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2018.07.16

記憶の移植と高齢化社会

先日、今から27年前の1991年に公開されたアニメ映画『老人Z』を初めて観た。敬称略で書かせてもらうけど、大友克洋と江口寿史という天才2人が、それぞれメカニックデザインとキャラクターデザインを担当したことで話題になった作品だ。で、観てみたら、これがめっちゃ面白かっただけでなく、いろいろと考えさせられるディープな作品だった。そして、何よりもあたしが驚いたのが、30年近くも前の作品なのに、まるで今の日本の状況を見た上で製作されたような作品だったことだ。

ずっと前の作品なので、最低限度のネタバレは許してもらうけど、当時から日本が将来的に高齢化社会へ進んでしまうことは予測されていたので、高齢化社会を迎えてしまった近未来の日本が舞台だという点は理解できる。でも、増えすぎたお年寄りの介護をする側の人手不足を解消するために、厚生省(当時)が民間企業に依頼して開発した最新型介護ロボットは、AIを搭載した第6世代のコンピューターを搭載している上、超小型の原子力エンジンによって駆動するというシロモノだった。

その上、この最新型介護ロボットの開発を請け負った民間企業は、実は将来的にこのロボットを兵器として利用するために、国の予算を使って開発していたというオマケまで付いていて、まるで今の安倍政権そのもののような作品だった。だから、古さを感じるどころか、今年公開された新作のアニメ映画と言われても違和感を覚えないほど素晴らしい作品で、最初から最後までタップリと楽しむことができた今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、この27年前のアニメ映画『老人Z』は、87歳の高沢喜十郎という寝たきりのお年寄りが主人公なんだけど、10年以上も前に亡くなってしまった奥さんのハルさんのことを今でも思っている。そして、この最新型介護ロボットのAIは、亡くなっているハルさんの人格を作り出し、ハルさんになって喜十郎さんに話しかける‥‥という流れから、あたしは、この「ハル」という名前は、映画『2001年宇宙の旅』のコンピューター「HAL 9000」や、「頭脳警察」のPANTAさんのバンド「PANTA & HAL」と同じで、「IBMの一歩先を行く」という意味から、アルファベットのIの前のH、Bの前のA、Mの前のLを組み合わせて作った名前なんじゃないかと思った。

ま、命名の背景はともかくとして、わずかなデータからハルさんの人格を作り出したのも、最初はベッドの形をしていた介護用ロボットが攻撃能力を備えた兵器へと進化したのも、どちらも学習能力を持ったAIによるものだ。今でこそ「ITの世界ではAIの進化がめざましい」と書かれていても、たいていの人が普通に意味を理解できると思うけど、30年近く前の公開当時は「IT」のことを「イット」と読む人もいただろう。念のため、「IT(アイ・ティー)」は「インフォメーション・テクノロジー」の頭文字で、日本語に直訳すれば「情報技術」という意味になるけど、昔からあった電話通信や無線などではなく、コンピューターの普及とともに発展した「データ通信」に代表されるコンピューター技術の総称だ。

一方、「AI(エー・アイ)」は「アーティフィカル・インテリジェンス」の頭文字で、直訳すれば「人工知能」という意味だ。人間の命令に従って動くロボットは何十年も前から作られていたけど、それはロボットが人間の言葉を理解して、自分で考えて行動しているワケではなく、「こういう単語を言われたら、このように行動する」というプログラムによって動いているだけだった。だけど、AIを搭載したロボットの場合は、自分の経験をデータとして蓄積していき、その中から「こういう場合は、このように対応したほうが良い」ということを自ら学び、成長していく。

たとえば、とても乱暴な例になっちゃうけど、ドライバーがハンドルを握っていなくても目的地まで走行してくれる自動運転自動車の場合、もしも人身事故や物損事故を起こしたら、そのたびにその情報がデータとして蓄積されていき、同じような条件下での事故をなるべく回避するようにAIが成長していく。だから、いろいろなパターンの事故をたくさん経験した自動運転自動車のAIこそが、最も事故回避能力の高いAIということになる。そして、こうしたデータは他のAIにも移植できるから、走行実験によって得た複数の事故データを最初から移植しておけば、新車でも、すでに複数の事故のパターンに対応した自動運転自動車ということになる。


‥‥そんなワケで、こうしたデータの移植は、もちろん、コンピューターだからできることで、人間の記憶を他の人間に移植することなんてできるワケがない。人間の場合は、医学の進歩で、心臓の移植、腎臓の移植、目の角膜の移植、白血病の骨髄移植、指や腕や足などの移植、耳や鼻の移植から顔面すべての移植など、いろいろな移植ができるようになってきたけど、さすがに脳の移植は不可能だ。最近、イタリアと中国の研究チームが「ヒトの頭部の移植に成功した」という怪しげな海外ニュースが報じられたけど、もしもこれが事実だったとしても、これは『ジョジョの奇妙な冒険』のDIOのように、身体を失った自分の頭部を別の人間の身体に移植しただけなので、あくまでも「脳を含んだ頭部の移植」であって、記憶だけを移植したことにはならない。

だけど、今年の春のこと、米カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)のデイビッド・グランツマン教授の研究チームが、この「記憶の移植」に成功したのだ。もちろん、相手は人間じゃなくて、海にいる軟体動物の「アメフラシ」なんだけど、それでも、人間にも通じるいろいろなことが分かったのだ。アメフラシって、見たことがある人も多いと思うけど、ウミウシに似た派手な色の軟体動物で、指で突いたりすると紫色の煙幕を張って敵から身を守ろうとする、あの生き物だ。

アメフラシは、指で突くなど外部から刺激を与えると、紫色の煙幕を張るだけでなく、身体を縮めて堅くするんだけど、その時間は、だいたい10秒程度だという。そこで、グランツマン教授の研究チームは、特定のアメフラシに微弱の電流を流すことによって、この身体を縮めて堅くするという防御の時間を伸ばすように訓練を続けた。訓練を受けたアメフラシは、指で突かれただけでも、それまでの5倍にあたる50秒間も身体を縮めて堅くするようになった。そして、訓練を行なったアメフラシから取り出した遺伝子のRNA(リボ核酸)を、訓練を行なっていない別のアメフラシに移植したところ、そのアメフラシも、指で突くと40秒間も身体を縮めて堅くなったのだ。

このアメフラシは、RNAを移植するまでは他のアメフラシと同様に10秒程度しか防御姿勢を取らなかったのに、訓練を受けたアメフラシのRNAを移植しただけで、まったく訓練など行なっていないのに、それまでの4倍、40秒も防御姿勢を取るようになった。また、アメフラシの感覚神経細胞を取り出して行なったシャーレー上の実験でも、同様の結果が出たという。こうした結果を受けて、グランツマン教授は「まるで記憶を移植したようだった」と述べた。


‥‥そんなワケで、ここでRNAについてザックリと説明しておくけど、有名なDNAは「デオキシリボ核酸」で、このRNAが「リボ核酸」だ。見た目としては、DNAは2本の線が螺旋になっていて長いけど、RNAは1本の線が螺旋になっていて短い。役割としては、DNAは遺伝情報を長期間保存しているけど、RNAは必要なタンパク質を作るために核から遺伝コードを転写したり、遺伝情報を伝達したりしている。そして、DNAは細胞核にだけ存在しているけど、RNAは人間の細胞の核と細胞質に存在している。ちょっと語弊があるかもしれないけど、ものすごくザックリと言えば、DNAがコンピューターの「ハードディスク」なら、RNAは「DVD-R」のようなものなのだ。

で、人間の記憶というものは、これまで長いこと、脳内の神経細胞同士の接合部にあるシナプスに蓄えられていると考えられてきた。つまり「記憶は脳内にある」と考えられてきたワケだけど、数年前から、この説を否定するような研究結果がいろいろと発表されてきた。そして、今回、アメフラシの実験を行なったグランツマン教授も、これまでのシナプス説に懐疑的なスタンスだった。そして、それを証明するために、神経細胞のタイプが人間のものとよく似ているアメフラシを使って実験を行なったのだ。

今回のグランツマン教授の実験を、さっきのあたしの「DNAがコンピューターのハードディスクなら、RNAはDVD-Rのようなもの」というザックリした比喩で説明すると、訓練をして通常よりも長く防御姿勢を取るようになったアメフラシのDVD-Rを抜き取り、それを別のアメフラシに差し込んだところ、そのアメフラシは一度も訓練を行なっていないのに、通常よりも長く防御姿勢を取るようになった‥‥ということになる。もしも、これが「記憶の移植」に該当することであり、人間のRNAもアメフラシと同じ構造なら、人間も他人と「記憶のやり取り」が可能になるかもしれないのだ。

