万葉集』だった。『万葉集』には、袖を振る歌がたくさん出てくるからだ。

 

 

茜さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る 額田王

 

石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか 柿本人麻呂

 

あきづ羽の袖振る妹を玉櫛笥奥に思ふを見たまへ我が君 湯原王

 

 

書き出してるとキリがないから、紹介するのはこの3首だけにしたけど、これらの歌の「君」や「妹(いも)」は恋人のことだ。女性が恋する男性を呼ぶ時は「君」、男性が恋する女性を呼ぶ時は「妹」を使う。だから、詠み人の名前が伏せられていても、1首目は女性が詠んだ歌、2首目と3首目は男性が詠んだ歌だと分かる。そして、ここに挙げなかった『万葉集』の他の「袖を振る」歌も、その大半が「君」や「妹」に対して袖を振っている。つまり、万葉の時代に「袖を振る」のは、友達同士が別れ際に「バイバ~イ!」ってやってるワケじゃなくて、愛する人への愛情表現だったり、その思いを伝えようとする仕草だったということだ。そして、これが、双方が袖を振っている「袖振りあう」になれば、相思相愛ということになる。

 

女性が袖を振るなら「お振袖」が一番だと思うけど、残念なことに、万葉の時代には「お振袖」はなかった。当時は、スサノオノミコトとかヒミコとかのイラストで見たことがあるようなフレーバーの着物が一般的で、袖は幅の広い「筒袖(つつそで)」だった。文章で説明するのは難しいけど、袖口へ行くほど幅が広がっているパンタロンみたいな袖で、指先よりも長くてヒラヒラとしてた。だから、日常生活には不向きだったと思うけど、この時代は「袖を振る」ということが、愛する人への愛情表現だけじゃなくて、何かの儀式で神様を祀ったり、何かの御霊を鎮めたりと、いろんなことに使われていたため、手よりも長いヒラヒラした袖が必要だったのだ。

 

 

‥‥そんなワケで、万葉の時代には、愛する人への愛情表現と言っても、ルパン三世が「フジコちゃ~ん!愛してるよ~!」なんていう軽いノリじゃなかった。袖を振ることによって、自分の思いを相手に伝えるだけじゃなくて、相手の魂を自分のほうに引き寄せるという呪術的な意味もあったのだ。好きな相手の気持ちを引き寄せるために、オマジナイだの何だのにハマッちゃうのは、いつの時代も男性より女性のほうが多いと思うけど、愛する人と結ばれるためなら、ヤモリを煮込んだスープまで飲んじゃったりする女性もいる。さっき紹介した最初の歌を詠んだ額田王(ぬかたのおおきみ)も、万葉を代表する女流歌人でありながら、恋人のためならヤモリのスープも飲んじゃいそうなイキオイの女性だったから、他の男性陣の歌よりも、遥かに思いが深くて、ある意味、恐くなってくるほどだ。さっき紹介した有名な歌を、ちょっと詳しく解説してみると、こんな感じになる。

 

 

茜(あかね)さす紫野(むらさきの)行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る 額田王

 

 

最初の「茜さす」というのは、実際に夕日が差してたワケじゃなくて、「紫」に掛かる枕詞(まくらことば)だ。現代の紫は、今、皆さんが頭に思い浮かべた紫色だけど、万葉の時代の「古代紫」は、今よりも赤っぽかった。それで、「紫」という色を一段と際立たせる手法として、「茜さす」という枕詞を使うのが定番だったのだ。それから、「紫野」というのは、「紫草が咲きほこっている野」のことなので、この歌の「茜さす紫野」は、単なる「紫野」よりもずっと美しい景色ということになる。

 

そして、「標野」というのは、天皇などの偉い人が「標(しめ)した地域」ということで、ようするに、一般人の立ち入りを禁止した御料地ということだ。当時、紫は最も位の高い人にだけに許された特別な色だったから、その紫色の原料となる紫草の野は、ほとんどが偉い人たちの御料地とされていた。そして、額田王は天智天皇の妻だから、この歌の「標野」は「天智天皇の御料地」ということになる。

 

それから、「野守(のもり)」というのは、ヤモリでもイモリでもタモリでもなく、その御料地に一般人が立ち入らないように見張りをしている人のことだ。だから、この歌を直訳すると、「美しい紫草が咲きほこっている天智天皇の御料地を行ったり来たりしながら、あなたは私に袖を振ってくれていますが、野の見張り番に見つかってしまいますよ」という意味になる。

 

ここで問題なのは、この歌を詠んでいる額田王が、天智天皇の妻だということだ。天智天皇の御料地で、ダンナである天智天皇が妻である額田王に袖を振っていたのなら、見張り番に見つかっても何も問題はない。じゃあ、この袖を振っている男性が誰なのかというと、ナナナナナント!天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのみこ)、後の天武天皇だったのだ!仮にも天皇の妻が、その天皇の弟と不倫してただなんて、もしも現代だったら、確実に「週刊文春」の文春砲が炸裂してただろう!(笑)

 

だけど、この額田王という女性は、もともとは大海人皇子の恋人だったのだ。それで、額田王に横恋慕しちゃった兄貴の天智天皇が、弟の彼女を奪って結婚しちゃったのだ。だから、そもそもの原因は「弟の恋人を奪った天皇」のほうにある。さすがに、天皇からの求婚は断われないので、額田王は天智天皇の妻になったワケだけど、それでも元カレの大海人皇子のことが忘れられないし、大海人皇子だって額田王のことが忘れられない。それで、大海人皇子は、兄貴の留守にコッソリと兄貴の御料地にやって来て、元カノの額田王に袖を振りまくって「今でも愛してるよ~!」ってアピールしてたのだ。

 

 

‥‥そんなワケで、ここまでの流れを読むと、別れて何年経っても元カレや元カノを忘れられない一部の人たちにとっては、他人事と思えないかもしれないし、この2人にすごく共感しちゃうかもしれないだろう。でも、せっかくのそんな気分に水を差すようだけど、実は、この歌は、事実ではなく、額田王が宴会の席で余興で詠んだものだと言われてる。そして、この歌に対する、元カレの大海人皇子からの返歌が、次の歌なのだ。

 

 

紫の匂へる妹(いも)を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも 大海人皇子

 

 

現代語にすると、「紫草のようにかぐわしい君のことは、ちっとも憎いなんて思っていないよ。人妻になってしまった今でも、こんなに君のことを恋しく思っているんだよ」という意味になる。

 

このように、歌でやりとりしたものを「相聞歌(そうもんか)」と呼ぶんだけど、いくら事実でないとは言え、宴会の席でかつての恋人同士が顔を合わせた時に、彼女のほうから元カレに対して「今でも私のことを愛してるんでしょ?」的な歌を詠み、それに対して元カレのほうも「人妻になっても、まだ君を愛しているよ」的な返歌を贈るなんて、やっぱり、恋愛こそが人生を懸けた最大の娯楽だった万葉の時代だよね。あたしは、この相聞歌が大好きで、そこらの少女マンガよりも恋愛の質が上だと思ってる。

 

この歌に限らず、当時の『百人一首』にしたって、すべてが恋愛をテーマにした歌だもんね。だから、現代の恋人同士がスマホのLINEでハートマークのスタンプを送りあってるように、今から1400年も前の万葉の時代の恋人たちは、相手の顔も判別できないほど離れた場所で、お互いに一生懸命に袖を振りあっていたんだよね。それも、相手の魂を引き寄せるために袖を振っていたのだから、ある意味、現代よりも遥かにディープで、霊的な側面も持った呪術的な恋愛だったのだ。

 

 

‥‥そんなワケで、額田王の歌に出て来た御料地の見張り番の「野守(のもり)」、さっきは「ヤモリでもイモリでもタモリでもなく」って書いたけど、実際には「ヤモリ」とも読める。だから、コイツを捕まえて大鍋でグツグツと何時間も煮込めば、呪いのスープが出来て、これを飲めば兄貴から恋人を取り戻せるかもしれない‥‥なんてこた~ないけど‥‥って、これは「タモリ」だけど、「ヤモリ」「タモリ」と来れば、残りは「イモリ」というわけで、あたしは小学生の時に、水槽でイモリを飼ってたことがある。デパートの屋上の一角に、金魚とかを売っているコーナーがあって、どうしてもイモリが欲しかったあたしは、母さんにお願いして3匹買ってもらったのだ。

 

ヤモリは何匹かいたら区別がつかないけど、イモリ、正確には「アカハライモリ」と言うんだけど、このアカハライモリの場合は、お腹の赤と黒のマダラ模様が1匹ずつ違うから、ちゃんと見分けがつく。そして、そんなイモリだって恋愛をして、オスとメスとで愛し合うのは人間と同じだ。だけど、イモリの場合は、どんなに相手を好きになっても、着物を着てないから、相手の気を引くために袖を振ることができない。でも、イモリには、袖の代わりにシッポがある。

 

恋の季節になると、オスのイモリは水中でメスのイモリのお尻の匂いを嗅ぎ、そのメスが成熟してることを確認すると、メスの行く手を自分の首で塞いで動けないようにしてから、自分のシッポを水の中でユラユラと揺らして、メスの鼻先へと水を送る。この時、オスは、自分のお尻からメスを惹きつけるためのフェロモンを分泌して、そのフェロモンを水と一緒にメスの鼻先に送るんだけど、驚くべきことに、このフェロモンの名前が「sodefrin(ソデフリン)」と言うのだ。

 

これは、単なる偶然じゃなくて、1995年にこのフェロモンを発見した早稲田大学の菊山榮名誉教授が、先ほどの額田王と大海人皇子との相聞歌から「袖を振る」という万葉の時代の愛情表現を引用して名づけたものなのだ。だから、この菊山榮名誉教授の目には、メスを引き寄せるために必死にシッポを振るオスのイモリの姿が、紫草の咲きほこる野で、今でも愛する元カノに袖を振り続ける大海人皇子の姿とオーバーラップしたんだと思う。

 

そして、それから20年以上の年月が流れた昨年2017年の1月、日本獣医生命科学大学の中田友明講師、奈良県立医科大学の豊田ふみよ准教授、富山大学の松田恒平教授、帝京大学の中倉敬助教、東邦大学の蓮沼至講師らの共同研究によって、メスのイモリのほうも相手を惹きつけるフェロモンを分泌してたことが発見された。それも、メスのほうが先にフェロモンを分泌して、それを嗅いだオスが、そのフェロモンに刺激されて自分のフェロモンを相手の鼻先へ送ってたことが分かったのだ。つまり、最初にオスがメスのお尻の匂いを嗅いだ時に、成熟しているメスは自分のほうから先にフェロモンを出してたのだ。

 

このメスのフェロモンは、発見した中田友明講師らの研究チームによって、「imorin(アイモリン)」と名づけられた。アルファベット表記を見ると「イモリ」に「ン」を付けただけのように思えるけど、研究発表のレポートを見ると、次のように説明されている。

 

 

「このフェロモンに、アイモリン(imorin)と名付けました。古語でイモ(妹)は「恋人・妻」をさし、先頭にアを付したのは、英名にすると「i」がアイと発音されるためです。リンはソデフリン(sodefrin)のリンに由来します。」

 

 

‥‥そんなワケで、1995年にオスのイモリのフェロモンを発見して「ソデフリン」と名づけた早稲田大学の菊山榮名誉教授の命名センスに呼応して、中田友明講師らの研究チームは、まるで相聞歌のように、その22年後に発見したメスのイモリのフェロモンを「妹」にちなんで「アイモリン」と名づけたのだ。これで、紫草の咲きほこる野で、愛するかつての恋人に袖を振り続けていた大海人皇子に対して、ようやく額田王が応えたことになる。額田王は、大海人皇子の兄である天智天皇の妻だから、これは「不倫」ということになってしまうけど、今どきの「ゲス不倫」とは違って、1400年の時空を超えて、ようやく結ばれた美しき「ソデ不倫」の2人を、いったい誰が責めることができようか‥‥なんて思って、ちょっぴり感動した今日この頃なのだ♪

 

 

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2018.04.24

元祖・日本のファストフード

先日、釣り好きの知り合いから、お刺身用のイナダの身をいただいた。何匹か釣ったそうだけど、1匹のままじゃ大きすぎるし、捌くのも大変だろうと、わざわざ5枚おろしにした身を2本、ようするに1匹の半身ということになるけど、届けてくださった。皮も引いてある5枚おろしなので、後は好きな幅に切るだけでお刺身になる。それで、あたしは、2本のうち1本、脂の乗っている腹側の身をお刺身にした。

腹側の身は、背側の身よりも量的には少ないけど、それでも長さが40センチ近くもある立派な身だったので、1本ぜんぶをお刺身にしたら、ものすごい量になった。お刺身はとっても美味しくて、母さんと2人でパクパク食べたけど、それでも3分の2くらいしか食べられなくて、お刺身10枚くらいが残ってしまった。

そこで、あたしは、残ったお刺身をヅケにした。タッパーに、お醤油とお酒を1対2で合わせて青唐辛子を散らした漬け汁を入れて、お刺身を並べて、冷蔵庫に入れた。これで、しばらく漬けてから、酢飯を作って握り寿司にすれば、伊豆大島の名物「しましま弁当」に入っている「鼈甲(べっこう)寿司」ができる。加納有沙ちゃんが文化放送のアナウンサーだった時に、林家たい平さんのお誕生日に手作りしてプレゼントした、知る人ぞ知る「鼈甲寿司」だ。だけど、今回は、お寿司は作らず、そのまま翌朝まで漬けておいた。そして、朝ごはんで、お茶漬けにした今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、お茶碗にごはんをよそって、その上にイナダのヅケを並べて、熱いお茶を注ぐだけ、後はお好みで万能ネギや海苔や金ゴマを散らせば、とっても美味しいお茶漬けになる。ちなみに、お醤油とお酒だけの漬け汁に漬けた普通のヅケの場合は、ごはんの脇にワサビをちょこっと乗せて、お茶に溶かすと美味しくなる。でも、今回は青唐辛子を散らした漬け汁で、最初からピリッとした辛味のアクセントがあるから、ワサビは必要ない。

それから、もうひとつの注意点として、ヅケの上から熱いお茶をかけるとお刺身に火が通りすぎちゃうので、お茶はお茶碗の脇から静かに注ぐようにする。そうすると、ヅケは半生のミディアムになって、とっても美味しい。これが、ヅケのお茶漬けの重要なポイントなのだ。

でも、この「ヅケ」って、そもそもが漬け汁に漬け込む過程の「漬け」のことだから、それをお茶漬けの具にする「ヅケのお茶漬け」は、正確に言うと「漬け茶漬け」ということになる。もしも、あたしがお刺身だったとしたら、お醤油とお酒の冷たい漬け汁に一晩ずっと漬けられていた上に、やっと冷蔵庫から出られたと思ったトタン、今度は、熱々の炊き立てのごはんに乗せられて熱いお茶に漬けられるんだから、たまったもんじゃない(笑)

ま、それはそれとして、ごはんに何かの具を乗せて、お茶をかけて食べるお茶漬けは、日本のファストフードの元祖であり、ちょっと小腹が空いた時や晩酌のシメなどにピッタリの素晴らしい食べ物だ。そして、そんなお茶漬けが、現代のように庶民の簡単な食事として広まったのは、番茶や煎茶が庶民の嗜好品として定着した江戸時代の中期以降と言われている。そして、それまでは、ごはんにお漬物などを乗せて、白湯(さゆ)をかける「お湯漬け」が一般的だった。

当時は、炊いたごはんを保温しておく技術がなかったため、商家などに住み込みで働いていた奉公人たちは、冷えたごはんを食べるしかなかった。その上、食事の時間がちゃんと決められていたわけじゃなくて、数人ずつ順番にパパッと食べなきゃならなかった。そこで、奉公人たちは、お茶碗によそったごはんに白湯をかけることで、冷えたごはんが温かくなり、短時間でサラサラと食べられるお湯漬けをよく食べていた。そして、江戸時代の中期になって番茶や煎茶が庶民にも広まると、奉公人たちは白湯の代わりにお茶をかけるお茶漬けを好んで食べるようになった。ただし、奉公人たちの食べていたお茶漬けのお茶は、値段の高い煎茶ではなく、もっぱら安価な番茶だった。

でも、その一方で、高価な煎茶には旨味成分であるグルタミン酸ナトリウムが含まれていて、香りも番茶より良かったため、煎茶を使ったお茶漬けは「ちょっと贅沢な庶民の食べ物」という位置づけになり、元禄のころ(1700年前後)からは、町や街道沿いに多くの「茶漬屋」が軒を並べるようになった。元禄と言えば、江戸の深川に住んでいた松尾芭蕉が、弟子の河合曾良(そら)をともなって「奥の細道」の旅に出た次期なので、もしかしたら芭蕉も「茶漬屋」でお茶漬けを食べたかもしれない。


‥‥そんなワケで、芭蕉が「奥の細道」の旅での最大の難所である出羽の峠越えの後に食べのは、地元の豪商からもてなされた「奈良茶飯」だった。これは、お茶漬けとは違い、ほうじ茶で炊いたごはんなんだけど、他にも芭蕉は、行く先々で、お粥、お湯漬け、お茶漬けなどでもてなされたと言われている。これは、江戸の著名な俳諧師である芭蕉に対して「温かい食べ物」を出すことが最大のもてなしだったからだ。

芭蕉の「奥の細道」の旅から約100年後の天保年間、江戸時代の後期に神田の町名主だった斎藤月岑(げっしん)が、祖父の代から三代にわたってまとめた『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』は、全7巻20冊からなる素晴らしい作品で、江戸の町の様子や人々の暮らしを描いた鳥瞰図の数々は、当時の風俗を知るための重要な資料としても貴重なものだ。そして、もちろん、この『江戸名所図会』の中にも、江戸で有名だった「茶漬屋」が登場していている。「茶漬屋」が描かれた図には「看板の八八茶漬は人皆の八百八町しれる江戸桝」「客こんで出す廣ぶたの鉢合せ八八茶漬もうれる江戸桝」などの解説文が添えられている。

この「八八(はつは)茶漬」というのは、当時、お茶漬けの値段が「64文」だったため、「8×8=64」ということから付けられた通称であり、江戸の「八百八町」にもカケてある。そして、「八」という漢字の「末広がり」という意味もあった。それにしても、これまた庶民のファストフードだったお蕎麦の値段が、当時、「16文」だったことから考えると、この「64文」という値段は、なかなかのものだったと思う。現在の貨幣価値に換算すると、お蕎麦の「16文」が約250円と言われているので、その4倍の「64文」は約1000円ということになる。

