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2018.06.16

フィリップ・マーロウの憂鬱

もう何カ月も前のことなので、今さら言うのもアレだけど、深夜に原稿を書きながら文化放送『走れ!歌謡曲』を聴いていたら、ゲストの男性演歌歌手が、新曲のカップリング曲について説明する中で、この曲には作詞家の先生に頼んで自分の好きな言葉を織り込んでもらった、という話をしていた。そして、そのカップリング曲の歌詞に織り込んでもらった「自分の好きな言葉」について、次のように説明していた。


「僕の好きな言葉で『男は強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない。』というのがあるんですよ。映画のセリフだったか、小説に出てくるセリフだったか‥‥」


この演歌歌手は、今回の新曲がデビュー30周年記念だと言っていたから、20歳でデビューしたとしても50歳というワケで、あたしより5歳くらい年上だと思うけど、この言葉を聴いて、あたしは「あ~あ‥‥」って思ってしまった。だって、この人と同じように、この有名なセリフを間違えて覚えてる人ってけっこう多くて、あたしは今までに4~5人くらいの人に「それ、違いますよ」と教えてきた経緯があるからだ。

このセリフは、知っている人も多いと思うけど、レイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説、探偵フィリップ・マーロウが主人公のシリーズの第7作にしてチャンドラーの遺作でもある『プレイバック』に登場する。弁護士から、ある女性の尾行を依頼されたマーロウは、結局、その女性、ベティ・メイフィールドに近づき、一夜をともにする関係になるんだけど、その女性との間で次のような会話がなされるのだ。


ベティ・メイフィールド「あなたのようにしっかりした男がどうしてそんなにやさしくなれるの?」

フィリップ・マーロウ「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない。」


これは、原作が発刊された1958年の翌年、清水俊二さんによって初めて翻訳されたセリフだ。ちなみに原文は「If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive. 」なので、直訳すれば「もしも私が厳しくなければ、私は生きていられない。もしも私が優しくなければ、私は生きていく価値がない。」という感じになる今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、ハードボイルド作家の生島治郎さんは、1964年、このセリフを「タフじゃなくては生きていけない。やさしくなくては、生きている資格はない。」と訳した。また、作家の矢作俊彦さんは、1990年、原文の「hard」と「gentle」を無理に日本語にせずに「ハードでなければ生きていけない、ジェントルでなければ生きていく気にもなれない。」と訳すべきだと述べている。他にも、ちょっと変わったところでは、翻訳家で英文学者の柴田元幸さんが「無情でなければ、いまごろ生きちゃいない。優しくなければ、生きている資格がない。」と訳している。

そして、一昨年2016年12月、このチャンドラーのフィリップ・マーロウのシリーズの翻訳を続けてきた村上春樹さんの『プレイバック』が刊行された。村上春樹さんの訳では、このセリフは次のようになっている。


ベティ・メイフィールド「これほど厳しい心を持った人が、どうしてこれほど優しくなれるのかしら?」

フィリップ・マーロウ「厳しい心を持たずに生きのびてはいけない。優しくなれないようなら、生きるに値しない。」


う~ん、村上春樹さんのファンには申し訳ないけど、あたし的には、この訳はイマイチかな?女性のセリフの「これほど」を繰り返している点が気になるし、マーロウの「厳しい心を持たずに生きのびてはいけない」は翻訳者の主観が強すぎると思う。なんか、戸田奈津子さんが翻訳した洋画の字幕みたいで、「翻訳」なのに「創作」のフレーバーが強すぎると感じる。翻訳というものは、どんなに飛躍していても、それが原文のニュアンスを正確に伝えるためであるのなら許されるけど、翻訳者の主観が少しでも介在したら、そこでジ・エンド、それは翻訳ではなく創作になってしまう。

ま、原文に忠実であれば、いろんな翻訳があるのは楽しいし、それらの中で自分の感性に最もマッチする翻訳を選べばいいだけだけど、原文に書かれていない言葉を勝手に付け足しちゃうのは、やっぱり反則だと思う。それなのに、どうしてこの有名なセリフに「男は」なんて言葉が付け足されて、マーロウの個人的な感覚が、あたかも「男の生き方のお手本」みたいに広められちゃったんだろう?


‥‥そんなワケで、実はこれ、春樹は春樹でも村上春樹さんじゃなくて、もう1人の春樹、角川春樹さんに原因があるのだ。1976年、角川書店の社長だった角川春樹さんは、自社の書籍の売上を伸ばすために、自社の書籍を原作とした映画を制作することにした。もちろん、最初は既存の映画会社に制作を依頼して、自社の書籍の売り上げを伸ばそうとしたんだけど、これがなかなかスケジュール通りにいかない。そこで、角川春樹さんは、自分で映画制作をすることにして、1976年に第1作『犬神家の一族』を制作して公開した。そして、これが計画通りに大ヒットしたので、本格的に映画制作をするために「角川春樹事務所」を設立し、1977年には『人間の証明』、1978年には『野性の証明』と、次々と大ヒット作を生み出していったのだ。

角川映画が大ヒットした背景には、作品の良さだけでなく、宣伝の巧さがあったと言われている。『人間の証明』では、西条八十(やそ)の『ぼくの帽子』という詩の一部を引用した「母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?」というテレビCMのセリフが流行した。そして、1978年の『野性の証明』では、こんなキャッチコピーが使われた。


