母の日
今度の日曜日、5月13日は、あたしにとって一年で一番大切な日、「母の日」だ。小学6年生の時に母子家庭になり、それ以来、母ひとり娘ひとりの生活を続けてきたあたしにとって、母さんはたったひとりの家族であり、世界で一番大切な人だ。あたしは母さんのことを世界で一番愛しているし、世界で一番尊敬している。だから、一年で一番大切な日は、ホントは母さんのお誕生日なんだけど、あたしの母さんのお誕生日は4月なので、1カ月後には「母の日」がやってくる。そのため、ここ十数年は、母さんのお誕生日と「母の日」とを同じようにお祝いするんじゃなくて、その年によってどちらかの比重を大きくして、できるだけ母さんが喜ぶ内容のお祝いをするように心がけてきた。
たとえば、4月のお誕生日は、いつもよりちょっと豪華な晩ごはんを作り、毎年恒例の手作りのカードとお花をプレゼントするくらいで終わりにする。そして、そのぶん、1カ月後の「母の日」には奮発して、母さんの行きたがっていた温泉に一泊旅行に行く。逆に、4月のお誕生日に、母さんの欲しがっていた、わりと高価なお洋服やバッグなどをプレゼントした時には、1カ月後の「母の日」には、そのお洋服やバッグを身につけてもらって一緒にお出かけするけど、あまりお金のかからない美術館とかにする。こんな感じの今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、あたしが小学6年生の時、母さんと父さんが離婚して、そのすぐあとに寝たきりだったおばあちゃん(母の母)が亡くなり、この時から、あたしの家族は母さんだけになり、母ひとり娘ひとりの生活が始まった。これは、離婚から何年も経って、あたしが大きくなってから知らされたことだけど、父さんには以前から愛人がいて、その愛人との間には子どもがいて、その子どもが小学校に入学する年になったため、愛人から「片親じゃかわいそうだ」と言われ、父さんは母さんと離婚して、その愛人と籍を入れたそうだ。
こんな形での離婚だったため、ホントなら母さんはそれなりの慰謝料を請求できただろうし、あたしの養育費だって請求できたと思う。だけど、まだ若かった母さんは、何よりも自分の愛する父さんに何年も前から愛人がいたこと、その愛人との間に大きな子どもがいたこと、そして、父さんがその愛人のほうを選んだことがショックで、意地になってしまった。母さんはとってもプライドの高い女性だから、自分を裏切った父さんからは1円も受け取りたくないと、父さん側の代理人が提示した金額を突き返し、これからあたしと二人で暮して行くアパートの礼金と敷金、そして、引っ越し費用だけしか請求しなかった。
だから、母さんは、小さなアパートでのあたしとの二人暮らしが始まった時には、すでに昼間のパートを見つけて働き始めていたし、しばらくすると、早朝のビル掃除や日曜日のパートなども掛け持ちで始めて、一日も休みなく朝から晩まで働くようになった。母さんは、どんなに疲れていても、いつも笑顔で、あたしの学校のことをいろいろと聞いてくれたし、自分の仕事場で起こった出来事を面白おかしく話してくれた。だけど、母さんが疲れ切っていることはひと目見ただけで分かったので、あたしは、少しでも母さんの負担を減らそうと、毎日の食事の支度やお洗濯、お掃除など、家事をすべて一人でやるようになった。
でも、それだけじゃ母さんを助けることにはならなかった。日増しに疲れが溜まっていく母さん、食後に横になったまま着替えもせずに寝てしまう母さんを見ていると、あたしは不安になった。あたしの大切な母さんが、あたしのために、こんなにクタクタになるまで働き続けているなんて、もしも病気になってしまったらどうしよう。世界でたった一人の母さんに、何かあったらどうしよう。あたしの不安は、どんどん大きくなっていった。そして、母さんの帰りがいつもより30分ほど遅くなっただけでも、あたしは母さんに何かあったんじゃないかと思い、心配で心配で宿題も手につかないようになり、あたしが何とかしなくちゃって気持ちが、どんどん大きくなっていった。
あたしは、放課後に自転車で走り回り、中学1年生でもできるアルバイトを探し始めた。そして、新聞配達なら中学生でもできることを知り、近所の新聞屋さんを片っ端から回ったら、アパートから歩いて10分ほどの場所にあった毎日新聞で、朝刊だけの配達のアルバイトをさせてもらえることになった。だけど、新聞配達のアルバイトをするためには、学校の許可と保護者の承諾書が必要なので、あたしは、まず、学校の担任の先生に相談した。そしたら、先生は、あたしが母さんと二人きりの母子家庭だということを知っていたので、親身になって相談に乗ってくださった。
