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2018.04.05

ビリー・モンガーというダイヤの原石

普通の自動車と違って、4つのタイヤが剥き出しになったレーシングマシン、あれをオープンホイールって言うんだけど、そのオープンホイールのフォーミュラーマシンによるレースに興味がない人でも、「F1」が「フォーミュラーワン」のことで、カーレースの頂点であることは知っていると思う。でも、この「F1」の下に「F2」があり、「F2」の下に「F3」があり、「F3」の下に「F4」があることは、レースに興味がない人たちには、あまり知られていないと思う。

ちなみに、「F1」の下のクラスが「F2」と呼ばれていたのは1980年代の前半までで、あたしがF1のテレビ観戦に夢中になり始めた1980年代の後半、アラン・プロストとアイルトン・セナがホンダのエンジンを積んだマルボロカラーのマクラーレンに乗っていた時代、この時には「F1」の下のクラスは「F3000」と呼ばれていた。

そして、何年かすると、今度は「F3000」が「GP2」と呼ばれるようになり、その「GP2」が、また昨年から「F2」と呼ばれるようになった。「F1」はずっと「F1」なのに、その下のクラスの「F2」は、何故だか「F2→F3000→GP2→F2」と変わってきたわけで、サーキットをぐるりと1周して元に戻った昨年は、久しぶりに「F1」「F2」「F3」「F4」と、まるでPCのキーボードの上のほうに並んでいるキーみたいだけど、レースのクラス名が上から下まできちんと統一されたことになる。

「F1」はフォーミュラーレースの頂点なので、レギュラーシートを獲得することは至難の業だし、リザーブドライバーになるのだって難しい。「F1」のドライバーになるためには、一番下の「F4」で年間チャンプなどの大きな成績を収め、「F3」「F2」とステップアップして行かないと難しい。もちろん、これは義務じゃないので、他のカテゴリーのレースから「F3」や「F2」に転向してくるドライバーもいるし、いろんなケースがあるけど、一般的には、それぞれの国での一番下のフォーミュラークラスから上を目指して行くことになる。

だから、一番下の「F4」には、未来のF1ドライバーを夢見る少年たちが、目を輝かせながら参戦してくる。当然、もっと下のレースで頭角を現わして、どこかのチームに入ることができなければ参戦などできないので、この「F4」に出場できている時点で、すでにダイヤモンドの原石ということになる今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、1999年5月5日、イギリスのチャールズウッドに生まれたビリー・モンガーは、そんなダイヤモンドの原石の1つだった。ビリーは、子どものころからカートレースに参戦して優秀な成績を収め、それからジュニアレースへとステップアップして活躍し、昨年2016年、とうとう念願だった「F4」のイギリス選手権に、ダービー州を本拠地とする「JHR デベロップメンツ」というレーシングチームからデビューできることになった。初めての参戦で、シーズン成績は12位に終わったけど、シーズン中、3回も表彰台に上ることができたビリーは、「来年こそは」と決意を新たにした。

未来の「F1」のシートを夢見る17歳のビリーは、2年目を迎えた昨年、2017年4月2日にブランズハッチで開催された開幕戦のラウンド2で、3位の表彰台に上ることができた。そして、2週間後の4月16日、ドニントンパークで開催された第2戦、これまで以上にアグレッシブなドライブで果敢に攻めるレースを展開したビリーに、最悪の結果が待っていた。直線で前を走るマシンのスリップストリームに入ったビリーは、インから前のマシンを抜くため、左にステアリングを切った瞬間、目の前にエンジントラブルか何かで急にスローダウンしたパトリック・パスマのマシンが現われ、フルスピードのまま突っ込んでしまったのだ。

あたしは、YOU TUBEで、この時のビリーのマシンの車載カメラの映像を観たんだけど、フルスピードで左にコース変更した瞬間、「あっ!」と思う前に突っ込んでいるような状態で、どうしようもない事故だった。ビリーのマシンはフロント部分が消滅するほどのダメージで、大破したマシンのコクピットからビリーが救出されたのは、90分も経ってからだった。ビリーはヘリコプターでサーキット近くのクイーンズ・メディカル・センターへ緊急搬送され、何とか一命だけは取りとめることができたけど、両足を膝から下で失うことになってしまった。

事故から3日後の4月19日、チーム代表のスティーブン・ハンター氏は、ビリーが昏睡状態から目を覚まし、意識も回復したと発表した。両足を切断したことを本人に告げると、それでもビリーは気丈に振る舞い、ステアリングホイールの裏に付いているクラッチを手で動かす仕草を見せたという。ハンター氏は「ビリーには、これから長く険しい道のりが待っているが、それは避けて通ることはできない。だが、彼は持ち前の性格で困難に打ち勝ってくれると、私は信じている」とコメントし、ビリーを支援するためのクラウドファンディングのリンクをチームのHPに公開した。