だけど、高級な煎茶がかけてある上に、お漬物の他にアサリやジャコなどの佃煮も添えられていたようなので、当時の状況を踏まえれば、それほどのボッタクリとは言えない。事実、『江戸名所図会』の鳥瞰図では、「八八茶漬」の店は大勢のお客で賑わっていて、解説文にも「客こんで」と書いてある。だから、当時の江戸の庶民たちは、現代のあたし達が1000円のランチを食べるような感覚で、「ちょっと贅沢な食事」という感じで「八八茶漬」を食べていたんだと思う。


‥‥そんなワケで、調べてみると意外に深いお茶漬けだけど、もともとは商家の奉公人たちの食べ物として広まったわけだから、もっと安価なお茶漬けも売られていたようだ。芭蕉より少し後の俳諧師、宝暦から文政(1870年代~1820年代)にかけて活躍した小林一茶は、名前にも「茶」の文字があるようにお茶が大好きで、茶摘みなどのお茶に関する句がたくさん残っているけど、お茶漬けも好きだったようで、こんな句が残っている。


蓮咲くや八文茶漬け二八蕎麦 一茶


蓮の花の咲いた池を眺めながら、一茶はお茶漬けと二八蕎麦を食べたわけだけど、ここには「八文茶漬け」と書かれている。64文もする江戸の「八八茶漬」と比べたら、なんと8分の1の安さだ。当時、お蕎麦が16文だったのだから、それに8文足してお茶漬けを添えた、という感じなのだろう。だから、江戸の「八八茶漬」のように立派な鉢に入ったものでなく、普通のお茶碗のごはんにお漬物を乗せてお茶をかけただけの質素なものだったのかもしれない。

もともとは白湯をかけたお湯漬けだったのに、お茶の普及によって進化して、芭蕉にも一茶にも愛されるようになった江戸時代の庶民のファストフード、それがお茶漬けだ。そして、現代人のあたし達にとっては、庶民のファストフードとしてのお茶漬けと言えば、やっぱり永谷園の「お茶漬け海苔」だと思う。永谷園の「お茶づけ海苔」が発売されたのは1952年、あたしが生まれる20年も前のことだけど、お茶の粉末まで入っていて「お湯をかけるだけでお茶漬けになる」というアイデアで大ヒットして、世の中にお茶漬けブームが巻き起こったそうだ。そして、そのお茶漬けブームを受けてなのか、この年には、小津安二郎監督の映画『お茶漬の味』が公開されている。

我が家では、とにかく母さんが永谷園の「お茶漬け海苔」を大好きだったので、常に買い置きしてあった。母さんは、お茶漬けとして食べるだけじゃなくて、お椀に入れて多めのお湯を注いでお味噌汁の代わりに飲んだり、そこに焼いたお餅を入れてお雑煮にしたり、ソルトクラッカーを浮かべてみたりと、いろいろな食べ方を楽しんでいて、しまいには食パンのトーストに振りかけて「お茶漬け海苔トースト」まで考案して食べていた。あたしは、お雑煮は好きだったけど、さすがにトーストは一度しか食べなかった。

母さんは、永谷園の「お茶漬け海苔」に入っていた「東海道五十三次」のカードを集めていたので、すでに持っているカードとかぶると悔しそうにしていた。でも、ある時、何枚かのカードを永谷園に送ると、全種類がそろったコンプリート・セットが応募者全員にもれなくもらえるというプレゼントがあって、母さんはたくさん溜まっていた「かぶったカード」を送り、コンプリート・セットを2組もゲットした。畳の上に全種類のカードを並べ、嬉しそうに眺めている母さんを見て、あたしも嬉しくなったことを覚えている。

ちなみに、永谷園の「東海道五十三次」のカードは、歌川広重による浮世絵木版画の連作をトランプサイズのカードにしたもので、「五十三次」と言っているけど全部で「55枚」ある。そして、2年前の2016年に20年ぶりに復活して、来年2019年の1月末まで、今度は「もれなく」じゃなくて「毎月1000名様」だけど、コンプリート・セットが当たるようになった。このプレゼントは、永谷園の「お茶漬け海苔」のシリーズの袋の裏に付いている「味ひとすじ」のマークを3枚、ハガキに貼って応募するだけなので、そんなにお金は掛からない。


‥‥そんなワケで、あたしの母さんは、今も2組のコンプリート・セットとバラのカードを何十枚も大切にしていて、時々、テーブルに並べて眺めているけど、「お茶漬け海苔」はタマにしか買わなくなった。そして、我が家のお茶漬けと言えば、ごはんの上に梅干しと東京タクアンと焼き海苔や、ほぐした焼き鮭の身と芝漬けや、辛子明太子と高菜漬けや、時には今回のようにイナダのお刺身のヅケを乗せて、熱いお茶を注いで食べる「本物のお茶漬け」が主流になった。だけど、これこそが、ごはんに佃煮とお漬物を乗せて、熱い煎茶を注いで食べていた江戸の「八八茶漬」の進化形なので、たとえ庶民のファストフードと言えども、なるべく手抜きせずに食材にこだわって作るようにして、日本の食文化を守っていきたいと思う今日この頃なのだ。


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2018.04.21

海猫(ごめ)渡る

俳句の歳時記をパラパラとめくっていると、まだ実際には実物を見たことのない季語や、まだ体験したことのない季語、ほとんど体験したことがない珍しい季語がたくさんある。たとえば、春である今の時季なら、「えり挿す」という季語がある。「えり」は魚扁に「入」と書くんだけど、湖沼などの浅瀬の底に細い竹などを狭い間隔で挿して簾(すだれ)のような壁を作り、2つの簾の幅がだんだん狭くなるような罠(わな)にして、魚がそのまま進むと最後に待ち構えている網の中に入ってしまうという定置網漁のことだ。

あたしは、これは子どものころに一度だけ、茨木県の霞ヶ浦でやったことがある。もちろん、罠は漁師さんたちが仕掛けてくれて、子どもたちは最後の場所に追い込まれた魚を網で掬うだけだったけど、霞ヶ浦には海の魚も混じっているから、コイやフナ、ウナギやナマズと一緒に、大きなスズキなども獲れたので、楽しくて興奮して、夏休みの絵日記に2ページも使って描いたことを覚えている。でも、「えり」を挿したのは漁師さんだから、正確に言えば、あたしは「えり挿す」という季語は体験していない。

他には、まだ寒い初春の時期に、伊勢志摩の海女さんたちが浜辺で囲いをして火を起こして暖を取ることを「磯竃(いそかまど)」と呼んだり、ニシンの漁期が近づくと東北などの漁師や農夫が網元に雇われて北海道へ渡る「渡り漁夫(わたりぎょふ)」なども、初春の季語だ。現在ではニシンの水揚げは大幅に減ったけど、それでも、ホッケ漁やイカ漁の人手不足を補うために、今でも東北などから北海道へ渡る季節労働の人たちがいる今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、この「渡り漁夫」とセットになっているような季語で、あたしが、いつか一度は見てみたいと思っているのが、「海猫(ごめ)渡る」だ。あたしが30年ほど愛用している歳時記、山本健吉編集の『季寄せ』(文藝春秋)を見てみると、次のように解説してある。


【海猫(ごめ)渡る】
鴎(かもめ)の一種で、鳴声が猫に似ている。繁殖地としては東北の蕪(かぶ)島、椿島、江ノ島、飛島、島根県の経(ふみ)島があり、一月から三月へかけて、これらの島に大挙渡って来る。
渡り来て遠突堤のこぼれ海猫 村上しゆら


ちなみに、この解説に挙げられている「江ノ島」は、東京から小田急江ノ島線で行ける神奈川県の「江ノ島」のことじゃなくて、東北の牡鹿半島にある陸前の「江ノ島列島」のことだ。神奈川県の「江ノ島」は、映画『海街diary』の舞台になったし、劇中で吹雪ジュンさんが経営する食堂の名前が「海猫食堂」だったこともあって、「海猫」に関係が深そうに感じるけど、神奈川県の「江ノ島」には、海猫よりも本物の猫のほうが遥かに多い。東京近郊でも「猫がたくさんいる猫パラダイス」として、猫好きの間では有名だし、あたしも何度も遊びに行っている。

ま、それは置いといて、この「海猫渡る」という初春の季語だけど、そもそも「海猫」のことを「ごめ」と呼ぶようになったのは、北海道の漁師たちだという。まだ、魚群探知機などがなかった昔の漁業では、海上にカモメやウミネコが乱舞している場所を「鳥山(とりやま)」と呼び、それを「魚の群れのいる場所」として漁の目印にしていた。大きな回遊魚たちはエサのイワシなどの群れを海面まで追い詰めて捕食するため、その「おこぼれ」を頂戴するためにカモメやウミネコが集まってくる。だから、こうした「鳥山」の下には、大きな回遊魚がたくさんいるというワケだ。

そのため、当時の漁師にとってカモメやウミネコは、とても大切な海鳥だった。そして、「ごめ」という呼び名の語源には諸説あるけど、その中のひとつに、漁師たちに加護を与えてくれるありがたい鳥なので「加護女(かごめ)」と呼ばれるようになり、それが「カモメ」に変化したり「ゴメ」に変化したという説もある。この説が正しいとすると、漁師たちはウミネコだけを特別視してたワケじゃなくて、カモメもウミネコも一緒に大切にしてた可能性が高い。

事実、夏場の北海道の海鳥はウミネコとオオセグロカモメがほとんどになるけど、冬から春にかけての時季は、他にもワシカモメ、シロカモメ、ミツユビカモメなどが見られるようになる。そして、どのカモメも大きさや色がウミネコに似ているため、遠くから見ただけだと判別が難しい。それでも、ウミネコの鳴声には特徴があるから、ウミネコの群れが海上で鳴いていれば遠くからでも分かるのだ。


「海猫(ごめ)が鳴くから ニシンが来ると 赤い筒袖(つっぽ)の やん衆がさわぐ」


これは、なかにし礼さん作詞、浜圭介さん作曲、北原ミレイさんのヒット曲『石狩挽歌』の出だしの部分だけど、この楽曲は、発表された1975年に「日本作詞大賞」の作品賞を受賞して以来、八代亜紀さん、森昌子さん、石川さゆりさん、坂本冬美さんなどを始め、多くの歌手が歌い続けてきたので、聴いたことがある人も多いと思う。なかにし礼さんと言えば、作詞家としても数多くの大ヒット曲を生み出した大御所だけど、小説家としても超一流で、2000年に第122回直木賞を受賞した『長崎ぶらぶら節』(文春文庫)は、何度読んでも涙が止まらなくなる素晴らしい作品だ。

そして、そんな、なかにし礼さんの書いた『石狩挽歌』の歌詞は、何の体験もなく想像で書いたものではないのだ。幼少時、北海道小樽市で家族と暮らしていたなかにし礼さんには、15歳年上の戦争帰りの兄がいたんだけど、この兄が一家にとって疫病神のような存在だったそうだ。兄は、ギャンブル性の高いニシン漁で一発当てようと思い、何とか大漁に恵まれたものの、それだけでは飽き足らず、本州まで運んで高く売ろうとしたために、すべてのニシンを腐らせてしまって膨大な借金を作ってしまう。そして、この事業の失敗が原因で、なかにし家は一家離散を余儀なくされたのだ。『石狩挽歌』は、ニシン漁に人生をかけた男女の悲しい物語だけど、この歌詞の背景には、なかにし礼さん自身が幼いころに経験した原体験が底流していたのだ。


‥‥そんなワケで、なかにし礼さんが、この兄についての思い出などをベースにして書いた1998年の小説『兄弟』(文春文庫)は、第119回直木賞の候補作となり、その後、なかにし礼さんは『長崎ぶらぶら節』で直木賞を受賞するワケだけど、この『兄弟』の中に、幼かった頃の記憶を呼び起こしたのであろう、次の一節がある。


「鴎(かもめ)が凄いね」と私が言うと、
「鴎じゃないわ。海猫よ。猫みたいな鳴き声じゃないの」姉は高飛車に言う。
「あれはゴメって言うんだ」
網元の息子が振り返って言った。
「ゴメ?海猫じゃないの」と不服そうな姉。
「増毛(ましけ)では、海猫のことをゴメって言うんだ」
「ほら、やっぱり海猫じゃないの」
姉は低い鼻を反り返らせて威張る。
網元の息子は続ける。
「増毛という町の名前の由来は、アイヌ語のマシュケという言葉からきてるんだ。鴎の多いところ、という意味なんだと」
「ほら、鴎じゃないか」と私は姉を肘でつつく。姉の鼻がまた低くなる。
「ゴメも鴎の一種だから、二人とも間違ってないよ」と息子が笑う。
※なかにし礼『兄弟』(文春文庫)より引用


この一節から推測すると、北海道の漁師さんたちは、基本的にはウミネコのことを「ごめ」と呼んでいるんだけど、普段は他のカモメたちのことも区別したりせずに、イッショクタに「ごめ」と呼んでいるようなイメージを感じた。それに、なかにし礼さんの『石狩挽歌』では「海猫(ごめ)が鳴くからニシンが来ると~」と歌ってるけど、北海道の『ソーラン節』では「ニシン来たかとカモメに問えば~」と歌っている。つまり、ウミネコもカモメもニシンの到来を知らせてくれる海鳥なのだ。ちなみに、何年も前に青森の八戸の漁師さんに聞いてみた時には、「ウミネコもカモメもみんなゴメだよ」と教えてくれた。八戸ではウミネコを「市の鳥」に定めて大切にしてるけど、カモメも一緒に大切にしてたのだ。だから、海を渡った北海道でも同じなんだと思う。

だけど、北海道でのニシンの漁期が、3~5月と10~12月、一年に2回訪れることを踏まえると、東北の蕪島や椿島、江ノ島などに、多くのウミネコが繁殖のために渡ってくる初春の時季は、どうしても『ソーラン節』より『石狩挽歌』の世界を思い浮かべてしまい、発情期の猫のような激しい声で鳴きながら乱舞するウミネコを想像してしまう。そして、あたしは、一度でいいから、そんなウミネコたちを観に行きたいのだ。


‥‥そんなワケで、東北や北海道の漁師さんたちに「神の使い姫」として、とても大切にされてきたウミネコやカモメたち。そして、東北の蕪島が「ウミネコの繁殖地」として国の天然記念物に指定されたのは大正11年3月8日なので、西暦にすると1922年、あと数年で100年を迎えるのだ。そして、さらに遡った明治37年(1904年)、当時、貧しかった島崎藤村は、小説『破戒』を自費出版する資金を調達するために、妻・冬子の函館に住む実父を訪ねて、奇しくも日露戦争の開戦によってロシアの戦艦が出没して騒然とする津軽海峡を渡ったのだ。島崎藤村は、この時の出来事を『津軽海峡』と『突貫』という2編の短編小説に仕上げているけど、どちらにも「ごめ」が登場する。『津軽海峡』には「暗碧の海の色、群れて飛ぶ「ごめ」」と表現されており、『突貫』には次のように書かれている。


青森へ着いた。信州の方へ度々手紙を寄よこした未知の若い友は、その人の友達と二人で旅舎やどやに私を待つて居て呉れた。青い深い海が斯の旅舎やどやの二階から見える。「ごめ」が窓の外に飛んで居る。港内に碇泊する帆船の帆柱が見える。時刻さへ来れば、私は函館行の定期船に乗込むことが出来る。
※島崎藤村『突貫』より引用


これらの表現を見ると、島崎藤村はきちんと「ウミネコであること」を確認した上で「ごめ」と呼んでいるのではなく、ウミネコもカモメもまとめて「ごめ」とい呼んでいるのではないかと思えて来くる。もちろん、地元の漁師さんもそう言ってるのだから、それでもまったく問題はないし、何よりもロシアと戦争が始まったという状況で、妻の実家までお金を借りに行くところなのだから、海鳥の種類にまで着目している余裕などなかっただろう。


‥‥そんなワケで、ただ単にウミネコを見るだけなら、東京湾でも横浜港でも見られるし、たくさんのウミネコの群れを見たいのなら、千葉県の銚子にもたくさんいるし、宮城県の気仙沼にもたくさんいるし、ようするに、漁業が盛んで漁港のある場所なら、たいてい見られる。だけど、あたしは、繁殖のためにウミネコの群れが押し寄せてくるところが見たいのだ。今まで俳句の歳時記の中でしか見たことがなかった「海猫渡る」という季語を、実際に体験してみたいのだ。そして、そのためには、初春の時季を狙って青森県の蕪島へ行かないとダメってワケだ。でも、蕪島は埋め立て工事によって地続きになっているそうなので、船に乗らなくても行けるから、いつかは行ってみたいと思っている。

ちなみに、蕪島に渡って長い石段を上ったテッペンには「蕪島神社」があって、天照大神の3人の美しい女神の中の1人、市杵嶋姫命(イチキシマヒメミコト)が祀られている。そして、この「蕪島神社」には、こんな貼り紙が貼ってあるのだ。


「神様のお使いウミネコより運(糞)を身体または衣類に授かった方には記念として金運証明書を差し上げております。運(糞)を拭き取る前にお越しください。蕪島神社 社務所」


この金運証明書を貰うためにも、ウミネコが何万羽も乱舞している繁殖期に行かなきゃならない‥‥なんて思っていたら、2011年の東日本大震災の大津波にも倒壊しなかった神社なのに、2015年11月に、漏電が原因で火災が発生し、焼失してしまったのだ。でも、多くの人たちから愛されている神社なので、すぐに再建が計画された。ただ、ウミネコの繁殖期を避けて工事を進めているため、火災から2年後の2017年に、ようやくコンクリートの土台が完成し、社殿などがすべて再建されるのは、2019年12月の予定だという。


‥‥そんなワケで、あたしは、2020年の東京オリンピックには最初から大反対しているし、そもそもスポーツを政治利用しているオリンピックは大嫌いだから、東京オリンピックが開催されても一切観ないけど、その代わりに、2020年の春になったら、母さんと一緒に東北新幹線に乗って青森県へ行き、八戸市の種差海岸の北端にある蕪島へ渡り、ヨットパーカーを着てフードをかぶって完成したばかりの「蕪島神社」の周りをウロウロと歩き回り、ウミネコの運を授かったら、社務所へ行って金運証明書を貰おうと思っている。そうすれば、俳句の歳時記の中でしか見たことがなかった季語を実際に体験できる上に、金運まで良くなるので、まさに「一石二鳥」だと思う今日この頃なのだ♪


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2018.04.19

ライ麦畑でつかまえたものは?