あたしが「母さんを助けたいんです!」と言ったら、先生は「新聞配達は、新聞の休刊日以外は、雨の日も雪の日も休めないが、それでも大丈夫か?」と念を押した後、すぐに学校の許可を取ってくださった。あたしの中学では、生徒全員が何かの部活に入る規則になっていて、あたしは軟式テニス部に入部したばかりだったけど、新聞配達を始めると朝練に出られなくなるから、軟式テニス部は続けられなくなる。でも、先生は、部活を辞めることも許可してくださった。
‥‥そんなワケで、その日の夜、晩ごはんの支度をしながら母さんの帰りを待っていたあたしは、どんなふうに切り出そうか考えていた。あたしとしては、とにかく母さんに日曜日のパートをやめてもらい、週に一日だけでもお休みの日を作ってもらいたいと思っていた。だけど、母さんはプライドが高いから、中学1年生の娘に新聞配達をさせて自分がパートを減らすことを受け入れてくれるかどうか、あたしは心配だったし、それ以前に、あたしの生まれて初めてのアルバイトを認めてくれるかどうかも分からなかった。
結局、何のアイデアも浮かばないまま、あたしが卓袱台にお茶碗を運んでいると、時間通りに母さんが帰ってきた。あたしの作った晩ごはんを一緒に食べながら、母さんはいつものように笑顔で、その日にあった仕事場での話を面白おかしく話してくれたんだけど、あたしの頭の中は新聞配達のことをどんなふうに切り出そうかで一杯で、それが顔に出ちゃったみたいだ。母さんは、いつもと様子の違うあたしにすぐ気づき、「学校で何かあったの?」って聞いてくれた。あたしは、覚悟を決めて、お箸を置き、お座布団の上にきちんと座り直して、母さんに素直な気持ちを打ち明けた。
「母さん、あたし、新聞配達のアルバイトをやりたいの。学校の先生も許可してくれたし、すぐそこの毎日新聞、あそこでアルバイトさせてくれるって言われたの」
「え?新聞配達?きみこ、何か欲しいものでもあるの?それなら母さんに言いなさい。何でも買ってあげるから」
「違うの。あたしは欲しいものなんかない。あたしは、母さんが一日も休まずに働いてることがとっても心配なの。それでね、せめて日曜日だけでもお仕事しないで体を休めてほしくて‥‥」
「‥‥‥‥」
母さんは、手に持ったお茶碗に視線を落として、何も言わなくなってしまった。あたしは、母さんを怒らせてしまったと思い、必死に言い訳を始めた。
「母さん、ごめんね!でも、でも、あたしは母さんのことがホントに心配なの!新聞配達は朝が早いけど、慣れれば2時間くらいで終わるって言われたし、学校の許可ももらったし‥‥」
「‥‥‥‥」
下を向いたまま何も言わない母さんは、静かにお茶碗を置くと、くるりと後ろを向き、棚の上のティッシュを取り、それを目に当てた。あたしは、母さんが泣いていることにようやく気づいた。ティッシュで涙を拭いた母さんは、また笑顔になり、あたしの目を見てこう言った。
「きみこ、ありがとうね。そうだよね、一日も休まずに働いてたら誰だって心配するよね。今まで心配かけてごめんね‥‥」
「母さん‥‥」
「新聞配達、大変だったら無理して続けなくていいからね」
「えっ?じゃあ、やってもいいの?」
「うん、いいよ。その代わり、学校の成績が下がったらやめてもらうからね」
そう言って母さんはニコッと笑ってくれた。あたしは、ホッとしたのと嬉しいのとでヘナヘナと腰が抜けたみたいになったけど、安心したら急にお腹が空いてきたので、すぐに気を取り直して、目の前のごはんをモリモリと食べた。
‥‥そんなワケで、あたしの新聞配達は、中学1年の夏休みから始まった。新聞配達は、新聞を配達するだけかと思っていたら、その前に、新聞の1部1部にチラシを入れる「紙入れ」という作業があって、慣れないうちはこれが大変だった。特に土曜日と日曜日はチラシの数が倍増するので、モタモタしていたら、この「紙入れ」だけで1時間くらい掛かってしまう。そして、新聞配達用の大きな自転車に乗るのも大変だった。前の大きなカゴに、右、左、右、左と東京タワーのように新聞を刺して行くので、最初はハンドルが重くて真っ直ぐ走るのも大変だった。
でも、配達自体は楽しかった。新聞配達のルートは、最初はここ、次はこことここ、その次はここ‥‥というように、独特の矢印やマークの描かれたメモの束を見ながら進んで行くんだけど、最初の何日かはベテランのおじさんが案内してくれて、「次の家にはすぐに吠える犬がいるぞ」とか「次の家のおじさんは朝早くから庭に出て新聞を待ってるから、郵便受けに入れずに、元気に挨拶して手渡しするように」とか、いろんなことを教えてくれた。