今回の実験結果について、グランツマン教授は、「私は、記憶はシナプスではなくニューロン(神経細胞)の核に蓄えられていると推測している。もしも、これまでの仮説通りに記憶がシナプスに貯蔵されているのなら、我々の実験は成功しなかった」と語った。今回の実験の対象となったアメフラシの神経細胞のRNAは、生物の成長や病気に関する細胞のさまざまな機能を制御しているけど、このRNAにも記憶の一部が蓄えられていたのなら、記憶は脳内だけでなく全身の神経細胞に貯蔵されていたことになるからだ。


‥‥そんなワケで、アメフラシの神経細胞の数は約2万個、人間の神経細胞の数は約1000億個なので、数には大きな違いがあるけど、アメフラシの神経細胞のタイプや動きは、人間のものにとてもよく似ているという。そのため、アメフラシの神経細胞の研究は、記憶というものが深く関わっている人間の病気、アルツハイマー病や心的外傷後ストレス障害(PTSD)などの原因解明や治療にも大いに役立つと期待されているそうだ。あたしとしては、「記憶の移植」というSF映画のような世界にも興味があるけど、それよりも、少子化に歯止めが掛からずに高齢化が進み続ける今の日本にとっては、アルツハイマー病の原因解明が喫緊の課題だと思っているので、厚生労働省は、AIを搭載した最新型介護ロボットの開発より先に、まずはアメフラシの研究を始めてほしいと思っている今日この頃なのだ。


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2018.07.13

後世に遺したい粋な日本語

日曜日の朝の文化放送と言えば、立川志の輔さんの『落語 DE デート』、林家たい平さんの『たいあん吉日!おかしら付き♪』、林家正蔵さんの『サンデーユニバーシティ』と、噺家さんがパーソナリティーをつとめる番組が集中していたけど、このうち『サンデーユニバーシティ』は、今年の4月1日で13年半にわたる放送に幕をおろしてしまった。あたしは、噺家さんの粋な言葉づかいが好きなので、落語を聴くだけじゃなくて、こういう番組でフリートークを聴くのも好きなんだけど、林家正蔵さんの場合は、テレビのバラエティーなどが長かったためか、あまり噺家さんらしくない言葉づかいが多いと感じていた。

たとえば、ちょうど1年前の昨年7月の『サンデーユニバーシティ』の冒頭で、アシスタントの石川真紀アナが、リスナーからの「正蔵さんは入門当時の夏の思い出はありますか?」というメールを読み上げた。すると、林家正蔵さんは、いくつかの思い出を挙げたあと、最後にこう言ったのだ。


「他の師匠のお宅に稽古に行くと、玄関先でお弟子さんが水撒きをしてたなあ」


あたしは、座ってたから実際にはカクッとならなかったけど、心の中でヒザがカクッとしちゃった。だって、夏の玄関先なら「水撒き」じゃなくて「打ち水」だからだ。花壇や家庭菜園なら水を「撒く」でいいけど、夏の玄関先なら水は「打つ」だろう。昔のように柄杓(ひしゃく)ではなくホースを使っていたとしても、「玄関先の路面の温度を下げて涼を取る」ことが目的の打ち水であれば、やっぱり「撒く」ではなくて「打つ」になる。この場合なら「玄関先でお弟子さんが水を打ってたなあ」か「玄関先でお弟子さんが打ち水をしてたなあ」と言うべきだ。百歩ゆずって言葉を知らない若い女子アナとかならともかく、仮にも噺家さんなのだから、こんな無粋な言葉は使ってほしくないと思った今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、あたしはお蕎麦が大好きだけど、日常的には、さすがに「母さん、お昼はお蕎麦でも手繰(たぐ)ろうか?」とは言えないから、普通に「母さん、お昼はお蕎麦でもいただこうか?」と言う。だけど、落語の世界では、特に江戸落語では、お蕎麦は「手繰る」もので、あまり「食べる」や「啜る」は使わない。この、お蕎麦を「手繰る」のように、現代では日常的にほとんど使わなくなった古き佳き日本語が楽しめるのも、あたしは落語の魅力の1つだと思っている。

たとえば、落語に登場する大工さんや植木屋さんなどの職人さんたちは、弁当を「食べる」とは言わずに「使う」と言う。大工さんや植木屋さんは、仕事に来ていたお屋敷で、お昼になると、「旦那さん、ちょっと弁当を使わせてもらいやすよ」なんて言って、庭の隅や縁側などで持参した弁当を広げる。また、煙草は「吸う」じゃなくて「のむ」と言う。これは「飲む」でも「呑む」でもなく、漢字では「喫む」と書く。「喫煙」だから「喫む」というワケで、これは、あたしが小学6年生の時に亡くなったおばあちゃんも使っていた言葉だ。おばあちゃんは煙草が好きで、いつもエコーを吸っていたけど、必ず「のむ」と言っていた。

子どもだったあたしは、おばあちゃんが煙草に火をつけてから、吸った煙を吐いてるのに、その行為がどうして「飲む」なのか不思議だったけど、大人になってから「飲む」じゃなくて「喫む」だったということを知り、ようやく納得することができた。でも、そうだとしたら、「喫茶店」でコーヒーや紅茶などを「のむ」という場合も、本当は「飲む」じゃなくて「喫む」と書くのが正しいのかもしれない。ま、この辺のことは、書き出すと長くなっちゃうので次の機会に譲るとして、他にも、おばあちゃんや母さんが使っていて、あたしも自然と使うようになったのが、お風呂を「いただく」という言葉だ。

今どきの若い人の中には「先にお風呂に入っちゃうね」なんて言う人もいるけど、あたしは今でも「先にお風呂をいただいちゃうね」と言う。仕事から疲れて帰ってきたダンナさんに、「あなた、お風呂にする?お食事にする?」と聞くように、お風呂もお食事もどちらも「いただく」ものなので、「入る」や「食べる」では感謝の気持ちが表現できないと思うからだ。もちろん、状況によっては「お風呂に入る」と言うことがあってもいいと思うけど、そのお風呂を用意してくれた相手に対して感謝の気持ちを表わしたい場面なら、やっぱり「お風呂をいただく」と言うべきだと思っている。


‥‥そんなワケで、お蕎麦を「手繰る」、お弁当を「使う」、煙草を「喫む」などは、現代人の場合は、特に女性の場合は使いにくい言葉だけど、水を「打つ」やお風呂を「いただく」などは、これからも積極的に使って行きたい言葉だし、未来へ遺したい「美しい日本語」だと思う。そして、こうした言葉の中で、あたしがとても好きなのが、お香を「聞く」という表現だ。お香は「燃やす」ものではなく「焚く」ものだということは広く知られているけど、お香の香りを楽しむことを「聞く」と表現することは、知らない人も多いと思う。もともとは、「茶道」のような「香道」という文化から生まれた言葉で、「香道」では、静かな部屋で目を瞑ってお香の香りを楽しむことを「聞香(もんこう)」と言うのだ。

鼻を近づけて匂いを確かめることを「嗅ぐ」と言うけど、この漢字は口扁に「臭」と書くので、あまり良いイメージはない。かと言って、子どものころから「嗅ぐ」という言葉を使ってきたあたしは、大人になってから知った「匂ってみる」という表現には違和感を覚えてしまう。だから、今でもずっと「嗅ぐ」という言葉を使っているけど、会話の中で使うのならともかく、今回のように文章に書くと、やっぱり「嗅ぐ」という漢字は好きになれない。そして、「嗅ぐ」は「匂い」に対して使うけど、「聞く」は「香り」に対して使うので、同じように使うことはできない。でも、こうして表現の選択肢が増えることは嬉しいことだ。

たとえば、ほのかな良い匂いに対しては、「匂い」よりも「香り」という言葉を使うことが多い。「花の香り」と言うけど「花の匂い」とはあまり言わないし、「コーヒーの香り」と言うけど「コーヒーの匂い」とはあまり言わない。こんな時、これらの香りに対して、「花の香りを聞く」とか「コーヒーの香りを聞く」なんて使うのはどうだろうか?とてもイメージが伝わりやすいと思う。一方、商店街の鰻屋さんや焼き鳥屋さんの前を通った時に、換気扇から煙と一緒に漂ってくる美味しそうな匂いは、「鰻の蒲焼きの匂い」や「焼き鳥の匂い」と言うけど、「鰻の蒲焼きの香り」や「焼き鳥の香り」とは言わない。つまり、良い匂いであっても、花やコーヒーのような「ほのかな香り」ではないので、こちらには「聞く」という表現は似合わない。