海外での関係各国との会議の結果、「TPP-11」が合意に達していないのに、海外での英語表現を意図的に盛りに盛った誤訳にして日本国内に流し、「合意に達した」などと嘘のニュースを流して、無能な安倍外交があたかも順調に経済政策を進めているかのように演出する「アベのイカサマミクス」は有名だけど、嘘とペテンにまみれた安倍政権によるインチキ翻訳など反面教師にもならないので、今回は、あたしが、素晴らしい翻訳、お手本になるような翻訳について、実際の例を挙げてみたいと思う。で、素晴らしい翻訳というと、あたしがパッと思い浮かぶのが、大好きな小説の一冊でもある『ライ麦畑でつかまえて』だ。

J・D・サリンジャーと言えば、誰もが『ライ麦畑でつかまえて』を代表作として挙げると思うし、読んだことがなくても、この『ライ麦畑でつかまえて』というタイトルは聞いたことがあると思う。青春小説の古典のような存在で、あたしは大好きなので複数の翻訳だけでなく英文の原作も読んだけど、何よりも『The Catcher in the Rye』という原題を『ライ麦畑でつかまえて』と訳した翻訳家、野崎孝氏の言語センスの良さが秀逸だと感じている。

実は、この作品、最初は『危険な年齢』というタイトルで発売されたのだ。原作が刊行された1951年の翌年、1952年に橋本福夫氏が翻訳した『危険な年齢』が日本語訳の第1号で、野崎孝氏が『ライ麦畑でつかまえて』という邦題で翻訳したのは、それから10年以上が過ぎた1962年のことなのだ。そして、1967年には繁尾久氏が『ライ麦畑の捕手』という邦題で翻訳し、最近では2003年に村上春樹氏が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』という翻訳を出している今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、『ライ麦畑でつかまえて』を読んだことがある人なら分かると思うけど、17歳で高校を退学になったホールデンが、クリスマス前夜にニューヨークの街を彷徨(さまよ)ったことを、翌年、療養先の病院のベッドの上で回想するというスタイルで書かれている小説で、少年から青年へと成長する多感な時期の悩みや葛藤などが描かれているので、内容から見れば『危険な年齢』という邦題も悪くはない。だけど、これでは、この本を手に取ろうという気にはならない。また、原題は『The Catcher in the Rye』なのだから、『ライ麦畑の捕手』という邦題も間違ってはいない。だけど、これでは、ライ麦畑で草野球をやっているようにしか思えないので、野球が好きな人しか興味を持たないだろう。

ニューヨークでホールデンは、道端で小さな子どもが「If a body catch a body coming through the rye.(もしもライ麦畑で誰かが誰かを捕まえたら)」と歌っているところに出くわす。そして、その後、退学になったために高校の寮に戻れないホールデンが実家に帰ると、両親は留守だったので、留守番をしていた妹に高校を退学になったことを話す。すると、妹から人生について少し厳しいことを言われてしまい、それに対して、ホールデンは、こんなことを言う。


「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしているとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない。誰もって大人はだよ。僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ。つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっかから、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げてることは知ってるけどさ」


この日本語訳の中の「ライ麦畑のつかまえ役」、これが原題にもなった「The Catcher in the Rye」だ。一応は、ホールデンは妹に対して話しているわけだけど、この独白とも言える一節に、この作品のすべてが集約されている。作者のサリンジャーは、1919年にニューヨークで生まれたユダヤ人なんだけど、自身も有名高校を1年で退学になっているので、少年から青年へと成長する多感な時期に、自分の将来について、人生について考え、大いに悩み、苦しみ、葛藤した過去があるのだ。たぶん、当時のサリンジャーは、このホールデンのセリフのように、非現実的な表現でしか自分の将来を想像できなかったのだと思う。そして、このホールデンのセリフが、サリンジャーがこの小説に『The Catcher in the Rye』というタイトルをつけた理由なのだ。

この一節を読めば、原題の中の「The Catcher」が、野球の「捕手」ではないことは簡単に分かるだろう。けっこうな高さのあるライ麦によって、地面が切れて崖になっている位置が分からないため、遊びに夢中になって走り回っている子どもたちは足を踏み外して落下してしまう危険がある。そこで、ホールデンが崖の少し手前で見張っていて、崖のほうへ走ってきた子どもがいたら、サッと飛び出して捕まえ、崖から落ちないように助けてあげる役割だ。もちろん、これは、本当にその通りのことがしたいと思って言っているのではなく、ホールデンの持つ漠然としたイメージとして、純粋な子どもたちが、その純粋さゆえに傷ついたり命の危険を負いそうになった時に、それを救えるような大人になりたい、そうした職業に就きたいと言っているのだ。

このホールデンの気持ちを知った上で、改めて『ライ麦畑でつかまえて』という邦題を見てみると、これが、どれほど素晴らしい翻訳なのか理解できると思う。何よりも秀逸なのは、主人公はホールデンなのに、このセリフを話したホールデンの視点ではなく、ホールデンが「助けてあげたい」と思っている子どもたちの視点での翻訳になっている点だ。そして、多くの人たちがあたしと同じように感じたため、複数の邦題がある中で、この『ライ麦畑でつかまえて』という邦題が、日本では最もポピュラーになったのだと思う。


‥‥そんなワケで、以前、あたしは、これも大好きなアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの『星の王子さま』について書いた。フランス語の原題が『Le Petit Prince』、英語でのタイトルが『The Little Prince』、中国でのタイトルが『小王子』で、どの国でも原題通りの「小さな王子」という意味のタイトルに翻訳されているのに、日本だけは『星の王子さま』と訳されていて、これが素晴らしいとあたしは書いた。今回、取り上げた『ライ麦畑でつかまえて』という日本語のタイトルも、この『星の王子さま』と同じくらい素晴らしい邦題で、あたしは、翻訳者の野崎孝氏の言語センスに脱帽している。

ちなみに、サリンジャーの小説なら、あたしは『ナイン・ストーリーズ』が一番好きで、『ライ麦畑でつかまえて』は二番目だ。『ナイン・ストーリーズ』は、原題もそのまま『Nine Stories』で、そのタイトルの通り、サリンジャーが複数の月刊誌に発表していた数々の短編の中から、自選した9作品をまとめた短編集だ。これも、日本では最初の翻訳が『九つの物語』というタイトルで、その後、野崎孝氏が『ナイン・ストーリーズ』というタイトルで翻訳し、こちらのほうがポピュラーになった。こちらでも、野崎孝氏の翻訳の言語センスが光っていて、9作品のタイトルを見ると、それだけで読んでみたくなると思う。


「バナナフィッシュにうってつけの日」
「コネティカットのひょこひょこおじさん」
「対エスキモー戦争の前夜」
「笑い男」
「小舟のほとりで」
「エズミに捧ぐ――愛と汚辱のうちに」
「愛らしき口もと目は緑」
「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」
「テディ」


どう?読みたくなったでしょ?たとえば、最初の短編の原題は「A Perfect Day for Bananafish」で、柴田元幸氏は「バナナフィッシュ日和」、滝沢寿三氏は「バナナフィッシュに最良の日」、沼沢洽治氏は「バナナ魚日和」と訳していて、どれも悪くはないけど、あたしは、最初に挙げた野崎孝氏の「バナナフィッシュにうってつけの日」という邦題が、やっぱり一番興味をそそられるし、一番読んでみたくなるのだ。

海の中のバナナがどっさり入っているバナナ穴に向かって、行儀よく一列になって泳いで行き、中に入ると豚みたいにバナナを食べ散らかし、バナナを食べ過ぎて太ってバナナ穴から出られなくなり、最後にはバナナ穴の中でバナナ熱にかかって死んでしまうバナナフィッシュ‥‥と、こうして解説を添えれば、どんなタイトルでも読みたくなる人は多いと思う。でも、タイトルだけから内容を想像する場合には、「バナナフィッシュ日和」や「バナナ魚日和」では情報が少な過ぎて内容を想像できない。一方、「バナナフィッシュに最良の日」なら、バナナフィッシュという魚に何か良いことが起こるのかな?‥‥というくらいは想像できるようになるし、「バナナフィッシュにうってつけの日」になると、さらに何か特別なことが起こるようなイメージが湧いてきて、早く読んでみたくなる。

ちなみに、今書いたバナナフィッシュの生態に関する説明は、作品の中に書かれている通りのものだけど、ストーリーは想像とはまったく違っていて、最後には、グラース家の長男シーモアの驚くべき結末が待っているのだ。グラース家は、サリンジャーの作品にとって最重要な家族で、ユダヤ系の父とアイルランド系の母、そして、5男2女の7人兄弟だ。最初の「バナナフィッシュにうってつけの日」に長男シーモアが登場したのを皮切りに、2編目の「コネティカットのひょこひょこおじさん」には三男ウォルトが、5編目の「小舟のほとりで」には長女ブーブーが登場する。また、サリンジャーの長編小説『大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア-序章-』は、次男バディの視点で書かれているし、同じく長編小説の『フラニーとゾーイー』は、そのタイトルの通り、次女フラニーと五男ゾーイーが主人公だ。

こうした背景があるため、この『ナイン・ストーリーズ』は、9作品それぞれが読み切りの短編として楽しめるだけでなく、後から他の長編などを読んで行く過程で、いろいろな繋がりが分かって来て、さらに楽しむことができる。サリンジャー自身も、このグラース家の物語を書くことをライフワークとして取り組んでいたんだけど、長男シーモアが7歳だった1924年の夏休みにキャンプ地で書いた家族宛ての手紙、という形を取っている小説『ハプワース16、一九二四』を1965年に発表した後、46歳の若さで絶筆してしまい、以後、2010年に91歳で亡くなるまで、まったく筆を取らなかったのだ。


‥‥そんなワケで、実は、これには、いろいろな理由があるんだけど、最大の原因となったのは、ニューヨーク・タイムズ紙などに書評を書いている辛口の文芸批評家、日系アメリカ人二世のミチコ・カクタニ氏(角谷美智子氏)に酷評されたことだと言われている。事実、『ハプワース16、一九二四』は問題点のある作品でもあるけど、ファンにとっては十分に読む価値のある作品だ。でも、どんなに著名な作家の作品であっても、気に入らない作品に対しては歯に衣着せぬ辛口書評を展開することで有名なミチコ・カクタニ氏は、この作品への書評で「不愉快な上に奇怪で、残念なことにまったく魅力のない作品」と指摘したのだ。ミチコ・カクタニ氏は、ピューリッツァー賞の批評部門を受賞したことがあるほどの著名な文芸批評家だったため、サリンジャーは自信を失ってしまい、執筆に対するモチベーションも失ってしまい、以後、亡くなるまで半世紀近くも筆を持たなくなってしまった。

サリンジャーに筆を折らせてしまったミチコ・カクタニ氏の辛口書評は、アメリカではとても有名で、たとえば、日本でも大人気になったアメリカのテレビドラマ『セックス・アンド・ザ・シティ』では、サラ・ジェシカ・パーカー演じる主人公のキャリーが本を出版する際に、カクタニ氏の辛口書評を気にするシーンが登場する‥‥と、ずいぶん脱線しちゃったので本線に戻るけど、サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』の2編目「コネティカットのひょこひょこおじさん」も、このタイトルを見ただけで読んでみたくなるよね。ちなみに、原題は「Uncle Wiggily in Connecticut」、直訳すれば「コネチカットのウィギリーおじさん」になる。

「ウィギリーおじさん」というのは、1910年から40年も続いたアメリカのハワード・R・ガリスの童話の主人公のウサギで、お年寄りでリウマチなので杖をついてヒョコヒョコと歩いている。日本でも、アメリカの雑貨を扱っているお店などで、シルクハットをかぶってモーニングを着て杖をついたウサギの絵が描かれた雑貨を見たことがある人もいると思うけど、日本で言えば「ドラえもん」や「サザエさん」と同じような、アメリカの国民的キャラクターだ。だから、このサリンジャーの短編のタイトルは、柴田元幸氏はそのまま「コネチカットのアンクル・ウィギリー」と訳しているし、滝沢寿三氏も「コネチカットのウィグリおじさん」と訳している。

でも、他の翻訳者たちは、最初に挙げた野崎孝氏が「コネティカットのひょこひょこおじさん」と訳しただけでなく、中川敏氏は「コネチカットのよろめき叔父さん」、鈴木武樹氏は「コネチカットのグラグラカカ父さん」と訳している。これらは、「アンクル・ウィギリー」が日本ではあまり知られていなかったため、そのまま訳しても理解されないと思い、「Uncle Wiggily」というネーミングの元になった「wiggly」という形容詞の「細かく揺れ動く」「くねくね動く」という意味を踏まえて訳し、ウサギの「ウィギリーおじさん」を知らない人にも「足の悪いおじさん」であることを匂わせようとした邦題なんだと思う。


‥‥そんなワケで、ウサギの「アンクル・ウィギリー」がメジャーじゃない日本向けに翻訳するには、何とか他の表現で分かるようにしなきゃならないワケだけど、「よろめき叔父さん」だと何だか酔っ払っているように感じるし、「グラグラカカ父さん」ではイマイチ意味が分からない。だけど、野崎孝氏の「ひょこひょこおじさん」という表現はとても良く伝わる‥‥と、こんな感じで9作品すべての邦題について書いていると、もの凄い長さになってしまうため、今回はここまでにしておくけど、とにかくあたしは、『The Catcher in the Rye』を『ライ麦畑でつかまえて』と翻訳した野崎孝氏の言語センスが大好きで、その言語センスの良さは、こうして他の作品にも生きていると感じている。だから、もしも、今回のエントリーを読んで、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』や『ナイン・ストーリーズ』を読んでみようと思った人は、まずは野崎孝氏の翻訳から読んでみることをお薦めする今日この頃なのだ。


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2018.04.12

シュレーディンガーの猫

梅干しを見ただけで口の中が酸っぱい感じがして唾液が出てくる‥‥というのは、あたしたち日本人が梅干しの酸っぱさを知っているから起こる現象で、生まれて初めて日本にきて、生まれて初めて梅干しを見た外国人だったら、こういう現象は起こらない。これは、「梅干しは酸っぱいものだということを体験して知っている」という条件に当てはまる人にだけ起こる反射行動なので、一般的に「条件反射」と呼ばれている。そして、この条件反射は、長いこと人間やチンパンジーなどのような高等動物にだけ起こるものだと思われてきた。

でも、ロシア人初のノーベル賞受賞者となった生理学者、イワン・パブロフ(1849~1936年)による有名な実験「パブロフの犬」によって、高等動物以外にも起こるということが分かり、最近では、昆虫や扁形動物であるプラナリアなどにも条件反射が見られることが分かった。「パブロフの犬」の実験は、有名だから説明の必要もないと思うけど、念のためにザックリと書いておくと、犬にエサをあげる前にベルを鳴らすということを繰り返していたら、そのうち、ベルを鳴らしただけで犬が唾液を出すようになったという実験だ。

ただし、これはけっこう残酷な実験で、もともとは犬の唾液の分泌量を調べるための実験だったため、犬の頬に手術で穴を開けて管を通して行なっていたそうだ。そして、犬の唾液の分泌量を調べているうちに、副産物的に「条件反射」が発見されたという。唾液を調べるだけだから、犬の頬に開けた穴は、たぶんストローが通るくらいの小さな穴だったと思うので、犬が死ぬようなことはなかったと思うけど、基本的に「動物実験反対」のあたしとしては、こういう実験でも詳しい内容を知ると嫌な気分になる今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、この「パブロフの犬」と比べると、遥かに残酷すぎる実験が、オーストリア出身の理論物理学者エルヴィン・シュレーディンガー(1887~1961年)による「シュレーディンガーの猫」だ。こちらは「パブロフの犬」ほどメジャーじゃないし、「知る人ぞ知る」って感じなので、ちょっと詳しく解説するけど、まず、フタを閉めると密閉される大きめの箱を用意して、その中に、1時間以内に崩壊する確率が50%の放射性物質ラジウムと、ラジウムの崩壊を検知すると青酸ガスを出す装置と、猫を1匹入れる。そして、1時間後にフタを開けて、猫が生きているか死んでいるかを確認する‥‥という実験だ。

簡単に言えば、ラジウムが1時間以内に崩壊する確率が50%だから、その崩壊を検知して青酸ガスが出る確率も50%なので、猫が死んでしまう確率も50%ということになる。だけど、これは、あたしたち人間が生きている普通の世界、マクロの世界での話であって、これは量子力学、つまり、ミクロの世界の実験なのだ‥‥って、この辺で「はぁ?」ってなっちゃった人もいると思うので、まずは安心してもらうために言っておくけど、これは実際に行なう実験じゃなくて、量子力学上の矛盾を説明するための例としてシュレーディンガーが挙げた想像上の思考実験なのだ。だから、これまでに猫は1匹も犠牲になっていない。

そもそも、あたしは、高校生の時の物理ですらチンプンカンプンだったし、日本人がノーベル物理学賞を受賞するたびに「すごいな~」とは思うけど、いったいぜんたい何の研究で受賞したのか、新聞を読んでも理解できないようなレベルの人間だ。だけど、数学の「トポロジー」とか、幾何学の「クラインの壺」とかには興味があったので、図書館で本を借りて読んだりしてきた。だから、苦手な物理学も、有名な「量子力学」くらいはザックリと理解しておこうと思い、何度か専門書にチャレンジしてみた。でも、やっぱり、「量子力学」の専門書は、物理学の基礎もできていないあたしにはハードルが高すぎて、ほとんど理解できなかった。そして、そんな中で、あたしにも何とか理解できたのが、この「シュレーディンガーの猫」の思考実験であり、この実験へとつながるミクロの世界の不思議な状況だった。


