世話焼き長屋
日本の時代小説ってすごく面白いものが多いけど、上中下の全3巻なんて当たり前で、全10巻なんていう大作もあるから、なかなか読み始めることができない。一度、読み始めたら、一定のペースで最後まで読み続けないと、それまでの流れや登場人物が分からなくなってくるからだ。だけど、各話が読み切りになっている短編集なら、1話が30分ほどで読めるから、気軽に手に取ることができる。ちょっと長めの落語を1席聴くくらいの感覚なので、通勤電車の中やお風呂の中、ちょっとした空き時間などに読むのにも向いている。
そんな時代小説の短編集だけど、あたしは、新潮文庫の「人情時代小説傑作選」、『親不孝長屋』『世話焼き長屋』『がんこ長屋』を愛読している。これは、文芸評論家でアンソロジストの縄田一男氏によるアンソロジーで、たとえば『世話焼き長屋』なら、池波正太郎の「お千代」、宇江佐真理の「浮かれ節」、乙川優三郎の「小田原鰹」、北原亜以子の「証」、村上元三の「骨折り和助」という短編5作品が収められている。もちろん、数々の短編の中から選び抜かれた秀作ばかりだから、面白いだけでなく、どの作品も胸がジーンとしたりウルウルしたり、ちゃんと感動させてくれる。
1人の作者による短編集も面白いけど、こうして複数の作者の短編を1つのテーマに沿って集めたアンソロジーは、それぞれの作者のカラーが出ているので、また違った面白さがある。お弁当で言えば、いろいろなおかずが楽しめる「幕の内弁当」みたいな感じなのだ。だから、一度、読んでも、1年くらいしたらまた楽しめるし、もう1年くらいしたら、またまた楽しめる。あたしは、特に『世話焼き長屋』が好きなので、もう5~6回くらいは読み返しているけど、先日、また久しぶりに読んでみようと思い、本棚から取り出した。そしたら、今までぜんぜん気にしていなかったタイトルの「世話焼き」という言葉に目が止まってしまった今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、「世話をする」とか「世話が掛かる」という表現は普通だけど、この「世話を焼く」という表現って、一体どういう流れから生まれたんだろう?ニュアンスで言うと、「世話をする」は相手にとって本当に必要な世話をしているように感じるけど、「世話を焼く」になると「よけいなお世話」とか「大きなお世話」というフレーバーが薄っすらと漂い始める。でも、その「よけいなお世話」は、決して鬱陶しいようなものではなく、人情味あふれた温かい感じもする。「世話を焼く」って、すごく不思議な感覚を持つ表現だと思う。
この「世話」という言葉って、そもそもは、世間の人たちが話している「話し言葉」のことだった。手紙や文書などの「書き言葉」は文語体でキチンとしているけど、町の人たちの日常会話などの「話し言葉」は口語体でくだけている。そうした「話し言葉」のことを「世話」と呼んでいたのだ。そして、それが転じて「世俗的なもの」「日常的なもの」を指すようになった。たとえば、歌舞伎や狂言や浄瑠璃などでは、中世以前の歴史的な内容を扱った演目を「時代物」、江戸時代の諸大名の藩中で起きた事件を扱った演目を「お家(いえ)物」、江戸時代の庶民の生活の中で起きた事件を扱った演目を「世話物」と呼んで大別している。
この「世話物」の「世話」は、「世話を焼く」の「世話」じゃなくて、「世俗的なもの」という意味なので、『世話焼き長屋』に収められている人情話のような作品に限定されているワケじゃない。一例を挙げると、元禄16年(1703年)に大坂(現在の大阪)で実際に起きた心中事件を元にして書かれた近松門左衛門の『曾根崎心中』なども、この「世話物」に分類されている。ちなみに、角田光代が現代文で書きあげた『曾根崎心中』(リトル・モア)はとても素晴らしくて、現代小説の感覚で読めるので、あたしのオススメの一冊だ。
