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2018.06.28

世話焼き長屋

日本の時代小説ってすごく面白いものが多いけど、上中下の全3巻なんて当たり前で、全10巻なんていう大作もあるから、なかなか読み始めることができない。一度、読み始めたら、一定のペースで最後まで読み続けないと、それまでの流れや登場人物が分からなくなってくるからだ。だけど、各話が読み切りになっている短編集なら、1話が30分ほどで読めるから、気軽に手に取ることができる。ちょっと長めの落語を1席聴くくらいの感覚なので、通勤電車の中やお風呂の中、ちょっとした空き時間などに読むのにも向いている。

 

そんな時代小説の短編集だけど、あたしは、新潮文庫の「人情時代小説傑作選」、『親不孝長屋』『世話焼き長屋』『がんこ長屋』を愛読している。これは、文芸評論家でアンソロジストの縄田一男氏によるアンソロジーで、たとえば『世話焼き長屋』なら、池波正太郎の「お千代」、宇江佐真理の「浮かれ節」、乙川優三郎の「小田原鰹」、北原亜以子の「証」、村上元三の「骨折り和助」という短編5作品が収められている。もちろん、数々の短編の中から選び抜かれた秀作ばかりだから、面白いだけでなく、どの作品も胸がジーンとしたりウルウルしたり、ちゃんと感動させてくれる。

 

1人の作者による短編集も面白いけど、こうして複数の作者の短編を1つのテーマに沿って集めたアンソロジーは、それぞれの作者のカラーが出ているので、また違った面白さがある。お弁当で言えば、いろいろなおかずが楽しめる「幕の内弁当」みたいな感じなのだ。だから、一度、読んでも、1年くらいしたらまた楽しめるし、もう1年くらいしたら、またまた楽しめる。あたしは、特に『世話焼き長屋』が好きなので、もう5~6回くらいは読み返しているけど、先日、また久しぶりに読んでみようと思い、本棚から取り出した。そしたら、今までぜんぜん気にしていなかったタイトルの「世話焼き」という言葉に目が止まってしまった今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?

 

 

‥‥そんなワケで、「世話をする」とか「世話が掛かる」という表現は普通だけど、この「世話を焼く」という表現って、一体どういう流れから生まれたんだろう?ニュアンスで言うと、「世話をする」は相手にとって本当に必要な世話をしているように感じるけど、「世話を焼く」になると「よけいなお世話」とか「大きなお世話」というフレーバーが薄っすらと漂い始める。でも、その「よけいなお世話」は、決して鬱陶しいようなものではなく、人情味あふれた温かい感じもする。「世話を焼く」って、すごく不思議な感覚を持つ表現だと思う。

 

この「世話」という言葉って、そもそもは、世間の人たちが話している「話し言葉」のことだった。手紙や文書などの「書き言葉」は文語体でキチンとしているけど、町の人たちの日常会話などの「話し言葉」は口語体でくだけている。そうした「話し言葉」のことを「世話」と呼んでいたのだ。そして、それが転じて「世俗的なもの」「日常的なもの」を指すようになった。たとえば、歌舞伎や狂言や浄瑠璃などでは、中世以前の歴史的な内容を扱った演目を「時代物」、江戸時代の諸大名の藩中で起きた事件を扱った演目を「お家(いえ)物」、江戸時代の庶民の生活の中で起きた事件を扱った演目を「世話物」と呼んで大別している。

 

この「世話物」の「世話」は、「世話を焼く」の「世話」じゃなくて、「世俗的なもの」という意味なので、『世話焼き長屋』に収められている人情話のような作品に限定されているワケじゃない。一例を挙げると、元禄16年(1703年)に大坂(現在の大阪)で実際に起きた心中事件を元にして書かれた近松門左衛門の『曾根崎心中』なども、この「世話物」に分類されている。ちなみに、角田光代が現代文で書きあげた『曾根崎心中』(リトル・モア)はとても素晴らしくて、現代小説の感覚で読めるので、あたしのオススメの一冊だ。

 

『曾根崎心中』の場合は、醤油屋の男と遊女という庶民同士の心中なので、「世話物」に分類されているのは分かりやすい。だけど、武士が登場しても「世話物」に分類されている作品も多い。たとえば、元文2年(1737年)に、これまた曾根崎の遊女に騙されて公金を使い込んだ薩摩藩の武士が、遊女ら5人を殺害した事件を元にして書かれた並木五瓶の『五大力恋緘(ごだいりき こいのふうじめ)』なども、薩摩藩の藩中での「お家騒動」ではなく、武士と遊女との物語なので「世話物」に分類されている。

 

 

‥‥そんなワケで、こうした「世話物」は、実際に起きた事件を元にして書かれているけど、江戸時代後期の人たちから見ても100年以上も前の事件が元なので、当時でも、あまりリアリティーはなかったと思う。それに、こうした作品は、長いこと演目として上演され続けているうちに演出なども変化してきて、ストーリーに尾ひれが付いたりして、フィクションとしての色合いが強くなってくるからだ。一方で、当時の人たちにとって「最近、起きたばかりの事件」を元にした作品や「今、流行していること」などを盛り込んだ作品を「生世話(きぜわ)物」と呼び、「世話物」の中でもリアリティーの高いものとしていた。

 

「生世話物」と言えば、たとえば、通称『鼠小僧』と呼ばれている『鼠小紋東君新形(ねずみこもん はるのしんがた)』だ。鼠小僧が本当に義賊だったかどうかは諸説あるけど、大名屋敷を専門に荒らした次郎吉という泥棒は実在したし、江戸時代後期の1800年代の前半に、実際に江戸の瓦版を賑わせていた。寛政9年(1797年)に生まれた次郎吉は、25歳になった文政6年(1823年)から大名屋敷を専門にした泥棒になり、文政8年(1825年)までの2年間だけで、28カ所の大名屋敷に計32回も忍び込み、とうとう捕まってしまう。だけど、南町奉行所の取り調べに対して「初めて盗みに入った」と嘘をつき、入れ墨を入れられて江戸を追放になっただけで済んだのだ。

 

だけど、次郎吉は、ほとぼりが冷めたころにコッソリと江戸に戻り、天保3年(1832年)に捕まるまでの7年間に、71カ所、計90回も大名屋敷に忍び込んだのだ。北町奉行の取り調べに対して、次郎吉は、10年間に荒らした大名屋敷が95カ所、盗んだ金が3000両と答えているけど、捕まった時の次郎吉は一文無しだったと言われている。結局、次郎吉は、天保3年8月19日(1832年9月13日)、市中引き回しの上、獄門になってしまった。ちなみに、あたしの大好きなマリー・アントワネットがギロチンに掛けられたのは1793年10月16日なので、日本の鼠小僧より40年も前に処刑されている。

 

二代目河竹新七(黙阿弥)が書いた『鼠小紋東君新形』が江戸で初めて上演されたのは、鼠小僧の処刑からわずか25年後の安政4年(1857年)だ。だから、当時、この歌舞伎を観に行った人たちの中には、実際の鼠小僧が瓦版を賑わせていたことを良く覚えている人も多かっただろうし、中には、鼠小僧の市中引き回しを実際に見た人もいただろう。当時の人たちにとって、同じ「世話物」でも、100年以上も前、自分が生まれるずっと前に起きた事件を元にした『曾根崎心中』や『五大力恋緘』などと比べると、元の事件を知っている『鼠小紋東君新形』は、まさに「生きた世話物」、「生世話物」だったのだ。

 

 

‥‥そんなワケで、「生世話物」というと、もっと面白いパターンもある。たとえば、鶴屋南北が書いた『東海道四谷怪談』だ。『四谷怪談』は元禄時代に起きた事件を元にした作品なので、『曾根崎心中』と同じく1700年代初頭のことで、このままだと普通の「世話物」ということになる。でも、100年以上が過ぎてから、この『四谷怪談』を元にして、鶴屋南北が当時の出来事をアレンジしたのが『東海道四谷怪談』なのだ。

 

『東海道四谷怪談』では、毒殺したお岩と惨殺した小仏小平の遺体を戸板の表と裏に張りつけて神田川に流すんだけど、第3幕では、砂村隠亡堀で釣りをしていたお岩の夫、伊右衛門のところに、その戸板が流れ着く。そこには毒殺された妻・お岩の遺体が貼り付けられていて、怨みの言葉を言う。恐ろしくなって戸板を裏返すと、今度は小仏小平の遺体が貼り付けられていて、またまた怨みの言葉。川面に浮かんだ戸板の端を竿でトンと叩いて裏返すとお岩の遺体が怨みの言葉を言い、また裏返すと小平の遺体が怨みの言葉を言う。お岩、小平、お岩、小平と繰り返される怨みの言葉、これこそが『東海道四谷怪談』のクライマックスの「戸板返し」という見せ場だ。

 

