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2018.08.22

狂歌という風刺の精神

あたしの好きな俳句と同じ五七五の定型で好きなことを詠う「川柳(せんりゅう)」って、もともとは俳句と同じく芸術的な詩歌で、俳句との最大の違いは、俳句は花鳥風月など季節の移ろいを客観的に詠むもので、川柳は自分の内面や人間関係などを主観的に詠むものだった。もちろん、今でもそうした「本来の川柳」を実践している人たちもたくさんいるけど、現代では、新聞の一面やTBSラジオ「デイキャッチ」などでお馴染みの、政治や社会問題などを風刺した「時事川柳」や、サラリーマンの悲哀を詠った「サラリーマン川柳」などが有名になったため、川柳と言えば風刺や面白おかしい作品が思い浮かぶようになってしまった。こうした「時事川柳」や「サラリーマン川柳」などは、あくまでも川柳の中の1つのジャンルに過ぎないのに、今では、こうした川柳が代名詞のようになってしまった。

ま、それはそれ、たとえどんな形でも、江戸時代から続く庶民の文化が引き継がれていくことは嬉しいし、最初は「時事川柳」や「サラリーマン川柳」などに興味を持っただけの人でも、100人に1人、1000人に1人くらいは、もしかしたら「本来の川柳」の道に進むかもしれない。それに、今みたいに独裁政権が暴走しちゃってて1年後のことも分からない不安定な時代には、庶民の目で政治や社会問題などを風刺した「時事川柳」こそが必要とされているのかもしれない。だから、それぞれの時代のニーズによってテーマや方向性をフレキシブルに変化させつつも、五七五や五七五七七という日本ならではの定型詩の世界が、このままずっと続いていってほしいと思っている。

冒頭に書いたように、本来の俳句と川柳は、俳句が客観的に詠むもの、川柳が主観的に詠むもの‥‥という違いしかなく、どちらもテーマなどは自由な詩歌だ。だけど、新聞の一面やラジオ番組などでもレギュラー化するほど「時事川柳」が流行してしまうと、一般的には、俳句は真面目に自然などを詠むもの、川柳は面白おかしく社会風刺をするもの‥‥という見方をされてしまう。もちろん、それはそれで構わないし、あたしは別に「時事川柳」を「本来の川柳」より下に見ているワケじゃないので、それでも何も問題はない。ただ、「時事川柳」や「サラリーマン川柳」はたくさんある川柳のジャンルの中の1つであって、決して「川柳の代表」ではないということだけ言っておきたかった今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?


‥‥そんなワケで、「本来の川柳でどんなものなの?」と思った人のために、せっかくなので、あたしの大好きな川柳作家、故・時実新子さんの作品を何句が紹介しようと思う。


水落下はげしい耳鳴りの中へ 時実新子
金魚は死んで私の未来から離れる 〃
盗み読みされた手紙の血しぶきよ 〃
鯖ふたつ並んで恋の末に似る 〃
目の前を猫が歩いて正午なり 〃


この5句を読んだだけでも、「時事川柳」や「サラリーマン川柳」とはまったく違う世界観だということが分かると思うけど、これが「本来の川柳」なのだ。でも、こうした「本来の川柳」を実践している専門の川柳作家は極めて少なくて、多くは俳句や短歌など他の定型詩との二足の草鞋(わらじ)だったりする。一方、「時事川柳」は、熱心に詠んで頻繁に新聞やラジオなどに投稿している人も多いし、ふだんは川柳を詠まなくても、毎年「サラリーマン川柳」の応募時期になると投稿するような人もいる。つまり、「本来の川柳」を実践している人よりも、「時事川柳」や「サラリーマン川柳」を楽しんでいる人のほうが絶対的に多いのだ。

その理由は、とても単純明快だ。「時事川柳」や「サラリーマン川柳」は、誰もが作品の意味を簡単に理解できるし、新聞に5句掲載されていれば、どの句が面白いか、誰でも自分の感性で良し悪しを決められるからだ。たとえ、自分は川柳を詠んでいなくても、「時事川柳」にしろ「サラリーマン川柳」にしろ、そこに何句が並んでいれば、それを読んで楽しむことができるだけでなく、どの作品が特に面白いか、自分で選ぶことができる。だから、幅広い層に人気があるのだろう。