ビリーと同じイギリス出身のF1ドライバー、メルセデスのルイス・ハミルトンは、19日付の自身のツイッターで「たった今、この悲劇的なニュースを見た。僕の祈りが彼と彼の家族に届くように」とのメッセージを添えて、支援のためのクラウドファンディングのリンクを貼った。また、フォース・インディアのセルヒオ・ペレスも、自身のツイッターで「とても厳しい状況にある僕たちの仲間と彼の家族を助けよう」とツイートして支援を求めた。他にも、ジェンソン・バトン、マックス・フェルスタッペン、ニコ・ヒュンケルベルグなど、多くのF1ドライバーやレース関係者たちの支援の輪は瞬く間に広がって行き、目標金額が26万ポンド(約3600万円)に設定されたクラウドファンディングには、わずか数日で75万ポンド(約1億円)を超える金額が集まり、今も集まり続けている。そして、意識を回復してから6日後の4月25日のこと、ビリーは病院のベッドの上から、自身のフェイスブックに以下のコメントを発表した。


Billy Monger (Queen's Medical Centre)
25/4/2017
A huge Thank you to each and eveyone of you!
Your kind words have given me and my family the strength to get through this past week.
The love and generosity of our motorsport family, fans, and everyone that has supported me is awesome and truly inspirational.
The Marshals, Medics, Doctors, Air Ambulance and extraction crews at Donington along with all the staff at Queens Medical Centre- what can I say? Without you guys I wouldn't be here today! I will always thank you all for saving my life!
The one true hero of this tragic event has been my sister, Bonny who gave me the will to keep fighting! A value that I will continue to hold now...and for the rest of my life.

皆さん1人1人に、心から感謝しています!
皆さんの親切な言葉の数々は、僕と僕の家族に、今回の状況を乗り越えるための力を与えてくれました。
僕を家族のように思ってくれたモータースポーツ界の皆さん、ファンの皆さん、そして、僕をサポートしてくれた皆さん、あなた方の素晴らしい愛と寛大さに僕はとても驚き、本当に感動しました。
クイーンズ・メディカル・センターのスタッフの皆さん、マーシャル、ドクター、航空救急車、ドニントンパークのクルーの皆さん、僕はなんとお礼を言ったらいいか分かりません。皆さんがいなければ、今日、僕はここにいません!僕の命を救ってくれた皆さんへの感謝は、絶対に忘れません!
そして、この非劇的な出来事の本物のヒロインは、僕の妹のボニーです!彼女は僕に戦い続ける勇気を与えてくれました!その価値は今も持ち続けていますし、今後も持ち続けて行きます‥‥これからの僕の人生のために。
ビリー・モンガー(クイーンズ・メディカル・センターにて)


このメッセージを発表してから10日後の5月5日、ビリーは病院のベッドの上で、18歳の誕生日を迎えた。今回の出来事を知った時、あたしは、すぐに元F1ドライバーのアレックス・ザナルディのことを思い出した。イタリア人なので、正しくは「アレッサンドロ・ザナルディ」と言うそうだけど、あたしが夢中になってF1をテレビ観戦していた時代、まだ日曜日のゴールデンタイムに地上波でF1を中継をしていた時代には、ほとんどが英語読みの表記だったので、あんまり活躍できなかったドライバーだけど、あたしは「アレックス・ザナルディ」と記憶していた。

ザナルディは、1991年にジョーダンからF1デビューしたんだけど、ほとんど活躍できず、翌年にはミナルディに移籍し、さらに翌年にはロータスに移籍し、一度も表彰台に上ることなく、1994年にF1を引退した。そして、アメリカのCARTシリーズに転向したところ、こちらでは実力を発揮することができて、1997年と1998年に2年連続でチャンピオンになった。ちなみに「CART」と言うのは、ゴーカートのことじゃなくて、かつてアメリカで行なわれていた独自のフォーミュラーマシンによるレースで、「Championship Auto Racing Teams」の頭文字を取って「CART」と呼ばれていた。最高時速は300キロ以上で、現在のインディカーのようにオーバルコース(楕円形のコース)をグルグル回るだけのレースもあったので、複雑なコーナーやシケインなどでスピードを抑えているF1よりも危険な一面もあった。

ザナルディは、このCARTシリーズでの活躍が評価され、翌1999年には、ウィリアムズからF1にカムバックすることになる。でも、ウィリアムズでは、ミハエル・シューマッハの弟のラルフ・シューマッハとともにレギュラードライバーをつとめたんだけど、やっぱりF1は水が合わなかったのか、一度も表彰台に上れないまま、この1年だけでF1の舞台から去ることになる。