だけど、これは、原作の『四谷怪談』にはないシーンだ。鶴屋南北が、当時、実際に起こった2つの事件、「不倫をした男女が戸板の表と裏に釘で張りつけにされて神田川に流された」という事件と、「砂村隠亡堀に心中した男女の遺体が流れ着いた」という別の事件を、1つに合わせて脚色して盛り込んだものなのだ。砂村隠亡堀は、現在の江東区にある横十間川にあったので、本当に神田川に流した戸板が流れ着くには、まずは神田川から隅田川へ入って東京湾まで出て、それが上げ潮に乗って隅田川を上ってきて、今度は小名木川に入り、そこから横十間川に入らないと辿り着かないので、現実的には不可能に近い。

 

当時の人たちにとっても、100年以上も前に起きた『四谷怪談』は古めかしい作品だったはずだ。でも、こうして、当時の「つい最近」に起きた2つの不倫と心中のニュースを盛り込み、それを脚色し、そのシーンを最大の見せ場にしたことで、この鶴屋南北の『東海道四谷怪談』は、文政8年(1825年)に江戸で初めて上演された時から、大ヒットした伝えられている。そして、元の作品は100年以上も前の『四谷怪談』なのに、当時の「つい最近」に起きた事件が盛り込まれていることから、「世話物」の中でも「生世話物」に分類されているのだ。

 

さて、話を元に戻すと、そもそもが「話し言葉」のことで、それが転じて「世俗的なもの」「日常的なもの」を指すようになった「世話」という言葉だけど、江戸時代の中期には「面倒なこと」「やっかいなこと」を指すようになり、そこから「世話を焼く」という言い回しが生まれたと言われている。つまり、現在使われている「世話をする」よりも、もう少しマイナスのイメージが強い言葉だったわけだ。そして、これが現在のように「面倒なこと」や「やっかいなこと」以外にも使われるようになったのが、「せわしい」という言葉との誤用だと言われている。

 

江戸時代までは、漢字は当て字で書くことも多かったため、同じ言葉でも複数の漢字表記があった。そんな中で、病人の看病などをすることを「忙(せわ)しい」と言っていて、これを略して「せわ」とも言っていた。たとえば、当時、「あなたの病気のせわをします」と言えば、これは「世話」じゃなくて「せわしい」の略語だった。だけど、これを文章にする場合、「忙」だと分かりにくいので「世話」という漢字を当て字として使うことがあった。そして、こうした当て字が原因となり、「面倒なこと」「やっかいなこと」だけでなく、病人や赤ちゃんを看ることなどにも「世話」という言葉が使われるようになったのだ。

 

 

‥‥そんなワケで、この「世話をする」「世話を焼く」という言葉は、もともとは「面倒なこと」「やっかいなこと」に限定して使われ始めたものが、向こう三軒両隣の人たちの世話まで焼いてしまう長屋の人たちの人情によって、誤用も手伝い、「困っている人を助ける」という良い意味で使われるようになったというワケだ。一方、もともとは「他人の心をおしはかって相手に配慮する」という日本人ならではの気配りを意味する「忖度(そんたく)」という言葉は、庶民とは完全に感覚が乖離した安倍晋三という1人の人物によって、今では悪い意味でばかり使われるようになってしまった。そして、安倍晋三による数々の疑惑の尻拭いをするために、各省庁がてんやわんやの大騒ぎ。今では庶民だけでなくエリート官僚までもが「まったく世話が焼ける首相だぜ」と思っている今日この頃なのだ(笑)

 

 

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2018.06.24

世界一黒い鳥と世界一黒い魚

あたしたち人類に代表される哺乳類から、鳥類、魚類、爬虫類、両生類、昆虫、植物など、地球上には約175万種もの生物がいるけど、あくまでもこれは「人類が発見して名前を付けた生物」の数であって、まだ人類に発見されていない地球上の生物は、少なくとも500万種、多ければ3000万種もいると推測されている。つまり、地球上には、あたしたち人類が把握している生物の数よりも、まだ発見していない生物のほうが遥かに多いということになる。

もちろん、ゾウやキリンみたいに大きな哺乳類なら、とうの昔に発見されているだろうから、まだ発見されていない生物の大半は、小さな昆虫や植物だったりする。そして、それも、すでに発見されて名前が付けられている生物の亜種だったりする。以前、カツオクジラに関するエントリーの中で、かつてはカツオクジラとイワシクジラとニタリクジラがゴッチャにされていた‥‥と書いたけど、そんなふうに、長年、同じ生物だと思われていたものが、後から別の種類だったと判明するなんてこともある。

だから、今も年間に約2万種もの新しい生物が発見され続けているのに、普通の新聞やテレビなどで報じられることはほとんどない。もしも、ゾウのように大きな新種の哺乳類が発見されたら、それこそ世界的な大ニュースになるだろうけど、誰もが見たことのあるダンゴムシの足の数が2本だけ多い新種が発見されたとしても、専門の研究者以外の一般の人たちにはニュースバリューがないからだ。

一方、主に人類による環境破壊や乱獲が原因で地球上から姿を消していく生物は、年間に4万種以上もいる。毎年、約2万種もの新しい生物が発見され続けているのに、その倍の数の生物が絶滅し続けているのだ。ちなみに、約2億年前の恐竜の時代には、絶滅した生物は1000年間にわずか1種だったと言われている。そして、今から300年前の江戸時代でも、絶滅した生物は4年に1種、今から100年前でも1年に1種だったと言われている。絶滅する生物の数が急激に増加したのは1970年代からで、100年前には1年で1種だったものが、約40年前の1975年には1年に1000種と急増してしまった。そして、現在では、1年に4万種以上もの生物が絶滅し続けている今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、マクラの頭に、地球上にはまだ人類に発見されていない生物が500万~3000万種もいるって書いたけど、1年に4万種以上もの生物が絶滅し続けているということから考えると、人類に発見される前に絶滅してしまった生物だってたくさんいたハズだ。人類に発見されて、名前を付けられて、それから絶滅するのも、人類に発見される前に人知れず絶滅していくのも、その生物にとっては同じような話だろうけど、新種の生物を発見した人たちの多くが専門の研究者であり、そういう研究者たちに発見されれば希少種を保護するためにそのエリアの保全などが進められるケースもあるから、あたしとしては、どうせなら1種でも多くの新種が発見されて、少しでも人類による環境破壊にブレーキが掛かればと思っている。

で、そんな新種だけど、今回、昆虫や植物ではなく、鳥類の新種が発見されたのだ。それも、極楽鳥だ。極楽鳥は、熱帯のジャングルとかにいるカラフルな鳥で、日本ではフウチョウ(風鳥)と呼ばれている。フウチョウは、これまでに43種が発見されていて、ほとんどがカラフルな色彩の派手な鳥だけど、唯一、真っ黒なフウチョウがいる。羽を閉じて木の枝にとまっているところを横や後ろから見ると、カラスよりも真っ黒で「世界一黒い鳥」と呼ばれているカタカケフウチョウだ。

だけど、このカタカケフウチョウのオスが、メスの気を引くために首の周りに飾り羽を楕円形に広げると、胸の美しいコバルトブルーの模様が横に広がって、その上に目のような2つの点が現われるため、笑った顔のマークのようになる。そして、面白い求愛ダンスをしながらメスの周りをピョンピョンと走りまわるのだ。カラフルで派手な他のフウチョウたちと違って、このカタカケフウチョウがカラスよりも真っ黒なのは、この求愛ダンスでコバルトブルーの飾り羽をメスに見せる時に、そのコントラストで、よりコバルトブルーの美しさを際立たせるため、真っ黒になったと言われている。

つまり、このカタカケフウチョウは、43種のフウチョウの中で、唯一、地味な色彩と珍しい習性を備えた珍種ということになる。それが、今回、鳥類学者のエドウィン・スコールズ氏と写真家のティム・レイマン氏によって、別のカタカケフウチョウである「フォーゲルコップカタカケフウチョウ」が発見されたのだ。そして、新種の「フォーゲルコップカタカケフウチョウ」が発見されたことによって、これまでのカタカケフウチョウは「オオカタカケフウチョウ」という名前に変更された。これまでは1種だけだと思われていたので、その鳥が「カタカケフウチョウ」と呼ばれていたんだけど、もう1種が発見されたため、それまでの「カタカケフウチョウ」という呼び名は、この2種の代表名になったというワケだ。


‥‥そんなワケで、それまでのオオカタカケフウチョウと新たに発見されたフォーゲルコップカタカケフウチョウは、カツオクジラとイワシクジラのように、見た目はほとんど同じなので、最初は同じ種だと思われていた。だけど、研究のために捕獲したカタカケフウチョウの中に遺伝子の違う個体があったことから、そのカタカケフウチョウを捕獲したエリアの野外観察を続けて、新種であることが確認されたという。ちなみに、「フォーゲルコップ」というのは、「鳥の頭」を意味するドイツ語の「フォーゲルコプフ」に由来している。この鳥が発見されたインドネシアのニューギニア島のドベライ半島が、地図で見ると鳥の頭のような形をしていて、かつてはドイツの植民地だったことから命名されたという。

