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2018.04.06

ラ・セーヌの星と真実のマリー・アントワネット

今から40年以上前の1975年、フジテレビ系列で『ラ・セーヌの星』という全39回のアニメが放送されていた。フランス革命前夜のパリが舞台で、パリ中心部のシテ島で花屋の娘として育てられた美少女シモーヌが、実はフランス王妃マリー・アントワネットの腹違いの妹だという生い立ちを知らされず、高い税に苦しむ庶民のために、赤い仮面とベレー帽やマントなどで女剣士「ラ・セーヌの星」に変身し、白馬に乗って貴族たちと戦うストーリーだ。

 

ようするに、当時、大人気だった『ベルサイユのばら』と『リボンの騎士』を合体させたようなフレーバーのアニメだったわけだけど、フランス革命に向かって進んで行くストーリーの要所要所には、『ベルサイユのばら』と同じように、実際の史実に基づいた描写がちりばめられている。そして、最終回でマリー・アントワネットが獄中で遺書を書き、革命広場でギロチンにかけられるシーンなどは、細かい描写まで史実を再現しているだけでなく、マリー・アントワネットの高貴さや意志の強さ、愛の深さを感じさせる描き方なので、マリー・アントワネットを敬愛する人たちにこそ観てほしい作品だ‥‥という話を、あたしは友人から聞き、このアニメをずっと観てみたいと思っていた。だけど、このアニメがテレビで放送されていた時、あたしはまだ3歳で、このアニメの存在も知らなかったし、たとえ知っていたとしても、当時は、こんなに難しいアニメなど楽しめる年齢ではなかったのだ。

 

あたしに『ラ・セーヌの星』のことを教えてくれた友人も、あたしと同じくマリー・アントワネットのことを心から敬愛していて、あたしと同じく「マリー・アントワネットに関するデマ撲滅委員会」のメンバーだ。そのため、マリー・アントワネットが贅沢の限りを尽くしたことが原因でフランス市民が苦しみフランス革命へと発展したというデマや、食糧不足で苦しんでいる市民に向かって「パンがないならお菓子を食べればいいじゃない」などと言ったというデマを払拭するために、ことあるごとに「真実のマリー・アントワネット」について説明している今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?

 

 

‥‥そんなワケで、もう1年くらい前のことだけど、その友人から電話で『ラ・セーヌの星』のDVD-BOXが手に入ったから貸してあげると連絡があったので、あたしは大喜びで貸してもらいに行った。ずっと観てみたかった『ラ・セーヌの星』は、マリー・アントワネットが民衆からの罵声の中、ギロチンにかけられる場面を描いた絵から始まるオープニングに衝撃を受けたけど、始まってみると一応は子供向けのアニメなので、極端に残酷なシーンはほとんどなく、なかなか楽しみながら観ることができた。シテ島の花屋の娘シモーヌは、ロバのタンタンが引く荷車にお花を積んで売り歩く姿が美しいし、「ラ・セーヌの星」の愛馬は黒いメンコを付けた白馬なので現役時代のゴールドシップにそっくりだし、勧善懲悪のストーリーは『水戸黄門』的に楽しめた。

 

ちなみに、この「シテ島」というのは、パリの中心部を流れるセーヌ川の中州で、こんな比喩を使っても東京周辺の人にしか分からないと思うけど、江の島よりひと回りくらい小さな島だ。そして、このシテ島のすぐ隣りには、もう1つの中州「サン=ルイ島」がある。こちらは、シテ島よりさらにひと回り小さな島で、日本人では現在85歳の女優、岸惠子さんが、築400年の豪邸でひとり暮らしをしていることでも有名だ。

 

このシテ島とサン=ルイ島という2つの中州は、パリ発祥の地と言われていて、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)による戦争の遠征記『ガリア戦記』によると、紀元前1世紀には、すでに「パリシイ族」と呼ばれる民族が住んでいたと記されている。山岳地帯でなく平地であるこの周辺では、川の中州という地形が自然の砦(とりで)のようなもので、敵が攻めて来た時に戦いやすかったのだと思う。