最初は100部配達するのに2時間半も掛かって大変だったけど、2週間もするとメモを見なくても回れるようになり、夏休みが終わるころには雨の日でも1時間半で回れるようになり、あたしの担当は100部から150部、そして200部になった。よく吠える犬はあたしになついて吠えなくなり、朝早くからお庭に出て新聞を待っているおじさんは、あたしが元気よく挨拶をして新聞を手渡すと、何日かに一度、「ご苦労さん」と言ってヤクルトをくれるようになった。
夏休みも終わる8月25日、最初のお給料をいただいた。あたしは、糊付けされた封筒を開けずに、そのまま母さんに渡した。母さんは「ご苦労さまでした。よくがんばったね」と言って封筒を受け取り、二人でワクワクしながら開けてみた。そしたら、1万円札が3枚と千円札が数枚入っていて、あたしは、こんな大金を見たことがなかったから、これを自分で稼いだのかと思ったら、ちょっと怖くなった。でも、母さんは日曜日のパートをやめてくれて、日曜日はあたしが朝刊の配達から帰ってくると朝ごはんを作って待っていてくれるようになったので、あたしは「もっとがんばろう!」と思うことができた。
結局、あたしは、中学を卒業するまで、ずっと新聞配達を続けた。2年生からは夏休みと冬休みには朝刊だけでなく夕刊も配達するようになったし、配達件数も250部になっていた。お給料は、すべて封を切らずに母さんに渡してきたので、あたしは、てっきり、母さんが日曜日のパートをやめたぶんとして、生活費に使ってくれているんだと思っていた。そして、あたしが母さんのホントの愛情に気づくのは、それから3年後、高校を卒業する時だった。
‥‥そんなワケで、どうしてもプロのヘアメイクになりたかったあたしは、高校を卒業したらヘアメイクの専門学校に進もうと思って、高校時代もいろんなアルバイトをやって、8割くらいは母さんに渡していたけど、残りの2割を貯金していた。だけど、プロの養成コースは思っていたよりもお金が掛かるため、あたしの貯金では足りなかった。それで、高校3年の冬休み、母さんと晩ごはんを食べながら進路のことを話している中で、特に深い意味もなく、「ヘアメイクのプロ養成コースはお金が足りないから、取りあえず就職して一年間働いて、お金ができたら専門学校に行こうと思う」ということを話した。そしたら、母さんは、スッと立ち上がり、タンスの一番上の引き出しから何かを取り出して、「これで足りるかな?」と言って、あたしに一冊の預金通帳を手渡してくれた。その預金通帳はあたしの名義になっていて、中を開くと、そこには100万円を超える大金が!
「これ、きみこが中学の時に新聞配達でいただいたお給料だよ。こんなにたくさん、ホントによくがんばったね」
最初のページから見てみると、8月の末に3万3000円、9月の末に3万2000円、10月の末に3万4000円‥‥。母さんは、あたしが封を切らずに渡していたお給料を一切使わずに、あたしの名義の銀行口座を作って全額を貯めていてくれたのだ。その瞬間、あたしの脳裏には、土砂降りの雨の日に自転車でコケて新聞を濡らしてしまった日のことや、風邪をひいて熱があるのに必死に配達した日のことなど、大変だった時のことが次々と浮かんできて、気がついたらポロポロと涙がこぼれていた。「母さん、ありがとう‥‥」、あたしは、母さんの愛情で胸が一杯になり、これしか言えなかった。
‥‥そんなワケで、今、あたしは、母さんと一緒に暮しているので、毎日が「母の日」みたいなものだ。朝、母さんの顔を見て「おはよう」と言い、一緒に朝ごはんを食べて、夜も一緒に晩ごはんを食べて、時にはPCで二人の大好きな映画『男はつらいよ』を観て、一緒に笑って一緒に泣いて、お風呂上りには日課のマッサージをしてあげて、母さんの顔を見て「おやすみ」と言う。何でもない日々だけど、あたしのお仕事の都合で長いこと別々に暮していた時期があったので、今、こうして一緒にいられるだけで、あたしは最高に幸せだ。だけど、やっぱり、一年に一度くらいは、世界で一番愛している母さんに、世界で一番尊敬している母さんに、心から感謝の気持ちを伝えたい。それが、あたしにとって一年で一番大切な日、5月の第3日曜日の「母の日」なのだ。そして、今年は、4月の母さんのお誕生日を少し質素にしたので、「母の日」には、母さんの行きたがっていた温泉に2泊で行ってくる今日この頃なのだ♪
| 固定リンク