フォーゲルコップカタカケフウチョウのオスも、オオカタカケフウチョウと同じく真っ黒で、飾り羽を広げると美しいコバルトブルーの模様が現われる。そして、同じく求愛ダンスをするんだけど、オオカタカケフウチョウがメスの周りをピョンピョンと走りまわるのに対して、新種のフォーゲルコップカタカケフウチョウのほうは、左右に半円を描くように走り回る。鳴声も、オオカタカケフウチョウがギャーギャーというやかましい鳴声なのに対して、フォーゲルコップカタカケフウチョウのほうはピーピーとしいう可愛らしい鳴声だ。

フォーゲルコップカタカケフウチョウを発見したエドウィン・スコールズ氏とティム・レイマン氏によると、ニューギニアの奥地のジャングルは、まだ人類による開発が進んでいないため、生物多様性に富んでいて、今後も新種の極楽鳥が発見される可能性が高いと言われている。そして、現在も研究チームのメンバーたちと観察を続けながら、このエリアの環境保全に尽力しているのだ。

ところで、これらのカタカケフウチョウが「世界一黒い鳥」と呼ばれているのは、単に見た目が黒いというだけでなく、実際にカタカケフウチョウの羽毛が構造的に最大99.95%の光を吸収してしまうからだ。あたしたちの目は、光によってモノが見えるワケで、パソコンのモニターやテレビの画面などは自ら発光しているので暗闇でも見えるけど、自ら発光していないモノは、太陽や蛍光灯など、何らかの光源からの光を反射して、それをあたしたちが見ているワケだ。だけど、このカタカケフウチョウは、体に当たった太陽などの光の99.95%を吸収してしまうのだから、昼間でもこの鳥だけが漆黒の闇のように見えてしまうのだ。

だけど、世界は広いもので、このカタカケフウチョウに負けないくらい真っ黒な生物が、他にもいるのだ。それは、「ホウライエソ」などの深海魚で、身を隠すものが何もない深海で安全に暮すために、より黒く進化した結果、光の99.90%を吸収するようになったという。こうした深海魚は「スーパーブラックフィッシュ」と呼ばれているんだけど、これまで、どうやって光を吸収しているのかが分からなかった。でも、今回、深海生物を専門とする海洋生物学者ソンケ・ヨンセン氏と、米スミソニアン博物館のカレン・オズボーン氏の研究チームによって、その謎が解明されたのだ。こうしたスーパーブラックフィッシュたちは、皮膚の表面を覆った複雑な「ナノ構造」で光の粒である光子を捕まえて、そのまま吸収していたことが分かったのだ。

でも、そもそもが太陽の光など届かない深海なのに、どうして光を吸収する能力が必要なのだろうか?‥‥ってなワケで、実は、深海には、進化の過程で自ら獲得した発光体によって、光をレーダーのように使って獲物を探す生物も多いそうだ。そのため、一部の生物は、自分の体を真っ黒にして闇に同化させるだけでなく、天敵から光のレーダーを照射されても、その光を吸収して自分の存在自体を消してしまうという、まるで忍術のような能力を身に付けたというワケだ。真っ暗な深海をユラユラと泳ぐスーパーブラックフィッシュに、調査用の深海探査船から照明を放射すると、その魚の部分だけが、海中にポッカリと開いたブラックホールのように見えるという。


‥‥そんなワケで、このスーパーブラックフィッシュに該当する深海魚7種を捕獲して、それぞれの皮膚の構造を調べたカレン・オズボーン氏によると、ヒトの皮膚が黒くなる原因のメラニン色素の粒が、驚くほど複雑な構造で皮膚の表面を覆っていたという。まるで複雑なパズルのような構造になっていて、当てた光のほぼ100%が、反射せずに吸収されたそうだ。カタカケフウチョウの真っ黒な羽毛も、とても複雑な構造で光を吸収するように進化したわけだけど、メスに対して目立つために「世界一黒い鳥」になったカタカケフウチョウと、天敵から身を隠すために「世界一黒い魚」になったスーパーブラックフィッシュは、光の吸収という特性を獲得するための理由は真逆だったけど、どちらも「種の保存」という目的は同じだったことになる今日この頃なのだ。


「フォーゲルコップカタカケフウチョウの求愛ダンス」


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2018.06.22

妖怪が信じられていた時代

子どもの頃って、現実と非現実、ノンフィクションとフィクションの区別がつかないから、現実に起こったことと同じように、非現実的な創作の世界にも興奮していた。もっとも分かりやすい例を挙げるとすれば、「恐竜」と「怪獣」だ。ティラノザウルスやトリケラトプス、ブロントザウルスやプテラノドンなど、地球上に人類が誕生するずっと前、今から2億3000万年前から6550万年前までにかけて地球上を支配していた恐竜たちは、実際にいた生物なのだから「現実」だけど、映画やテレビに登場するゴジラやラドン、ガメラやギャオス、バルタン星人やガラモンやレッドキングなどは、どう考えても実在しないフィクションだ。

でも、幼稚園の頃のあたしたちって、この違いが分からなくて、ティラノザウルスとゴジラ、プテラノドンとラドンの区別がつかなかったと思う。ティラノザウルスが実在したのならゴジラもどこかにいるんじゃないか、プテラノドンが実在したのならラドンもどこかにいるんじゃないかって思っていた。子ども時代にリアルタイムで『ウルトラQ』や『ウルトラマン』を観ていた世代の人たちだって、さすがにお金に執着する人がお金を食べるカネゴンになってしまうなんて信じた人は少なかったと思う。でも、その一方で、夜の誰もいない遊園地に行くと、不気味なケムール人がスローモーションで走っていて、そのケムール人の流した液体を踏むと自分が溶けて消えてしまうということを、けっこう本気に信じてビビッていた人もいたと思う。

これって、子どもならではの感覚で、同じ妖怪でも、ぬりかべや一反木綿やカラカサは実在しないと思っていても、座敷わらしや河童ならどこかにいるかもしれないと思っちゃうのだ。ようするに、大人にもあるリアリティーの判断なんだけど、子どもだから判断の基準が大人よりも低くて、ワリと何でも実在すると思っちゃう。たとえば、妖怪なんて怪獣と同じで人間の創作なんだから、いるわけないと思っている大人でも、幽霊や霊魂は存在すると信じている人も多い。そして、もっと言えば、幽霊はいないと思っていても霊魂は存在すると思っている人もいる今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、妖怪はともかくとして、幽霊や霊魂に関しては、まだ現代の科学では立証できない未知のことだから、「いる」とも「いない」とも言い切れない。だけど、あたしは幽霊の存在を信じている。理由は簡単、実際に見たことがあるからだ。それも、あたしが1人で見たのなら目の錯覚とかの可能性もあるけど、何人もで一緒に見たワケだし、それも、けっこう長い時間、みんなで同時に見たから、これは間違いない。ま、あたしの話は置いといて、現代の日本で妖怪の存在を本気で信じている大人はメッタにいないと思うけど、遥か昔の時代には、日本でも中国でも他の国々でも、妖怪や幽霊や妖精などの存在が普通に信じられていた。

日本では、江戸時代くらいまで、病気や自然災害などは妖怪や呪いなどが原因だと信じられていた。たとえば、台風は風神が起こすもの、雷は雷神が起こすもの、雨が降らずに日照りが続いて凶作になるのは日照り神の仕業、洪水は大蛇の仕業、山の土砂崩れは土蜘蛛(つちぐも)の仕業、峠越えの山道での落石は天狗の仕業‥‥などなど、他にもたくさんある。また、もっと小さな規模の日常での不思議な出来事も、その多くが妖怪の仕業だと信じられていた。

たとえば、川で誰かが溺れたら河童の仕業、歩いていて何にも触れていないのに腕や足に切り傷ができたら鎌鼬(かまいたち)の仕業、川の近くでシャカシャカという音が聞こえてきたら小豆洗いの仕業‥‥などなど、これまた他にもたくさんある。狐や狸に化かされたなんてのは日常茶飯事だった。そして、こうした妖怪たちの存在が本気で信じられていたからこそ、歌舞伎や浄瑠璃などで『番町皿屋敷』や『おいてけ堀』を始めとした演目が、子どもだけでなく大人たちにこそウケていたのだ。