 

また、この「パリシイ族」が住む中州から街が発展して行ったため、「パリ」という地名は「パリシイ族」が由来だと言われている。そして、シテ島の「シテ」は英語の「シティ(街)」の語源と言われている。また、もともとは「シテ島に住む人々」という意味のフランス古語の「シテイアン」が英語では「シチズン」となるため、ここから「市民」のことを「シチズン」と呼ぶようになったと言われている。

 

パリ発祥の地でありパリ中心部に位置するシテ島には、「パリ警視庁」や「パリ市立病院」があり、ユネスコの世界遺産でもある「ノートルダム大聖堂」「サント・シャペル(聖なる礼拝堂)」「コンシェルジュリー(監獄)」など、10世紀から14世紀のゴシック建築が並んでいる。この「コンシェルジュリー」は、マリー・アントワネットが処刑されるまでの2カ月半を過ごした牢獄であり、「サディズム」という言葉の語源にもなった、あのマルキ・ド・サド(サド侯爵)も投獄された場所だ。

 

 

‥‥そんなワケで、話は『ラ・セーヌの星』に戻るけど、『ベルサイユのばら』がフランス革命へと突入して行く大きな流れを貴族の側からの視点で捉えているのに対して、『ラ・セーヌの星』は市民の側からの視点で捉えているため、この2作を観比べると、とても面白い。もちろん、どちらも史実をベースにしたフィクションだけど、『ベルサイユのばら』における「首飾り事件」などのように、どちらの作品も史実に基づく出来事が織り込まれているので、一定のリアリティーを持って楽しむことができる。

 

『ラ・セーヌの星』のラスト3話は、ヴァレンヌへの逃亡、タンプル塔の幽閉、ルイ16世の処刑、マリー・アントワネットのコンシェルジュリーへの移送、そして、処刑と、それぞれの出来事は大幅に端折ってあったけど、時系列としては史実に沿って描かれていた。そして、どちらの作品もマリー・アントワネットの処刑で幕を閉じるけど、あたしは、『ラ・セーヌの星』では、処刑の前夜、マリー・アントワネットが子どもたちへ最期の手紙を書き遺すシーンで胸がいっぱいになり、『ベルサイユのばら』では、処刑の日の朝、身の回りの世話をしていたロザリーが最期のスープをマリー・アントワネットに飲んでもらうシーンで大号泣してしまう。この遺書も、このスープも、どちらも史実に基づいた事実だからだ。

 

とても悲しいラストだけど、この『ラ・セーヌの星』で、唯一、救われたのは、マリー・アントワネットが最期まで心配していた2人の子ども、14歳のマリー・テレーズと8歳のルイ・シャルルを「ラ・セーヌの星」が救い出し、パリを脱出したという情報が、刑場へ連れられて行くマリー・アントワネットにこっそりと伝えられたシーンだ。自分の子どもたちが救われたことを知ったマリー・アントワネットは、刑場へ向かっているというのに、一瞬、希望に満ちた笑顔になる。あたしは、このシーンで涙腺が決壊した。それは、このアニメとは正反対の残酷な史実を知っているからだ。

 

実際には、娘のマリー・テレーズだけは何とか生き延びることができたけど、息子のルイ・シャルルには地獄が待っていた。ルイ16世が処刑された時点で、王太子だったルイ・シャルルは自動的にルイ17世になったわけで、王制を憎み続けてきた革命派にとっては殺してやりたいほどの相手なのだ。そのため、革命派の中の過激派は、わずか8歳のルイ・シャルルを地下牢に閉じ込め、来る日も来る日も「教育」という名の虐待を続けた。服や食事も満足に与えられず、トイレにも自由に行けず、殴る蹴るの暴力だけでなく、性的虐待まで繰り返されたルイ・シャルルは、衰弱して歩くこともできなくなり、2年後、10歳の時に亡くなってしまった。表向きは「病死」と発表されたが、これは完全に「殺人」である。たまたま国王の子どもに生まれたというだけで、何の罪もない8歳の子が、2年間も虐待され続けて殺されたのだ。