「匂い」と「香り」とをザックリと区分けすれば、「匂い」は良いものも悪いものも強いものも弱いものも、すべてをひっくるめた呼び方で、その中の「ほのかで良い匂い」のことだけを「香り」と言う。そして、この「聞く」という表現は、「香り」にしか使えない、ということになる。でも、この「香り」という概念も、人それぞれなのだ。たとえば、煙草が好きな人なら「煙草の香り」と言うけど、煙草が嫌いな人なら「煙草の匂い」と言う。あたしは、良い香りの例として「花の香り」と「コーヒーの香り」を挙げたけど、人の感性や嗜好は人それぞれだから、日本中を探せば、「花の香り」が嫌いな人や「コーヒーの香り」が苦手な人もいるかもしれない。そして、そういう人にとっては、「香り」ではなく「花の匂い」や「コーヒーの匂い」になってしまうのだ。


‥‥そんなワケで、テレビは「見る」でもいいけど、演劇は「観劇」だしスポーツは「観戦」なので、同じテレビでも映画や演劇、スポーツなどを見る場合には「観る」という表記を使いたい。ラジオは「聞く」でもいいけど、放送内容に集中して真剣に聞く場合には「聴く」という表記を使いたい。これらと同じように、同じ「のむ」であっても、喉の渇きを癒すために水やジュースなどを飲むのは「飲む」、日本茶を飲むのは「湯呑」を使って飲むワケだから「呑む」、また、日本酒や焼酎を飲む場合も「呑む」という表記を使いたい。そして、喫茶店でコーヒーや紅茶などを飲む場合は、煙草のように「嗜好品をたしなむ」という意味合いもあるため、ここは「喫む」という表記を使いたいと思う。でも、以前、あたしが喫茶店のコーヒーは「飲む」なのか「喫む」なのか考えていた時、大阪出身の仕事仲間に、こんなことを言われてしまった今日この頃なのだ(笑)


「きっこさん、喫茶店の茶~は、『のむ』もんやなくて『しばく』もんですよ」


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2018.07.10

ヌードルハラスメントと東京オリンピック

1980年代後半くらいから「セクシャルハラスメント」、略して「セクハラ」という言葉が使われ始めてきて、1997年の男女雇用機会均等法の改正によって「セクシャルハラスメント規定」が設けられ、「セクハラ」の定義が確立された。そして、その後は、職場などで立場の上の者が下の者に行なう精神的かつ肉体的な虐めである「パワハラ(パワーハラスメント)」、職場などで特定の相手を無視するなど、言葉や態度で嫌がらせを繰り返す「モラハラ(モラルハラスメント)」、会社の飲み会などで上司が部下に「俺の酒が飲めないのか!」などと言って無理に飲ませる「アルハラ(アルコールハラスメント)」など、主に職場という絶対的な上下関係のある世界で、いろいろなハラスメントが指摘されるようになってきた。

女性社員にだけお茶汲みをさせたり、女性社員には男性社員並みの出世の機会を与えないなど、こうした性別による格差は「ジェンハラ(ジェンダーハラスメント)」と呼ばれていて、家庭などでも「男なんだから重い荷物を持ちなさいよ!」とか、「女なんだから料理ぐらい作れよ!」など、男だから何々、女だから何々というのは、その多くがこれに該当すると指摘された。また、大学教授が特定の学生にだけ厳しく接する「アカハラ(アカデミックハラスメント)」、妊娠を報告した女性社員に対して、陰で「こんな忙しい時に妊娠かよ」などと噂するなど、妊娠した女性に対する嫌がらせ全般の「マタハラ(マタニティーハラスメント)」も、最近では問題視されるようになってきた。

他にも、これは自民党の男性国会議員に散見されるけど、未婚の女性に対して「どうして君は結婚しないのか?」と問い詰めたり、間接的にでも少子化の話題などを振って、結婚しない女性が増えたことを問題視する発言を聞かせたりする「マリハラ(マリッジハラスメント)」、スマホやパソコンの使い方がよく分からない高齢者などから使い方を聞かれると、わざと理解できない専門用語を並べて面倒くさそうに説明し、その用語の意味を聞くと「そんなことも知らないの?」に言って相手を傷つける「テクハラ(テクノロジーハラスメント)」、体臭や口臭、強すぎる香水や柔軟剤の匂いで他人を不快にさせる「スメハラ(スメルハラスメント)」、ツイッターやインスタグラムなどのSNSで、上司が部下に「いいね」を強要したりする「ソーハラ(ソーシャルハラスメント)」など、挙げ始めたらキリがない今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、他にはどんなハラスメントがあるのか、インターネットで調べてみたら、「ゼクハラ」なんていうのもあった。最初は「セクハラ」かと思ったんだけど、よく見てみたら「セ」じゃなくて「ゼ」だったので、何のことかと記事を見てみたら、「ゼクシィハラスメント」の略だった。「ゼクシィ」というのは結婚の専門雑誌の名前で、一般的には結婚を約束しているカップルが読む雑誌だ。でも、最近では、何年も付き合っているカノジョがいるのに、自分の収入の問題や将来への不安などで、なかなか結婚に踏み切れない男性も多いという。そんな時、少しでも早く結婚したいと思っているカノジョのほうは、デートのたびに結婚の話題を出したり、自宅にカレシを呼ぶ時に、わざとテーブルの上に「ゼクシィ」の最新号を置いておいたりして、暗にカレシに結婚を迫るという作戦に出ることもあるそうで、これが女性から男性への「ゼクハラ」になるそうだ。

結局、あたしがザッと調べてみただけでも、軽く30を超える種類のハラスメントがあったので、この「ゼクハラ」のようなニュータイプまで含めれば、今の日本には50近い種類のハラスメントがあると思う。たとえば、都知事時代の石原慎太郎のように、数々の暴言や差別発言で他者を不快にさせることを「イシハラ(石原ハラスメント)」と呼んだり、シャケの腹の身である「ハラス」が大好物の上司が、シャケが嫌いな部下に対して「俺のシャケのハラスが食えないのか!」と強要することを「ハラハラ(ハラスハラスメント)」と呼んだりすれば、いくらでもハラスメントの種類を増やすことができる‥‥って、皆さん、気づいた?「シャケ」だけに「いくらでも」なのよん♪(笑)

そして、文化放送『くにまるジャパン極』の中の「野村係長」のように、職場で部下を相手にこうした親父ギャグを連発するのも「ダジャハラ(駄洒落ハラスメント)」と言われているそうだ。ま、親父ギャグはともかくとして、ハラスメント(Harassment)とは、直訳すれば「嫌がらせ」という意味だけど、そこには基本的に上下関係が存在する。ほとんどのハラスメントは、上司が部下に対して、先輩が後輩に対して、教授が学生に対してなど、立場の有利な者が、その立場を利用して行なう「嫌がらせ」なので、よりタチが悪いんだと思う。だから、あたしは、ほとんどのハラスメントに反対の立場だけど、ただひとつだけ、どうしても理解できなくて「はぁ?」って思っているハラスメントがある。日本のお蕎麦屋さんで、日本人が音を立ててお蕎麦を啜ることに、どこかの外国人がイチャモンを付けてきた「ヌーハラ(ヌードルハラスメント)」だ。

懐かしいところだと、10年前の2008年、王貞治さんの二女の王理恵さんが、医師の本田昌毅さんとの婚約を解消した時に、その理由を「本田医師のお蕎麦を啜る音が我慢できなかった」と説明した‥‥というワイドショーのニュースがあった。あたしは、この時、「この女、何言ってんだ?」と思ったことを覚えている。この時は、普通のお蕎麦じゃなくて「とろろ蕎麦」だったそうなので、音もそれなりに大きかったとは思うけど、それでも、日本のお蕎麦は音を立てて啜るのが「文化」であり、さらに言えば「マナー」なのだから、そこに文句を言うのは完全に筋違いだ。お蕎麦屋さんに行った時、先に来ていたお客さんたちが音を立ててお蕎麦を啜っていると、あたしは「美味しそうに食べてるなあ~」と思って、自分も早く食べたくなる。これが日本のお蕎麦の文化だ。

百歩ゆずって、あたしが海外へ行った時、外国にある日本レストランに入り、周り中、すべてその国の人たちが食事をしている真ん中で、日本蕎麦を注文してズルズルと音を立てて啜り、それで周りのお客から嫌な顔をされたのなら、あたしにも非があると思う。だけど、わざわざ日本にやってきて、わざわざ日本蕎麦屋に入ってきて、それで、ずっと日本に住んでいる日本人たちの食べ方に文句を言うなんて、寝言は寝て言えってんだ!こういうことを言う外国人たちって、もしもインドに行ってカレー屋さんに入ったら、手でカレーを食べている周りのインド人たちに向かって、「手で食べるなんて汚らしい!ちゃんとスプーンで食べろ!」とでも言うのだろうか?