漫画にしろアニメにしろ実写にしろ、怪獣モノや妖怪モノが作られ始めた当初の作品の大半は、子ども向けに作られていたから、ある意味、出落ちのような作品も多かった。『大怪獣ホニャララ』という子供向けの実写映画があったとしたら、子どもたちはその大怪獣が観たくて映画館へ行くワケだから、大怪獣ホニャララが登場した時点で、その作品の最大の見どころは終わってしまい、あとは人類たちが知恵をしぼって大怪獣ホニャララを倒すだけだ。『ウルトラマン』などのシリーズにしても、最終回を除いて、最後にウルトラマンが怪獣と戦って勝つことは決まっているので、子どもたちの最大の興味は、ストーリーじゃなくて、「今回はどんな怪獣が登場するのか」という点だったハズだ。

つまり、こんなことを言ったら語弊があるかもしれないけど、かつての子供向けの怪獣モノや妖怪モノの大半は、ストーリーにはそれほど重心は置かれていなかったことになる。それよりも、いかに強そうな怪獣を創作するか、いかに不気味な妖怪を創作するか、そっちのほうがストーリーよりも遥かに重要だったのだ。それは、子供向けだからというだけじゃなくて、最初からフィクションだと分かった上で観てもらう作品だと分かっていたからだ。だけど、妖怪や幽霊が本気で信じられていた江戸時代までは、妖怪や幽霊を登場させても出落ちは成り立たなかった。当時の人たちの多くが「本当にいる」と信じていた妖怪や幽霊は、その他の登場人物である武士や町人たちと同じで、ちゃんとした出演者の1人だったのだ。


‥‥そんなワケで、江戸時代までの妖怪話や幽霊話は、ストーリー自体がとてもよく練られていて、物語性という点では、妖怪や幽霊が登場しない普通の物語と何ら変わらないクオリティーだった。ようするに、大人の読者でも十分に楽しめる‥‥と言うか、大人の読者こそが楽しめる妖怪話や幽霊話が山ほどあったのだ。そして、その最高峰とも言えるのが、中国で清の時代にまとめられた『聊齋志異(りょうさいしい)』だ。妖怪や幽霊などの不思議な物語が好きな人は「おおっ!」、興味のない人には「はぁ?」って感じだと思うけど、作者は蒲松齢(ほ しょうれい)、モンゴル貴族の末裔の作家だ。清の時代なので、西暦で言えば1600年から1700年にかけてで、日本は江戸時代の初期だ。

不思議な話、奇怪な話が好きだった蒲松齢は、20歳ごろから旅人が訪れる宿場町の道端に腰掛けて、いろいろな地方からきた旅人に声をかけ、その人の地方に伝わる不思議な話や奇怪な話を聞き出し、それを自分で脚色して短編小説に仕上げる、ということをずっと続けた。そして、それをまとめたのが『聊齋志異』だ。ちなみに「聊齋(りょうさい)」というのは蒲松齢のペンネームで、「志異」とは「異なるものを志す」、つまり「聊齋が普通とは異なる物語を志してまとめた本」というニュアンスになる。とにかく、ものすごい量の短編集で、全12巻に収められている不思議な話、奇怪な話は、全部で490篇以上にも上る。

日本には江戸時代の後期に伝えられたけど、当時の日本では、海外の小説をそのまま翻訳するよりも、原作のおおまかなストーリーはそのままにして、細かい部分を日本人が読んでも分かるように改編する「翻案」が多かった。現代なら、そのまま翻訳しても読者は理解できるけど、当時の人たちに中国の地名や人名などは分かりにくかったし、中国ならではの食べ物や習慣などもピンとこないので、日本の地名に変え、日本の人名に変え、日本での出来事に改編したのだ。そのため、日本の江戸時代に起こった幽霊話だと思っていたものが、実は、当時の作家が『聊齋志異』の中の1篇を日本向けに改編した翻案だったりすることも多い。

そして、江戸から明治へと時代が変わっても、この『聊齋志異』に収められた短編を元にして翻案を書く作家がいろいろと続いていた。たとえば、森鴎外の妹で翻訳家の小金井喜美子は、『聊齋志異』の第1巻に収められている美しき妖怪の物語「畫皮(がひ)」を元にして「革一重」という短編を書き、ちゃんと「聊斎志異より」という但し書きを添えた上で自身の短編集『しがらみ草紙』(1890年)に収めている。ちなみに「畫皮」の「畫」は旧字体なので、現代では「画皮」と書く。他にも、芥川龍之介は第5巻に収められている「酒蟲」を元にして「酒虫」(1916年)という翻案を発表しているし、太宰治の「清貧譚」(1941年)や「竹青」(1945年)なども『聊齋志異』の中の短編を元にした翻案だ。

さらに時代が進むと、こうした翻案も現代風になってくる。たとえば、手塚治虫による漫画『新・聊斎志異』だ。これは、1971年に『少年キング』に「女郎蜘蛛(じょろうぐも)」と「お常」の2篇が発表され、16年後の1987年に「叩建異譚(こうけんいたん)」が発表されているけど、今でもネットで検索すれば公式サイトで最初のページを読むことができる。たとえば、「お常」は、ある大学の研究施設で猛毒の化学兵器を開発していて、動物実験のためにいろんな動物を飼育している。そして、その動物の世話係が孤児の少年なんだけど、ある日のこと、新たに狐が運ばれてきた。少年が狐を可愛がると、その狐も少年に懐き、それからというもの、不思議な女性が現われるようになる。しかし、少年には研究所の魔の手が伸びていた‥‥というストーリーで、ようするに妖狐の物語なんだけど、原作とはまったく違う作品に仕上がっている。ちなみに、この「お常」と「女郎蜘蛛」の2篇は、手塚治虫の『タイガーブックス』の第4巻に収められているので、今でも全編を読むことができる。

こんなふうに、日本では、長年にわたって、芥川龍之介から手塚治虫に至るまで『聊斎志異』の翻案が発表されてきたけど、日本でもこんな感じなのだから、本家の中国ではもの凄いことになっている。でも、中国の場合は、日本のように『聊斎志異』の中の短編を短編として改編するよりも、短編を大きく膨らませて壮大な作品に仕上げてしまうパターンが多い。そして、香港では、それを映像でやってしまう。有名なところでは、1987年に公開されたレスリー・チャンとジョイ・ウォン主演の『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』がある。これは『聊斎志異』に収められている「聶小倩(じょうしょうせん)」という幽霊話を元にした翻案作品だけど、そもそもが、この映画って、1960年に公開された『真説チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』という映画のリメイク版なのだ。つまり、香港では、手塚治虫が漫画で取り上げる10年以上も前に、すでに映画化していたってワケだ。

また、先ほど紹介した森鴎外の妹の小金井喜美子が翻案にした「画皮」は、とても人気のある作品なので、中国では2011年に『画皮 千年の恋』、2013年に続編の『画皮2 真実の愛』というテレビドラマになり、日本でもBSジャパンで放送され、今はDVDも出ているので、このブログを読んでいる人の中にも、観たことがある人がいるかもしれない。そして、このドラマの元になったのが、2008年に公開された映画『画皮 あやかしの恋』なのだ。ジョウ・シュンとヴィッキー・チャオが主演したこの映画は大ヒットしたので、これを元に連続テレビドラマを作ることになり、映画の製作スタッフが集められたというワケだ。


‥‥そんなワケで、さすがに全12巻もある『聊齋志異』を読破するのは無理でも、面白い短編を抜粋した日本版の『聊齋志異』なら、文庫本で気軽に楽しむことができる。そして、その中の1篇を元にして製作された映画『画皮 あやかしの恋』は、とっても素晴らしい作品なので、ぜひ観てほしい。妖怪が姿を現わすシーンはほんの一瞬だけど、妖怪の存在が信じられていた時代に書かれた原作が元になっているから、とにかく最初から最後までストーリーが楽しめるし、最後にはウルウルしちゃうほど感動する場面もあるし、大人が楽しめる作品だと思った。DVDは1000円くらいで買えるので、興味を持った人は、ぜひ観てほしい今日この頃なのだ♪


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2018.06.16

フィリップ・マーロウの憂鬱

もう何カ月も前のことなので、今さら言うのもアレだけど、深夜に原稿を書きながら文化放送『走れ!歌謡曲』を聴いていたら、ゲストの男性演歌歌手が、新曲のカップリング曲について説明する中で、この曲には作詞家の先生に頼んで自分の好きな言葉を織り込んでもらった、という話をしていた。そして、そのカップリング曲の歌詞に織り込んでもらった「自分の好きな言葉」について、次のように説明していた。


「僕の好きな言葉で『男は強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない。』というのがあるんですよ。映画のセリフだったか、小説に出てくるセリフだったか‥‥」


この演歌歌手は、今回の新曲がデビュー30周年記念だと言っていたから、20歳でデビューしたとしても50歳というワケで、あたしより5歳くらい年上だと思うけど、この言葉を聴いて、あたしは「あ~あ‥‥」って思ってしまった。だって、この人と同じように、この有名なセリフを間違えて覚えてる人ってけっこう多くて、あたしは今までに4~5人くらいの人に「それ、違いますよ」と教えてきた経緯があるからだ。