 

こうした残酷な史実を知っているあたしは、最後に「ラ・セーヌの星」が2人の子どもを救い出し、自分が新しい母親になって育てて行くというラストシーンで、涙が止まらなくなった。これが本当だったら、マリー・アントワネットはどれほど救われただろうか。実際のマリー・アントワネットは、コンシェルジュリーへ移送されてから処刑されるまでの2カ月半、愛する子どもたちと会うことも許されなかったため、その思いを最後の手紙に託し、そして、処刑されたのだ。

 

マリー・アントワネットが書いた最後の手紙は、マリー・アントワネットの娘マリー・テレーズと一緒にタンプル塔に幽閉されていた義理の妹、マダム・エリザベートに向けて書かれている。しかし、この手紙は届けられず、マリー・アントワネットの処刑から7カ月後、マダム・エリザベートもルイ16世やマリー・アントワネットと同様のインチキ裁判にかけられ、「ルイ・シャルルに性的暴行を行なっていた」という事実無根の理由で死刑判決を受け、処刑された。そして、そのルイ・シャルルも、母の書いた最後の手紙を読むことなく、革命派に虐待されて殺されたのだ。

 

この手紙は、20年以上も隠されていたため、唯一、生き延びた長女のマリー・テレーズが、この母の最後の手紙を目にすることができたのは、マリー・アントワネットの処刑時に14歳だったマリー・テレーズが、38歳になった時だった。マリー・アントワネットの子どもたちの中で、このマリー・テレーズだけが天寿をまっとうすることができたけど、マリー・テレーズには子どもがいなかったため、1851年10月19日に73歳で亡くなった時、ルイ16世とマリー・アントワネットの血筋は途絶えてしまった。マリー・アントワネットがギロチンにかけられたのは1793年10月16日なので、マリー・テレーズは10月16日の母の命日を祈った3日後に、母のもとへと旅立ったことになる。

 

 

‥‥そんなワケで、マリー・アントワネットは、死の瞬間、夫であったルイ16世の愛情を受けることになる。フランス革命までのフランスには、ギロチンはなく、斬首刑は斧で行なわれていた。そのため、日本での刀による「打ち首」と同じで、一度で首を斬り落とすことができずに、二度、三度と首を打つことも多く、死刑囚は必要以上に苦しまなくてはならなかった。当時の刑罰は「見せしめ」の意味もあったので、死刑だけでなく鞭打ち刑なども革命広場(現在のコンコルド広場)で公開されて行なわれていた。そして、死刑も、貴族は最も苦しみの少ない斬首刑だったけど、市民は拷問のような方法で処刑されていた。

 

たとえば、最も重い罪の場合には、巨大な火鋏(ひばさみ)で胸や腕や足の皮を切り、その切り口に高熱で溶かした蝋(ろう)や鉛などを流し込み、激痛で叫び声を挙げてのた打ち回る死刑囚の両腕と両足にそれぞれロープを結び付け、東西南北を向いた馬車にそれぞれのロープを結び付け、ゆっくりと走り出し、死刑囚の体を4つに引きちぎって刑を執行する。これが「八つ裂きの刑」で、他にも残酷な刑がたくさんあった。だから、当時の市民感覚では、斬首刑は「死刑の中でもっとも苦しみの少ない刑罰」だったのだ。

 

しかし、当時のパリで死刑執行人をつとめていたシャルル=アンリ・サンソンは、たまたま死刑執行人の家系に生まれたため仕方なく家業を継いだだけで、本来は死刑反対派の心やさしい男だった。そのため、自分が斬首刑を行なうたびに心を痛めていて、常日頃から「少しでも死刑囚を苦しませずに執行できる方法はないか」と考えていた。一方、医師で議員だったジョゼフ・ギヨタンも同じことを考えていて、死刑囚を苦しませずに処刑するための道具「ギロチン」を考案して議会に提案した。サンソンはギヨタンの考案した「ギロチン」の存在を知り、これなら失敗せずに一瞬で斬首できるから死刑囚の苦しみも少なくなると思い、国王であるルイ16世に「ギロチン」の導入を進言した。