外国へ行くということは、その国の文化の中に自分が入って行くことなんだから、基本は「郷に入れば郷に従え」だ。それなのに、その国の文化を否定して、自分の国の常識を押し付けるなんて、いったいぜんたい何様のつもりなんだろう?あたしが外国人で、初めて日本に来たとしたら、「日本のお蕎麦は音を立てて啜るのがマナー」ということぐらい下調べしてから来るし、どうしてもその音が苦手だと感じたら、文句など言わずに「日本蕎麦屋には行かない」という選択をする。それが普通なんじゃないの?

それなのに、2020年の東京五輪を前にして浮足立っているのか、「おもてなし」という言葉の意味を履き違えている人たちがいる。たとえば、東京を中心としたエリアでの「案内看板などの多言語化」だ。これまでは日本語だけか、あっても日本語の下に英語が書いてある程度だった案内看板などに、韓国語、中国語、フランス語、イタリア語、ロシア語、ペルシャ語‥‥って、何が何だか分からないモノが増え始めてきた。もちろん、看板のスペースの問題などもあるため、スマホに対応して画面に母国語が表示されるシステムとかも導入されつつあるけど、一般的な道路標示などは、何カ国語も並んでいて、読みずらいったりゃありゃしない。

こんなもん、日本語と英語だけでいいんだよ。日本に来るんだから、簡単な日本語くらい勉強してくるだろうし、英語まで書いてあれば問題ないだろ?なんで莫大な税金を使って多言語の看板なんか並べなきゃならないのか?こういう「おんぶにだっこ」が「おもてなし」だと思っているのなら、それは根本的に間違っていると思う。フランス人なんてプライドが高いから、英語すら書いていないフランス語オンリーの看板だらけだし、レストランのメニューだってフランス語だけの店が多い。さらに言えば、ホントは英語が分かるくせに、こちらが英語で話しかけると分からないフリをする。ようするに「フランスに来るならフランス語くらい覚えてから来い」というスタンスなのだ。

ま、ここまで高飛車なのもどうかと思うけど、公共交通や公共施設の案内看板に何カ国語も並べるなんて、まるで赤ちゃんの口にスプーンで離乳食を運んであげるような過剰サービスであって、こんなもんは決して「おもてなし」とは呼べない。本当の「おもてなし」とは、日本の文化を前面に出した「ザ・ニッポン」を見せてあげることであって、「おんぶにだっこ」の過剰サービスのことではない。そして、この日本の文化のひとつが、音を立ててお蕎麦を啜ることなのだ。だから、2020年の東京五輪に向けて、日本が本当に外国からくる人たちを「おもてなし」したいと思っているのなら、まずは「ヌーハラ」などという他国文化の押し付けをきちんと批判した上で、「正しい日本蕎麦の食べ方」という、それこそ多言語のパンフレットを作り、「お蕎麦はズルズルと音を立てて啜るのがマナーであり、日本の伝統的な文化である」と明記すべきなのだ。

それなのに、嗚呼それなのに、それなのに‥‥って、久しぶりに五七五の俳句調で嘆いちゃうけど、昨年2017年11月、日清食品が、お蕎麦を啜る音を聞こえなくするためのフォーク「音彦(おとひこ)」をクラウドファンディングで予約・発売すると発表したのだ。トイレの音を聞こえなくするTOTOの「音姫」からヒントを得た商品で、フォークの本体に内蔵されたセンサーが「お蕎麦を啜る音」を感知すると、信号がスマホに飛んで、専用アプリを介して「お蕎麦を啜る音を聞こえなくするための音」が鳴り出すそうだ。価格は1万4800円で、予約が5000人に達した場合のみ販売するという。

専用サイトで見てみたら、魚肉ソーセージよりも太い持ち手の先にフォークが付いていて、すごく使いにくそうな大きさだったけど、あたしには、まるで意味が理解できなかった。だって、トイレの「音姫」と同じように、消したい音よりもさらに大きな音を出して聞こえなくするということは、お蕎麦屋さんの中にその音が鳴り響くわけでしょ?それに、そこまでしてお蕎麦を啜る音を聞きたくないのなら、こんなもんを1万4800円も払って買わなくたって、両耳に耳栓でもするか、イヤホンして音楽でも聴きながらお蕎麦を食べればいいじゃん。これなら他の人にも迷惑が掛からないし、お金も掛からないし。

結局、この「音彦」は、締切までに予約が目標の5000人に達しなかったために商品化は断念されたけど、あたしとしては、こういう商品を日本人が考えたということが悲しかった。日本の文化を理解できない外国人が、日本へ旅行に行く外国人たちに向けて開発したというのなら、それはそれで一定の理解はできる。でも、日本人が日本の文化を否定するようなものを考え出すなんて、いつから日本はこんな国になっちゃったんだろう?

たとえば、西洋では「スープはスプーンで飲むもの」と決まっているため、あたしたち日本人が、お椀に口を付けてお味噌汁を飲むことを「下品だ」「野蛮だ」と感じる欧米人もいる。でも、これが日本の文化なのだから、他民族から文句を言われる筋合いはない。もちろん、日本にきた外国人の中で、どうしてもお椀に口を付けてお味噌汁を飲むことに抵抗があるという人には、スプーンを用意してあげればいい。だけど、日本人までもが外国人の目を気にして、お味噌汁をスプーンで飲む必要などないのだ。

お蕎麦を啜る音しかり、日本で生まれて日本で暮らしている日本人が、どうして海外から遊びにきた外国人旅行者に気を使って、日本の伝統的な文化を疎んじたり、封印したりしなきゃならないのか?あたしは、これほど理不尽な話はないと思う。あたしは落語が大好きだけど、噺家さんたちは扇子と手拭いだけでいろいろな演技を行なって楽しませてくれる。その中でも最もポピュラーなのが、閉じた扇子をお箸に見立てた「お蕎麦を手繰る演技」だ。ここでは、どの噺家さんも必ず「ズズッ!」という音を立てて、美味しそうなお蕎麦を感じさせてくれるけど、これもダメだと言うのだろうか?

確かに、公共の場などで、周りにいる人たちを不快にさせる行為は慎むべきだし、場合によってはハラスメントに該当してしまうので気をつけるべきだ。でも、日本のお蕎麦屋さんの店内で、音を立てて美味しそうにお蕎麦を啜ることは、まったく次元の違う話だ。音を立てて麺類を啜るという文化のない国の人たちから見たら、中には不快に感じる人もいるかもしれないけど、それはあくまでも「文化の違い」であって、文句を言われる筋合いではない。違う文化圏からやってきた外国人のほうが我慢すべきことだし、嫌なら日本のお蕎麦屋さんに入らなければいいだけの話だ。それなのに、よそからやってきて日本の文化を否定するだけでは飽き足らず、「ヌードルハラスメント」などと言い出す始末。あたしは「アホか?」と言いたい。

わざわざ日本に来ても日本食を嫌って自国の料理しか食べないのはドナルド・トランプくらいで、日本を訪れる多くの外国人は、日本の料理を食べたがる。以前、オーストラリアの女友達が日本にきた時、あたしはその子が行きたがっていた「回転寿司」に連れて行ったんだけど、次々と流れてるお寿司を見て大コーフンした彼女は、最初に取ったマグロの赤身を手で食べ始めた。そして、お箸で食べ始めたあたしを見て、「きっこ、お寿司は手で食べるのが正式なマナーなのよ」と教えてくれたので、あたしは噴き出してしまったことがある。もちろん、彼女は、お味噌汁はお椀に口を付けて飲んでいた。