「男はタフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない。」


これは、さっき紹介した生島治郎さんの翻訳、「タフじゃなくては生きていけない。やさしくなくては、生きている資格はない。」を元にして作られたキャッチコピーであることは明らかだ。ようするに、「角川春樹事務所」の制作した映画は次々とヒットを飛ばしたし、そこには「宣伝の巧さ」が大きく作用していたワケだけど、その宣伝に疲れたコピーは、コピーライターが考えたオリジナルではなく、既存の詩の一部の流用や、既存の有名なセリフを元に作られた二次創作だったというワケだ。

だけど、この映画『野性の証明』が大ヒットしたことで、このキャッチコピーも注目され、その由来である原作、チャンドラーの小説『プレイバック』も再評価されるようになったと言われている。だから、既存の有名なセリフを元にして二次創作したことについては、あたしは別に何とも思っていない。ただ、二次創作である映画のキャッチコピーのほうが有名になってしまい、マクラで挙げた演歌歌手のように、二次創作のほうをオリジナルだと思い込んでいる人が多すぎることに、あたしは、何となく納得できない気分になっているのだ。


‥‥そんなワケで、あたしは、イギリスのレゲエバンド「UB40(ユービーフォーティー)」の『Red Red Wine』という失恋ソングを初めて聴いた時、なんて素敵な曲なんだろうと大感激して、それ以来、ずっと「UB40」の大ファンになった。だけど、当時は、この曲がニール・ダイアモンドのヒット曲で、それを「UB40」がレゲエにアレンジして演奏していたなんてぜんぜん知らなかった。そして、何年もしてから、その事実を知ったので、ニール・ダイアモンドのベスト盤のCDも買って、ちゃんと原曲を聴いてみたら、これはこれでとても素敵だった。

だけど、世の中は、あたしみたいな「原典に当たりたがる人」ばかりじゃないから、映画『野性の証明』のテレビCMで「男はタフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない。」というキャッチコピーと出会い、なんてカッコいいセリフなんだろうと感激し、これがチャンドラーの『プレイバック』という小説に出てくるセリフから作られたと知っても、わざわざその小説を買ってきて読もうと思う人は、そんなには多くないと思う。そのため、小説は読んでなくても、このセリフの由来だけは何となく知っている‥‥という人が大量発生してしまい、そういう人たちが得意になって周囲に吹聴してきた流れの中で、いつしかオリジナルと二次創作とがゴッチャになってしまったんだと思う。

映画『野生の証明』が大ヒットした1978年は、あたしはまだ5歳で幼稚園児だったから記憶がないけど、あたしより5歳以上も年上の演歌歌手なら、当時は小学5年生とか6年生とかだったはずだから、毎日のようにテレビで流れていたCMのキャッチコピーを耳にして「なんてカッコいいセリフなんだろう」と思った可能性は十分にある。そして、それから40年、一度も原典に当たらないまま生きてきた過程の中で、キャッチコピーの「タフでなければ」の他のバージョン、たとえば「ハードでなければ」とか「無情でなければ」とか「強くなければ」とかを耳にして、自分の中で「男は強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない。」という形が出来上がっちゃったのかもしれない。


‥‥そんなワケで、これは、あくまでも英文の和訳だから、あたしは、本意さえ変わらなければ複数の和訳があってもいいと思っている。でも、原作の「hard」を最初に「タフ」と訳した生島治郎さんは、さすがはハードボイルド作家だけあって、ハードボイルドな色合いを出すために原作の本意よりも自分の主観を優先した「無理のある和訳」をしたと思う。ちなみに、この「hard」を「厳しい心」と訳した村上春樹さんは、昨年4月のトークイベントで、次のように述べている。


「ハードとタフは違うんです。なので(生島治郎さんの)『タフじゃなければ』はかなりの異訳なんです。でも響きとしてはいい。それは翻訳者として難しいところで、読むほうは気持ちはいいんだけど、翻訳としてはちょっとまずい。私はずいぶん迷って何度も書き直して、やっと『厳しい心』に落ち着いたんだけど。でも『タフじゃなければ』のほうがフレーズとしては覚えやすいですね」


原文の「hard」をどのような日本語に訳すか、それとも矢作俊彦さんのように、そのまま「ハード」と書くか、この辺は翻訳者それぞれのセンスや好みによって分かれるとこだけど、原作の本意に従うのなら、少なくとも「タフ」と訳すべきじゃない。この作品『プレイバック』を最初から読み、マーロウとベティという男女2人の関係性やシチュエーションを理解した上で会話を読めば、これは、女性から思わぬセリフを言われてしまったマーロウが、照れ隠し気味に返したセリフだということが誰にでも分かる。そんな場面では、よほどのナルシストでもない限り「タフじゃなくては生きていけない。やさしくなくては、生きている資格はない。」なんて言うワケがない。ましてや、そのセリフに、原作にはない「男は」などという主語を勝手に付け足して、これがあたかも「男の生き方」の理想像であるかのように広まってしまっただなんて、あたしは「なんだかな~」と思ってしまう。


‥‥そんなワケで、「ハードボイルド」とは、直訳すれば「固ゆで」で、タマゴなどを固くゆでたことを指すんだけど、それが転じて、感情に流されない強固な精神と強靭な肉体とを併せ持ったクールな人物を指すようになり、そうした人物が主人公の客観的でシンプルな文体の小説を指すようになった。つまり、「ハードボイルド」とは、半分に切ったら黄身が流れ出てくるような半熟タマゴなどではなく、中心にしっかりとした黄身を持つ固ゆでタマゴのような人物のことなのだ。そう考えると、1959年に初めて日本語に翻訳した清水俊二さんの訳こそが、やっぱり原作のニュアンスに一番近いように感じられるので、今日は最後に、今から60年近く前の訳をもう一度紹介して、終わりたいと思う今日この頃なのだ。


「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない。」


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