後世に遺したい粋な日本語
日曜日の朝の文化放送と言えば、立川志の輔さんの『落語 DE デート』、林家たい平さんの『たいあん吉日!おかしら付き♪』、林家正蔵さんの『サンデーユニバーシティ』と、噺家さんがパーソナリティーをつとめる番組が集中していたけど、このうち『サンデーユニバーシティ』は、今年の4月1日で13年半にわたる放送に幕をおろしてしまった。あたしは、噺家さんの粋な言葉づかいが好きなので、落語を聴くだけじゃなくて、こういう番組でフリートークを聴くのも好きなんだけど、林家正蔵さんの場合は、テレビのバラエティーなどが長かったためか、あまり噺家さんらしくない言葉づかいが多いと感じていた。
たとえば、ちょうど1年前の昨年7月の『サンデーユニバーシティ』の冒頭で、アシスタントの石川真紀アナが、リスナーからの「正蔵さんは入門当時の夏の思い出はありますか?」というメールを読み上げた。すると、林家正蔵さんは、いくつかの思い出を挙げたあと、最後にこう言ったのだ。
「他の師匠のお宅に稽古に行くと、玄関先でお弟子さんが水撒きをしてたなあ」
あたしは、座ってたから実際にはカクッとならなかったけど、心の中でヒザがカクッとしちゃった。だって、夏の玄関先なら「水撒き」じゃなくて「打ち水」だからだ。花壇や家庭菜園なら水を「撒く」でいいけど、夏の玄関先なら水は「打つ」だろう。昔のように柄杓(ひしゃく)ではなくホースを使っていたとしても、「玄関先の路面の温度を下げて涼を取る」ことが目的の打ち水であれば、やっぱり「撒く」ではなくて「打つ」になる。この場合なら「玄関先でお弟子さんが水を打ってたなあ」か「玄関先でお弟子さんが打ち水をしてたなあ」と言うべきだ。百歩ゆずって言葉を知らない若い女子アナとかならともかく、仮にも噺家さんなのだから、こんな無粋な言葉は使ってほしくないと思った今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、あたしはお蕎麦が大好きだけど、日常的には、さすがに「母さん、お昼はお蕎麦でも手繰(たぐ)ろうか?」とは言えないから、普通に「母さん、お昼はお蕎麦でもいただこうか?」と言う。だけど、落語の世界では、特に江戸落語では、お蕎麦は「手繰る」もので、あまり「食べる」や「啜る」は使わない。この、お蕎麦を「手繰る」のように、現代では日常的にほとんど使わなくなった古き佳き日本語が楽しめるのも、あたしは落語の魅力の1つだと思っている。
たとえば、落語に登場する大工さんや植木屋さんなどの職人さんたちは、弁当を「食べる」とは言わずに「使う」と言う。大工さんや植木屋さんは、仕事に来ていたお屋敷で、お昼になると、「旦那さん、ちょっと弁当を使わせてもらいやすよ」なんて言って、庭の隅や縁側などで持参した弁当を広げる。また、煙草は「吸う」じゃなくて「のむ」と言う。これは「飲む」でも「呑む」でもなく、漢字では「喫む」と書く。「喫煙」だから「喫む」というワケで、これは、あたしが小学6年生の時に亡くなったおばあちゃんも使っていた言葉だ。おばあちゃんは煙草が好きで、いつもエコーを吸っていたけど、必ず「のむ」と言っていた。
子どもだったあたしは、おばあちゃんが煙草に火をつけてから、吸った煙を吐いてるのに、その行為がどうして「飲む」なのか不思議だったけど、大人になってから「飲む」じゃなくて「喫む」だったということを知り、ようやく納得することができた。でも、そうだとしたら、「喫茶店」でコーヒーや紅茶などを「のむ」という場合も、本当は「飲む」じゃなくて「喫む」と書くのが正しいのかもしれない。ま、この辺のことは、書き出すと長くなっちゃうので次の機会に譲るとして、他にも、おばあちゃんや母さんが使っていて、あたしも自然と使うようになったのが、お風呂を「いただく」という言葉だ。
今どきの若い人の中には「先にお風呂に入っちゃうね」なんて言う人もいるけど、あたしは今でも「先にお風呂をいただいちゃうね」と言う。仕事から疲れて帰ってきたダンナさんに、「あなた、お風呂にする?お食事にする?」と聞くように、お風呂もお食事もどちらも「いただく」ものなので、「入る」や「食べる」では感謝の気持ちが表現できないと思うからだ。もちろん、状況によっては「お風呂に入る」と言うことがあってもいいと思うけど、そのお風呂を用意してくれた相手に対して感謝の気持ちを表わしたい場面なら、やっぱり「お風呂をいただく」と言うべきだと思っている。