‥‥そんなワケで、まず、あたしたちの生活しているマクロの世界、巨視的な世界では、水は、水道の蛇口から出てくる液体で、コップに入れて飲んだりする。水を1個、2個、3個と数えることはできないから、500ミリリットルとか、2リットルとか、バケツ1杯分とか、容積で量るしかない。一方、量子力学のミクロの世界、微視的な世界では、水は、水分子という小さな粒の集合体なので、1個、2個、3個と数えることができる。そして、この水分子を始めとしたいろいろな分子は、電子や原子の集合体であり、そうした地球上の最小単位である電子や原子を調べるのが「量子」の世界だ。そして、夫の武豊が浮気相手との路上キスをフライデーされた時に、神対応を見せたのが「佐野量子」の世界だ(笑)

ミクロの世界では、佐野量子を始めとしたマクロの世界の住人の理解を超えた不思議なことが日常的に起こっている。それが顕著に分かるのが「二重スリット実験」だ。たとえば、ダンボールの真ん中に、横1センチ、縦20センチの細長い長方形のスリットをカッターで開けて、このダンボールを壁から10センチくらい離した場所に固定して、ラッカースプレーを吹き付ける。そうすると、細長いスリットの部分だけスプレーが通過するから、壁にはスリットの形に色が付く。壁から10センチほど離しているので、きちんとした長方形ではなく、周囲が少しぼやけた感じになるけど、スリットの形に近い1本の縦線ができる。そして、次に、同じスリットが横に2本並んだダンボールを使うと、今度は壁に2本の縦線ができる。これが、マクロの世界だ。

そして、これと同じことを、ミクロの世界でもやってみたのが「二重スリット実験」だ。すべてをミクロに対応するように準備して、ラッカースプレーの代わりに電子の粒を使い、壁にどのような形が残るかを調べたものだ。すると、最初のスリットが1本の場合は、ラッカースプレーと同じに、数えきれないほど発射された電子のうち、スリットを通過したものだけが壁に到達して、壁にはスリットと同じ形の縦線が1本できた。ここまでは、あたしたちマクロの世界の住人にも容易に想像できただろう。

でも、次にスリットが2本の実験を行なってみたら、壁には2本の縦線ができたのではなく、濃淡を持った縦線が何本も並んでいる波状の模様ができたのだ。これは、水を使って同じ実験をした時にできる波状模様と同じなので、最初の実験では、2本のスリットを通過した電子同士がぶつかり合い、それが左右に散らばることでこのような結果になったのでは?‥‥と推測された。そこで、今度は、とても時間が掛かるけど、電子を1個ずつ発射するという方式にしてみた。1個の電子を発射して、それがスリットを通過できずに板にぶつかっても、スリットを通過して壁まで到達しても、それが終わってから次の電子を発射する。こうすれば、スリットを通過した複数の電子同士がぶつかり合うことはないので、壁には2本の縦線ができるのではないか?‥‥という考えからの実験だ。

しかし、結果は違った。電子を1個ずつ発射したのに、壁には最初の実験と同じく、何本もの縦線が波状に並んでしまったのだ。これは、マクロの世界の科学では説明できないことだ。でも、こんなところで驚いていてはいけない。ここから先は、もはや科学とか物理とか言うよりも、完全にオカルトの世界のような不思議なことが起こってしまったのだ。

電子を1個ずつ発射しても壁に2本の縦線ができないということは、スリットを通過した電子が何らかの原因で予想外の動きをしている可能性があるため、スリットの部分をミクロで監視するカメラをセッティングして、通過する電子の動きを細かく記録してチェックしてみることにした。そして、また、電子を1個ずつ発射する実験を開始した。すると、一体どうしてしまったんだろう?今度は、マクロの世界のラッカースプレーと同じに、壁には2本の縦線ができたのだ。そして、監視用のカメラを外してから同じ実験をすると、今度は最初と同じに、壁には何本もの縦線が波状に並んだのだ。

これ、意味が分かる?まるで、電子の1個1個に人間のような知能や思考があって、誰にも見られていない時には好き勝手に自由に飛んでいたのに、カメラに監視されたとたん、お行儀よく真っ直ぐにしか飛ばなくなった‥‥ってことだよね?そして、これは、何度やっても、同じ結果になったのだ。気温や湿度や照明などの条件はすべて一定なのに、カメラに監視されている、つまり、誰かに見られているという条件が付加されると、電子はそれまでと違った動きを始めるのだ。


‥‥そんなワケで、こうしたマクロの世界ではありえないことが、理論上とかじゃなくて、ちゃんとした実験で証明されているのだから、信じるも信じないもあなたの自由‥‥ってわけには行かず、どんなに納得できなくても、あたしたちは信じるしか選択肢がない。そして、こうした理解を超えた量子力学の不思議なことを理論的に理解するために生まれたのが、デンマークの首都コペンハーゲンにあるボーア研究所から発信されたために「コペンハーゲン解釈」と呼ばれている「重なり合った状態」という把握だ。

マクロの世界では、コマを回すとしたら、右に回すか左に回すかのどちらしかない。1つのコマを右に回したら、右回りが100%で、左回りは0%だ。でも、ミクロの世界のコマは、右と左に同時に回すことができる。これは、右に回るコマと左に回るコマが50%ずつ重なり合った状態なんだけど、コマは2つあるわけじゃなくて、1つのコマが同時に右にも左にも回っているのだ。意味、分からないよね?あたしだって分からない。でも、そう仮定しないと説明できない不思議な実験結果があるのだから、意味が分からなくても、「そういうもんだ」と思って先へ進むしかない。

とりあえず、ここまでのポイントを整理しておくと、あたしたちのいるマクロの世界では、すべてのものの存在確率が「100%か0%」しかないけど、ミクロの世界では、存在確率が「50%」ということがある。そのため、同一の電子や原子が一度に相反する動きをすることが可能なのだ。そして、何よりの不思議ポイントが、ミクロの世界では、誰かに監視や観測をされることで、動きや状態が変化するという点だ。

マクロの世界のあたしだって、自宅に自分しかいなければ、暑い夏はお風呂上りに全裸のまま、冷蔵庫の前に仁王立ちしてキンキンに冷えた発泡酒を飲んだりするけど、もしも、誰が見ているか分からない監視カメラを自宅の中に設置されていたら、そんなことは絶対にしなくなる。だけど、これは、あたしたちが、知能や意思や羞恥心を持った人間だからであって、とても知能や意思があるとは思えない電子や分子が、監視や観測をされることで動きや状態を変化させることとは根本的に違う。第一、もしもあたしがミクロの世界の住人なら、あたしの家の冷蔵庫の中の発泡酒は「あたしが飲んだ状態」と「飲んでいない状態」が50%ずつ重なり合っているから、たとえ1本しかない発泡酒をあたしが飲んだとしても、次に冷蔵庫のドアを開けると、50%の確率で、まだ「飲んでいない状態」のものが冷えているかもしれないし(笑)


‥‥そんなワケで、ミクロの世界では当たり前の「重なり合った状態」を、あたしの発泡酒の話よりも分かりやすく、マクロの世界に置き換えて説明するために考えられたのが、今回のテーマである「シュレーディンガーの猫」という思考実験なのだ。実験の内容は最初に説明した通りなので、本当にこんな残酷な実験をしたら、1時間以内の青酸ガスの発生率が50%なのだから、猫の生存確率も50%で、1時間後に箱のフタを開けた時、猫は死んでいるか生きているかのどちらかだ。もしも実験を100回やれば、きちんと50対50にはならないかもしれないけど、45対55とか、53対47とか、ほぼ半々に近い確率で、猫の生き死にが分かれるだろう。

でも、この箱の中でも、ミクロの世界では「重なり合った状態」が起こっている。箱の中の放射性物質ラジウムは、1時間後までに、原子核が1つ以上崩壊した状態と、まったく崩壊していない状態が「重なり合った状態」で存在しているのだ。それなのに、そのミクロの世界での出来事が、マクロの世界の住人である猫の生死を決めてしまう。しかし、ミクロの世界での出来事を主軸にして考察すれば、箱の中のラジウムは崩壊した状態と崩壊していない状態が50%ずつ重なり合っているのだから、その流れとしての青酸ガスも、発生するか発生しないかという二択ではなく、発生した状態と発生しない状態が50%ずつ重なり合うことになり、その結果として、猫も死んでいるか生きているかの二択ではなく、死んでいる状態と生きている状態が50%ずつ重なり合った猫が箱の中にいることになる。そして、箱のフタを開けて人間が観測した瞬間に、猫は「誰かに観測された」ことが引き金になって、生きているか死んでいるかのどちらかの状態に収束するのだ。

もちろん、実際に実験をしたら、そんなことはありえないし、それ以前に、「死んでいる状態と生きている状態が50%ずつ重なり合った猫」というものが想像できない。中には、死にかけてグッタリした猫を思い浮かべた人がいるかもしれないけど、それはあくまでも「死にかけた猫」であり、正確に言えば、まだ「生きている猫」だ。ここで言う「重なり合った猫」とは、元気に走り回る猫と、完全に死んでしまってピクリとも動かない猫が、同時に1匹の猫として存在しているという状態だから、マクロの世界のあたし達には想像することもできない。でも、「二重スリット実験」などで分かっているミクロの世界での不思議な現象を基本にして、ミクロ側の視点から「シュレーディンガーの猫」という思考実験を行なえば、このような結論に達するのだ。

そして、もしも箱に窓を付けたり、ガラス張りの箱を使ったりして、中の猫を観察しながら実験を行なえば、ラジウムを構成する原子核は「誰かに見られている」と感じて、いつもとは違った動きをしてしまう恐れがあるから、あたしたちマクロの世界の住人は、どんなに理論的に正しくても、決して「死んでいる状態と生きている状態が50%ずつ重なり合った猫」を見ることはできない。結局、この「シュレーディンガーの猫」という思考実験は、ミクロの世界で日常的に起こっている不思議な現象を、マクロの世界に置き換えることで、「整合性があるので理論的には納得できるけど、現実的には理解できない」という量子力学のパラドックスを浮き彫りにするためのものなのだ。


‥‥そんなワケで、今回のエントリーは、あたしがもっとも苦手とする物理、それも難しい量子力学がテーマだったので、物理が得意な読者からはいろいろとツッコミを入れられそうな予感もするけど、あたしなりにがんばって自分の理解できた範囲のことを分かりやすく書いたつもりなので、あまりミクロの目で細かい粗探しはせずに、ここはひとつ、マクロの目で温かく見てほしい(笑)そして、今回のエントリーを読んで、量子力学の世界に少しでも興味を持った人は、とっても不思議な「二重スリット実験」を分かりやすくアニメで解説しているYOU TUBEの動画があるので、最後に紹介しておく。字幕の色が博士の服の色と重なって読みにくい部分もあるけど、すごく分かりやすい動画なので、見られる環境の人は、ぜひ見てみてほしい今日この頃なのだ♪


「2重スリットの実験」


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2018.04.09

いざなぎ景気と三種の神器

高度経済成長期だった1950年代の半ばから1960年代の半ばまで、元号で言うと昭和30年代には、白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫が「三種の神器」と呼ばれていて、この3つを揃えることが理想であり、一種のステータスであり、経済成長の証のようなことだった。ちょうど、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の時代なので、このブログを読んでくださっている人の中にも、このころに子ども時代を送った人もいるだろう。そして、1965年から「いざなぎ景気」が始まると、今度は、カラーテレビ、クーラー、マイカーが「新・三種の神器」と呼ばれるようになった。

あたしは、この「三種の神器」から「新・三種の神器」への流れって、西郷輝彦、橋幸夫、舟木一夫の「御三家」から、郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎の「新・御三家」への流れとオーバーラップしているような気がしている。だって、「御三家」が活躍し始めたのは「白黒テレビの中」で、「新・御三家」が活躍していたのは「カラーテレビの中」だからだ。

この「三種の神器」というのは、他にもいろいろあって、たとえば、工場や原発施設などの危険な場所で働く人たちの間では、ヘルメット、安全帯、安全靴を保安上の「三種の神器」と呼んでいるそうだ。また、2000年に入ってデジタル家電が普及し始めると、デジタルカメラ、DVDレコーダー、薄型テレビが、デジタル家電の「三種の神器」と呼ばれたという。ちなみに、当時の小泉純一郎首相は、2003年1月の施政方針演説の中で、薄型テレビ、カメラ付携帯電話、食器洗い乾燥機を「新・三種の神器」と名づけて、これらの商品の売れ行きが伸び、景気が回復していると述べていた今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、これらの他にも、たくさんある「三種の神器」だけど、こうしたものは、どれも偽物で、本物の「三種の神器」は、天皇が皇位のしるしとして代々伝えた3種の宝物(ほうぶつ)、「八咫鏡 (やたのかがみ) 」、「八坂瓊曲玉 (やさかにのまがたま)」、「草薙剣 (くさなぎのつるぎ) 」のことだ。ようするに、本物の「三種の神器」を「銀座」とすれば、家電の「三種の神器」とかは「戸越銀座」みたいなものなのだ。

で、この本物の「三種の神器」、一般的には「さんしゅのじんぎ」と読まれているけど、もともとは「みくさのかむだから」というのが正式な読み方で、『古事記』や『日本書紀』によると、神様が地上に降りてきた天孫降臨の時に、アマテラスオオミカミ(天照大神)が孫のニニギノミコト(瓊瓊杵尊)に授けたものだと伝えられている。鏡は「知」、玉は「仁」、刀は「勇」を表わし、この3つが揃うと「三徳」が得られるという宝物だ。

あっ、そうそう、普通は「天照大神(アマテラスオオミカミ)」という書き方をするとこだけど、「瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)」なんて一度読んだだけじゃ覚えられないと思うので、今回は神様たちの名前はカタカナで書いて行こうと思う。そのため、あえて逆に「アマテラスオオミカミ(天照大神)」という書き方をしてみた。

さて、いよいよ本題に入るけど、『古事記』や『日本書紀』を読んだことがない人でも、「天(あま)の岩戸」とか「八岐大蛇(やまたのおろち)」とか「因幡の白兎」とか、こういう『古事記』や『日本書紀』に収められている個々のお話なら、子どものころに絵本で読んだり、テレビアニメの『日本昔ばなし』で観たりして、それなりに知っていると思う。


‥‥そんなワケで、「天の岩戸」は、太陽の神であるアマテラスオオミカミが天の岩戸に隠れたことで世界が真っ暗になっちゃった時に、八百万(やおよろず)の神々が手を替え品を替え、外に連れ出そうとするお話だ。この時、八百万の神々のアイデアで、アマテラスオオミカミを外へ連れ出すための道具として、イシコリドメノミコト(石凝姥命)は「八咫鏡 (やたのかがみ) 」を作り、タマノオヤノミコト(玉祖命)は「八坂瓊曲玉 (やさかにのまがたま)」を作ったのだ。そう、ここで、「三種の神器」のうちの2つが作られたってワケだ。

そして、天の岩戸の前で、八百万の神々がみんなで楽しそうに騒ぎ、その笑い声に興味を持ったアマテラスオオミカミが外の様子を見るために岩戸を細く開けたところで、例の「八咫鏡」を岩戸に向けると、その鏡に映った自分の姿を尊い神だと勘違いしたアマテラスオオミカミは、その姿をもっとよく見ようと、岩戸を開けて外に出てきた。これで、ようやく世の中に光が戻ったというストーリーだ。ホントはもっともっと複雑なんだけど、ザックリ言うとこんな感じなのだ。

「三種の神器」のうち、もう2つが登場しちゃったので、残るは「草薙剣 (くさなぎのつるぎ) 」だけど、これは、別名「天叢雲剣 (あまのむらくものつるぎ)」とも呼ばれている。そして、この「草薙剣」が登場するのは、ゴジラの強敵キングギドラのモデルにもなっている「八岐大蛇(やまたのおろち)」のお話だ。あたしは、このお話が大好きなので、「天の岩戸」より少しだけ詳しく書いちゃうけど、姉であるアマテラスオオミカミが天の岩戸に隠れちゃうほどの傍若無人な振る舞いを繰り返したことで、神様たちが暮す高天原(たかまがはら)を追放されちゃったスサノオノミコト(須戔鳴尊)は、出雲の国、現在の島根県にやってきた。

そして、斐伊川(ひいがわ)に沿って上流へと歩いていると、河原でおじいさんとおばあさんが、1人の美しい娘を囲んで泣いていた。スサノオノミコトが声を掛けると、おじいさんはアシナヅチ(脚摩乳)、おばあさんはテナヅチ(手摩乳)と名乗り、娘は美人で有名なクシイナダヒメ(奇稲田姫)だということが分かった。おじいさんのアシナヅチは、泣きながら話し始めた。


アシナヅチ「私たち夫婦には8人の娘がいたのですが、ヤマタノオロチがやってきて、毎年1人ずつ娘を食べてしまい、とうとう、このクシイナダヒメ1人だけになってしまったのです。そして、今年もまたヤマタノオロチがやってくる時期になったので、最後のクシイナダヒメも食べられてしまうのかと思うと、悲しくて涙が止まらないのです」

スサノオノミコト「そのヤマタノオロチというのは、一体どんな怪物なのか?」

アシナヅチ「1つの体に8つの首と8つの尾を持ち、目はホオズキのように真赤で、全身をコケが覆い、背中にはスギやヒノキが森のように生えていて、腹は人を食べた時に滴った血でただれていて、8つの山と8つの谷にまたがるほど巨大な怪物なのです」


この話を聞いて、暴れん坊のスサノオノミコトも一瞬、躊躇したが、目の前には美人のクシイナダヒメがいる。そこで、スサノオノミコトは、こんなふうに切り出した。


スサノオノミコト「そこにいるクシイナダヒメを俺の嫁にくれるなら、その代わりにヤマタノオロチを退治してやろう」


アシナヅチとテナヅチはしばらく悩んだが、最後に1人残った娘までヤマタノオロチに食べられてしまうくらいならと、この申し出を受けることにした。すると、スサノオノミコトは、自分の嫁になったクシイナダヒメを櫛(くし)に変えてしまい、自分の髪に差したのだ。こうしておけば、ヤマタノオロチに食べられることがないからだ。そして、アシナヅチとテナヅチに向かって、次のように命じた。


スサノオノミコト「まず、醸造を8回繰り返して強い酒を造れ。そして、ここに長い垣根を作り、その垣根に8つの門を作り、それぞれの門の中に酒を並べておけ」


アシナヅチとテナヅチは、急いで準備をし、スサノオノミコトに命じられた通りにした。すると、山が動くほどの地響きが起こり、ヤマタノオロチがやってきた。ヤマタノオロチは、すぐに酒の匂いに気づき、8つの門に8つの首を入れて、それぞれの酒を飲み始めた。そして、すべての酒を飲み干すと、山が震えるほどの大きなイビキをかいて寝てしまったのだ。