『曾根崎心中』の場合は、醤油屋の男と遊女という庶民同士の心中なので、「世話物」に分類されているのは分かりやすい。だけど、武士が登場しても「世話物」に分類されている作品も多い。たとえば、元文2年(1737年)に、これまた曾根崎の遊女に騙されて公金を使い込んだ薩摩藩の武士が、遊女ら5人を殺害した事件を元にして書かれた並木五瓶の『五大力恋緘(ごだいりき こいのふうじめ)』なども、薩摩藩の藩中での「お家騒動」ではなく、武士と遊女との物語なので「世話物」に分類されている。
‥‥そんなワケで、こうした「世話物」は、実際に起きた事件を元にして書かれているけど、江戸時代後期の人たちから見ても100年以上も前の事件が元なので、当時でも、あまりリアリティーはなかったと思う。それに、こうした作品は、長いこと演目として上演され続けているうちに演出なども変化してきて、ストーリーに尾ひれが付いたりして、フィクションとしての色合いが強くなってくるからだ。一方で、当時の人たちにとって「最近、起きたばかりの事件」を元にした作品や「今、流行していること」などを盛り込んだ作品を「生世話(きぜわ)物」と呼び、「世話物」の中でもリアリティーの高いものとしていた。
「生世話物」と言えば、たとえば、通称『鼠小僧』と呼ばれている『鼠小紋東君新形(ねずみこもん はるのしんがた)』だ。鼠小僧が本当に義賊だったかどうかは諸説あるけど、大名屋敷を専門に荒らした次郎吉という泥棒は実在したし、江戸時代後期の1800年代の前半に、実際に江戸の瓦版を賑わせていた。寛政9年(1797年)に生まれた次郎吉は、25歳になった文政6年(1823年)から大名屋敷を専門にした泥棒になり、文政8年(1825年)までの2年間だけで、28カ所の大名屋敷に計32回も忍び込み、とうとう捕まってしまう。だけど、南町奉行所の取り調べに対して「初めて盗みに入った」と嘘をつき、入れ墨を入れられて江戸を追放になっただけで済んだのだ。
だけど、次郎吉は、ほとぼりが冷めたころにコッソリと江戸に戻り、天保3年(1832年)に捕まるまでの7年間に、71カ所、計90回も大名屋敷に忍び込んだのだ。北町奉行の取り調べに対して、次郎吉は、10年間に荒らした大名屋敷が95カ所、盗んだ金が3000両と答えているけど、捕まった時の次郎吉は一文無しだったと言われている。結局、次郎吉は、天保3年8月19日(1832年9月13日)、市中引き回しの上、獄門になってしまった。ちなみに、あたしの大好きなマリー・アントワネットがギロチンに掛けられたのは1793年10月16日なので、日本の鼠小僧より40年も前に処刑されている。
二代目河竹新七(黙阿弥)が書いた『鼠小紋東君新形』が江戸で初めて上演されたのは、鼠小僧の処刑からわずか25年後の安政4年(1857年)だ。だから、当時、この歌舞伎を観に行った人たちの中には、実際の鼠小僧が瓦版を賑わせていたことを良く覚えている人も多かっただろうし、中には、鼠小僧の市中引き回しを実際に見た人もいただろう。当時の人たちにとって、同じ「世話物」でも、100年以上も前、自分が生まれるずっと前に起きた事件を元にした『曾根崎心中』や『五大力恋緘』などと比べると、元の事件を知っている『鼠小紋東君新形』は、まさに「生きた世話物」、「生世話物」だったのだ。
‥‥そんなワケで、「生世話物」というと、もっと面白いパターンもある。たとえば、鶴屋南北が書いた『東海道四谷怪談』だ。『四谷怪談』は元禄時代に起きた事件を元にした作品なので、『曾根崎心中』と同じく1700年代初頭のことで、このままだと普通の「世話物」ということになる。でも、100年以上が過ぎてから、この『四谷怪談』を元にして、鶴屋南北が当時の出来事をアレンジしたのが『東海道四谷怪談』なのだ。