1年後の2001年、ザナルディは、またCARTシリーズに参戦したんだけど、今度はなかなか勝てずにいた。そして、9月に行なわれたドイツのラウジッツリンクでの第16戦、久しぶりにトップを好走していたザナルディは、このまま走り切れば優勝という残り16周のピットインで、気持が焦ってしまったのか、ピットの出口でスピンしてしまい、そのままコースに飛び出してしまった。そして、真横を向いてしまったザナルディのマシンに、時速320キロのフルスピードで走ってきたアレックス・タグリアーニのマシンが突っ込んでしまった。2台のマシンは大破し、ザナルディは一命を取りとめたものの、両足を膝の上から失うことになってしまった。ザナルディ、35歳の時だった。

普通なら、ここでレースは引退するよね。でも、ザナルディは違った。事故から1年8カ月後、ザナルディは事故のあったドイツのラウジッツリンクに、アクセルやブレーキを手で操作できる特別仕様のマシンを持ち込み、事故で走れなかった「残り16周」を走り切ったのだ。そして、翌2002年にはレースに復帰し、2005年からは世界ツーリング選手権にBMWから参戦し、8月の第14戦では優勝を果たした。しかし、ザナルディは、レースと並行して取り組んでいたハンドサイクル(足の代わりに手でペダルを回して進む自転車)で、2012年のロンドン・パラリンピック出場を目指して、2009年に世界ツーリング選手権から引退した。

たゆまぬ努力を続けてきたザナルディは、2009年にはパラサイクル世界選手権のハンドサイクルのタイムトライアル部門で優勝し、2010年にはローママラソンのハンドサイクル部門で優勝し、ついに2012年のロンドン・パラリンピックのイタリア代表選手に選ばれる。そして、ハンドサイクルのタイムトライアル部門とロードレース部門で金メダルを獲得し、ハンドサイクルのチームリレー部門では銀メダルを獲得したのだ。奇しくも、このレースが行なわれたイギリスのブランズハッチ・サーキットは、かつてザナルディがカーレースで走ったことのあるサーキットであり、そして、今回、両足を失ってしまったビリー・モンガーが、事故の前の第1戦で表彰台に上ったサーキットなのだ。

ロンドン・パラリンピックでの金メダル獲得から4年後の2016年、すでに49歳になっていたザナルディは、またイタリア代表としてリオデジャネイロ・パラリンピックに出場し、ハンドサイクルのタイムトライアルで、人生で3つめの金メダルを獲得した。

なんという情熱だろう。なんという精神力だろう。35歳の時、残り16周で大クラッシュして両足を失ったというのに、2年も経たないうちにそのサーキットに戻ってきて、特別仕様のマシンでその16周を走り切ったザナルディは、この16周を残したままにしておいたら、自分は次のステップへ上れないと思ったのかもしれない。F1では一度も表彰台に上ることができなかったけど、ザナルディは両足を失ってから、義足をつけてF1マシンに乗り、義足でアクセルやブレーキを操作してサーキットを走行したこともあるのだ。

17歳という若さで両足を失ってしまったビリー・モンガーには、こんなにも素晴らしい先輩がいるのだから、今度はビリーの生き様が後輩たちを勇気づけられるように、これからの人生を最高のものにしてほしいと願ってやまない。人生は、一度きりなのだから。


‥‥そんなワケで、実は、ここまでの原稿は、今から1年前、ビリーが事故で両足を失ったことが報じられた時に書いたものだ。だけど、そのままだと記述に問題があるので、原稿の「今年」を「昨年」に修正したりして、今、読んでも問題ないようにした。そして、どうしてこの原稿を公開したのかと言うと、先日、とっても嬉しいニュースが飛び込んで来たからだ。それは、モータースポーツの専門ニュースサイトに4月1日付で配信されたもので、以下の内容だった。


「昨年、F4のレース中に大事故に見舞われ、両足切断の重傷を負ったビリー・モンガー(カーリン)が、オールトン・パークで行われているBRDC F3選手権の開幕戦レース1に出走し、見事に3位表彰台を獲得した。」


あたしは、嬉しくて涙が止まらなくなった。今年2月、モンガーがレース復帰に向けてカーリンのF3マシンで走行テストを行なったというニュースは知っていたから、順調に行けば開幕戦から復帰できるかもしれないと思っていたけど、まさか初戦で表彰台だなんて、ホントに、ホントに、あたしは感動した。そして、ビリーを支えて来た多くのモータースポーツ関係者に、心から感謝した今日この頃なのだ。


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