このセリフは、知っている人も多いと思うけど、レイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説、探偵フィリップ・マーロウが主人公のシリーズの第7作にしてチャンドラーの遺作でもある『プレイバック』に登場する。弁護士から、ある女性の尾行を依頼されたマーロウは、結局、その女性、ベティ・メイフィールドに近づき、一夜をともにする関係になるんだけど、その女性との間で次のような会話がなされるのだ。


ベティ・メイフィールド「あなたのようにしっかりした男がどうしてそんなにやさしくなれるの?」

フィリップ・マーロウ「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない。」


これは、原作が発刊された1958年の翌年、清水俊二さんによって初めて翻訳されたセリフだ。ちなみに原文は「If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive. 」なので、直訳すれば「もしも私が厳しくなければ、私は生きていられない。もしも私が優しくなければ、私は生きていく価値がない。」という感じになる今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、ハードボイルド作家の生島治郎さんは、1964年、このセリフを「タフじゃなくては生きていけない。やさしくなくては、生きている資格はない。」と訳した。また、作家の矢作俊彦さんは、1990年、原文の「hard」と「gentle」を無理に日本語にせずに「ハードでなければ生きていけない、ジェントルでなければ生きていく気にもなれない。」と訳すべきだと述べている。他にも、ちょっと変わったところでは、翻訳家で英文学者の柴田元幸さんが「無情でなければ、いまごろ生きちゃいない。優しくなければ、生きている資格がない。」と訳している。

そして、一昨年2016年12月、このチャンドラーのフィリップ・マーロウのシリーズの翻訳を続けてきた村上春樹さんの『プレイバック』が刊行された。村上春樹さんの訳では、このセリフは次のようになっている。


ベティ・メイフィールド「これほど厳しい心を持った人が、どうしてこれほど優しくなれるのかしら?」

フィリップ・マーロウ「厳しい心を持たずに生きのびてはいけない。優しくなれないようなら、生きるに値しない。」


う~ん、村上春樹さんのファンには申し訳ないけど、あたし的には、この訳はイマイチかな?女性のセリフの「これほど」を繰り返している点が気になるし、マーロウの「厳しい心を持たずに生きのびてはいけない」は翻訳者の主観が強すぎると思う。なんか、戸田奈津子さんが翻訳した洋画の字幕みたいで、「翻訳」なのに「創作」のフレーバーが強すぎると感じる。翻訳というものは、どんなに飛躍していても、それが原文のニュアンスを正確に伝えるためであるのなら許されるけど、翻訳者の主観が少しでも介在したら、そこでジ・エンド、それは翻訳ではなく創作になってしまう。

ま、原文に忠実であれば、いろんな翻訳があるのは楽しいし、それらの中で自分の感性に最もマッチする翻訳を選べばいいだけだけど、原文に書かれていない言葉を勝手に付け足しちゃうのは、やっぱり反則だと思う。それなのに、どうしてこの有名なセリフに「男は」なんて言葉が付け足されて、マーロウの個人的な感覚が、あたかも「男の生き方のお手本」みたいに広められちゃったんだろう?


‥‥そんなワケで、実はこれ、春樹は春樹でも村上春樹さんじゃなくて、もう1人の春樹、角川春樹さんに原因があるのだ。1976年、角川書店の社長だった角川春樹さんは、自社の書籍の売上を伸ばすために、自社の書籍を原作とした映画を制作することにした。もちろん、最初は既存の映画会社に制作を依頼して、自社の書籍の売り上げを伸ばそうとしたんだけど、これがなかなかスケジュール通りにいかない。そこで、角川春樹さんは、自分で映画制作をすることにして、1976年に第1作『犬神家の一族』を制作して公開した。そして、これが計画通りに大ヒットしたので、本格的に映画制作をするために「角川春樹事務所」を設立し、1977年には『人間の証明』、1978年には『野性の証明』と、次々と大ヒット作を生み出していったのだ。

角川映画が大ヒットした背景には、作品の良さだけでなく、宣伝の巧さがあったと言われている。『人間の証明』では、西条八十(やそ)の『ぼくの帽子』という詩の一部を引用した「母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?」というテレビCMのセリフが流行した。そして、1978年の『野性の証明』では、こんなキャッチコピーが使われた。


「男はタフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない。」


これは、さっき紹介した生島治郎さんの翻訳、「タフじゃなくては生きていけない。やさしくなくては、生きている資格はない。」を元にして作られたキャッチコピーであることは明らかだ。ようするに、「角川春樹事務所」の制作した映画は次々とヒットを飛ばしたし、そこには「宣伝の巧さ」が大きく作用していたワケだけど、その宣伝に疲れたコピーは、コピーライターが考えたオリジナルではなく、既存の詩の一部の流用や、既存の有名なセリフを元に作られた二次創作だったというワケだ。

だけど、この映画『野性の証明』が大ヒットしたことで、このキャッチコピーも注目され、その由来である原作、チャンドラーの小説『プレイバック』も再評価されるようになったと言われている。だから、既存の有名なセリフを元にして二次創作したことについては、あたしは別に何とも思っていない。ただ、二次創作である映画のキャッチコピーのほうが有名になってしまい、マクラで挙げた演歌歌手のように、二次創作のほうをオリジナルだと思い込んでいる人が多すぎることに、あたしは、何となく納得できない気分になっているのだ。


‥‥そんなワケで、あたしは、イギリスのレゲエバンド「UB40(ユービーフォーティー)」の『Red Red Wine』という失恋ソングを初めて聴いた時、なんて素敵な曲なんだろうと大感激して、それ以来、ずっと「UB40」の大ファンになった。だけど、当時は、この曲がニール・ダイアモンドのヒット曲で、それを「UB40」がレゲエにアレンジして演奏していたなんてぜんぜん知らなかった。そして、何年もしてから、その事実を知ったので、ニール・ダイアモンドのベスト盤のCDも買って、ちゃんと原曲を聴いてみたら、これはこれでとても素敵だった。

だけど、世の中は、あたしみたいな「原典に当たりたがる人」ばかりじゃないから、映画『野性の証明』のテレビCMで「男はタフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない。」というキャッチコピーと出会い、なんてカッコいいセリフなんだろうと感激し、これがチャンドラーの『プレイバック』という小説に出てくるセリフから作られたと知っても、わざわざその小説を買ってきて読もうと思う人は、そんなには多くないと思う。そのため、小説は読んでなくても、このセリフの由来だけは何となく知っている‥‥という人が大量発生してしまい、そういう人たちが得意になって周囲に吹聴してきた流れの中で、いつしかオリジナルと二次創作とがゴッチャになってしまったんだと思う。

映画『野生の証明』が大ヒットした1978年は、あたしはまだ5歳で幼稚園児だったから記憶がないけど、あたしより5歳以上も年上の演歌歌手なら、当時は小学5年生とか6年生とかだったはずだから、毎日のようにテレビで流れていたCMのキャッチコピーを耳にして「なんてカッコいいセリフなんだろう」と思った可能性は十分にある。そして、それから40年、一度も原典に当たらないまま生きてきた過程の中で、キャッチコピーの「タフでなければ」の他のバージョン、たとえば「ハードでなければ」とか「無情でなければ」とか「強くなければ」とかを耳にして、自分の中で「男は強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない。」という形が出来上がっちゃったのかもしれない。


‥‥そんなワケで、これは、あくまでも英文の和訳だから、あたしは、本意さえ変わらなければ複数の和訳があってもいいと思っている。でも、原作の「hard」を最初に「タフ」と訳した生島治郎さんは、さすがはハードボイルド作家だけあって、ハードボイルドな色合いを出すために原作の本意よりも自分の主観を優先した「無理のある和訳」をしたと思う。ちなみに、この「hard」を「厳しい心」と訳した村上春樹さんは、昨年4月のトークイベントで、次のように述べている。


「ハードとタフは違うんです。なので(生島治郎さんの)『タフじゃなければ』はかなりの異訳なんです。でも響きとしてはいい。それは翻訳者として難しいところで、読むほうは気持ちはいいんだけど、翻訳としてはちょっとまずい。私はずいぶん迷って何度も書き直して、やっと『厳しい心』に落ち着いたんだけど。でも『タフじゃなければ』のほうがフレーズとしては覚えやすいですね」


原文の「hard」をどのような日本語に訳すか、それとも矢作俊彦さんのように、そのまま「ハード」と書くか、この辺は翻訳者それぞれのセンスや好みによって分かれるとこだけど、原作の本意に従うのなら、少なくとも「タフ」と訳すべきじゃない。この作品『プレイバック』を最初から読み、マーロウとベティという男女2人の関係性やシチュエーションを理解した上で会話を読めば、これは、女性から思わぬセリフを言われてしまったマーロウが、照れ隠し気味に返したセリフだということが誰にでも分かる。そんな場面では、よほどのナルシストでもない限り「タフじゃなくては生きていけない。やさしくなくては、生きている資格はない。」なんて言うワケがない。ましてや、そのセリフに、原作にはない「男は」などという主語を勝手に付け足して、これがあたかも「男の生き方」の理想像であるかのように広まってしまっただなんて、あたしは「なんだかな~」と思ってしまう。