『東海道四谷怪談』では、毒殺したお岩と惨殺した小仏小平の遺体を戸板の表と裏に張りつけて神田川に流すんだけど、第3幕では、砂村隠亡堀で釣りをしていたお岩の夫、伊右衛門のところに、その戸板が流れ着く。そこには毒殺された妻・お岩の遺体が貼り付けられていて、怨みの言葉を言う。恐ろしくなって戸板を裏返すと、今度は小仏小平の遺体が貼り付けられていて、またまた怨みの言葉。川面に浮かんだ戸板の端を竿でトンと叩いて裏返すとお岩の遺体が怨みの言葉を言い、また裏返すと小平の遺体が怨みの言葉を言う。お岩、小平、お岩、小平と繰り返される怨みの言葉、これこそが『東海道四谷怪談』のクライマックスの「戸板返し」という見せ場だ。
だけど、これは、原作の『四谷怪談』にはないシーンだ。鶴屋南北が、当時、実際に起こった2つの事件、「不倫をした男女が戸板の表と裏に釘で張りつけにされて神田川に流された」という事件と、「砂村隠亡堀に心中した男女の遺体が流れ着いた」という別の事件を、1つに合わせて脚色して盛り込んだものなのだ。砂村隠亡堀は、現在の江東区にある横十間川にあったので、本当に神田川に流した戸板が流れ着くには、まずは神田川から隅田川へ入って東京湾まで出て、それが上げ潮に乗って隅田川を上ってきて、今度は小名木川に入り、そこから横十間川に入らないと辿り着かないので、現実的には不可能に近い。
当時の人たちにとっても、100年以上も前に起きた『四谷怪談』は古めかしい作品だったはずだ。でも、こうして、当時の「つい最近」に起きた2つの不倫と心中のニュースを盛り込み、それを脚色し、そのシーンを最大の見せ場にしたことで、この鶴屋南北の『東海道四谷怪談』は、文政8年(1825年)に江戸で初めて上演された時から、大ヒットした伝えられている。そして、元の作品は100年以上も前の『四谷怪談』なのに、当時の「つい最近」に起きた事件が盛り込まれていることから、「世話物」の中でも「生世話物」に分類されているのだ。
さて、話を元に戻すと、そもそもが「話し言葉」のことで、それが転じて「世俗的なもの」「日常的なもの」を指すようになった「世話」という言葉だけど、江戸時代の中期には「面倒なこと」「やっかいなこと」を指すようになり、そこから「世話を焼く」という言い回しが生まれたと言われている。つまり、現在使われている「世話をする」よりも、もう少しマイナスのイメージが強い言葉だったわけだ。そして、これが現在のように「面倒なこと」や「やっかいなこと」以外にも使われるようになったのが、「せわしい」という言葉との誤用だと言われている。
江戸時代までは、漢字は当て字で書くことも多かったため、同じ言葉でも複数の漢字表記があった。そんな中で、病人の看病などをすることを「忙(せわ)しい」と言っていて、これを略して「せわ」とも言っていた。たとえば、当時、「あなたの病気のせわをします」と言えば、これは「世話」じゃなくて「せわしい」の略語だった。だけど、これを文章にする場合、「忙」だと分かりにくいので「世話」という漢字を当て字として使うことがあった。そして、こうした当て字が原因となり、「面倒なこと」「やっかいなこと」だけでなく、病人や赤ちゃんを看ることなどにも「世話」という言葉が使われるようになったのだ。
‥‥そんなワケで、この「世話をする」「世話を焼く」という言葉は、もともとは「面倒なこと」「やっかいなこと」に限定して使われ始めたものが、向こう三軒両隣の人たちの世話まで焼いてしまう長屋の人たちの人情によって、誤用も手伝い、「困っている人を助ける」という良い意味で使われるようになったというワケだ。一方、もともとは「他人の心をおしはかって相手に配慮する」という日本人ならではの気配りを意味する「忖度(そんたく)」という言葉は、庶民とは完全に感覚が乖離した安倍晋三という1人の人物によって、今では悪い意味でばかり使われるようになってしまった。そして、安倍晋三による数々の疑惑の尻拭いをするために、各省庁がてんやわんやの大騒ぎ。今では庶民だけでなくエリート官僚までもが「まったく世話が焼ける首相だぜ」と思っている今日この頃なのだ(笑)
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