‥‥そんなワケで、お蕎麦を「手繰る」、お弁当を「使う」、煙草を「喫む」などは、現代人の場合は、特に女性の場合は使いにくい言葉だけど、水を「打つ」やお風呂を「いただく」などは、これからも積極的に使って行きたい言葉だし、未来へ遺したい「美しい日本語」だと思う。そして、こうした言葉の中で、あたしがとても好きなのが、お香を「聞く」という表現だ。お香は「燃やす」ものではなく「焚く」ものだということは広く知られているけど、お香の香りを楽しむことを「聞く」と表現することは、知らない人も多いと思う。もともとは、「茶道」のような「香道」という文化から生まれた言葉で、「香道」では、静かな部屋で目を瞑ってお香の香りを楽しむことを「聞香(もんこう)」と言うのだ。
鼻を近づけて匂いを確かめることを「嗅ぐ」と言うけど、この漢字は口扁に「臭」と書くので、あまり良いイメージはない。かと言って、子どものころから「嗅ぐ」という言葉を使ってきたあたしは、大人になってから知った「匂ってみる」という表現には違和感を覚えてしまう。だから、今でもずっと「嗅ぐ」という言葉を使っているけど、会話の中で使うのならともかく、今回のように文章に書くと、やっぱり「嗅ぐ」という漢字は好きになれない。そして、「嗅ぐ」は「匂い」に対して使うけど、「聞く」は「香り」に対して使うので、同じように使うことはできない。でも、こうして表現の選択肢が増えることは嬉しいことだ。
たとえば、ほのかな良い匂いに対しては、「匂い」よりも「香り」という言葉を使うことが多い。「花の香り」と言うけど「花の匂い」とはあまり言わないし、「コーヒーの香り」と言うけど「コーヒーの匂い」とはあまり言わない。こんな時、これらの香りに対して、「花の香りを聞く」とか「コーヒーの香りを聞く」なんて使うのはどうだろうか?とてもイメージが伝わりやすいと思う。一方、商店街の鰻屋さんや焼き鳥屋さんの前を通った時に、換気扇から煙と一緒に漂ってくる美味しそうな匂いは、「鰻の蒲焼きの匂い」や「焼き鳥の匂い」と言うけど、「鰻の蒲焼きの香り」や「焼き鳥の香り」とは言わない。つまり、良い匂いであっても、花やコーヒーのような「ほのかな香り」ではないので、こちらには「聞く」という表現は似合わない。
「匂い」と「香り」とをザックリと区分けすれば、「匂い」は良いものも悪いものも強いものも弱いものも、すべてをひっくるめた呼び方で、その中の「ほのかで良い匂い」のことだけを「香り」と言う。そして、この「聞く」という表現は、「香り」にしか使えない、ということになる。でも、この「香り」という概念も、人それぞれなのだ。たとえば、煙草が好きな人なら「煙草の香り」と言うけど、煙草が嫌いな人なら「煙草の匂い」と言う。あたしは、良い香りの例として「花の香り」と「コーヒーの香り」を挙げたけど、人の感性や嗜好は人それぞれだから、日本中を探せば、「花の香り」が嫌いな人や「コーヒーの香り」が苦手な人もいるかもしれない。そして、そういう人にとっては、「香り」ではなく「花の匂い」や「コーヒーの匂い」になってしまうのだ。
‥‥そんなワケで、テレビは「見る」でもいいけど、演劇は「観劇」だしスポーツは「観戦」なので、同じテレビでも映画や演劇、スポーツなどを見る場合には「観る」という表記を使いたい。ラジオは「聞く」でもいいけど、放送内容に集中して真剣に聞く場合には「聴く」という表記を使いたい。これらと同じように、同じ「のむ」であっても、喉の渇きを癒すために水やジュースなどを飲むのは「飲む」、日本茶を飲むのは「湯呑」を使って飲むワケだから「呑む」、また、日本酒や焼酎を飲む場合も「呑む」という表記を使いたい。そして、喫茶店でコーヒーや紅茶などを飲む場合は、煙草のように「嗜好品をたしなむ」という意味合いもあるため、ここは「喫む」という表記を使いたいと思う。でも、以前、あたしが喫茶店のコーヒーは「飲む」なのか「喫む」なのか考えていた時、大阪出身の仕事仲間に、こんなことを言われてしまった今日この頃なのだ(笑)
「きっこさん、喫茶店の茶~は、『のむ』もんやなくて『しばく』もんですよ」
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