‥‥そんなワケで、「ハードボイルド」とは、直訳すれば「固ゆで」で、タマゴなどを固くゆでたことを指すんだけど、それが転じて、感情に流されない強固な精神と強靭な肉体とを併せ持ったクールな人物を指すようになり、そうした人物が主人公の客観的でシンプルな文体の小説を指すようになった。つまり、「ハードボイルド」とは、半分に切ったら黄身が流れ出てくるような半熟タマゴなどではなく、中心にしっかりとした黄身を持つ固ゆでタマゴのような人物のことなのだ。そう考えると、1959年に初めて日本語に翻訳した清水俊二さんの訳こそが、やっぱり原作のニュアンスに一番近いように感じられるので、今日は最後に、今から60年近く前の訳をもう一度紹介して、終わりたいと思う今日この頃なのだ。


「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない。」


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2018.06.14

船酔い爺さんのブルース

1941年、アメリカの西海岸、カリフォルニア州アラメダ郡の港街オークランドで、1人の男の子が誕生した。スティーヴン・ジーン・ウォルド(Steven Gene Wold)だ。音楽好きだった父親は、4歳になったスティーヴにブギウギピアノを教え込もうとしたが、幼い彼にはまだ無理だった。そして、彼が5歳の時、両親が離婚し、彼は母親とともにミシシッピー州の祖父の家へと引っ越すことになった。

ここで、彼に、運命の出会いがあった。それは、祖父の経営するガレージで働いていたKC・ダグラスという売れないブルース・ギタリストだった。音楽だけで生活することができなかったKC・ダグラスは、ここで働きながら音楽活動を続けていたが、暇を見つけては8歳になったスティーヴにブルース・ギターの手ほどきをしてくれたのだ。ピアノの才能はなかったスティーヴだが、ギターには興味を持ち、まだそれがブルースという音楽だということすら分からない年齢から、夢中になってギターの練習を繰り返した。

しかし、そんな楽しかった日々にも、終わりの時が訪れてしまった。まだ若かった彼の母親が、新しい恋人である事実上の再婚相手を自宅に連れ込むようになり、スティーヴの生活は一変した。新しい父親は、酒に酔っては幼いスティーヴに殴る蹴るの暴力を働くような野蛮な人物だったのだ。連日の暴力に耐えられなくなったスティーヴは、13歳の時に家出をし、都会へ出てホームレス生活を始めることになる。廃品を拾い集めて小銭を稼いだり、年齢をごまかして日雇い労働をしたり、時には悪い仲間たちと盗みを働いたりと、スティーヴは必死に生き抜いた。でも、どんなに生活が苦しくても、大切なギターだけは手放さなかった今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、16歳になったスティーヴは、路上でのギター演奏を始めたが、彼の演奏スタイルは田舎町の伝統的ブルース・ギタリストだったKC・ダグラスから教え込まれたものだったため、時代遅れで、流行の移り変わりが早い都会ではまったく受け入れられなかった。そして、彼は、ホーボー(Hobo)として生きることになる。ホーボーというのは、無理やり日本語にすると「季節移動労働者」とでも言うべきか、冬になると南へ、夏になると北へ、貨物列車に乗って大陸を移動しながら、農場や工場などで数カ月単位で住み込みで働く労働者のことだ。「自宅を持たない」という意味では「ホームレス」と同じだが、都会の隅で暮しているホームレスよりは、アメリカでは一段上に見られている。

1960年代、20代になったスティーヴは、少しずつ音楽の仕事もできるようになり、音楽仲間たちと演奏旅行もできるようになった。いろいろな土地でいろいろなミュージシャンと知り合い、音楽の輪が広がっていき、そのうち、ジャニス・ジョプリンやジョニ・ミッチェルなどの有名ミュージシャンとのパイプもできた。そうした流れから、ギターの演奏能力を評価された彼は、スタジオ・ミュージシャンとしての仕事も舞い込むようになった。そして、スタジオでの仕事を続けているうちに、名前も少しずつ売れ始め、1980年代には自分の名前でマイナーなツアーが行なえるまでになった。

苦労していた若い時代に、一度、結婚で失敗しているスティーヴは、名前が売れ始めて生活も安定してきた1980年代、ツアー先のノルウェーの首都オスロで知り合ったノルウェー人の女性と、二度目の結婚をした。そして、ワシントン州のシアトル郊外に自分のスタジオを構え、レコーディング・エンジニアとして、アルバム制作の仕事を始めた。しかし、奥さんの兼ねてからの希望で、2001年、奥さんの故郷のノルウェーはオスロへと移住することになった。

この地で、スティーヴは、対岸のデンマークまで往復するブーズ・クルーズに乗った。ブーズ・クルーズと言うのは、船上でお酒を飲むことを目的としたパーティー形式の観光クルーズだ。彼は初めてのブーズ・クルーズで、腸が捻じれるほどの酷い船酔いで苦しむことになる。一緒にいた音楽仲間たちからは「シーシック・スティーヴ(Seasick Steve)」、つまり「船酔いスティーヴ」と呼ばれ、これが彼のニックネームになった。そして、2003年、「Seasick Steve and the Level Devils」(船酔いスティーヴと水平線の悪魔たち)というバンド名でリリースしたカントリー・ブルースのアルバム『Cheap』(安っぽい粗悪品)がスマッシュヒットし、イギリスのラジオなどでも取り上げられるようになった。

しかし、ようやく彼の音楽が日の目を見始めた2004年、自宅にいたスティーヴは心臓発作で倒れてしまう。だが、神様は彼を見放さなかった。その場に一緒にいた奥さんは、元看護士さんで、この時も、看護士の仕事を再開するために、ちょうど再訓練をしていたところだったのだ。そんな奥さんの適切な処置で一命を取りとめたスティーヴは、その奥さんの勧めで、回復後にニューアルバムの製作に取り掛かり、2006年、『Dog House Music』(犬小屋のブルース)をリリースする。これが大きく取り上げられ、イギリスの人気音楽テレビ番組の大晦日カウントダウン特番への出演が決定したのだ。アメリカの片田舎の古臭い彼のブルースが、イギリスの若者たちにとっては、逆に新鮮な音楽として受け入れられた瞬間だった。


‥‥そんなワケで、スティーヴは、このテレビ番組がキッカケとなり、翌2007年の夏には、EU各国で行なわれた夏フェスに引っ張りダコとなり、この年の最注目アーティストとして、イギリスの権威のある音楽賞である「MOJO賞」の最優秀新人賞を受賞する。そして、翌2008年の夏には、初来日して「フジロック・フェスティバル」に出演し、日本の音楽メディアでも大きく取り上げられることとなった。日本のレコード会社は「68歳の新人」というキャッチコピーでスティーヴを宣伝したが、成功者には必ず、足を引っ張ろうとする者が現われる。彼の場合は、彼の公表している本名や年齢や経歴などが「すべて嘘」だとする無許可の伝記が2016年に出版されてしまった。

その伝記、マシュー・ライト著の『Seasick Steve:Ramblin 'Man』(放浪者、船酔いスティーヴ)によると、彼の本名は「Steven Wold」ではなく「Steven Leach」であり、誕生した年も「1941年」ではなく「1951年」だと指摘されている。つまり、実際よりも10歳ほど年上にサバを読んでいると言うのだ。また、彼の経歴に関しても「一部は捏造されたもの」だとして、実際は、インド音楽を取り入れたフュージョンバンド「Shanti」でベースを弾いていたり、フランスのディスコミュージックバンド「Crystal Grass」などで演奏していたと指摘している。実際、これらのバンドのディスコグラフィーを調べてみると、ベーシストとして「Steven Leach」の名前がクレジットされているが、これが本当にスティーヴなのかは分からない。

あたしなりにいろいろと調べてみたら、YOU TUBEでフュージョンバンド「Shanti」の1969年の実際の演奏の映像が見つかったので、何度もよく観てみた。確かに、見ようによってはベーシストの顔がスティーヴに似ているようにも見えなくはなかったが、彼が「1951年」の生まれだとすると、この時の彼は18歳ということになる。でも、映像に映っているベーシストは、モミアゲとアゴヒゲがモジャモジャとつながった男性で、とても18歳の青年には見えなかった。だから、もしもこのベーシストがスティーヴだったとしても、本人が公表しているように「1941年」の生まれだと考えないと不自然だと思った。