岩陰に隠れて見ていたスサノオノミコトは、「今だ!」と飛び出して刀を抜き、ヤマタノオロチの巨大な体を頭から斬り刻み始めた。頭、首、胴と「CTスキャン」のように輪切りにしていき、最後に尾に斬り掛かった。


「カキーン!」


スサノオノミコトの振り下ろした刀は、尾の中で何か金属質のものに当たった。不思議に思ったスサノオノミコトがヤマタノオロチの尾を切りひらいてみると、なんと、尾の中から立派な刀が出てきたのだ。そう、これこそが「三種の神器」の最後の1つである「草薙剣 (くさなぎのつるぎ) 」、別名「天叢雲剣 (あまのむらくものつるぎ)」だったのだ。そして、スサノオノミコトは、天の岩戸の一件で迷惑を掛けちゃった姉のアマテラスオオミカミに、この「草薙剣」を献上して謝罪した。

ヤマタノオロチを退治して一躍ヒーローになり、この出雲の国が気に入っちゃったスサノオノミコトは、この地に住むことに決め、見晴しのよい場所に、櫛から美しい人間の姿に戻ったクシイナダヒメとのスイートホームとして宮殿を造り始めた。その途中、雲が沸き立つ様子を見たスサノオノミコトは、感動して次の歌を詠んだんだけど、これが日本で最初に詠まれた和歌だと伝えられている。


「八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」
(やくもたつ いづもやえがきつまごみに やえがきつくる そのやえがきを)


いつものように「きっこ訳」で、補足を加えながら分かりやすい現代語に直すと、次のようになる。


「幾重にも雲が沸き立っている。「雲が湧き出る」という名の「出雲」の国に、その名の通りに、八重垣を巡らせたような雲が沸き立っている。私は妻を籠(こも)らせるために、建設中の宮殿に幾重にも垣根を巡らせたが、まるでその八重垣のような雲ではないか」


ちなみに、この和歌の冒頭の「八雲立つ」は、一般的な和歌なら「出雲」の枕詞だけど、この歌の場合はスサノオノミコトが実景を見て詠んだとされているので、「きっこ訳」ではそのまま訳してある。それから、「八雲」や「八重垣」というのは、8層に重なった雲や8重に巡らせた垣根のことじゃなくて、幾重にも重なった雲、幾重にも巡らせた垣根のことだ。たくさんの神々のことを「八百万(やおよろず)の神」、たくさんの野菜を売っている店のことを「八百屋」、日本の総理大臣のことを「嘘八百」と言うように、「八」という数字は「たくさん」という意味で使われることが多い。

美しい妻をめとり、出雲の国に素晴らしい宮殿が完成し、ようやく少し落ち着いたスサノオノミコトだけど、このスサノオノミコトは、長女のアマテラスオオミカミ、長男のツクヨミノミコト(月読命)に続く次男で、その両親はと言えば、あの有名なイザナギノミコト(伊邪那岐命)とイザナミノミコト(伊邪那美命)だ。そう、ここで、今回のエントリーの最初のマクラの部分の「いざなぎ景気」へとクルリンパするという流れだったワケだ。


‥‥そんなワケで、東京オリンピックが開催された1964年の日本は、高度経済成長期の真っ只中で、東京オリンピックや新幹線の整備などによって高い経済成長を記録していた。だけど、東京オリンピックが終わったとたん、それまで右肩上がりだった経済成長はピタリと止まり、重工業が次々と倒産し始め、証券会社が軒並み赤字に陥った。これが俗に言う「オリンピック直後に各国が経験している大不況」であり、とても金融緩和くらいじゃ回復が見込めないほどの状況になったため、政府は戦後初の建設国債の発行を決めた。ようするに「国債をジャンジャン発行して公共事業をバンバンやって景気回復の起爆剤にする」という作戦だ。そして、この作戦によって1965年から「いざなぎ景気」が始まったというワケだ。

当時は、インフラ整備など必要な公共事業はたくさんあったし、大企業の仕事が増えれば下請けもちゃんと儲かったし、お給料が増えてカラーテレビ、クーラー、マイカーという「新・三種の神器」を買う人たちも増え、生産から消費まですべてがうまく回ったワケだ。つまり、今、安倍首相が言っている「トリクルダウン」が正常に働いたってワケだ。でも、2020年の東京オリンピック後に訪れる不況に対しては、今のところ打つ手はない。そもそも1964年の時とは違って、最初から不景気の中で東京オリンピックを無理に開催する上、今の安倍政権が作り出した「いくら公共事業をバラ撒いても大企業と安倍トモだけが儲かる格差社会」では、半世紀前の東京オリンピックの時のような「トリクルダウン」はまったく期待できない。その上、借金で造った競技場や施設などが莫大な赤字を生み出し、ジワジワと株価や地価が下がり始め、「まさか、あの企業まで」と思うような大企業の倒産が連鎖的に発生し、日本は戦後最大の経済危機に突入すると数多くの経済アナリストが予測している。

そうなれば、政府は真っ先に「金融引き締め」に舵を切るだろうが、そんなものは「焼け石に水」どころか「火事場にガソリン」であって、経済悪化を加速させることにしかならない。すでに破綻しかけている年金制度は完全に破綻し、総人口の半数が高齢者になった日本は、資産を持たないお年寄りから順番に切り捨てられて行く地獄のような社会へと突入する。それもこれも、安倍首相というアメリカの飼犬によって「日本国民など二の次」というアメリカ最優先の政策が続けられてきた結果なのだ。


‥‥そんなワケで、ノンキな日本人の一部には、2020年の東京オリンピックを楽しみにしている人たちや、2020年の東京オリンピックで日本の景気が良くなるなどと妄想している人たちもいるけど、過去の例を見てみれば、1972年に開催した札幌オリンピックの借金を札幌市民が40年間も返済し続けた事実、1998年に開催した長野オリンピックの借金を20年経った今も長野市民たちが返済し続けている事実、どう見たって2020年の東京オリンピックは、東京都民にとっても日本国民にとっても「百害あって一利なし」だということが分かるだろう。1964年の東京オリンピックの時よりも、1972年の札幌オリンピックの時よりも、1998年の長野オリンピックの時よりも、比べものにならないほど景気が悪い状況で強行される2020年の東京オリンピックがもたらすものは、「いざなみ景気」でも「いざなみ景気」でもなく、安倍トモ以外の大多数の日本国民を地獄へと誘(いざな)う「アベ不景気」だと思う今日この頃なのだ。


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2018.04.08

性転換でギョギョギョ!

あたしは、タラコや辛子明太子が大好きで、イクラや筋子も大好きで、カズノコやトビッコも大好きなんだけど、こういう魚のタマゴを食べるたびに思うのが、その粒々の数の多さだ。この中だと、イクラや筋子は一粒がまあまあ大きいほうで、シャケ1匹のお腹に入ってる一腹(ひとはら)で2000~3000粒くらいと言われているけど、一粒が小さいタラコやカズノコになると、一腹で20万から150万粒だと言われている。たった1匹のメスだけで20万から150万ものタマゴを産むということは、海の中には何千、何万、何十万というメスがいるワケだから、そのメスたちが産んだタマゴがすべて孵化して稚魚になって成魚になったら、海の中はタラだらけ、ニシンだらけになっちゃいそうだけど、実際にはそんなことはない。

シャケは一度に2000~3000個のタマゴを産むけど、この中で成魚まで成長して生まれ故郷の川に帰ってこられるのは約0.1%、2~3匹だけで、他はすべて幼魚や稚魚のうちに他の魚などに食べられてしまったり、死んでしまったりする。タラやニシンはシャケの100倍もの数のタマゴを産むけど、それは、シャケよりも生き残れる確率が低いからで、やっぱり99.9%以上は死んでしまう。魚の中で一番多くのタマゴを産むのはマンボウで、一度に3億個ものタマゴを産むけど、これも生き残って成魚になれるのは数匹だけだ。こうしたタマゴの数は、種族保存の法則によって決められるから、天敵や環境など様々な状況によって、孵化した幼魚が生き残れる確率が低い種類の魚は、そのぶん、たくさんのタマゴを産むように進化して来た今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、何千個、何万個、何十万個、さらには何億個ものタマゴを産んでも、生き残れるのはその中の数匹だけだと聞くと、自然の厳しさと言うか、不条理さと言うか、ちょっと複雑な気分になって来るけど、水の中は危険がいっぱいだから、タマゴの数を多くするだけでなく、いろんな魚がいろんな方法で種族保存に尽力している。たとえば、サメやエイの仲間の一部や、メバルやウミタナゴなどは、タマゴを産まず、メスのお腹の中でタマゴを孵化させて、幼魚の状態になってから海水の中に放出する胎生魚(たいせいぎょ)だ。タマゴで産むよりも、このほうが生き残る確率が上がるからだ。

他にも、タマゴを天敵から守るために、マウスブルーダー(口内保育)と言って、産んだタマゴを親が口の中に入れて、口の中で孵化させる魚もいる。さらに凄いのは、アフリカのタンガニーカ湖に生息している「シノドンティス・マルチプンクタータス」という長い名前のナマズの一種だ。この魚は、自分ではマウスブルーダーをしないのに、マウスブルーダーをする他の魚のタマゴの中に自分の産んだタマゴを混ぜてしまう。すると、その魚は、自分のタマゴと一緒に、シノドンティス・マルチプンクタータスのタマゴも口の中で育てることになる。よその魚の口の中で孵化したシノドンティス・マルチプンクタータスの幼魚は、その魚のタマゴから孵化した幼魚をエサにして、どんどん成長して行く。まさに「恩を仇(あだ)で返す」とは、このことだろう。

地球上に約3万種類もいる魚たちは、こんなふうに、手を替え品を替え種族保存に励んで来たワケだけど、この約3万種類の魚たちのうち約1%にあたる約300種は、さらに凄い能力を持っている。それは「性転換」の能力だ。人間の場合、性転換と言っても、男性は女性に、女性は男性に、性別適合手術によって外観を変えるだけで、生殖機能まで変えることはできない。だけど、この性転換の能力を持った魚たちは、オスがメスに性転換してタマゴを産んだり、メスがオスに性転換してそのタマゴを受精させたりできるのだ。それも、手術とかせずに、自然にやってしまうのだ。

性転換する魚は約300種類いるけど、もともとメスだった個体がオスに性転換するものを「雌性先熟(しせいせんじゅく)」、もともとオスだった個体がメスに性転換するものを「雄性先熟(ゆうせいせんじゅく)」と呼び、他にも、オスになったりメスになったりオスになったりメスになったりと、一生に何度も性転換する忙しい種類もいる。もちろん、すべては「種族保存の最善を尽くすための性転換」なので、自分の意思とは関係なく、自分たちの特性とか、自分の生息しているエリアでのオスとメスの個体数のバランスとか、そうした状況によって自然に性転換するってワケだ。


‥‥そんなワケで、雌性先熟の中で有名なのは、ベラの一種のホンソメワケベラだ。タマゴから孵化した時はすべてがメスで、オスは1匹もいない。でも、成長して行く過程で、一番大きく成長した個体がオスに性転換して、十数匹のメスを従えてハーレムを作り、すべてのメスにタマゴを産ませて受精させる。ここで面白いのは、このオスが釣り人に釣られてしまったり、大きな魚に食べられてしまったりして、いなくなってしまった場合だ。そうなった場合には、残ったメスたちの中で一番体の大きな個体がオスに性転換して、このハーレムを引き継ぐのだ。

サクラダイも同じで、タマゴから孵化した時はすべてメスだけど、成長とともに一番大きな個体がオスに性転換して、同じようにハーレムを作る。こういう魚はけっこう多くて、他にも、ベラの仲間のキュウセン、キンギョハタダイ、マハタなど、雌性先熟の魚は多い。メジャーなところでは、皆さんお馴染みのマダイも雌性先熟だ。孵化した時はすべてメスだけど、2歳になるころにオスの精巣が成長して雌雄同体になり、4歳くらいまでにオスに性転換する個体とメスのままの個体に分かれるのだ。これは、マダイだけじゃなくて、マダイの仲間のチダイやキダイなども同様だ。だから、マダイやサクラダイなど、お祝いの席で出されるオカシラ付きの塩焼きは、2歳以下の小型のものはすべてメスということになる。

そして、逆にオスからメスに性転換する雄性先熟なのが、タイはタイでもクロダイだ。クロダイはマダイとは逆で、タマゴから孵化した時はすべてオスだ。だから、クロダイの稚魚のことを関東では「チンチン」と呼ぶのか?(笑)‥‥なんてギャグも織り込みつつ、クロダイはマダイと正反対で、2歳になるころにメスの卵巣が成長して雌雄同体になり、4歳くらいまでにメスに性転換する個体とオスのままの個体に分かれて、お互いに協力して種族保存に励むってスンポーだ。これは、クロダイだけでなく、クロダイと同じ「ヘダイ亜科」の魚に共通して見られる特性だ。

他にも、ハタ科の魚は、メスからオスへと性転換する雌性先熟だけでなく、卵巣と精巣の両方が発達した雌雄同体のまま成長する個体もあり、自分で産んだタマゴに自分で精子をかけて受精させる「自家受精」ができるので、パートナーがいなくても種族保存ができる。これって、ある意味、種族保存に関しては無敵だよね?水族館に行って一番大きな巨大水槽を観ると、よく、ハタ科の大きな魚が1匹だけで泳いでいたり、岩の横で1匹だけで休んでいたり、いつも寂しそうだなって思っていたけど、ハタ科の魚が単独行動を好む背景には、こんな特性があったからかもしれない。

ハタ科の魚は、アカハタやアオハタやキジハタなど30~40センチほどのものから、マハタやクエ(モロコ)など1メートルを超えるものもあり、中でもタマカイは最大で体長3メートル、体重400キロまで成長する。ちなみに、タマカイの飼育研究をしている「沖縄県水産海洋研究センター」のレポートを読んでみたら、体重が16キロに達したあたりで雌性成熟し、全長120センチ、体重40キロで雄性成熟したと書かれていた。つまり、孵化した時はすべてメスで、体重が16キロくらいまで成長すればメスとして成熟するのでタマゴを産むことができるようになり、さらに成長して体重が40キロくらいまで成長すると、今度はオスとしての精巣が成熟して、メスの産んだタマゴを受精させられる個体が現われ始める、ということだ。


‥‥そんなワケで、他にも性転換する魚はたくさんいるけど、最大で3メートルにもなるタマカイを紹介したので、今回は最後に、小さくて可愛い魚を2種類だけ紹介しようと思う。まずは、すごくメジャーなカクレクマノミだ。映画『ファインディング・ニモ』で有名になった、あのオレンジ色の可愛い魚だ。カクレクマノミは、その名の通り、ふだんは毒性のあるイソギンチャクの中に隠れて自分の身を守っているけど、先ほど紹介したクロダイと同じで、生まれた時はすべての個体がオスなのだ。

その前に紹介したホンソメワケベラは、生まれた時はすべてメスで、一番大きく成長した個体がオスに性転換するって書いたけど、カクレクマノミはその逆で、生まれた時はすべてオスで、一番大きく成長した個体がメスに性転換して、二番目に大きかったオスとペアを組んで、子どもを作る。ホンソメワケベラは一夫多妻のハーレムだったけど、カクレクマノミは一夫一妻なのだ。あの可愛らしい外観で一夫多妻のハーレムだったらギャップがあり過ぎるので、一夫一妻で良かったと思う(笑)

でも、最後に紹介するチョークバスは、カクレクマノミと同じく暖かい海のサンゴ礁に住む8センチほどの魚で、赤茶色に明るい水色のシマシマがある可愛らしい魚なのに、性生活のほうはかなりぶっ飛んでいる。この魚も一夫一妻なので、たくさんのメスをはべらせているホンソメワケベラよりはマジメそうに思えるけど、問題なのは、その生殖行動だ。チョークバスは、ハタ科の一部の魚のように雌雄同体なんだけど、ハタ科の一部の魚のように「自家受精」はできない。だから、雌雄同体でありながらパートナーがいないと子どもを作ることができない。自分がオスの生殖能力もメスの生殖能力も兼ね備えているのに、「自家受精」ができないからパートナーが必要だなんて、けっこう、ややこしい魚だと思う。

で、そんなチョークバスがどんなふうに種族保存をしているのかっていうと、産卵期間に入ったチョークバスは、とにかく必死になってパートナーを見つける。そして、パートナーが見つかると、そのパートナーの産んだタマゴに精子をかけて受精させる。ま、ここまでは普通だけど、ここから先が驚いてしまう。今度は、自分がタマゴを産み、パートナーに精子をかけてもらうのだ。そして、またまた今度はパートナーがタマゴを産み、それに自分が精子をかける。つまり、このチョークバスのカップルは、お互いがオスになったりメスになったりオスになったりメスになったりしながら、産卵と受精を繰り返して行く。そして、それを、なんと1日に20回も繰り返す。それも、何カ月もの間、来る日も来る日も繰り返すのだ。

たとえば、「今日はボクが男役をやるから君は女役になってね」なんて感じで愛し合い、翌日は役割を交代する、というのなら分かるけど、1日に20回も男役と女役を交互につとめ、それを何カ月も続けるなんて、普通に考えたら絶対に無理だろう。たとえば、性転換せずに、ずっとメスのままでも、1日に10回もタマゴを産んで、それを何カ月も続けるなんて無理だし、ずっとオスのままでも、1日に10回も射精して、それを何カ月も続けるのは無理だ。

それなのに、その両方を交互にやり、それを何カ月も続けるなんて、とてもじゃないけど想像できない。それなのに、体長がわずか8センチしかないチョークバスが、こんなにも激しすぎる生殖行動をしているなんて、自然てホントに不思議だと思う。そして、この「お互いの産んだタマゴをお互いが受精させる」という面白い生殖行動は、研究者によって「エッグ・トレーディング(卵の取り引き)」と呼ばれている。

チョークバスが、どうしてこんな生殖行動を取るようになったのかと言うと、メスとして産卵だけを続けるよりも、オスとして受精だけを続けるよりも、こうして両方の役割をつとめたほうが、自分の遺伝子を子孫に残せる確率が高くなるからだと言われてる。また、片方がメスのまま、片方がオスのままだと、パートナーにあぶれたオスが割り込んで来て、メスを奪われてしまうケースが多発するそうだ。こうして双方がオスになったりメスになったりすることで、他の個体が割り込んで来る機会を減らす効果もあると言われている。