 

マリー・アントワネットの夫であるルイ16世は、知っている人は知っているように、森での狩猟と鍛冶仕事だけが趣味の人物で、暇さえあれば工房にこもって鍛冶仕事をしたり錠前(じょうまえ)作りを楽しんでいた。自分で鍵のシステムを考え、自分で設計図を書き、自分で鉄を打って部品を作り、それを組み合わせて錠前を作る。こんな、とても王様とは思えないような趣味を持っていたため、サンソンから「ギロチン」の図解を見せられたルイ16世は、より失敗なく、より苦しませずに執行できるようにと、刃の落下速度が速くなるような改良を提案した。そして、サンソンの持って来た図解では真っ直ぐになっていた刃についても、「この刃には角度を付けて斜めにしたほうが切れ味が良くなる」と提案した上で「ギロチン」の導入を認めたのだった。

 

結局、ルイ16世の提案通りの「ギロチン」が、死刑囚をなるべく苦しませずに刑を執行するための「人道的な処刑道具」として導入されたのだ。そして、この後にフランス革命が起こり、ルイ16世とマリー・アントワネットは囚われの身となり、この「人道的な処刑道具」で首を落されることになる。1793年1月21日、ルイ16世が、正確には王位を剥奪されていたから「ルイ・カペー」が、刑を執行された。そして、9カ月後の1793年10月16日、マリー・アントワネットが、正確には「カペー未亡人」が、刑を執行されたのだ。

 

もしも、ルイ16世が、この「人道的な処刑道具」の導入を認めていなければ、ルイ16世自身も、マリー・アントワネットも、もっと苦しむ方法で刑を執行されていたことになる。そして、ルイ16世が刃の落下速度や角度などを提案したお陰で、マリー・アントワネットは、当時の状況で考えられる「最も苦しまない方法」で夫のもとへと旅立つことができたのだ。これが、死の瞬間にマリー・アントワネットがルイ16世から受けた最後の愛情だったと、あたしは勝手に思っている。

 

 

‥‥そんなワケで、マリー・アントワネットと言うと、「贅沢三昧でフランスを財政破綻させた赤字夫人」だとか「勉強嫌いでワガママ放題のオーストリア女」だとか、最初に書いように「食料不足の市民に対して『パンがないならお菓子を食べればいいじゃない』などと抜かしたバカ女」だとか思っている人が多いけど、これらはすべて当時の「反王制派」や「反オーストリア派」が革命を起こすための方便として流したデマであって、実際のマリー・アントワネットは素晴らしい女性だった。まず、フランスの財政破綻だけど、これは、先々代のルイ14世が戦争ばかりして莫大な出費を続けた上に、約1兆円も投じてベルサイユ宮殿を建設させたからだし、先代のルイ15世も戦争を繰り返し、デフォルトを5回も起こした上に「七年戦争」でトドメを刺したからだ。

 

つまり、ルイ16世が即位して、マリー・アントワネットが王妃になった時点で、フランスはすでに「マジで財政破綻する5秒前」みたいな状況だったのだ。そのため、一般的には「贅沢三昧だった」と言われているマリー・アントワネットも、使えるお金は年間30万リーヴル、現在の日本円にして約600万円ほどで、毎月約50万円しか使えなかった。「私人」である安倍昭恵氏が年間3000万円もの国費を好き勝手に使っていることを考えれば、「王妃」であるマリー・アントワネットの年間30万リーヴルはその5分の1、これが、どれほど切り詰めた金額だったのか、よく分かると思う。その上、マリー・アントワネットは、「贅沢三昧」どころか「倹約家」だったので、年間30万リーヴルのうち8万リーヴルだけでやりくりして、残りの22万リーヴルは貯金していたのだ。