当然、スティーヴ自身も、この伝記の中で「捏造」だとして指摘されている内容はデタラメで、自分が公表している経歴が正しいと主張しているので、あたしとしては本人の言い分を尊重するけど、2018年現在、「1941年」の生まれなら77歳、「1951年」の生まれなら67歳、正直、どっちでもいいような気もしている。演奏が本物なのだから、あたしは、年齢や経歴などどうでもいいと思っている。


‥‥そんなワケで、葉巻の木箱にピックアップ(ギター用マイク)とネックを付けた弦が3本しかないシガーボックスギター、自動車のタイヤのホイールキャップを2枚張り合わせてキッチン用品のフライ返しや缶ビールの空缶などのガラクタを組み合わせて作ったギター、洗濯板にピックアップを付けた弦が1本しかないギター、そして、市販のエレキギターでも弦を3本外して残り3本だけにしてしまったものなど、こうしたガラクタみたいなギターを弾きながら、足元に置いた木箱を踏み鳴らしながら歌うスティーヴのオールドスタイルのブルースは、年齢や経歴など、どうでもいいと思えるほどイカシているのだ。

ちなみに、分かりやすく「自動車のタイヤのホイールキャップ」と書いたけど、正確に言うと、タイヤのホイール全体にはめるホイールキャップではなく、ホイールのセンター部分のハブナットが並んでいる部分にはめる、ひとまわり小さいハブキャップだ。それも、デトロイトにあったハドソン・モーター・カー・カンパニーが1932年から1939年まで製造していた乗用車「テラプレーン」のハブキャップなので、ガラクタと言ってもマニアには希少価値があるものだと思う。また、足元に置いて踏み鳴らしている木箱だけど、彼は「ミシシッピードラムマシン」と呼んでいて、ミシシッピー州のオートバイのナンバープレートや絨毯(じゅうたん)などで飾り付けされている。椅子に座り、この木箱を左足でリズムよく踏み鳴らしながら歌うのが、古くからの彼の演奏スタイルなのだ。

普通、ギターは、6本の弦を決まった音程に合せてチューニングして、左手の指で決まったフレットを押さえることで、CとかGとかAmとかの和音を奏でる。でも、スティーヴの場合は、左手の薬指に金属の筒をはめて、これですべての弦をスライドするボトルネック奏法が基本なので、ギターの弦はオープンチューニングと言って、コードを押さえなくても和音が出るようにセッティングしている。ようするに、左手の指で弦を1本も押さえずに、右手で弦をジャ~ンと弾けば、これだけで音楽が生まれるのだ。たとえば、オープンGにチューニングしておけば、弦を押さえなければGの和音が出るし、薬指にはめたボトルネックで弦の表面をスライドすれば、それに合せて和音が変化して行く。

これは、昔からブルースでよく使われる奏法だけど、スティーヴの場合は、3本弦や1本弦など、古くからのストリートミュージシャンのブルースのスタイルを取り入れている。楽器を買うお金などなかったストリートミュージシャンたちは、ゴミ捨て場から拾って来たガラクタで楽器を作っていたのだ。たとえば、昔の大きな洗濯用の金盥(かなだらい)、あれを地面に伏せて置き、真ん中にモップの柄を立てて、モップの柄の上部から金盥へと1本の細くて強度のある紐を張る。そして、金盥に片足を乗せて押さえながら、モップの柄の上で左手で紐を押さえ、右手の指で弾いて低音を出すのが「ウォッシュタブベース」(洗濯タライのベース)だ。こうした昔のストリートミュージシャンたちの工夫と歴史が、スティーヴの音楽スタイルには引き継がれている。


‥‥そんなワケで、今回は、せっかくなので、あたしが気に入っている船酔いスティーヴの映像を、いくつか紹介したいと思う。とにかく、めっちゃカッコイイので、YOU TUBEが視聴できる環境の人は、まずは以下の2本の公式MV(ミュージックビデオ)、「Summertime Boy」と「Down On The Farm」を観てみてほしい。2曲目の「Down On The Farm」では、スティーヴは最初から最後まで踊っているだけだけど、手に持っているのが、先ほど説明した1930年代の自動車のハブキャップで作ったギターだ。

Seasick Steve - Summertime Boy

Seasick Steve - Down On The Farm


この2曲は公式MVなので、アルバムに録音されたバンド演奏による楽曲に合わせて、別撮りした映像を編集したものだ。だから、視覚的にも楽しめるように作られているけど、船酔いスティーヴの演奏のホントのかっこよさが分かるのは、ギター1本で木箱を踏み鳴らしながら歌うオールドスタイルのブルースだ。次に紹介する「Back In The Dog House」は、彼の古くからの愛器である「The Three-String Trance Wonder」と名づけられた1960年代の無名のギターを演奏している映像だ。その名の通り、弦は3本しか張っていなくて、G、1オクターブ高いG、Bにチューニングされている。

Seasick Steve - Back In The Dog House


‥‥そんなワケで、あまりたくさん紹介してしまうと、自分で動画を探す楽しみがなくなってしまうので、今回は、この3曲だけを紹介する。この3曲の映像を観て、船酔いスティーヴに興味を持った人は、YOU TUBE内で「Seasick Steve」と検索すれば、MVやライブ映像やインタビュー動画など、たくさんの映像を観ることができる。シガーボックスギターやハブキャップのギター、洗濯板のギターなどを弾いている映像もあるので、ぜひ、いろいろと楽しんでほしいと思う今日この頃なのだ♪


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2018.06.09

アメリカ英語とイギリス英語

あたしは未婚だし子どもがいないから、最近の学校教育のことはぜんぜん分からないけど、しばらく前に「小学校から英語の授業が始まる」というニュースを耳にしたような記憶があったので、先日、その記事をネットで探して読んでみたら、もうすでに小学校での英語の授業は5年生から始まっていて、それを3年生に前倒しするというニュースだった。そして、その記事をよく読んでみたら、小学5年生からの英語の授業は、10年も前の2008年から始まってたということを知った。

あたしの場合は、同世代の皆さんと同じく中学校に上がってから初めて英語を教わったワケで、たしか「ニューホライゾン」とかいう教科書だった。そして、中学校で3年間、高校でも3年間、計6年間も英語を習ったのに、ぜんぜんしゃべれないし、学校の授業なんてクソの役にも立たなかった。でも、高校時代のあたしは、バンドをやっていたこともあって、辞書を引きながら好きな洋楽の歌詞を和訳したりしているうちに、英語がだんだん好きになり、英語の小説とかも辞書を引きながら読むようになり、字幕付きの洋画もヒアリングしながら観るようになった。

そして、独学でいろいろと英語と接しているうちに、英語がペラペラの帰国子女の先輩から「英語を独学で勉強するなら、対訳が付いたシェイクスピアの戯曲が一番身に付くよ」というアドバイスをいただいたので、薦められるままにシェイクスピアの戯曲を読み始めた。対訳付きと言っても、ただ単に和訳が付いているだけじゃなくて、欄外に細かい注釈がたくさん書いてあって、熟語の意味や言い回しの使い方などが丁寧に書かれていて、すごく勉強になった。その上、シェイクスピアの戯曲は、ほとんどの作品がネイティブスピーカーによる朗読CDになっていて、それも区立図書館で無料で借りることができたから、英文を目で追いながら英語の朗読をヒアリングできて、すごく役に立った今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、高校を卒業して専門学校に進んだあたしは、英文の小説くらいなら辞書を引きながら読めるようになり、日常会話くらいなら何とかできるようになったんだけど、当時、六本木で仲良くなったアメリカ人たちからは、あたしの話す英語に対して、よくツッコミを入れられた。たとえば、あたしが「時間ある?」と聞くために「Have you got time?」と言うと、アメリカ人の友人たちはミケンにシワ寄せたり、呆れたような半笑いの顔をしたりして、「Do you have time?」と言い直された。これは、あたしが独学で勉強してきたシェイクスピアが「イギリス英語」だったのに対して、六本木で仲良くなったアメリカ人たちの使っている言葉が「アメリカ英語」だったからだ。

英語の「英」は英国の「英」なんだから、本来はイギリス英語のほうが由緒正しきものなのに、アメリカ人にとっては、イギリス英語は「格好をつけた言葉」に聞こえるらしい。ニュアンス的には、東京の人が大阪に行った時に標準語をしゃべると、大阪の人たちから「格好をつけてる」と思われるようなものみたいだ。だから、あたしは、イギリス英語とアメリカ英語の違いも勉強するようになり、アメリカ人に対しては、なるべくアメリカ英語を使うようになった。

イギリス英語とアメリカ英語の違いは、単語の違い、発音の違い、スペルの違い、動詞の使い方の違い、文法の違いなど、ものすごくたくさんあるけど、一番分かりやすい単語の違いをいくつか挙げると、たとえば、「薬局」は、アメリカだと「drug store(ドラッグストア)」だけど、イギリスでは「pharmacy(ファーマシー)」と言う。日本では、どちらの呼び方の店舗もあるけど、これがアメリカ英語とイギリス英語の違いだということを知っている人は少ないと思う。他にも、「休暇」のことは、アメリカでは「vacation(バケーション)」で、イギリスでは「holiday(ホリデー)」なんだけど、これも、日本ではどちらも使っている。