でも、さっき紹介した「本来の川柳」である時実新子さんの作品は、ある程度の知識や鑑賞眼がないと、それぞれの句の意味も分からないだろうし、ましてや良し悪しなど決められないだろう。もちろん、抽象画を観るように鑑賞して、「よく意味は分からないけど何となく雰囲気が好き」という評価でもまったく構わないんだけど、「時事川柳」や「サラリーマン川柳」のように「オチの面白さ」という明確な判断基準があるワケじゃないので、初めて読んだ人は面食らっちゃうかもしれない。結局のところ、同じ川柳というジャンルであっても、芸術性を追及した「本来の川柳」と、万人ウケする「時事川柳」や「サラリーマン川柳」とは、対極に位置する詩歌なのかもしれない。


‥‥そんなワケで、俳句と同じ五七五という定型で社会風刺をするのが「時事川柳」であるのなら、和歌と同じ五七五七七という定型で風刺をする「狂歌(きょうか)」という詩歌もある。風刺だけじゃなく、色恋のこととか下ネタとかいろんな狂歌があるけど、江戸時代、主に庶民が政治や社会を風刺する目的で詠み始めたもので、有名な作品を紹介すると、こんなのがある。


「太平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず」


「上喜撰(じょうきせん)」とは、宇治の緑茶「喜撰」の上物を指す高級銘柄のことで、たった四杯飲んだだけで夜も眠れなくなる‥‥と詠っている。でも、これは表向きの意味で、実際には「蒸気船」にカケてあって、浦賀にペリーの黒船がたった四隻やってきただけで、日本中が大騒ぎになって夜も眠れなくなってしまった‥‥という意味なのだ。ちなみに、この歌は、実際に浦賀にペリーの黒船がやってきた時に詠まれたものではなく、明治時代に入ってから、当時のことをネタにして詠まれたものだとも言われているけど、とても良くできているので、狂歌を説明する時の定番になっている‥‥というワケで、あとは実際に江戸時代に詠まれた狂歌を紹介しよう。


「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」


江戸時代に浅間山の噴火や天明の大飢饉などで大打撃を受けた白河藩(現在の福島県白河市)では、藩主の田沼意次(たぬま おきつぐ)に賄賂を贈った大店(おおだな)だけが市場を独占できる癒着政治が横行していた。これを正して白川藩を立て直すために松平定信が新しい藩主に任命されたが、松平定信が進めた「寛政の改革」は、役人だけでなく庶民にまで厳しい倹約を強要し、極端な思想統制令によって経済が停滞したため、庶民からは不満の声が巻き起こってしまった。

そんな中で詠まれたのが、この狂歌だ。松平定信の「寛政の改革」によって、確かに賄賂など政治家の悪事は無くなって「清い川」が蘇ったが、われわれ庶民は住みにくくなってしまった。多少は水が濁っていても、以前の田沼のほうが、まだ住みやすかった‥‥と詠っている。この「田沼」は、もちろん前の藩主の「田沼意次」にカケているものだ。


‥‥そんなワケで、こうした狂歌の中で、ちょっと風変わりな作品がある。


「金は内藤志摩守 袖からぼろが下がり藤」


「内藤志摩守(ないとう しまのかみ)」は内藤正誠(ないとう まさのぶ)のことで、信濃は岩村田藩(現在の長野県佐久市)の第7代で最後の藩主なんだけど、藩の財政は破綻寸前で、領民からの借金による自転車操業で何とかやりくりしていた。そんな情けない藩主のことを詠んだ狂歌で、「金は内藤」は「金はない」にカケてある。そして、立派な着物を着ているように見えても、袖からはボロが垂れ下がっていると揶揄するために、内藤家の家紋である「下がり藤」を詠み込んでいる。

この狂歌、出来ばえとしては、そんなに悪くはない。だけど、決定的なマイナスポイントとして、リズムがおかしいよね。先に紹介した二首は、どちらも五七五七七の和歌のリズムで詠まれているけど、この歌は、ぜんぜん五七五七七になっていない。頭から和歌のリズムで読んでみると、「かねはない/とうしまのかみ/そでからは/ぼろがさがりふ/じ」となっていて、最後の七がぜんぜん足りない。いくら多少の字余りや字足らずが許される和歌でも、これは足りな過ぎだ。