日本を訪れる外国人の多くは、日本の食文化にも興味があるのだ。たとえば、日本の食文化のひとつである「お箸」に関しては、日本だけでなく中国でも韓国でも使われていることもあって、今や英語でも「チョップスティック」などと呼ばれていて、欧米人でも上手に使う人が増えてきた。日本にくる欧米人は、こちらが気を使ってフォークとスプーンを用意してあげても、わざわざお箸を使いたがる人も多い。日本を訪れる外国人の中には、お箸の専門店に行き、お土産に大量のお箸を買っていく人も多いという。

それなのに‥‥と、あたしは思う。お寿司を手で食べ、お味噌汁をお椀に口を付けて飲み、お箸を上手に使うのに、どうしてお蕎麦を啜る音は否定するのだろうか?いくら自分の生まれ育った国の文化とは違うと言っても、これも日本の伝統的な食文化なのだ。ドナルド・トランプは、十数年前に不動産の仕事で初来日した時、日本企業が接待した高級料亭のテーブルに並んだお刺身を見て、「忌々しい生の魚など食えるか!」と怒鳴りつけて席を立ったという。まるで『美味しんぼ』の海原雄山みたいだけど、お蕎麦を啜る音を否定するということは、ドナルド・トランプのために日本のすべての料理屋を「お刺身禁止」にするような話なのだ。

そもそも、日本のお蕎麦は、特に、あたしが生まれ育った東京のお蕎麦は、お箸の先にワサビを付けてから、ひとくち分のお蕎麦を持ち上げて、お蕎麦の先を4分の1くらいをお汁に付けて啜るのが、お蕎麦の味だけでなく香りまで楽しめる正しい食べ方なのだ。そのため、少し付けただけでちょうどよくなるように、お汁は濃いめに作られている。そして、お蕎麦の先を4分の1くらいしかお汁に付けないから、「ズズッ!」と音を立てて一気に啜らないとお汁が着いてこない。音を立てないように静かに口に運んでいたら、お汁は滴り落ちてしまって美味しくいただけない。これらはすべて一連の動作として完成されている食文化であって、この流れの中から「音」だけを否定して排除するということは、お蕎麦そのものを否定することに他ならない。

あたしから見たら、蕎麦猪口のお汁の中にワサビを入れてお箸でグルグルと掻き混ぜている人や、そのお汁にお蕎麦をぜんぶ入れてグチャグチャと混ぜてから、口の近くまで持っていって食べている人たちのほうが、見ていて遥かに不愉快だ。だけど、そういうお蕎麦の食べ方も知らない人たちに関しては、相席にでもならない限り、その人のほうを見なきゃいいだけの話なので、あたしには関係ない。そういう人を見るたびに、あたしは心の中で「みっともない人だな」と思うだけで、別に文句も言わない。それなのに、お蕎麦を最も美味しく味わうための「伝統的な正しい食べ方」をしているあたしたちが批判され、挙句の果てにはハラスメント扱いされるだなんて、これほどおかしなことはない。

外国から訪れる人たちに気を使って、日本の伝統文化のひとつである「お蕎麦を啜る音」を、まるで「恥ずかしいもの」であるかのように卑下して隠そうとするヒマがあるのなら、自民党政権が推進してきた「男尊女卑」や「男女格差」という「日本の恥ずかしい伝統文化」を何とかするほうが先だろう。昨年の年末、世界各国の経済、政治、教育、健康の4部門での男女格差を調査した「世界男女格差ランキング2017」が発表されたけど、日本は先進各国の中でブッチギリの最下位だった。日本は、調査した世界144カ国の中で、欧米は当然として、アフリカ諸国や南米諸国やインドや中国よりも下の「114位」だったのだ。前年の2016年は「103位」だったけど、安倍晋三首相が「女性の輝く社会」を掲げたとたん、さらに11位もランキングが下がったのだ。


‥‥そんなワケで、かつて、東京都知事選で自民党候補が女性票を失って敗れた時、麻生太郎氏は「婦人に参政権など与えたのが間違いだった」と抜かしたけど、こんな女性蔑視主義者が現在も副総理の座に居座り続けているということ自体、日本の「男女格差」がいつまで経っても是正されない抜本的な理由のひとつだと思う。そして、とても先進国とは呼べないような「世界114位」という異常な「男女格差」が、今回のテーマでもあるハラスメントの原因のひとつにもなっているんだと思う。もちろん、性別に関係のないハラスメントも数多くあるし、女性から男性へのハラスメントもあるけど、未だに「男性は女性より偉い」「女性は男性より下」という生きた化石のような自民党の偏向思想に毒されている日本には、「女性社員はお茶汲みをしろ」「女なんだから料理を作れ」「女は子育てをして当たり前」という、他の先進国ではソッコーで裁判沙汰になってしまうような「男女格差」による前時代のハラスメントが健在なのだ。そして、国内がこんな状態なのに、迷惑千万な多言語の案内看板を林立させたり、お蕎麦を啜る音を立てないようにしたりと、こんなふうにソトヅラだけを良くすることが「おもてなし」だと思っているのなら、それこそ日本の恥を全世界に晒すことになるから、東京オリンピックなんかやめちまえ!‥‥って思った今日この頃なのだ。


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2018.07.09

明治時代のネットストーカー

昨日、7月8日(日)の夜、人気講談師の神田松之丞さんのラジオ番組、TBS『問わず語りの松之丞』を聴いていたら、松之丞さんがタチの悪いお客に絡まれた話をしていた。ザックリいうと、キャパが38人だけの「連雀亭」というところで、お昼に「ワンコイン寄席」と言って500円で3人の落語家や講談師が出演する寄席をやっているんだけど、ちょうど松之丞さんがダウンタウンのテレビ番組に出演した直後だったことで、いつもの何倍ものお客が押し寄せてしまい、多くのお客が入れなくなってしまった、という話だった。

消防法の関係で、ピッタリ38人までしか入れることができないため、松之丞さんは、列の先頭から38人までを数えて中に入れ、その後ろにいた若い女性と70代くらいの男性には十二分に謝って帰ってもらった。それなのに、しばらくして外を見ると、50人くらいの列ができていて、その中にさっきの男性もいて、文句を言い出した。その男性は、松之丞さんが出演したテレビ番組をいろいろと観ているようで、「ダウンタウンの番組に出たからって調子に乗っているのか」などとイチャモンをつけてくる。話にならないと思った松之丞さんがミネラルウォーターを買いに行くと、文句を言いながらどこまでも着いてくる。

あまりのしつこさに堪忍袋の緒が切れた松之丞さんが、その男性に向かって「私はあなたのような客が一番嫌いです。あなたはクレーマーですから、私はもう相手にしません」と言ったところ、その男性はカンカンになって怒り、またまた松之丞さんに対して文句を言い出した。それなのに、「一緒に写真を撮ってください」という女性ファンと一緒に松之丞さんが写真を撮っていると、その男性は「俺も一緒に写真を撮ってもらおうかな?」と言い出す始末。

結局、その日はそれだけで終わったそうだけど、数日後、松之丞さんが所属している「落語芸術協会」宛てに、「お前のところは、あの神田松之丞という若造に、いったいどういう教育をしているのか」というクレームのメールが送り付けられてきたという。松之丞さんいわく、「連雀亭と芸協(落語芸術協会)は関係ないのに‥‥」とのことだけど、この手の人は、自分の言動や行動が「普通じゃない」ということにまったく気づいていないから、いくら筋道を立てて説明しても絶対に理解してもらえない今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、現実の世界でもインターネットの世界でも、他人に迷惑行為や嫌がらせをしてくる人には、大きく分けて2つのタイプがある。1つは、最初からその相手のことが気に入らなくて、ただ単に「嫌いだから嫌がらせをする」という小学生のような単純な思考回路の人たちで、大半はこのタイプだ。こういうタイプは、いっさい相手にせず、ずっと無視していれば自然消滅するから、ワリと対応が楽チンだ。

そして、もう1つは、もともとはその相手のことが好きだったのに、その相手に自分の思いや気持ちが伝わらなかったり、その相手の何らかの言動や行動を被害妄想的に「自分を嫌っている」と思い込んでしまったことで、逆恨みのように嫌がらせを始めるタイプだ。これは少数派だけど、前者よりも遥かに病的なので、いつまでも粘着質に嫌がらせを続け、終いには刃傷沙汰や警察沙汰になるケースもある。自分のDVが原因で離婚に至ったのに、それでも執拗にストーカー行為を繰り返す異常な男なんかも、このタイプだ。そして、こういうタイプの人に限って、自分の異常さに気づいておらず、自分のほうが被害者だと思い込んでいるケースが多い。