「サッカー」は、アメリカでも「soccer(サッカー)」だけど、イギリスでは「football(フットボール)」だ。「エレベーター」も、アメリカでは「elevator(エレベーター)」だけど、イギリスでは「lift(リフト)」と言う。「ポテトチップス」は、アメリカが「potato chips(ポテトチップス)」なのに対して、イギリスでは「crisps(クリスプス)」と言う。

「ガソリン」は、アメリカでは「gas(ガス)」だけど、イギリスでは「petrol(ペトラル)」と言う。日本でも「ガス満タンね」とか使う人がいるけど、「ペトラル満タンね」なんて言う人はいないだろう。他にも、ファストフード店とかで「お持ち帰り」する場合に「take out(テイクアウト)」と言うけど、これはアメリカの言い方で、イギリスでは「take away(テイクアウェイ)」と言う。こうして見ると、日本で使われている英語って、イギリス英語よりもアメリカ英語のほうがだんぜん多いことが分かる。


‥‥そんなワケで、これらは、アメリカとイギリスで単語が違うというだけなので、それほど紛らわしくはない。紛らわしいのは、同じ言葉なのにアメリカとイギリスとで別のものを指す場合だ。たとえば、アメリカでは「紙幣」のことを「bill(ビル)」と呼ぶけど、まったく同じスペルと発音の「bill」が、イギリスでは「伝票」という意味になる。そして、イギリスでは「紙幣」のことを「nite(ノート)」と言い、アメリカでは「伝票」のことを「check(チェック)」と言う。こういうのが他にも山ほどあるんだから、紛らわしいこと、この上ない。

そして、もっと紛らわしいのが、建物の1階と2階だ。アメリカでは「1階」が「first floor(ファーストフロア)」、「2階」が「second floor(セカンドフロア)」なので、何の問題もないんだけど、イギリスでは「1階」を「ground floor(グランドフロア)」と呼び、「2階」を「first floor」と呼ぶのだ。だから、日本に来ているアメリカ人とイギリス人が「明日の正午に銀座の伊勢丹のファーストフロアで」と待ち合わせをしたら、アメリカ人は1階で待っていて、イギリス人は2階で待っているので、いつまで経っても2人は出会えない。

まあ、こういうのは単語が違うだけだから、両方を覚えれば何とかなるし、たいていのアメリカ人やイギリス人は、こうした違いを知っているから、イギリスのガソリンスタンドに行って「ガス満タンね」と言っても、アメリカのガソリンスタンドに行って「ペトラル満タンね」と言っても、たいていはどちらも理解してもらえる。マクドナルドのことを東京では「マック」、大阪では「マクド」と省略するけど、東京の人も大阪の人も両方の言葉を知っているから、大阪の人が東京に来て「マクドいかへん?」と言っても、ちゃんと意味は通じる。これと同じことだ。だから、アメリカ人とイギリス人が伊勢丹のファーストフロアで待ち合わせをしても、しばらく待っても相手が現われなければ、たぶん、どちらかが別の階を見にいくだろう。


‥‥そんなワケで、こうした単語の違いの何倍もヤッカイなのが、動詞の違いで、特に多いのが「have」と「take」の違いだ。「お風呂に入る」は、あたしたちが中学校で習った英語だと「take a bath」だけど、これはアメリカ英語で、イギリス英語だと「have a bath」と言う。「席に座る」も、アメリカ英語だと「take a seat」だけど、イギリス英語だと「have a seat」になる。「休憩する」は、アメリカ英語なら「take a break」だけど、イギリス英語だと「have a break」になる。そして、「休暇を取る」の場合は、動詞だけじゃなくて、前に書いたように「休暇」という単語自体も変わるから、アメリカ英語では「take a vacation」、イギリスでは「have a holiday」になる。

まあ、これらは基本的に「have」と「take」を入れ換えればいいだけなので分かりやすいけど、動詞だけじゃなくて文法そのものが違うケースもたくさんある。たとえば、中学生になって最初のころに習う「Do you have a pen?」、「あなたはペンを持っていますか?」というのは、ピコ太郎じゃなくても誰でも知っている基本中の基本のような例文だけど、実はこれもアメリカ英語で、由緒正しいイギリス英語では「Have you got a pen?」と言わなきゃならない。最初のほうで、あたしが「時間ある?」と聞くために「Have you got time?」と言ったら、アメリカ人に「Do you have time?」と言い直されたと書いたけど、これと同じパターンだ。

他にも、アメリカ英語とイギリス英語にはいろんな違いがある。たとえば、野球やサッカーなどのチームとか、同好会や議会などのグループとかの「集団」について、アメリカ英語では必ず「単数」として捉えるのに対して、イギリス英語は「単数」でも「複数」でも、どちらでも良いことになっている。あたしは日本ハムのファンなのでファイターズを例に挙げるけど、「日本ハムファイターズが勝っています」と言う場合、アメリカ英語では「日本ハムファイターズ」というチームは「単数」になるから、「Nippon-Ham Fighters is winning.」と言わなきゃならない。でも、イギリス英語の場合は、こうしたチームを「複数の選手の集合体」として「複数」と見ることもできるので、「Nippon-Ham Fighters are winning.」と言っても良いのだ。

だけど、日本の中学校や高校の英語のテストにこう書くと、もれなく不正解にされてしまう。日本の学校の英語のテストでは、由緒正しきイギリス英語を書くと不正解になり、戦後70年が過ぎても日本を植民地と見下してやりたい放題のアメリカ英語しか正解にならないのだ。これって、激しく不条理だよね。

さらに難しい例になると、「get」という動詞の過去分詞が、イギリス英語だと過去形と同じ「got」なのに、アメリカ英語だと「gotten」になるし、イギリス英語では現在完了形を使わなきゃならない文章が、アメリカ英語の場合は普通の過去形で良いというパターンもよくある。でも、こんなのまで例を挙げて紹介していたら、もはや学校の授業みたいになっちゃうので、今日は最後に簡単なスペルの違いを少しだけ紹介しようと思う。

たとえば、「AKB48のセンターは誰々さんです」という場合の「センター」、「中央」という意味だけど、アメリカ英語で「center」と書くのに対して、イギリス英語では最後の「e」と「r」が入れ替わって「centre」と書く。「劇場」や「映画館」という意味の「シアター」も、アメリカ英語だと「theater」だけど、イギリス英語だと「theatre」になる。

他にも、「色」という意味の「カラー」は、アメリカでは「color」だけど、イギリスでは「colour」と書く。「お気に入り」という意味の「フェイバリット」は、アメリカでは「favorite」だけど、イギリスでは「favourite」と書く。「気がつく」という意味の「リアライズ」は、アメリカでは「realize」だけど、イギリスでは「realise」と書く。他にもいろいろあるけど、同じ英語なのに、イギリスとアメリカでは、単語の違い、発音の違い、スペルの違い、動詞の使い方の違い、文法の違いなど、数多くの違いがある。ま、それは別の国なんだから仕方ないとしても、あたしが声を大にして言いたいのは、「どうして日本の小学校や中学校や高校ではアメリカ英語だけを教えているのか?」ということだ。


‥‥そんなワケで、カナダの場合は、英語だけでなくフランス語も公用語として使われていて、英語はアメリカ英語とイギリス英語の混在したものが使われているけど、英語を公用語にしている国々の9割以上は、イギリス英語を使っているのだ。世界各国の代表者が集まる国際会議などの場でも、基本的にはイギリス英語が使われているし、EUでもすべての国の英語教育がイギリス英語で行なわれている。世界中の国々の中で、現在もアメリカ英語を教えているのは、日本の他にはフィリピンとリベリア共和国ぐらいで、日本の英語教育は完全に世界基準とズレているのだ。ま、日本はアメリカの属国だから仕方ないと思うし、見ているほうが恥ずかしくなるほどの、ここ最近の安倍晋三首相の「アメリカの飼犬ぶり」を見れば黙って下を向くしかないけど、小学5年生からの英語の授業を小学3年生からに前倒ししたところで、教える英語が世界基準とズレまくったアメリカ英語なんかじゃまったく意味がない。このまま未来永劫、アメリカの属国として生きていくならそれでもいいけど、日本が独立した主権国家としてのプライドを持っているのなら、アメリカ英語はトットとドブに捨てるべきだろう。せっかく小学生に英語を教えるのなら、アメリカ人にしか通じない「Do you have a pen?」などというアメリカ英語ではなく、国際社会の場で通用する由緒正しいイギリス英語の「Have you got a pen?」から教えるようにしてほしいと思う今日この頃なのだ。


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