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2018.04.19

ライ麦畑でつかまえたものは?

海外での関係各国との会議の結果、「TPP-11」が合意に達していないのに、海外での英語表現を意図的に盛りに盛った誤訳にして日本国内に流し、「合意に達した」などと嘘のニュースを流して、無能な安倍外交があたかも順調に経済政策を進めているかのように演出する「アベのイカサマミクス」は有名だけど、嘘とペテンにまみれた安倍政権によるインチキ翻訳など反面教師にもならないので、今回は、あたしが、素晴らしい翻訳、お手本になるような翻訳について、実際の例を挙げてみたいと思う。で、素晴らしい翻訳というと、あたしがパッと思い浮かぶのが、大好きな小説の一冊でもある『ライ麦畑でつかまえて』だ。

J・D・サリンジャーと言えば、誰もが『ライ麦畑でつかまえて』を代表作として挙げると思うし、読んだことがなくても、この『ライ麦畑でつかまえて』というタイトルは聞いたことがあると思う。青春小説の古典のような存在で、あたしは大好きなので複数の翻訳だけでなく英文の原作も読んだけど、何よりも『The Catcher in the Rye』という原題を『ライ麦畑でつかまえて』と訳した翻訳家、野崎孝氏の言語センスの良さが秀逸だと感じている。

実は、この作品、最初は『危険な年齢』というタイトルで発売されたのだ。原作が刊行された1951年の翌年、1952年に橋本福夫氏が翻訳した『危険な年齢』が日本語訳の第1号で、野崎孝氏が『ライ麦畑でつかまえて』という邦題で翻訳したのは、それから10年以上が過ぎた1962年のことなのだ。そして、1967年には繁尾久氏が『ライ麦畑の捕手』という邦題で翻訳し、最近では2003年に村上春樹氏が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』という翻訳を出している今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、『ライ麦畑でつかまえて』を読んだことがある人なら分かると思うけど、17歳で高校を退学になったホールデンが、クリスマス前夜にニューヨークの街を彷徨(さまよ)ったことを、翌年、療養先の病院のベッドの上で回想するというスタイルで書かれている小説で、少年から青年へと成長する多感な時期の悩みや葛藤などが描かれているので、内容から見れば『危険な年齢』という邦題も悪くはない。だけど、これでは、この本を手に取ろうという気にはならない。また、原題は『The Catcher in the Rye』なのだから、『ライ麦畑の捕手』という邦題も間違ってはいない。だけど、これでは、ライ麦畑で草野球をやっているようにしか思えないので、野球が好きな人しか興味を持たないだろう。

ニューヨークでホールデンは、道端で小さな子どもが「If a body catch a body coming through the rye.(もしもライ麦畑で誰かが誰かを捕まえたら)」と歌っているところに出くわす。そして、その後、退学になったために高校の寮に戻れないホールデンが実家に帰ると、両親は留守だったので、留守番をしていた妹に高校を退学になったことを話す。すると、妹から人生について少し厳しいことを言われてしまい、それに対して、ホールデンは、こんなことを言う。


「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしているとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない。誰もって大人はだよ。僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ。つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっかから、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げてることは知ってるけどさ」


この日本語訳の中の「ライ麦畑のつかまえ役」、これが原題にもなった「The Catcher in the Rye」だ。一応は、ホールデンは妹に対して話しているわけだけど、この独白とも言える一節に、この作品のすべてが集約されている。作者のサリンジャーは、1919年にニューヨークで生まれたユダヤ人なんだけど、自身も有名高校を1年で退学になっているので、少年から青年へと成長する多感な時期に、自分の将来について、人生について考え、大いに悩み、苦しみ、葛藤した過去があるのだ。たぶん、当時のサリンジャーは、このホールデンのセリフのように、非現実的な表現でしか自分の将来を想像できなかったのだと思う。そして、このホールデンのセリフが、サリンジャーがこの小説に『The Catcher in the Rye』というタイトルをつけた理由なのだ。

この一節を読めば、原題の中の「The Catcher」が、野球の「捕手」ではないことは簡単に分かるだろう。けっこうな高さのあるライ麦によって、地面が切れて崖になっている位置が分からないため、遊びに夢中になって走り回っている子どもたちは足を踏み外して落下してしまう危険がある。そこで、ホールデンが崖の少し手前で見張っていて、崖のほうへ走ってきた子どもがいたら、サッと飛び出して捕まえ、崖から落ちないように助けてあげる役割だ。もちろん、これは、本当にその通りのことがしたいと思って言っているのではなく、ホールデンの持つ漠然としたイメージとして、純粋な子どもたちが、その純粋さゆえに傷ついたり命の危険を負いそうになった時に、それを救えるような大人になりたい、そうした職業に就きたいと言っているのだ。