‥‥そんなワケで、チョークバスの生殖行動の研究を続けている海外の水族館の研究者の論文を読むと、個体ごとにマーキングして観察したチョークバスのすべてのペアが、6カ月もの間、自分のパートナーとしか愛し合わなかったと報告されている。こうした観察結果を知ると、芸能界からスポーツ界から政治の世界に至るまで、絶え間なく不倫のゴシップが流れて来る人間よりも、わずか8センチの魚のほうが、遥かに立派な倫理観を備えているように思えて来る。これは、やはり、種族保存のための神聖なる生殖行為と、快楽のためのセックスとの違いなのだろうか?‥‥なんてことを考えながら、軽く炙った辛子明太子をつまんで、泡盛のロックを口に含んだら、何となく海の香りがしたような気がした今日この頃なのだ(笑)


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2018.04.06

ラ・セーヌの星と真実のマリー・アントワネット

今から40年以上前の1975年、フジテレビ系列で『ラ・セーヌの星』という全39回のアニメが放送されていた。フランス革命前夜のパリが舞台で、パリ中心部のシテ島で花屋の娘として育てられた美少女シモーヌが、実はフランス王妃マリー・アントワネットの腹違いの妹だという生い立ちを知らされず、高い税に苦しむ庶民のために、赤い仮面とベレー帽やマントなどで女剣士「ラ・セーヌの星」に変身し、白馬に乗って貴族たちと戦うストーリーだ。

 

ようするに、当時、大人気だった『ベルサイユのばら』と『リボンの騎士』を合体させたようなフレーバーのアニメだったわけだけど、フランス革命に向かって進んで行くストーリーの要所要所には、『ベルサイユのばら』と同じように、実際の史実に基づいた描写がちりばめられている。そして、最終回でマリー・アントワネットが獄中で遺書を書き、革命広場でギロチンにかけられるシーンなどは、細かい描写まで史実を再現しているだけでなく、マリー・アントワネットの高貴さや意志の強さ、愛の深さを感じさせる描き方なので、マリー・アントワネットを敬愛する人たちにこそ観てほしい作品だ‥‥という話を、あたしは友人から聞き、このアニメをずっと観てみたいと思っていた。だけど、このアニメがテレビで放送されていた時、あたしはまだ3歳で、このアニメの存在も知らなかったし、たとえ知っていたとしても、当時は、こんなに難しいアニメなど楽しめる年齢ではなかったのだ。

 

あたしに『ラ・セーヌの星』のことを教えてくれた友人も、あたしと同じくマリー・アントワネットのことを心から敬愛していて、あたしと同じく「マリー・アントワネットに関するデマ撲滅委員会」のメンバーだ。そのため、マリー・アントワネットが贅沢の限りを尽くしたことが原因でフランス市民が苦しみフランス革命へと発展したというデマや、食糧不足で苦しんでいる市民に向かって「パンがないならお菓子を食べればいいじゃない」などと言ったというデマを払拭するために、ことあるごとに「真実のマリー・アントワネット」について説明している今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?

 

 

‥‥そんなワケで、もう1年くらい前のことだけど、その友人から電話で『ラ・セーヌの星』のDVD-BOXが手に入ったから貸してあげると連絡があったので、あたしは大喜びで貸してもらいに行った。ずっと観てみたかった『ラ・セーヌの星』は、マリー・アントワネットが民衆からの罵声の中、ギロチンにかけられる場面を描いた絵から始まるオープニングに衝撃を受けたけど、始まってみると一応は子供向けのアニメなので、極端に残酷なシーンはほとんどなく、なかなか楽しみながら観ることができた。シテ島の花屋の娘シモーヌは、ロバのタンタンが引く荷車にお花を積んで売り歩く姿が美しいし、「ラ・セーヌの星」の愛馬は黒いメンコを付けた白馬なので現役時代のゴールドシップにそっくりだし、勧善懲悪のストーリーは『水戸黄門』的に楽しめた。

 

ちなみに、この「シテ島」というのは、パリの中心部を流れるセーヌ川の中州で、こんな比喩を使っても東京周辺の人にしか分からないと思うけど、江の島よりひと回りくらい小さな島だ。そして、このシテ島のすぐ隣りには、もう1つの中州「サン=ルイ島」がある。こちらは、シテ島よりさらにひと回り小さな島で、日本人では現在85歳の女優、岸惠子さんが、築400年の豪邸でひとり暮らしをしていることでも有名だ。

 

このシテ島とサン=ルイ島という2つの中州は、パリ発祥の地と言われていて、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)による戦争の遠征記『ガリア戦記』によると、紀元前1世紀には、すでに「パリシイ族」と呼ばれる民族が住んでいたと記されている。山岳地帯でなく平地であるこの周辺では、川の中州という地形が自然の砦(とりで)のようなもので、敵が攻めて来た時に戦いやすかったのだと思う。

 

また、この「パリシイ族」が住む中州から街が発展して行ったため、「パリ」という地名は「パリシイ族」が由来だと言われている。そして、シテ島の「シテ」は英語の「シティ(街)」の語源と言われている。また、もともとは「シテ島に住む人々」という意味のフランス古語の「シテイアン」が英語では「シチズン」となるため、ここから「市民」のことを「シチズン」と呼ぶようになったと言われている。

 

パリ発祥の地でありパリ中心部に位置するシテ島には、「パリ警視庁」や「パリ市立病院」があり、ユネスコの世界遺産でもある「ノートルダム大聖堂」「サント・シャペル(聖なる礼拝堂)」「コンシェルジュリー(監獄)」など、10世紀から14世紀のゴシック建築が並んでいる。この「コンシェルジュリー」は、マリー・アントワネットが処刑されるまでの2カ月半を過ごした牢獄であり、「サディズム」という言葉の語源にもなった、あのマルキ・ド・サド(サド侯爵)も投獄された場所だ。

 

 

‥‥そんなワケで、話は『ラ・セーヌの星』に戻るけど、『ベルサイユのばら』がフランス革命へと突入して行く大きな流れを貴族の側からの視点で捉えているのに対して、『ラ・セーヌの星』は市民の側からの視点で捉えているため、この2作を観比べると、とても面白い。もちろん、どちらも史実をベースにしたフィクションだけど、『ベルサイユのばら』における「首飾り事件」などのように、どちらの作品も史実に基づく出来事が織り込まれているので、一定のリアリティーを持って楽しむことができる。

 

『ラ・セーヌの星』のラスト3話は、ヴァレンヌへの逃亡、タンプル塔の幽閉、ルイ16世の処刑、マリー・アントワネットのコンシェルジュリーへの移送、そして、処刑と、それぞれの出来事は大幅に端折ってあったけど、時系列としては史実に沿って描かれていた。そして、どちらの作品もマリー・アントワネットの処刑で幕を閉じるけど、あたしは、『ラ・セーヌの星』では、処刑の前夜、マリー・アントワネットが子どもたちへ最期の手紙を書き遺すシーンで胸がいっぱいになり、『ベルサイユのばら』では、処刑の日の朝、身の回りの世話をしていたロザリーが最期のスープをマリー・アントワネットに飲んでもらうシーンで大号泣してしまう。この遺書も、このスープも、どちらも史実に基づいた事実だからだ。

 

とても悲しいラストだけど、この『ラ・セーヌの星』で、唯一、救われたのは、マリー・アントワネットが最期まで心配していた2人の子ども、14歳のマリー・テレーズと8歳のルイ・シャルルを「ラ・セーヌの星」が救い出し、パリを脱出したという情報が、刑場へ連れられて行くマリー・アントワネットにこっそりと伝えられたシーンだ。自分の子どもたちが救われたことを知ったマリー・アントワネットは、刑場へ向かっているというのに、一瞬、希望に満ちた笑顔になる。あたしは、このシーンで涙腺が決壊した。それは、このアニメとは正反対の残酷な史実を知っているからだ。

 

実際には、娘のマリー・テレーズだけは何とか生き延びることができたけど、息子のルイ・シャルルには地獄が待っていた。ルイ16世が処刑された時点で、王太子だったルイ・シャルルは自動的にルイ17世になったわけで、王制を憎み続けてきた革命派にとっては殺してやりたいほどの相手なのだ。そのため、革命派の中の過激派は、わずか8歳のルイ・シャルルを地下牢に閉じ込め、来る日も来る日も「教育」という名の虐待を続けた。服や食事も満足に与えられず、トイレにも自由に行けず、殴る蹴るの暴力だけでなく、性的虐待まで繰り返されたルイ・シャルルは、衰弱して歩くこともできなくなり、2年後、10歳の時に亡くなってしまった。表向きは「病死」と発表されたが、これは完全に「殺人」である。たまたま国王の子どもに生まれたというだけで、何の罪もない8歳の子が、2年間も虐待され続けて殺されたのだ。

 

こうした残酷な史実を知っているあたしは、最後に「ラ・セーヌの星」が2人の子どもを救い出し、自分が新しい母親になって育てて行くというラストシーンで、涙が止まらなくなった。これが本当だったら、マリー・アントワネットはどれほど救われただろうか。実際のマリー・アントワネットは、コンシェルジュリーへ移送されてから処刑されるまでの2カ月半、愛する子どもたちと会うことも許されなかったため、その思いを最後の手紙に託し、そして、処刑されたのだ。

 

マリー・アントワネットが書いた最後の手紙は、マリー・アントワネットの娘マリー・テレーズと一緒にタンプル塔に幽閉されていた義理の妹、マダム・エリザベートに向けて書かれている。しかし、この手紙は届けられず、マリー・アントワネットの処刑から7カ月後、マダム・エリザベートもルイ16世やマリー・アントワネットと同様のインチキ裁判にかけられ、「ルイ・シャルルに性的暴行を行なっていた」という事実無根の理由で死刑判決を受け、処刑された。そして、そのルイ・シャルルも、母の書いた最後の手紙を読むことなく、革命派に虐待されて殺されたのだ。

 

この手紙は、20年以上も隠されていたため、唯一、生き延びた長女のマリー・テレーズが、この母の最後の手紙を目にすることができたのは、マリー・アントワネットの処刑時に14歳だったマリー・テレーズが、38歳になった時だった。マリー・アントワネットの子どもたちの中で、このマリー・テレーズだけが天寿をまっとうすることができたけど、マリー・テレーズには子どもがいなかったため、1851年10月19日に73歳で亡くなった時、ルイ16世とマリー・アントワネットの血筋は途絶えてしまった。マリー・アントワネットがギロチンにかけられたのは1793年10月16日なので、マリー・テレーズは10月16日の母の命日を祈った3日後に、母のもとへと旅立ったことになる。

 

 

‥‥そんなワケで、マリー・アントワネットは、死の瞬間、夫であったルイ16世の愛情を受けることになる。フランス革命までのフランスには、ギロチンはなく、斬首刑は斧で行なわれていた。そのため、日本での刀による「打ち首」と同じで、一度で首を斬り落とすことができずに、二度、三度と首を打つことも多く、死刑囚は必要以上に苦しまなくてはならなかった。当時の刑罰は「見せしめ」の意味もあったので、死刑だけでなく鞭打ち刑なども革命広場(現在のコンコルド広場)で公開されて行なわれていた。そして、死刑も、貴族は最も苦しみの少ない斬首刑だったけど、市民は拷問のような方法で処刑されていた。

 

たとえば、最も重い罪の場合には、巨大な火鋏(ひばさみ)で胸や腕や足の皮を切り、その切り口に高熱で溶かした蝋(ろう)や鉛などを流し込み、激痛で叫び声を挙げてのた打ち回る死刑囚の両腕と両足にそれぞれロープを結び付け、東西南北を向いた馬車にそれぞれのロープを結び付け、ゆっくりと走り出し、死刑囚の体を4つに引きちぎって刑を執行する。これが「八つ裂きの刑」で、他にも残酷な刑がたくさんあった。だから、当時の市民感覚では、斬首刑は「死刑の中でもっとも苦しみの少ない刑罰」だったのだ。

 

しかし、当時のパリで死刑執行人をつとめていたシャルル=アンリ・サンソンは、たまたま死刑執行人の家系に生まれたため仕方なく家業を継いだだけで、本来は死刑反対派の心やさしい男だった。そのため、自分が斬首刑を行なうたびに心を痛めていて、常日頃から「少しでも死刑囚を苦しませずに執行できる方法はないか」と考えていた。一方、医師で議員だったジョゼフ・ギヨタンも同じことを考えていて、死刑囚を苦しませずに処刑するための道具「ギロチン」を考案して議会に提案した。サンソンはギヨタンの考案した「ギロチン」の存在を知り、これなら失敗せずに一瞬で斬首できるから死刑囚の苦しみも少なくなると思い、国王であるルイ16世に「ギロチン」の導入を進言した。

 

マリー・アントワネットの夫であるルイ16世は、知っている人は知っているように、森での狩猟と鍛冶仕事だけが趣味の人物で、暇さえあれば工房にこもって鍛冶仕事をしたり錠前(じょうまえ)作りを楽しんでいた。自分で鍵のシステムを考え、自分で設計図を書き、自分で鉄を打って部品を作り、それを組み合わせて錠前を作る。こんな、とても王様とは思えないような趣味を持っていたため、サンソンから「ギロチン」の図解を見せられたルイ16世は、より失敗なく、より苦しませずに執行できるようにと、刃の落下速度が速くなるような改良を提案した。そして、サンソンの持って来た図解では真っ直ぐになっていた刃についても、「この刃には角度を付けて斜めにしたほうが切れ味が良くなる」と提案した上で「ギロチン」の導入を認めたのだった。

 

結局、ルイ16世の提案通りの「ギロチン」が、死刑囚をなるべく苦しませずに刑を執行するための「人道的な処刑道具」として導入されたのだ。そして、この後にフランス革命が起こり、ルイ16世とマリー・アントワネットは囚われの身となり、この「人道的な処刑道具」で首を落されることになる。1793年1月21日、ルイ16世が、正確には王位を剥奪されていたから「ルイ・カペー」が、刑を執行された。そして、9カ月後の1793年10月16日、マリー・アントワネットが、正確には「カペー未亡人」が、刑を執行されたのだ。

 

もしも、ルイ16世が、この「人道的な処刑道具」の導入を認めていなければ、ルイ16世自身も、マリー・アントワネットも、もっと苦しむ方法で刑を執行されていたことになる。そして、ルイ16世が刃の落下速度や角度などを提案したお陰で、マリー・アントワネットは、当時の状況で考えられる「最も苦しまない方法」で夫のもとへと旅立つことができたのだ。これが、死の瞬間にマリー・アントワネットがルイ16世から受けた最後の愛情だったと、あたしは勝手に思っている。

 

 

‥‥そんなワケで、マリー・アントワネットと言うと、「贅沢三昧でフランスを財政破綻させた赤字夫人」だとか「勉強嫌いでワガママ放題のオーストリア女」だとか、最初に書いように「食料不足の市民に対して『パンがないならお菓子を食べればいいじゃない』などと抜かしたバカ女」だとか思っている人が多いけど、これらはすべて当時の「反王制派」や「反オーストリア派」が革命を起こすための方便として流したデマであって、実際のマリー・アントワネットは素晴らしい女性だった。まず、フランスの財政破綻だけど、これは、先々代のルイ14世が戦争ばかりして莫大な出費を続けた上に、約1兆円も投じてベルサイユ宮殿を建設させたからだし、先代のルイ15世も戦争を繰り返し、デフォルトを5回も起こした上に「七年戦争」でトドメを刺したからだ。

 

つまり、ルイ16世が即位して、マリー・アントワネットが王妃になった時点で、フランスはすでに「マジで財政破綻する5秒前」みたいな状況だったのだ。そのため、一般的には「贅沢三昧だった」と言われているマリー・アントワネットも、使えるお金は年間30万リーヴル、現在の日本円にして約600万円ほどで、毎月約50万円しか使えなかった。「私人」である安倍昭恵氏が年間3000万円もの国費を好き勝手に使っていることを考えれば、「王妃」であるマリー・アントワネットの年間30万リーヴルはその5分の1、これが、どれほど切り詰めた金額だったのか、よく分かると思う。その上、マリー・アントワネットは、「贅沢三昧」どころか「倹約家」だったので、年間30万リーヴルのうち8万リーヴルだけでやりくりして、残りの22万リーヴルは貯金していたのだ。

 

一般的には、マリー・アントワネットは何千万円も何億円もする宝石を買いあさっていたなどと言われているけど、これも完全にデマで、その証拠に、何点も残っているマリー・アントワネットの肖像画で、高価な宝石を身に付けているものはほとんどない。肖像画の中のマリー・アントワネットが身に付けている宝石の大半は、結婚する時に母親であるマリア・テレジアが持たせたもので、間違ってもフランス国民の血税で買ったものではない。それどころか、マリー・アントワネットは、フランスの財政を救うために、自分がオーストリアから持参した宝石の多くを売り払っているのだ。

 

また、マリー・アントワネットは、お気に入りの人たちを集めてトリアノン離宮で遊び呆けていたなどと言われているけど、これも大嘘だ。きちんと一次資料にあたって調べてみると、マリー・アントワネットは年間330日以上もベルサイユ宮殿で王妃としての公務をこなしていて、トリアノン離宮に出かけたのは年間20日ほどだったことが分かる。他にも、マリー・アントワネットが女性とも肉体関係を持っていたバイセクシャルだったとか、義理の弟とも肉体関係を持っていた性的破綻者だったとか、事実無根のデマが数多く流された。

 

それは何故か?答えは簡単だ。当時のフランスは、人口が約2600万人で、このうち貴族が約30万人、お金を貯めて没落貴族の株を買って成り上がった新貴族が約10万人、残りはすべて農民や商人などの第三身分の人たちだった。つまり、2500万人以上の国民から徴収した税金の大半を、わずか40万人の貴族が山分けしていたわけで、その頂点が王室だった。でも、税に苦しみながらも、国民の多くは国王のことを尊敬して愛していた。国王を倒す革命なんて、とんでもないと思っていた。そこで、革命を目指していた「反王制派」のグループは、かつての敵国だったオーストリアのマリー・アントワネットと政略結婚したことを面白く思っていない「反オーストリア派」と手を組み、とにかくマリー・アントワネットの評判を落とすことをやりまくったのだ。

 