2年前の2016年5月、アイドル活動をしていた20歳の女子大生が、27歳の男にライブ会場の前で待ち伏せされ、ナイフで顔面や首や胸など20カ所もメッタ刺しにされて重傷を負った事件があった。このアイドルも加害者の男もツイッター上でやりとりしていたというので、あたしは当時、2人の過去のツイートを見てみたんだけど、この男のツイートの異常さは尋常じゃなかった。もともとは「アイドルとファン」というだけの関係だったのに、このアイドルに対する思い込みが激しくなりすぎ、自分の送ったプレゼントを送り返されたことにキレてしまい、完全に「ネットストーカー」と化していたのだ。

このアイドルは、ツイッターでの男の異常なしつこさに身の危険を感じ、高額なプレゼントなど受け取ったら何をされるか分からないと思い、それで送り返したわけだけど、自分の行為が異常だということに気づかない男は、逆恨みをするようになった。このアイドルは警察にも相談していたけど、それでも警察は動いてくれず、結局、襲われてしまったのだ。

こういう話を聞くと、こういうタイプの異常な人たちって、現代ならではの病気のようにも思えてくるけど、実はそうじゃない。こういう人は昔からいたのだ。そして、インターネットなどなかった100年以上も前の明治時代にも、今の「ネットストーカー」と同じような人がいた。今はツイッターなどのSNSで、住所が分からない有名人にも気軽にコメントを送ることができるようになったけど、インターネットなどなかった時代、と言うか、1970年くらいまでは、少年ジャンプの巻末には漫画家の住所の一覧が掲載されていたし、文学誌の巻末には作家の住所の一覧が掲載されていたから、有名な漫画家や作家のファンは、現在のような出版社留めではなく、その作家の自宅に、直接、ファンレターを送ることができたし、訪ねて行くこともできたのだ。


‥‥そんなワケで、かの夏目漱石の自宅にも、全国のファンからファンレターが送られてきていたけど、中には何を考えているのか、大判の封筒に短冊や和紙などを入れて送り付け、「私はあなたのファンです。この短冊に一句書いて送り返してください」とか「この和紙に詩を書いて送り返してください」などという手紙を同封してくる失礼で迷惑な輩(やから)もいたのだ。それも、1人や2人ではなく、けっこうな頻度で届くんだけど、漱石は人が好かったので、ムカッとしながらも、できるだけ相手の希望に応えるようにしていたという。

そんなある日のこと、漱石の自宅に播州(現在の兵庫県)に住む岩崎という男から薄い小包が届いた。この男は、何年も前からハガキに俳句を書いて送り返してくれと言ってくる面倒くさい男で、これまでは希望通りに俳句を書いて送り返してやっていたが、この時は忙しかったので、小包を開けずに放っておいた。そして、何日かが過ぎるうち、自宅の下女が書斎の掃除をした時に片づけてしまい、その小包は見当たらなくなり、漱石も小包のことは忘れてしまった。

この小包と前後して、名古屋のお茶屋さんからお茶が届いたんだけど、送り主の名前がなかったので、漱石はファンの誰かが送ってくれたのだと思い、そのお茶を開けて飲んでしまった。それからしばらくすると、例の岩崎という男から「私の富士登山の絵を返してくれ」というハガキが届いた。何のことか分からない漱石は放っておいたんだけど、しばらくすると、また同じ内容のハガキが届いた。それでも放っておくと、同じ文面のハガキが何度も何度も毎週のように送られてくる。漱石は、この男の精神状態を疑い始め、「たぶんキ●ガイだろう」と思い、いっさい取り合わないことにした、と記している。

それから2~3カ月後のこと、漱石が書斎の書物を整理していると、書物と書物の間から、あの男からの薄い小包が出てきたのだ。急いで開封してみると、中にはあの男が描いたと思われる「富士登山の絵」が入っていて、同封の手紙に「この絵に合う俳句を書いて送り返してほしい。お礼にお茶を送った」と書かれてあった。これも普通に考えたらトンデモな話だけど、漱石は何度も何度も催促の手紙が来たことと、届いたお茶を飲んでしまったことで恐縮してしまい、丁寧なお詫びの手紙を添えて、お茶のお礼も書いて、この絵を送り返した。ただし、とても俳句など詠めるような状況ではなかったため、俳句は書かずに送り返したのだ。

漱石は、これですべてが丸く収まったと思っていた。しかし、相手はマトモじゃない。しばらくすると、また短冊を入れた封筒と「この短冊に一句書いて送り返してくれ」という封書が届き、放っておいたら催促のハガキが届き、それでも放っておいたら1週間に1通のペースで催促のハガキが届くようになった。そして、その文面も、だんだんおかしくなり始めた。最初のハガキには「お茶をあげたのだから俳句を書いてくれ」と書かれていたのに、次は「お茶を送り返せ」に変わり、その次は「お茶を返さないのなら代金として1円払え」に変わったのだ。明治時代の1円は、現代では約2万円にあたる。

ここまでの流れを見て、これって完全に「ネットストーカー」と同じだと思った人も多いだろう。もともとは好きだった相手、尊敬していた相手に対して、自分が失礼で迷惑な行為を繰り返していたことなどまったく自覚せず、相手の立場や状況などもいっさい考えず、自分こそが被害者だと思い込み、相手への要求をどんどんエスカレートさせて行く。インターネットと手紙という違いはあるけど、嫌がらせの質も、本人が嫌がらせをしていると自覚してない点も、病的なしつこさも、どちらも同じだと思う。それどころか、わざわざハガキや便箋に文章を書き、切手を貼ってポストに入れているのだから、ツイッターで「バカ」「死ね」などと送りつけるよりも何十倍も手間が掛かっている。

さすがの漱石も、勝手に送りつけてきたお茶の代金を払えというイチャモンには閉口してしまい、これまでに溜まっていた怒りが爆発し、「お茶は飲んでしまった。短冊は失くしてしまった。今後は二度と手紙を送ってくるな」と殴り書きした手紙を送りつけてやった。しかし、相手はマトモな人間じゃない。著名な作家に何年間にもわたって失礼で迷惑なことを繰り返してきて、とうとう相手を激怒させてしまったというのに、自分のほうが上に立ち、「お茶は飲んでしまい、短冊は失くしてしまうとは、あまりにも酷い話だ」などと、さらに文句のハガキを送りつけてきたのだ。

漱石は、もう二度とこの男からの手紙には取り合わないと決め、ハガキが届いても無視することにした。そして、何度か届いたハガキを無視していたら、今度は役所で使う大きな封筒に、わざと切手を貼らずに送りつけてくるようになり、漱石は二度も切手代を払わせられたのだ。頭にきた漱石は、三度目の封筒は受け取らずに、相手に送り返すように郵便配達夫に伝えた。すると、相手が切手代を払うことになり、その後は、この嫌がらせは収まったという。

しかし、それから2カ月が経ち、年が明けて新年を迎えると、たくさん届いた年賀状の中に、また、あの男からの年賀状が混じっていたのだ。でも、その年賀状は、これまでの催促のような不愉快な内容は書かれておらず、きちんとした文面の礼儀正しいものだった。それで、漱石は感心してしまい、これまでの自分の対応も少し大人気(おとなげ)なかったと反省し、その男の欲しがっていた俳句を短冊に書いて送ってやることにした‥‥って、「おいおいおいおいおーーーーい!漱石さん!そんなことしたら相手の思うツボですよ!」というあたしの声が、時空をさかのぼって100年前まで届くワケもなく、人の好い漱石は、あれほど嫌な思いをしたのにも関わらず、俳句を書いた短冊を、岩崎へ送ってしまったのだ。

そして、あたしが心配した通り、この漱石の軽率な行動が、鎮まりかけてた異常者の心に、また火をつけてしまった。この後、漱石の自宅には、この男から「送ってくれた短冊が折れていたから、新しく書き直して送ってくれ」だの「短冊が汚れていたから、新しく書き直して送ってくれ」だのという催促のハガキが、次の新年を迎えるまで、1年間、休みなく届き続けることになってしまったのだ。