このホールデンの気持ちを知った上で、改めて『ライ麦畑でつかまえて』という邦題を見てみると、これが、どれほど素晴らしい翻訳なのか理解できると思う。何よりも秀逸なのは、主人公はホールデンなのに、このセリフを話したホールデンの視点ではなく、ホールデンが「助けてあげたい」と思っている子どもたちの視点での翻訳になっている点だ。そして、多くの人たちがあたしと同じように感じたため、複数の邦題がある中で、この『ライ麦畑でつかまえて』という邦題が、日本では最もポピュラーになったのだと思う。


‥‥そんなワケで、以前、あたしは、これも大好きなアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの『星の王子さま』について書いた。フランス語の原題が『Le Petit Prince』、英語でのタイトルが『The Little Prince』、中国でのタイトルが『小王子』で、どの国でも原題通りの「小さな王子」という意味のタイトルに翻訳されているのに、日本だけは『星の王子さま』と訳されていて、これが素晴らしいとあたしは書いた。今回、取り上げた『ライ麦畑でつかまえて』という日本語のタイトルも、この『星の王子さま』と同じくらい素晴らしい邦題で、あたしは、翻訳者の野崎孝氏の言語センスに脱帽している。

ちなみに、サリンジャーの小説なら、あたしは『ナイン・ストーリーズ』が一番好きで、『ライ麦畑でつかまえて』は二番目だ。『ナイン・ストーリーズ』は、原題もそのまま『Nine Stories』で、そのタイトルの通り、サリンジャーが複数の月刊誌に発表していた数々の短編の中から、自選した9作品をまとめた短編集だ。これも、日本では最初の翻訳が『九つの物語』というタイトルで、その後、野崎孝氏が『ナイン・ストーリーズ』というタイトルで翻訳し、こちらのほうがポピュラーになった。こちらでも、野崎孝氏の翻訳の言語センスが光っていて、9作品のタイトルを見ると、それだけで読んでみたくなると思う。


「バナナフィッシュにうってつけの日」
「コネティカットのひょこひょこおじさん」
「対エスキモー戦争の前夜」
「笑い男」
「小舟のほとりで」
「エズミに捧ぐ――愛と汚辱のうちに」
「愛らしき口もと目は緑」
「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」
「テディ」


どう?読みたくなったでしょ?たとえば、最初の短編の原題は「A Perfect Day for Bananafish」で、柴田元幸氏は「バナナフィッシュ日和」、滝沢寿三氏は「バナナフィッシュに最良の日」、沼沢洽治氏は「バナナ魚日和」と訳していて、どれも悪くはないけど、あたしは、最初に挙げた野崎孝氏の「バナナフィッシュにうってつけの日」という邦題が、やっぱり一番興味をそそられるし、一番読んでみたくなるのだ。

海の中のバナナがどっさり入っているバナナ穴に向かって、行儀よく一列になって泳いで行き、中に入ると豚みたいにバナナを食べ散らかし、バナナを食べ過ぎて太ってバナナ穴から出られなくなり、最後にはバナナ穴の中でバナナ熱にかかって死んでしまうバナナフィッシュ‥‥と、こうして解説を添えれば、どんなタイトルでも読みたくなる人は多いと思う。でも、タイトルだけから内容を想像する場合には、「バナナフィッシュ日和」や「バナナ魚日和」では情報が少な過ぎて内容を想像できない。一方、「バナナフィッシュに最良の日」なら、バナナフィッシュという魚に何か良いことが起こるのかな?‥‥というくらいは想像できるようになるし、「バナナフィッシュにうってつけの日」になると、さらに何か特別なことが起こるようなイメージが湧いてきて、早く読んでみたくなる。

ちなみに、今書いたバナナフィッシュの生態に関する説明は、作品の中に書かれている通りのものだけど、ストーリーは想像とはまったく違っていて、最後には、グラース家の長男シーモアの驚くべき結末が待っているのだ。グラース家は、サリンジャーの作品にとって最重要な家族で、ユダヤ系の父とアイルランド系の母、そして、5男2女の7人兄弟だ。最初の「バナナフィッシュにうってつけの日」に長男シーモアが登場したのを皮切りに、2編目の「コネティカットのひょこひょこおじさん」には三男ウォルトが、5編目の「小舟のほとりで」には長女ブーブーが登場する。また、サリンジャーの長編小説『大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア-序章-』は、次男バディの視点で書かれているし、同じく長編小説の『フラニーとゾーイー』は、そのタイトルの通り、次女フラニーと五男ゾーイーが主人公だ。