実はこれ、一応は狂歌としていろいろな媒体で紹介されているけど、もともとは狂歌として詠まれたものじゃないんだよね。当時は「参勤交代」の時代で、お金のない地方の大名たちは、いろいろと節約して江戸を目指していた。そんな中で、参勤交代のたびに荷物運びとして臨時で雇われる東海道の雲助たちは、特にケチな大名たちのことを次のような歌にして揶揄していた。


「お国は大和の郡山 お高は十と五万石 茶代がたったの二百文
人の悪いは鍋島、薩摩 暮れ六つの七つ立ち
銭は内藤豊後守 袖からぼろが下がり藤
松本丹波の栗丹波 栗といわれても銭出さぬ」


最初は「郡山(の柳沢藩)は高が十五万石もある大名なのに、雇い賃の他のチップは二百文しかくれない」という意味。2番目は「人使いが荒いのは鍋島(佐賀藩)や薩摩(島津藩)で、旅費をケチって日程を短縮するために、暮れ六つ(午後6時過ぎ)まで宿に入れてもらえないし、朝は七つ(午前4時)に出発させられる」という意味。そして、ひとつ飛ばして最後の4番目は「松本藩の松平丹波守は『くれ(栗)』と言っても決して金をくれない」という意味。

で、問題の3番目だ。これは「内藤豊後守(ないとう ぶんごのかみ)」なので内藤正縄(ないとう まさつな)のことで、信濃は岩村田藩の第6代藩主だ。そして、ホントなら、この正縄の長男の正義が家督を継いで第7代藩主になるはずだったんだけど、正義が亡くなってしまったため、正義の長男である正誠、つまり、正縄にとっての孫が第7代藩主になり、内藤志摩守になったというワケだ。

この流れを見れば分かるように、先に第6代藩主である内藤豊後守を揶揄する歌が作られていて、それを元にして、第7代藩主である内藤志摩守を揶揄する歌も作られたのだ。そのため、狂歌と言われながらも五七五七七というリズムにはなっていないし、最初に作られた歌のほうが優れた内容になっている。最初の歌の「銭は内藤豊後守」というのは、「豊後(ぶんご)」を「貧乏」にカケて、「銭がないと(う)貧乏(豊後)」と詠っている。一方、これを元にして名前を「内藤志摩守」に変えただけの狂歌のほうは、「内藤」の「内」が「金がない」にカケてあるだけで、家紋の「下がり藤」をカケた部分は元歌のネタを流用しただけなのだ。

雲助たちの間で流行していた風刺歌の一節を、ちょっと変更しただけなのだから、この作品は、このままだと狂歌と言うよりも「替え歌」と言うべきだろう。狂歌と呼ぶのなら、せめて五七五七七のリズムに整えてほしい。ま、その辺はともかくとして、第6代藩主の内藤豊後守と第7代藩主の内藤志摩守が、二代にわたって雲助たちや領民たちから「ケチ」と詠われてしまうなんて、ホントに気の毒なことだと思う。だけど、この話には、まだ続きがある。


‥‥そんなワケで、領民からの借金が返済できずに困っていた第7代藩主の内藤志摩守、内藤正誠は、せめてもの借金のカタにと、お城の池やお濠(ほり)で飼っていた鯉を領民たちに配ったのだ。すると、領民たちは「殿さまから頂いた鯉など、もったいなくて食べられない」と、すべて用水路に放してしまった。そして、その鯉が自然繁殖して、後に佐久市は「日本一の鯉の養殖の町」になったと言われている。幕末、信濃は岩村田藩の最後の藩主であった内藤正誠は、狂歌に詠われたように実際にボロを着ていたかもしれないけど、それでも「心は錦」というわけで、貧しかった町を「錦鯉の泳ぐ町」へと発展させる礎(いしずえ)を築いたのだ。もちろん、これは結果論だけど、新聞やラジオで発表される「時事川柳」による連日の風刺などどこ吹く風で、国民から巻き上げた税金を自分の好き勝手にバラ撒き続けている今の日本の総理大臣に、この内藤正誠の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいと思った今日この頃なのだ。


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