‥‥そんなワケで、今から100年以上も前に起こった、この夏目漱石の実話を知って、あなたはどう思っただろうか?この岩崎という男が非常識な礼儀知らずだというだけでなく、完全に異常な人物だということは誰の目にも明らかだろうけど、それだけじゃなく、何よりも興味深いのが「漱石の対応が相手がどんどんエスカレートさせている」という点だ。それも、漱石が怒りにまかせて文句の手紙を送った時には、相手はそれほど異常な反応はしていないのに、漱石が「自分も少し大人気なかった」と反省して、相手の希望する直筆の短冊を送って好意を示したとたん、相手は「待ってました!」とばかりに異常さを増幅させたのだ。あたしは、昔からこの漱石の話を知っていたので、ツイッターなどのSNSで見ず知らずの相手から嫌がらせをされた時には、常に、この時の漱石の対応を「反面教師」として対応するようにしてきた。人として誰もが持っているハズの「常識」というものが完全に欠落してしまっている相手、自分のことしか見えていない相手に対して、いくらこちらが「常識」や「誠意」で対応してもまったくの無駄である上に、漱石のように逆効果になってしまうケースも多い。だから、あたしは、最初からいっさい取り合わず、ソッコーでブロックして無視することにしている今日この頃なのだ。


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2018.07.01

ドローンのカメラが目撃したもの

ちょっと前のニュースなんだけど、今年の4月4日付の英国紙によると、スコットランドのスカイ島を調査していたエジンバラ大学と中国科学院の共同チームが、約1億7000万年前のジュラ紀中期に生息していたとみられる2頭の恐竜の足跡を発見したという。正確に言うと、この足跡が最初に発見されたのは、2年前の2016年だった。この時に、この一連の調査旅行に同行した学生の1人が、最初の発見者だった。足跡が見つかったのはスカイ島の岬にある湖の底なんだけど、この湖は一部が海とつながっていて、干潮時になると海水が引いて湖底の一部が露出するため、この学生は肉眼で発見したそうだ。

そして、今回、共同チームがこの足跡を本格的に調査するため、ドローンを持ち込み、干潮になって海水が引いて露出した湖底を空から撮影したところ、約50個の足跡が2本の線のように続いていることが確認されたのだ。足跡と言っても、すぐに消えてしまうようなものではなく、湖底が石化しているため、化石のようにハッキリと残っている。足跡は大きなものと小さなものがあり、調査によると、大きいほうは自動車のタイヤほどもある足跡で、体長15メートル前後、体重10トン以上の大型の草食恐竜で、小さいほうがティラノサウルスに近い肉食恐竜だと報告されている。

このニュースの英文記事を読んで、あたしは、いろいろなことを想像した。2種類の恐竜の足跡が並んで続いていたことから、最初は、逃げる大型の草食恐竜を肉食恐竜が追いかけたのかな‥‥と思った。だけど、さすがのティラノサウルスも、自分の3倍近くある恐竜に襲い掛かることは考えにくいし、襲い掛かるとしたら足跡は重なっていたはずだ。だから、この2頭の足跡は、時間差で付けられたものだと考えるべきだ。そして、足跡が同じ場所に並んで付いていたということは、当時、この場所は、海の浸食状況や地形の問題などで、このラインの部分しか恐竜が歩くことができなかったのかもしれない‥‥なんて想像を巡らしていたら、すごく楽しくなってきた今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、あたしは、このニュースを読んで、もうひとつ思ったことがある。それは、一部では犯罪や戦争にも使われているために賛否両論があるドローンだけど、こんなふうに使うのなら、とっても素晴らしいことだと思ったのだ。そして、そんなことを考えていたら、このニュースから5日後の4月9日、今度は、南米ペルーの考古学者の研究チームが、ドローンで広範囲に調査を行ない、新たに50点以上もの「地上絵」を発見したのだと報じられた。こちらのニュースは、日本の新聞などでも各紙が取り上げたので、目や耳にした人も多いだろう。だけど、以前からあたしが指摘してきたように、日本人の中には新聞の見出しだけを見たり、記事の最初の数行を読んだだけで「知った気」になってしまう人も多い。

事実、この時も、あたしが電車に乗ったら、すぐ近くにいた高校生の男の子の4~5人のグループの1人が、自分のスマホを見ながら、「おいおい!ナスカの地上絵が新たに50点以上も見つかったんだって!」と言い、他の男の子たちが「へえ~!」なんて言っていた。この『きっこのブログ』の賢明なる読者諸兄なら、こんな勘違いはしないと思うけど、今回、新たに発見された50点以上の地上絵の大半は、「ナスカの地上絵」じゃない。

「ナスカの地上絵」とは、西暦200年~700年まで栄えたナスカ文化の中で描かれた地上絵のことで、今回、発見された中にも、数点はナスカ文化時代のものも含まれていた。でも、発見された地上絵の大半は、ナスカ文化時代よりも古く、紀元前500年~西暦200年のパラカス文化やトパラ文化の中で描かれたものだと報告されている。ちなみに、今回、発見された地上絵は、ほとんどが「戦士」を描いたもので、サルやハチドリなどの動物や幾何学模様などが中心の「ナスカの地上絵」とはテーマが違う。

また、「ナスカの地上絵」は広大な平地に描かれているため、それこそドローンなどで空から撮影しないと全体像を見ることができないけど、それより古いパラカス文化やトパラ文化の地上絵は、主に山肌などに描かれているため、京都は五山の「送り火」のように、地上の人々からも見ることができたのだ‥‥と言うか、地上の人々に見せる目的で描いていたのだ。だけど、あまりにも長い年月が経ち、山肌の地上絵の線が薄くなって目視できなくなったため、今回、ペルーの考古学者であるルイス・ハイメ・カスティリョ・ブテルス教授の研究チームが、ドローンを飛ばして山肌に近づき、人が近づけないような場所も丹念に調査したところ、今回の発見に至ったというワケだ。


‥‥そんなワケで、この地域、ペルーのナスカ川とインヘニオ川に囲まれた盆地状の高原に描かれた地上絵は、数10メートルほどの小さなものから、全長が数キロにも及ぶ巨大なものまで、総数は数万とも十数万とも推測されている。だけど、まだ現代人が発見したものは、わずか700ほどなのだ。そして、そう考えると、ドローンという最新機器による調査によって、今回、50個以上もの地上絵が新たに発見されたということは、この、まだ発見されていない地上絵がたくさんあるという推測の裏付けにもなったワケだ。何しろ、最新鋭のドローンに搭載されたカメラの解析度はもの凄く高くて、上空60メートルの地点から地上に置かれた1センチのものでもハッキリと識別できるという。地上絵の線は幅が1メートルもあるから、これなら楽勝だろう。

ちなみに、ナスカの地上絵の大半は、赤褐色の石や岩を幅1~2メートル、深さ20~30センチほど取り除き、まだ酸化していない明るい色の岩石を露出させ、その両側に赤褐色の岩を並べて線の輪郭を強調して、遠くからでも見えるように工夫されている。そのため、剥き出しになった明るい色の岩石が、長い年月によって酸化して赤褐色になってしまったものは、遠くからだとなかなか発見しにくいと言われている。

一方、ナスカ文化時代より古くなると、地表の石を取り除き、石の下の土を少し掘って白っぽい土を剥き出しにして、取り除いた石をその白い線の両側に並べるという方法で地上絵を描いていたので、あまり長持ちはしなかったようだ。そのため、ナスカ文化時代の地上絵と比べると、さらに1000年も遡ったパラカス文化時代の地上絵は、もっと見つけにくいと言われていた。だから、今回、ナスカ文化時代よりも古い地上絵がたくさん発見されたことは、考古学的にはとても重要なデータになる。ペルー文化省の考古学者で、ナスカの地上絵のチーフ修復官をつとめているホニー・イスラ教授は、今回の発見を受けて、次のように述べている。


「この地域の地上絵の伝統は、世界的に有名なナスカ文化の地上絵より1000年も前から続いてきたのです。今回は、その時代の地上絵が数多く発見されたので、紀元前から続いてきたパラカス文化だけでなく、パラカス文化からナスカ文化への移行期にあたる謎に包まれたトパラ文化についても重要な検証データとなり、地上絵の役割や意味について新たな仮説を立てられるでしょう」