こうした背景があるため、この『ナイン・ストーリーズ』は、9作品それぞれが読み切りの短編として楽しめるだけでなく、後から他の長編などを読んで行く過程で、いろいろな繋がりが分かって来て、さらに楽しむことができる。サリンジャー自身も、このグラース家の物語を書くことをライフワークとして取り組んでいたんだけど、長男シーモアが7歳だった1924年の夏休みにキャンプ地で書いた家族宛ての手紙、という形を取っている小説『ハプワース16、一九二四』を1965年に発表した後、46歳の若さで絶筆してしまい、以後、2010年に91歳で亡くなるまで、まったく筆を取らなかったのだ。


‥‥そんなワケで、実は、これには、いろいろな理由があるんだけど、最大の原因となったのは、ニューヨーク・タイムズ紙などに書評を書いている辛口の文芸批評家、日系アメリカ人二世のミチコ・カクタニ氏(角谷美智子氏)に酷評されたことだと言われている。事実、『ハプワース16、一九二四』は問題点のある作品でもあるけど、ファンにとっては十分に読む価値のある作品だ。でも、どんなに著名な作家の作品であっても、気に入らない作品に対しては歯に衣着せぬ辛口書評を展開することで有名なミチコ・カクタニ氏は、この作品への書評で「不愉快な上に奇怪で、残念なことにまったく魅力のない作品」と指摘したのだ。ミチコ・カクタニ氏は、ピューリッツァー賞の批評部門を受賞したことがあるほどの著名な文芸批評家だったため、サリンジャーは自信を失ってしまい、執筆に対するモチベーションも失ってしまい、以後、亡くなるまで半世紀近くも筆を持たなくなってしまった。

サリンジャーに筆を折らせてしまったミチコ・カクタニ氏の辛口書評は、アメリカではとても有名で、たとえば、日本でも大人気になったアメリカのテレビドラマ『セックス・アンド・ザ・シティ』では、サラ・ジェシカ・パーカー演じる主人公のキャリーが本を出版する際に、カクタニ氏の辛口書評を気にするシーンが登場する‥‥と、ずいぶん脱線しちゃったので本線に戻るけど、サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』の2編目「コネティカットのひょこひょこおじさん」も、このタイトルを見ただけで読んでみたくなるよね。ちなみに、原題は「Uncle Wiggily in Connecticut」、直訳すれば「コネチカットのウィギリーおじさん」になる。

「ウィギリーおじさん」というのは、1910年から40年も続いたアメリカのハワード・R・ガリスの童話の主人公のウサギで、お年寄りでリウマチなので杖をついてヒョコヒョコと歩いている。日本でも、アメリカの雑貨を扱っているお店などで、シルクハットをかぶってモーニングを着て杖をついたウサギの絵が描かれた雑貨を見たことがある人もいると思うけど、日本で言えば「ドラえもん」や「サザエさん」と同じような、アメリカの国民的キャラクターだ。だから、このサリンジャーの短編のタイトルは、柴田元幸氏はそのまま「コネチカットのアンクル・ウィギリー」と訳しているし、滝沢寿三氏も「コネチカットのウィグリおじさん」と訳している。

でも、他の翻訳者たちは、最初に挙げた野崎孝氏が「コネティカットのひょこひょこおじさん」と訳しただけでなく、中川敏氏は「コネチカットのよろめき叔父さん」、鈴木武樹氏は「コネチカットのグラグラカカ父さん」と訳している。これらは、「アンクル・ウィギリー」が日本ではあまり知られていなかったため、そのまま訳しても理解されないと思い、「Uncle Wiggily」というネーミングの元になった「wiggly」という形容詞の「細かく揺れ動く」「くねくね動く」という意味を踏まえて訳し、ウサギの「ウィギリーおじさん」を知らない人にも「足の悪いおじさん」であることを匂わせようとした邦題なんだと思う。


‥‥そんなワケで、ウサギの「アンクル・ウィギリー」がメジャーじゃない日本向けに翻訳するには、何とか他の表現で分かるようにしなきゃならないワケだけど、「よろめき叔父さん」だと何だか酔っ払っているように感じるし、「グラグラカカ父さん」ではイマイチ意味が分からない。だけど、野崎孝氏の「ひょこひょこおじさん」という表現はとても良く伝わる‥‥と、こんな感じで9作品すべての邦題について書いていると、もの凄い長さになってしまうため、今回はここまでにしておくけど、とにかくあたしは、『The Catcher in the Rye』を『ライ麦畑でつかまえて』と翻訳した野崎孝氏の言語センスが大好きで、その言語センスの良さは、こうして他の作品にも生きていると感じている。だから、もしも、今回のエントリーを読んで、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』や『ナイン・ストーリーズ』を読んでみようと思った人は、まずは野崎孝氏の翻訳から読んでみることをお薦めする今日この頃なのだ。


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