国王であるルイ16世のことを尊敬している国民たちも、かつての敵国から来たオーストリア女が自分たちの血税で贅沢三昧をしていると聞けば、革命に加わろうと考えるようになる。これが、革命を企てた複数のグループの作戦で、その結果、フランス革命が起こり、ルイ16世とマリー・アントワネットは、初めから「死刑ありき」で行なわれたインチキ裁判で死刑判決を受け、ギロチンにかけられたのだ。だから、ギロチン台に上ったルイ16世が、詰めかけた人々のほうを振り向いて言った最期の言葉が「人々よ、私は無実のうちに死んで行く」であり、マリー・アントワネットが刑の前夜に書いた遺書の冒頭には、次の言葉が書かれているのだ。

 

 

「妹よ、これがあなたへの最後の手紙になります。私は死刑判決を受けましたが、恥ずべき判決を受けたわけではありません。死刑は犯罪を犯した者にとってのみ恥ずべきものだからです。」

 

 

‥‥そんなワケで、後ろ手にロープで縛られ、粗末な荷車に乗せられ、刑場である革命広場へと連れて行かれるマリー・アントワネットは、詰めかけた民衆からどれほど酷い罵声を浴びせられても、背すじをピンと伸ばし、顔をキリッと上げ、一度も顔を伏せたりしなかったという。そして、ギロチンの露となるまで、最期の瞬間まで、誇り高きフランス王妃としての尊厳を捨てなかったという。それは、自分が無実であると確信していたからに他ならない。あたしは、そんなマリー・アントワネットを心から敬愛しているので、彼女が処刑されてから200年以上が経っても未だに流され続けている「マリー・アントワネットの尊厳を傷つけるための悪質なデマの数々」をひとつずつ否定して行き、いつの日か、誰もが敬愛するであろう「真実のマリー・アントワネット」の姿を1人でも多くの人に知ってほしいと願っている今日この頃なのだ。

 

 

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2018.04.05

ビリー・モンガーというダイヤの原石

普通の自動車と違って、4つのタイヤが剥き出しになったレーシングマシン、あれをオープンホイールって言うんだけど、そのオープンホイールのフォーミュラーマシンによるレースに興味がない人でも、「F1」が「フォーミュラーワン」のことで、カーレースの頂点であることは知っていると思う。でも、この「F1」の下に「F2」があり、「F2」の下に「F3」があり、「F3」の下に「F4」があることは、レースに興味がない人たちには、あまり知られていないと思う。

ちなみに、「F1」の下のクラスが「F2」と呼ばれていたのは1980年代の前半までで、あたしがF1のテレビ観戦に夢中になり始めた1980年代の後半、アラン・プロストとアイルトン・セナがホンダのエンジンを積んだマルボロカラーのマクラーレンに乗っていた時代、この時には「F1」の下のクラスは「F3000」と呼ばれていた。

そして、何年かすると、今度は「F3000」が「GP2」と呼ばれるようになり、その「GP2」が、また昨年から「F2」と呼ばれるようになった。「F1」はずっと「F1」なのに、その下のクラスの「F2」は、何故だか「F2→F3000→GP2→F2」と変わってきたわけで、サーキットをぐるりと1周して元に戻った昨年は、久しぶりに「F1」「F2」「F3」「F4」と、まるでPCのキーボードの上のほうに並んでいるキーみたいだけど、レースのクラス名が上から下まできちんと統一されたことになる。

「F1」はフォーミュラーレースの頂点なので、レギュラーシートを獲得することは至難の業だし、リザーブドライバーになるのだって難しい。「F1」のドライバーになるためには、一番下の「F4」で年間チャンプなどの大きな成績を収め、「F3」「F2」とステップアップして行かないと難しい。もちろん、これは義務じゃないので、他のカテゴリーのレースから「F3」や「F2」に転向してくるドライバーもいるし、いろんなケースがあるけど、一般的には、それぞれの国での一番下のフォーミュラークラスから上を目指して行くことになる。

だから、一番下の「F4」には、未来のF1ドライバーを夢見る少年たちが、目を輝かせながら参戦してくる。当然、もっと下のレースで頭角を現わして、どこかのチームに入ることができなければ参戦などできないので、この「F4」に出場できている時点で、すでにダイヤモンドの原石ということになる今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、1999年5月5日、イギリスのチャールズウッドに生まれたビリー・モンガーは、そんなダイヤモンドの原石の1つだった。ビリーは、子どものころからカートレースに参戦して優秀な成績を収め、それからジュニアレースへとステップアップして活躍し、昨年2016年、とうとう念願だった「F4」のイギリス選手権に、ダービー州を本拠地とする「JHR デベロップメンツ」というレーシングチームからデビューできることになった。初めての参戦で、シーズン成績は12位に終わったけど、シーズン中、3回も表彰台に上ることができたビリーは、「来年こそは」と決意を新たにした。

未来の「F1」のシートを夢見る17歳のビリーは、2年目を迎えた昨年、2017年4月2日にブランズハッチで開催された開幕戦のラウンド2で、3位の表彰台に上ることができた。そして、2週間後の4月16日、ドニントンパークで開催された第2戦、これまで以上にアグレッシブなドライブで果敢に攻めるレースを展開したビリーに、最悪の結果が待っていた。直線で前を走るマシンのスリップストリームに入ったビリーは、インから前のマシンを抜くため、左にステアリングを切った瞬間、目の前にエンジントラブルか何かで急にスローダウンしたパトリック・パスマのマシンが現われ、フルスピードのまま突っ込んでしまったのだ。

あたしは、YOU TUBEで、この時のビリーのマシンの車載カメラの映像を観たんだけど、フルスピードで左にコース変更した瞬間、「あっ!」と思う前に突っ込んでいるような状態で、どうしようもない事故だった。ビリーのマシンはフロント部分が消滅するほどのダメージで、大破したマシンのコクピットからビリーが救出されたのは、90分も経ってからだった。ビリーはヘリコプターでサーキット近くのクイーンズ・メディカル・センターへ緊急搬送され、何とか一命だけは取りとめることができたけど、両足を膝から下で失うことになってしまった。

事故から3日後の4月19日、チーム代表のスティーブン・ハンター氏は、ビリーが昏睡状態から目を覚まし、意識も回復したと発表した。両足を切断したことを本人に告げると、それでもビリーは気丈に振る舞い、ステアリングホイールの裏に付いているクラッチを手で動かす仕草を見せたという。ハンター氏は「ビリーには、これから長く険しい道のりが待っているが、それは避けて通ることはできない。だが、彼は持ち前の性格で困難に打ち勝ってくれると、私は信じている」とコメントし、ビリーを支援するためのクラウドファンディングのリンクをチームのHPに公開した。

ビリーと同じイギリス出身のF1ドライバー、メルセデスのルイス・ハミルトンは、19日付の自身のツイッターで「たった今、この悲劇的なニュースを見た。僕の祈りが彼と彼の家族に届くように」とのメッセージを添えて、支援のためのクラウドファンディングのリンクを貼った。また、フォース・インディアのセルヒオ・ペレスも、自身のツイッターで「とても厳しい状況にある僕たちの仲間と彼の家族を助けよう」とツイートして支援を求めた。他にも、ジェンソン・バトン、マックス・フェルスタッペン、ニコ・ヒュンケルベルグなど、多くのF1ドライバーやレース関係者たちの支援の輪は瞬く間に広がって行き、目標金額が26万ポンド(約3600万円)に設定されたクラウドファンディングには、わずか数日で75万ポンド(約1億円)を超える金額が集まり、今も集まり続けている。そして、意識を回復してから6日後の4月25日のこと、ビリーは病院のベッドの上から、自身のフェイスブックに以下のコメントを発表した。


Billy Monger (Queen's Medical Centre)
25/4/2017
A huge Thank you to each and eveyone of you!
Your kind words have given me and my family the strength to get through this past week.
The love and generosity of our motorsport family, fans, and everyone that has supported me is awesome and truly inspirational.
The Marshals, Medics, Doctors, Air Ambulance and extraction crews at Donington along with all the staff at Queens Medical Centre- what can I say? Without you guys I wouldn't be here today! I will always thank you all for saving my life!
The one true hero of this tragic event has been my sister, Bonny who gave me the will to keep fighting! A value that I will continue to hold now...and for the rest of my life.

皆さん1人1人に、心から感謝しています!
皆さんの親切な言葉の数々は、僕と僕の家族に、今回の状況を乗り越えるための力を与えてくれました。
僕を家族のように思ってくれたモータースポーツ界の皆さん、ファンの皆さん、そして、僕をサポートしてくれた皆さん、あなた方の素晴らしい愛と寛大さに僕はとても驚き、本当に感動しました。
クイーンズ・メディカル・センターのスタッフの皆さん、マーシャル、ドクター、航空救急車、ドニントンパークのクルーの皆さん、僕はなんとお礼を言ったらいいか分かりません。皆さんがいなければ、今日、僕はここにいません!僕の命を救ってくれた皆さんへの感謝は、絶対に忘れません!
そして、この非劇的な出来事の本物のヒロインは、僕の妹のボニーです!彼女は僕に戦い続ける勇気を与えてくれました!その価値は今も持ち続けていますし、今後も持ち続けて行きます‥‥これからの僕の人生のために。
ビリー・モンガー(クイーンズ・メディカル・センターにて)


このメッセージを発表してから10日後の5月5日、ビリーは病院のベッドの上で、18歳の誕生日を迎えた。今回の出来事を知った時、あたしは、すぐに元F1ドライバーのアレックス・ザナルディのことを思い出した。イタリア人なので、正しくは「アレッサンドロ・ザナルディ」と言うそうだけど、あたしが夢中になってF1をテレビ観戦していた時代、まだ日曜日のゴールデンタイムに地上波でF1を中継をしていた時代には、ほとんどが英語読みの表記だったので、あんまり活躍できなかったドライバーだけど、あたしは「アレックス・ザナルディ」と記憶していた。

ザナルディは、1991年にジョーダンからF1デビューしたんだけど、ほとんど活躍できず、翌年にはミナルディに移籍し、さらに翌年にはロータスに移籍し、一度も表彰台に上ることなく、1994年にF1を引退した。そして、アメリカのCARTシリーズに転向したところ、こちらでは実力を発揮することができて、1997年と1998年に2年連続でチャンピオンになった。ちなみに「CART」と言うのは、ゴーカートのことじゃなくて、かつてアメリカで行なわれていた独自のフォーミュラーマシンによるレースで、「Championship Auto Racing Teams」の頭文字を取って「CART」と呼ばれていた。最高時速は300キロ以上で、現在のインディカーのようにオーバルコース(楕円形のコース)をグルグル回るだけのレースもあったので、複雑なコーナーやシケインなどでスピードを抑えているF1よりも危険な一面もあった。

ザナルディは、このCARTシリーズでの活躍が評価され、翌1999年には、ウィリアムズからF1にカムバックすることになる。でも、ウィリアムズでは、ミハエル・シューマッハの弟のラルフ・シューマッハとともにレギュラードライバーをつとめたんだけど、やっぱりF1は水が合わなかったのか、一度も表彰台に上れないまま、この1年だけでF1の舞台から去ることになる。

1年後の2001年、ザナルディは、またCARTシリーズに参戦したんだけど、今度はなかなか勝てずにいた。そして、9月に行なわれたドイツのラウジッツリンクでの第16戦、久しぶりにトップを好走していたザナルディは、このまま走り切れば優勝という残り16周のピットインで、気持が焦ってしまったのか、ピットの出口でスピンしてしまい、そのままコースに飛び出してしまった。そして、真横を向いてしまったザナルディのマシンに、時速320キロのフルスピードで走ってきたアレックス・タグリアーニのマシンが突っ込んでしまった。2台のマシンは大破し、ザナルディは一命を取りとめたものの、両足を膝の上から失うことになってしまった。ザナルディ、35歳の時だった。

普通なら、ここでレースは引退するよね。でも、ザナルディは違った。事故から1年8カ月後、ザナルディは事故のあったドイツのラウジッツリンクに、アクセルやブレーキを手で操作できる特別仕様のマシンを持ち込み、事故で走れなかった「残り16周」を走り切ったのだ。そして、翌2002年にはレースに復帰し、2005年からは世界ツーリング選手権にBMWから参戦し、8月の第14戦では優勝を果たした。しかし、ザナルディは、レースと並行して取り組んでいたハンドサイクル(足の代わりに手でペダルを回して進む自転車)で、2012年のロンドン・パラリンピック出場を目指して、2009年に世界ツーリング選手権から引退した。

たゆまぬ努力を続けてきたザナルディは、2009年にはパラサイクル世界選手権のハンドサイクルのタイムトライアル部門で優勝し、2010年にはローママラソンのハンドサイクル部門で優勝し、ついに2012年のロンドン・パラリンピックのイタリア代表選手に選ばれる。そして、ハンドサイクルのタイムトライアル部門とロードレース部門で金メダルを獲得し、ハンドサイクルのチームリレー部門では銀メダルを獲得したのだ。奇しくも、このレースが行なわれたイギリスのブランズハッチ・サーキットは、かつてザナルディがカーレースで走ったことのあるサーキットであり、そして、今回、両足を失ってしまったビリー・モンガーが、事故の前の第1戦で表彰台に上ったサーキットなのだ。

ロンドン・パラリンピックでの金メダル獲得から4年後の2016年、すでに49歳になっていたザナルディは、またイタリア代表としてリオデジャネイロ・パラリンピックに出場し、ハンドサイクルのタイムトライアルで、人生で3つめの金メダルを獲得した。

なんという情熱だろう。なんという精神力だろう。35歳の時、残り16周で大クラッシュして両足を失ったというのに、2年も経たないうちにそのサーキットに戻ってきて、特別仕様のマシンでその16周を走り切ったザナルディは、この16周を残したままにしておいたら、自分は次のステップへ上れないと思ったのかもしれない。F1では一度も表彰台に上ることができなかったけど、ザナルディは両足を失ってから、義足をつけてF1マシンに乗り、義足でアクセルやブレーキを操作してサーキットを走行したこともあるのだ。

17歳という若さで両足を失ってしまったビリー・モンガーには、こんなにも素晴らしい先輩がいるのだから、今度はビリーの生き様が後輩たちを勇気づけられるように、これからの人生を最高のものにしてほしいと願ってやまない。人生は、一度きりなのだから。


‥‥そんなワケで、実は、ここまでの原稿は、今から1年前、ビリーが事故で両足を失ったことが報じられた時に書いたものだ。だけど、そのままだと記述に問題があるので、原稿の「今年」を「昨年」に修正したりして、今、読んでも問題ないようにした。そして、どうしてこの原稿を公開したのかと言うと、先日、とっても嬉しいニュースが飛び込んで来たからだ。それは、モータースポーツの専門ニュースサイトに4月1日付で配信されたもので、以下の内容だった。


「昨年、F4のレース中に大事故に見舞われ、両足切断の重傷を負ったビリー・モンガー(カーリン)が、オールトン・パークで行われているBRDC F3選手権の開幕戦レース1に出走し、見事に3位表彰台を獲得した。」


あたしは、嬉しくて涙が止まらなくなった。今年2月、モンガーがレース復帰に向けてカーリンのF3マシンで走行テストを行なったというニュースは知っていたから、順調に行けば開幕戦から復帰できるかもしれないと思っていたけど、まさか初戦で表彰台だなんて、ホントに、ホントに、あたしは感動した。そして、ビリーを支えて来た多くのモータースポーツ関係者に、心から感謝した今日この頃なのだ。


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2018.04.03

インスタントラーメンの夜明け

インスタントラーメンにはいろんな銘柄があるけど、「インスタントラーメン」と聞いてあたしが真っ先に思い浮かべるのは、サンヨーの「サッポロ一番」だ。九州で生まれ育った人なら福岡に本社がある「マルタイラーメン」とか、四国で生まれ育った人なら徳島に本社がある「金ちゃんラーメン」とか、それぞれのご当地のインスタントラーメンを思い浮かべる人もいると思うけど、東京で生まれ育ったあたしの場合は、大手メーカーが販売している全国的にもメジャーなインスタントラーメンをメインに食べてきたから、その中でもナンバーワンのシェアを誇る「サッポロ一番」を真っ先に思い浮かべるし、実際に一番多く食べてきたのも「サッポロ一番」だ。

東京のスーパーに行くと、いろんなメーカーのインスタントラーメンが並んでいるけど、大きなスーパーから小さなスーパーまで、どこのスーパーにも必ず並んでいるのが「サッポロ一番」で、最低でも「しょうゆ」「みそ」「塩」の3種類は置いているし、大きなスーパーなら、その他に「塩とんこつ」だの「カレーラーメン」だの「しょうゆ餡かけ」だの、いろんな種類まで置いている。その一方で、ライバルの明星の「チャルメラ」は、「しょうゆ」だけしか置いていなかったりする。こうしたスーパーのラインナップを見ても、やっぱり「サッポロ一番」が最も売れているインスタントラーメンなんだと思う今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、あたしが小学4年生か5年生の時、算数だったか社会だったか忘れちゃったけど、「統計」についての面白い授業があった。班ごとに分かれて、それぞれの班で考えて四択の設問を作り、クラス全員にアンケートを取って、その回答を円グラフにして、大きな模造紙に描いて順番に発表するという授業だった。たとえば「あなたの好きなペットは何ですか?」という設問に対して「1.犬、2.猫、3.小鳥、4.その他」という四択の回答を用意してクラス全員にアンケートを取り、集まった回答を数えて、クラス全員の人数を100%として、それぞれの回答の割合を計算して、それを円グラフにするというものだ。

あたしたちの班は、「あなたの好きなインスタントラーメンは何ですか?」という設問にして、選択肢は「1.サッポロ一番、2.チャルメラ、3.出前一丁、4.その他」というものだった。結果は、サンヨーの「サッポロ一番」が約60%、明星の「チャルメラ」が約20%、日清の「出前一丁」が約10%で、その他が約10%だった。他の班は、どこも「その他」は「その他」としてしかカウントしなかったけど、あたしたちの班は少し工夫をして、アンケート用紙の「その他」の下にカッコを書いておき、「その他」を選択した人はカッコの中に自分の好きなインスタントラーメンの銘柄を書いてもらうようにした。そしたら「その他」を選択した人が全員、ま、全員と言っても、たしか3人か4人だったと思うけど、その全員が日清の「チキンラーメン」と書いていたのだ。