さて、「ナスカの地上絵」と言えば、やっぱり、尾が渦巻きになったサルと巨大なハチドリが有名だけど、他にも巨大なクモやイグアナやコンドルやシャチなども有名だ。ちなみに、これらの有名な地上絵の大きさは、尾が渦巻きになったサルが約55メートル、ハチドリが約96メートル、脚を広げたクモが約46メートル、イグアナが約180メートル、コンドルが約135メートル、シャチが約65メートルで、これまでに発見された中で最大のものは、ペリカンなのかフラミンゴなのかサギなのか種類は特定されていないけど、約285メートルもある鳥の地上絵だ。でも、これは、動物に関する地上絵の話なので、何を表現しているのか分からない幾何学模様の場合は、全長が数キロに及ぶ巨大なものも数多くある。


‥‥そんなワケで、ちょっと脱線するけど、あたしの大好きな作家の1人、加納朋子さんの小説の中に『ぐるぐる猿と歌う鳥』(講談社)という作品がある。お父さんの転勤で北九州へ引っ越した小学5年生の男の子が主人公で、新しい土地で出会った新しいお友だちと不思議な体験をする物語で、どこか懐かしく、どこか切なく、それでいてワクワクもするし、とっても好きな作品だ。もしかしたら、これから読む人もいるかもしれないので、ここで種明かしはできないけど、このタイトルの『ぐるぐる猿と歌う鳥』というのが、「ナスカの地上絵」の尾が渦巻きになったサルと巨大なハチドリのことなのだ。ハチドリは英語で「ハミングバード」と言い、これはホバリングしている時の羽音が「歌っているよう」という意味なんだけど、この作品のタイトルではストレートに「歌う鳥」とされている。

家が密集した北九州の住宅街に、巨大な地上絵を描く場所なんてないはずなのに、小学生たちはどんなふうに「ぐるぐる猿」や「歌う鳥」を描くのか。とっても素敵な作品なので、興味を持った人は、たいていの図書館には置いていると思うので、機会があったら読んでみてほしい。加納朋子さんの作品だと、あたしは『ささら さや』『てるてるあした』『はるひのの、はる』(幻冬舎)という「ささら三部作」が一番好きだけど、『ぐるぐる猿と歌う鳥』は、その次に好きな作品だ。

そんなこんなで、話を元に戻すけど、ペルーの「ナスカの地上絵」が現代人に初めて発見されたのは、今から約80年前の1939年6月22日のこと、アメリカの考古学者、ポール・コソック博士によって発見されたと言われている。そして、その後、ポール・コソック博士の助手だったドイツの女性考古学者、マリア・ライヒェ教授がこの地に住みついて、ポール・コソック博士が1959年に亡くなった後も、彼女は生涯、「ナスカの地上絵」の調査と研究を続けたのだ。時にはペルー空軍の軍用機に乗せてもらって空から地上絵を観察したり、観光客が地上絵を見やすいように塔を建てたり、自分の著書の印税だけでなく私財まで投げ売って、地上絵の研究と保全に尽くしたのだ。晩年のマリア・ライヒェ教授は、パーキンソン病で車椅子の生活を余儀なくされていて、1998年に95歳で亡くなった。彼女はペルーに大きな功績を遺した偉人なので、彼女の住んでいた家は「マリア・ライヒェ博物館」として今も大切にされていて、彼女の仕事部屋は生前のままの状態で残されているという。


‥‥そんなワケで、あたしは、マリア・ライヒェ教授の英文の論文を一晩かけて読破したんだけど、もの凄く興味深い内容で、あたしの好奇心は刺激されまくり、専門用語が出てくるたびに辞書を引くことも苦痛に感じなかった。できることなら全文を和訳して紹介したいくらいだけど、それこそ何万文字になるか分からないので、思いっきりザックリとまとめると、「ナスカの地上絵」は、古代ペルー人たちの「生活」に密着したものだったと結論づけられていた。

マリア・ライヒェ教授は、考古学者であるとともに、数学者であり地学者でもあったので、発見した地上絵をすべて数学的、地学的にも調査・研究した結果、それぞれの地上絵が星座や月の満ち欠けなどに対応していることが推測できたと書かれていた。たとえば、ある地上絵のどの部分にある星座が上った時が「●●の種を蒔く時期」だとか、ある地上絵のどの部分にこんな形の月が上った時が「水の少ない川の水量が増える時期」だとか、そういうシステムになっているという。つまり、日本の農家に必ず貼ってある「農業カレンダー」みたいな役割を担っていたようなのだ。

もう少し具体的に書くと、たとえば、一番有名な尾が渦巻きになったサルだけど、あの地上絵は他の地上絵と違って、輪郭線がジグザグに描かれているそうだ。北米のインディオもエジプト人もジグザグの線で「水」を表わしていたことから、このサルの地上絵は「水」に関する何かを表わしていると考えられる。マヤ文明では、サルは繁殖と農業のシンボルなので、マリア・ライヒェ教授は、この絵は「農業のための水を意味するもの」という仮説を立てた。そして、そのサルの周囲にある三角や四角の幾何学模様の地上絵を調査したところ、それらが星座とつながっていて、どの幾何学模様のどの位置に何の星座が上ると、川の水が増えるとか、川から水がなくなるとか、そういうことが分かるようになっていたことが推測された。

そう言われてみると、このサルだけでなく、ハチドリもクモも他の動物たちも、どれもその周りに幾何学模様の地上絵がいくつも描かれている。つまり、それぞれの動物の地上絵は、それが何を表わすかという意味を持っていて、その周囲にある幾何学模様の地上絵が、物差しや分度器やカレンダーの役割をしている、という解釈なのだ。

もちろん、まだまだ解明されていない部分は山ほどあるし、それ以前に、まだまだ発見されていない地上絵のほうが遥かに多いのだから、このマリア・ライヒェ教授の研究結果は、現時点では、あくまでも仮説の域を出ていない。でも、ここに少しだけ書いた内容の何十倍もの具体例を読んだあたしとしては、どの例もツジツマが合っていると思えたし、特に、種を蒔く時期を知らせてくれる月齢に対応した地上絵の解説など、あまりにも見事な分析で感心してしまった。

ポール・コソック博士が初めて「ナスカの地上絵」を発見した1939年の翌年1940年、コソック博士の助手になったマリア・ライヒェ教授は、それから95歳で亡くなる1998年まで、およそ半世紀を「ナスカの地上絵」の研究と保全のために捧げたのだ。地元の人たちから「ナスカを愛する娘」という最高の称賛を受けただけでなく、1992年にはペルーの名誉国民にも選ばれている。そんなマリア・ライヒェ教授だけど、初めてペルーに来た時には、港に着くまでに4つもの虹の中を船が通過したことから、ただならぬ予感を感じていて、「ここが私の骨を埋める地になるかもしれない」と思ったそうだ。そして、その予感は的中した。

ポール・コソック博士の意志を継いで「ナスカの地上絵」の研究と保全に生涯を捧げたマリア・ライヒェ教授、そして、そのマリア・ライヒェ教授が亡くなって20年後の今、今度は最新機器のドローンが、当時はなかなか見つけることができなかったナスカ文化時代よりも古い時代の地上絵を発見したのだ。もしも、マリア・ライヒェ教授が研究に没頭していた時代にドローンがあったなら‥‥などと野暮なことは言わない。でも、せっかく人類の科学の進歩によって開発された最新機器なのだから、1億年以上も前の恐竜の足跡の探索や2000年以上も前の古代文明の解明など、これからも、こうしたワクワクすることに使ってほしいと思った。


‥‥そんなワケで、安倍晋三首相は、2014年4月1日に日本の武器輸出を禁止した「武器輸出三原則」を閣議決定だけで撤廃し、日本を「死の商人」の国にするために、いろいろな国と共同で人殺しのための兵器の開発を進めてきた。その中で、イスラエルとは共同で「軍用ドローン」の開発を進めてきた。日本の技術が、人殺しのために、戦争のために使われ始めたのだ。そして、今年5月、トランプ米大統領による「在イスラエル大使館のエルサレムへの移転」によって勃発したパレスチナ・ガザ地区との衝突では、イスラエル軍がこの「軍用ドローン」を試験的に使用したと報じられた。あたしたちの国の技術が、海の向こうで、何の罪もない人々を殺すために使われたのだ。せっかくの技術を人殺しのために使うなんて、これほど残酷で悲しいことが他にあるだろうか。あたしは、ドローンを人間に向けて使うのであれば、人殺しのためではなく、災害救助など「人の命を救うため」に使ってほしいと心から思った今日この頃なのだ。


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