 

一般的には、マリー・アントワネットは何千万円も何億円もする宝石を買いあさっていたなどと言われているけど、これも完全にデマで、その証拠に、何点も残っているマリー・アントワネットの肖像画で、高価な宝石を身に付けているものはほとんどない。肖像画の中のマリー・アントワネットが身に付けている宝石の大半は、結婚する時に母親であるマリア・テレジアが持たせたもので、間違ってもフランス国民の血税で買ったものではない。それどころか、マリー・アントワネットは、フランスの財政を救うために、自分がオーストリアから持参した宝石の多くを売り払っているのだ。

 

また、マリー・アントワネットは、お気に入りの人たちを集めてトリアノン離宮で遊び呆けていたなどと言われているけど、これも大嘘だ。きちんと一次資料にあたって調べてみると、マリー・アントワネットは年間330日以上もベルサイユ宮殿で王妃としての公務をこなしていて、トリアノン離宮に出かけたのは年間20日ほどだったことが分かる。他にも、マリー・アントワネットが女性とも肉体関係を持っていたバイセクシャルだったとか、義理の弟とも肉体関係を持っていた性的破綻者だったとか、事実無根のデマが数多く流された。

 

それは何故か?答えは簡単だ。当時のフランスは、人口が約2600万人で、このうち貴族が約30万人、お金を貯めて没落貴族の株を買って成り上がった新貴族が約10万人、残りはすべて農民や商人などの第三身分の人たちだった。つまり、2500万人以上の国民から徴収した税金の大半を、わずか40万人の貴族が山分けしていたわけで、その頂点が王室だった。でも、税に苦しみながらも、国民の多くは国王のことを尊敬して愛していた。国王を倒す革命なんて、とんでもないと思っていた。そこで、革命を目指していた「反王制派」のグループは、かつての敵国だったオーストリアのマリー・アントワネットと政略結婚したことを面白く思っていない「反オーストリア派」と手を組み、とにかくマリー・アントワネットの評判を落とすことをやりまくったのだ。

 

国王であるルイ16世のことを尊敬している国民たちも、かつての敵国から来たオーストリア女が自分たちの血税で贅沢三昧をしていると聞けば、革命に加わろうと考えるようになる。これが、革命を企てた複数のグループの作戦で、その結果、フランス革命が起こり、ルイ16世とマリー・アントワネットは、初めから「死刑ありき」で行なわれたインチキ裁判で死刑判決を受け、ギロチンにかけられたのだ。だから、ギロチン台に上ったルイ16世が、詰めかけた人々のほうを振り向いて言った最期の言葉が「人々よ、私は無実のうちに死んで行く」であり、マリー・アントワネットが刑の前夜に書いた遺書の冒頭には、次の言葉が書かれているのだ。

 

 

「妹よ、これがあなたへの最後の手紙になります。私は死刑判決を受けましたが、恥ずべき判決を受けたわけではありません。死刑は犯罪を犯した者にとってのみ恥ずべきものだからです。」

 

 

‥‥そんなワケで、後ろ手にロープで縛られ、粗末な荷車に乗せられ、刑場である革命広場へと連れて行かれるマリー・アントワネットは、詰めかけた民衆からどれほど酷い罵声を浴びせられても、背すじをピンと伸ばし、顔をキリッと上げ、一度も顔を伏せたりしなかったという。そして、ギロチンの露となるまで、最期の瞬間まで、誇り高きフランス王妃としての尊厳を捨てなかったという。それは、自分が無実であると確信していたからに他ならない。あたしは、そんなマリー・アントワネットを心から敬愛しているので、彼女が処刑されてから200年以上が経っても未だに流され続けている「マリー・アントワネットの尊厳を傷つけるための悪質なデマの数々」をひとつずつ否定して行き、いつの日か、誰もが敬愛するであろう「真実のマリー・アントワネット」の姿を1人でも多くの人に知ってほしいと願っている今日この頃なのだ。

 

 

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