現在では、「出前一丁」の袋麺はメッタに見かけなくなり、スーパーなどで目にするのは「サッポロ一番」と「チャルメラ」が7対3とか8対2とかの割合になり、「出前一丁」は「いつも置いている店なら置いている」って感じになっちゃったけど、今から35年くらい前の当時は、「サッポロ一番」と「チャルメラ」と「出前一丁」がインスタントラーメンの御三家みたいな感じだった。ちなみに、当時のクラスで「出前一丁」と同じレベルの支持を集めた「チキンラーメン」は、当時の人気はイマイチだった。あたしも食べたことはあったけど、ドンブリに入れてお湯を掛けるだけの「チキンラーメン」よりも、ちゃんとお鍋で煮て作る「サッポロ一番」や「チャルメラ」のほうが遥かに美味しかったからだ。

「チキンラーメン」の人気が再燃したのは、あたしが中学生になってからだ。「すぐ美味しい~すごく美味しい~♪」という歌をバックに、おにぎり顔の南伸坊さんがチキンラーメンを作って食べるテレビCMが人気になり、そこから人気が出た。だから、あたしの班がクラスの「統計」を取った小学生の時には、選択肢に入れるほどの人気はなかったのだ。

だけど、この「統計」、今になって考えると、ちょっと不公平なんだよね。だって、「サッポロ一番」は当時でも「しょうゆ」「みそ」「塩」の3種類があったけど、「チャルメラ」と「出前一丁」は、確か「しょうゆ」だけしかなかったからだ。もしかしたら、これはあたしの記憶違いかもしれないけど、小学生時代のあたしは、「サッポロ一番」なら「しょうゆ」も「みそ」も「塩」も何度も食べていたけど、「チャルメラ」と「出前一丁」は「しょうゆ」しか食べた記憶がないからだ。

つまり、この設問だと、「サッポロ一番」の「しょうゆ」が好きな人も「みそ」が好きな人も「塩」が好きな人も「サッポロ一番」に丸を付けたわけで、得票数が多くなるのは当然だったのだ。公平性を追求するのなら、「1.サッポロ一番しょうゆ、2.サッポロ一番みそ、3.サッポロ一番塩、4.チャルメラ、5.出前一丁、6.その他」にしなきゃいけなかったのだ。だから、もしも、あたしが生きているうちにタイムマシンが発明されたら、当時の渋谷区立ホニャララ小学校に父兄のフリをして侵入して、あたしの机に「インスタントラーメンの選択肢はこうするべき」というお手紙を置いてこようと思っている(笑)


‥‥そんなワケで、とにかく、あたしはモノゴコロついた時から「サッポロ一番」が好きで、小さいころは母さんやおばあちゃんに作ってもらったし、小学3年生くらいからは自分でも作るようになったし、これまでずっと食べ続けてきた。そして、御三家である「しょうゆ」「みそ」「塩」を順番に食べているうちに、「しょうゆ」の麺は普通の太さで、「みそ」の麺は少し太くて、「塩」の麺は少し細いということに気づいた。だから、あたしは、お鍋を食べた最後のシメにインスタントラーメンを入れる場合には、煮込んでもいいように一番太い「みそ」の麺を使うようになった。

でも、ずっとしてから分かったんだけど、これって、あたしの勘違いだったのだ。「サッポロ一番」の麺は、太さは3種類とも同じで、形状が違っていたのだ。それぞれの麺の断面が、「しょうゆ」は四角、「みそ」は楕円、「塩」は円だったのだ。だから、3種類を同時に作って麺を見比べたら分かっただろうけど、あたしは一度に1種類しか作らないし、単に「食べた感じ」だけで太さが違うと思っていただけだから、サスガにそこまでは気づかなかった。でも、麺の断面が四角の「しょうゆ」を基本とすれば、楕円の「みそ」は太く感じるし、円の「塩」は細く感じると思うから、あたしの感覚も完全な勘違いだったとは言えないと思う。

だけど、そんなことよりも、もっと驚いたことがある。「サッポロ一番」の麺は、その形状だけでなく、内容も違っていたのだ。「しゅうゆ」の麺には醤油が練り込んであって、「みそ」の麺には味噌が練り込んであって、「塩」の麺には山芋粉が練り込んであったのだ。これは、サンヨーの「サッポロ一番」の開発チームの人たちが、それぞれのスープにもっとも合う形状と内容を試行錯誤した結果、こういう結論に達したからだそうだ。ちなみに、明星の「チャルメラ」のほうは、味によって麺の太さを変えている。「醤油」と「塩」が中細麺、「みそ」が中太麺、「とんこつ」が細麺だ。だから、お鍋のシメに使うのなら、「サッポロ一番」の「みそ」よりも「チャルメラ」の「みそ」のほうが向いていることになる。


‥‥そんなワケで、ここで日本のインスタントラーメンの歴史を簡単に紹介するけど、まずは1958年(昭和33年)に大阪のサンシー殖産(現・日清食品)から「チキンラーメン」が発売され、これが生産が追いつかないほどの大ヒット商品となったことから、日本のインスタントラーメンブームがスタートした。翌1959年には大阪の梅新製菓(現・エースコック)から「エースコックの即席ラーメン」が発売され、1960年には東京の明星食品から「明星味付けラーメン」が発売され、それぞれが大ヒットしたことから、四匹目、五匹目、六匹目のドジョウを狙うメーカーが次々とインスタントラーメンを開発・販売するようになったのだ。

インスタントラーメンの生産数の推移を見てみると、「チキンラーメン」が発売された「インスタントラーメン元年」の1958年度は年間の販売数が約1300万食、翌1959年度は約7000万食、1960年度は約1億5000万食、1961年度は約5億5000万食、1962年度は約10億万食、1963年度は約20億万食と、急激に上昇していった。現在は年間55億食ほどに落ち着いて横ばいが続いているけど、発売当時からの10年間の伸びはもの凄かったことが分かる。つまり、日本のインスタントラーメンは、最初に発売されてから10年ほどで一気に市民権を得て、あとはジワジワと販売数を伸ばしてきたってワケだ。

そして、1971年に日清食品が日本初のカップ麺「カップヌードル」を発売しても、当時の「カップヌードル」はインスタントラーメンの3~4倍くらい高かったので、ライバルにはならなかったそうだ、インスタントラーメンは、それまで通りに庶民に支持されていて、たまに「ちょっと贅沢なラーメン」として「カップヌードル」を買うような感覚だったと言われている。そのため、お鍋や食器を使わずに、お湯を注ぐだけで簡単に出来る上に、具まで入っている「カップヌードル」が登場しても、価格の面での住み分けがてきていたから、インスタントラーメンの売り上げにはほとんど打撃はなかったそうだ。


‥‥そんなワケで、あたしの好きな「サッポロ一番」の歴史を見てみると、1966年1月、群馬県のサンヨー食品から「サッポロ一番しょうゆ味」が発売され、12年後の1968年9月には「みそ」、さらに3年後の1971年9月には「塩」が発売され、この3種類が出そろった翌年の1972年に、このあたしが生まれたというワケだ。ちなみに、何で群馬県の会社なのに「サッポロ一番」なのかというと、全国のラーメンを食べ歩いた当時の井田毅社長が、札幌のラーメン横丁で食べた「しょうゆラーメン」の味が忘れられず、どうにかこのその味を家庭でも簡単に再現できないかと試行錯誤した結果、誕生したインスタントラーメンなので、思い出のラーメンに敬意を払って「サッポロ一番」と命名したそうだ。

一方、明星の「チャルメラ」が発売されたのは、「サッポロ一番しょうゆ味」の発売から送れること8カ月、1966年9月のことで、その2年後の1968年には日清の「出前一丁」が発売された。だから、「サッポロ一番」だけでなく「チャルメラ」も「出前一丁」も現在では半世紀もの歴史があるインスタントラーメンであり、「チキンラーメン」に至っては60年もの歴史があるのだ。そう思うと、まだ40歳台のあたし的には、どのインスタントラーメンも「先輩」ってワケで、これからは「サッポロ一番先輩」とか「チャルメラ先輩」とか「出前一丁先輩」とか呼ばなきゃならなくなってくる。つーか、「カップヌードル」ですらあたしが生まれる1年前に発売されてるから、これまた「カップヌードル先輩」ってことになる(笑)

ま、そんなことはともかくとして、今ではお湯を注ぐだけで食べられるカップ麺のほうが主流になっちゃったけど、スーパーで売っている一番安いものでも80~90円もするカップ麺よりも、5袋入りで300円前後、マイナーなメーカーのものなら5袋入りで200円前後で買えるインスタントラーメンのほうが、価格的にも食べた後の満足感でも、あたしはダンゼン上だと思っている。お鍋にラーメン1杯ぶんのお湯を沸かして、ザク切りにしたキャベツと短冊に切ったニンジンを入れて少し煮て、そこに「サッポロ一番」の「塩」の麺を入れて、スープの粉を入れて、麺がほぐれてきたらモヤシを入れて、麺がちょっと硬めのうちにドンブリに入れて、ラーメンに付いていた小袋の白ゴマをかけて、長ネギの薬味を乗せて、焼き海苔を添えて、コショウを振って、最後にゴマ油と垂らせば、カップ麺なんかとは比べものにならないほど、この1杯だけで大満足の食事になる。


‥‥そんなワケで、今回のエントリーを読んで、今すぐにでも「サッポロ一番」を食べたくなっちゃった人もいるだろうけど、最後に、あたしから「サッポロ一番」を作る上で、とっても重要なことを伝授しておく。「サッポロ一番」に限らず、インスタントラーメンを作る時、スープが薄くなり過ぎないようにと、スープの粉はドンブリのほうに入れておき、お鍋では麺だけを茹でて、それをドンブリに入れて作る人がいる。そうすればスープの濃さが一定に保てるからだ。だけど、サンヨー食品の「サッポロ一番」の担当者によると、「サッポロ一番」のシリーズは「お鍋で麺とスープを一緒に煮込むことで最高の味になるように開発している」とのことなので、皆さん、これから「サッポロ一番」を作って食べる時には、面倒くさがらずに、最初にドンブリでお水を量り、それをお鍋に入れて沸かし、麺とスープを一緒に煮込むようにしてみてほしいと思う今日この頃なのだ♪


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2018.04.01

母さんとホタルイカ

数日前、知り合いからホタルイカをいただいた。もちろん、ボイルしてあるやつだ。スーパーとかに並んでいるホタルイカは、10センチ×20センチくらいの発泡トレーに20~30杯くらい入っていて、小さな酢味噌が付いていたりするけど、これはその前の状態のやつだったので、何倍もある大きな発泡トレーに何百杯も入っていて、みんな凍っていた。知り合いは「欲しいだけ持ってっていいよ」と言ってくれたけど、そんなに大量には食べられないので、スーパーの発泡トレー2つぶんくらいの量をビニール袋に入れていただいてきた。

ちなみに、ホタルイカって、生物学的には「ツツイカ目 ホタルイカモドキ科」に属するイカなんだけど、これって変だよね?これは正真正銘のホタルイカなのに、そのホタルイカが「ホタルイカモドキ科」のイカだなんて、どう考えてもおかしい。子どものころに再放送で観た『マグマ大使』に「人間もどき」ってのが出てきたけど、これで言えば、あたしたち正真正銘の人間が「人間もどき科の人間」てことになっちゃう。「ホタルイカ科」のイカの中に、ホタルイカに良く似た「ホタルイカモドキ」っていうイカがいるなら分かるけど、「ホタルイカモドキ科」の中に「ホタルイカ」がいるなんて、やっぱり、どう考えてもおかしいと思う今日この頃、皆さん、イカがお過ごしですか?(笑)


‥‥そんなワケで、あたしは、その日の夜、自然解凍したホタルイカで晩酌しようと思い、お台所で福岡県の志賀島(しかのしま)の塩蔵ワカメの塩抜きを始めた。ボイルしたホタルイカと言えば、ワカメをたっぷりと添えて、どちらにも「からし酢味噌」を付けて食べるのが定番だけど、あたしは「わさび醤油」で食べるのも好きだ。で、この時点では、まだどちらの食べ方をするか決めてなかったんだけど、そこに母さんがやってきて、まな板で塩抜きしたワカメを大きめに切っていたあたしを見て「何を作ってるの?」と聞いたから、あたしは冷蔵庫からホタルイカを出して見せて、知り合いからいただいたことを報告した。

そしたら母さん、「ホタルイカなら酢味噌ね!」と言って、冷蔵庫から白味噌を出して、お砂糖とお酢を用意して、一番小さいボウルで酢味噌を作り出した。そして、お味噌を混ぜながら「フンフンフン~♪」と鼻歌を歌い出した。母さんは、お料理をする時に、決まって鼻歌を歌うのだ。これは、あたしが子どものころから何十年も変わっていない。あたしは、切ったワカメを冷蔵庫に入れたついでに冷蔵庫の中を見て、他に何を作ろうか考え始めた。すると、母さんの鼻歌が「歌」に変わった。


「ドミソ~~ドミソ~~ドレミファ酢味噌~~♪」


あたしは思わず噴き出しちゃった!だけど、そんなあたしをスルーして、母さんは酢味噌の味を見て、お砂糖とお酢を少しずつ足して、また混ぜ始めた。そして、母さんのおかしな即興ソングは、とんでもない方向へと進んでいった。


「酢味噌~~酢味噌~~スミソニアン博物館~~ワシントンにございます~~入場無料でございます~~♪」


あたしは、お腹をかかえて笑い、あまりにもおかしくて、その場にしゃがみ込んでしまった!たしかに、スミソニアン博物館はワシントンD.C.にあるし、入場料は無料だけど、どうしてこんな歌を即興で作りながら歌えるのか?そして、酢味噌が完成し、母さんのおかしな歌も終わり、あたしは2品目の「大根とチクワの煮物」を作りながら、母さんに言った。


「母さん、どうせなら『ワシントンにございま酢味噌~~入場無料でございま酢味噌~~♪』にしたほうが良かったんじゃない?」

「何言ってんのよ?それじゃせっかくの名曲がオヤジギャグになっちゃうじゃない」


母さんは笑いながら答えてくれたけど、「ドレミファ酢味噌」や「スミソニアン博物館」はオヤジギャグじゃなくて、「ワシントンにございま酢味噌」はオヤジギャグだという母さんの感覚が、あたしには分からなかった。でも、実際に口ずさんでみると、「酢味噌~~酢味噌~~スミソニアン博物館~~♪」だけなら笑えるけど「ワシントンにございま酢味噌~~入場無料でございま酢味噌~~♪」までやっちゃうと、サスガにやり過ぎで笑えなくなっちゃうことが分かった。そして、この辺が母さんの「さじ加減」であり「センス」なんだと思った。


‥‥そんなワケで、あたしの母さんは、もう70歳を越えているけど、見た目もやることも若い。細身のデニムパンツを穿いて、電動アシスト自転車で20キロくらいの距離を普通に走ってしまう。見た目は50代くらいに見えるので、そのお陰で、一緒にいる娘のあたしを30代前半くらいだと思っているご近所さんもいる。そんなあたしの自慢の母さんだけど、あたしがすごく小さかったころは、毎晩、お布団に入ると、あたしの横に添い寝をしてくれて、子守唄代わりに絵本や童話を読んでくれた。

あたしは、たいてい、物語の途中で眠ってしまった。もちろん、母さんはあたしを寝かせるために絵本や童話を読んでくれていたのだから、それで正解なんだけど、たまに短い絵本とかの時には、眠れないまま物語のラストシーンを迎えることがあった。絵本を読み終えても、あたしがまだ眠っていないと、母さんは最後のページをパラリとめくり、何も書かれていないページを見ながら、その物語の続きを創作で読み始めてくれた。「浦島太郎」の絵本なら、竜宮城から帰ってきた太郎が玉手箱を開けて、おじいさんになってしまったところで物語は終わりなのに、まだあたしが眠っていないと、母さんは次のように続けてくれた。


「竜宮城から送ってくれたカメは、おじいさんになってしまった太郎を見て、とてもかわいそうに思いました。そして、『さあ、私の背中に乗ってください!今度はカメの国へ行きましょう!』と言いました。またカメの背中に乗り、海の中にあるカメの国に行った太郎は、カメを助けてくれた英雄として、カメたちの大歓迎を受けました。カメの王様は、カメを助けてくれたお礼として、「ツルは千年、カメは万年」という名前の秘密のお酒を飲ませてくれました。すると、太郎はみるみるうちにもとの若者の姿に戻りました。」


あたしは、浦島太郎が無事にもとの姿に戻れたことに安心して、やさしい母さんの声に包まれながら、知らないうちに眠っていた。こんなふうに母さんは、どんな物語でも、あたしが最後まで寝つかないと、その続きを即興で創作して、まるで本に書かれている文章を読んでいるかのように、スラスラと話して聞かせてくれたのだ。あたしは、今回の母さんの「酢味噌~~酢味噌~~スミソニアン博物館~~ワシントンにございます~~入場無料でございます~~♪」という即興ソングを聴いて、ひとつの言葉から次の言葉を連想し、そこから物語を作っていくという母さんの発想力の原点を垣間見たような気がした。

あたしも、小さいころから空想が大好きで、1人で何時間でも空想あそびをすることができた。空き地にあった大好きな木に登り、いつもの太い枝にまたがり、母さんが作ってくれたクマさんのポシェットからチュッパチャプスのイチゴミルク味を取り出して、それを舐めながら遠くの屋根の上を流れる雲を眺めていると、いろんな空想が次々と浮かんできて、飽きることがなかった。これは今も続いていて、ひとつのことを考えていると、頭の中で次々と空想が連鎖していき、収拾がつかなくなることがある。でも、その空想の連鎖のお陰で、あたしは数々のヘアメイクの作品を生み出すことができたし、今も細々とお仕事を続けていられるのだ。


‥‥そんなワケで、あたしは、母さんのことを世界で一番尊敬しているし、世界で一番愛しているけど、そんな大好きな母さんと同じ空想力や発想力があたしの中にも受け継がれていて、それがあたしの大きな力になっていると思うと、とっても心強いし、とっても温かい気持ちになる。だけど、さすがに酢味噌を作りながら「ドレミファ酢味噌~~♪」だとか「スミソニアン博物館~~♪」だとかは思いつかないから、あたしもまだまだだと思った。母さんと一緒にホタルイカを酢味噌で食べながら、こんなことを思った今日この頃なのだ。


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